湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲

2005年02月23日 | グラズノフ
ラビン(Vn)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(CON MOTO)1954/5/2LIVE・CD

手堅い演奏。ミトプーがグラズノフをどうテンション高く表現するか期待したが、はっきし言って肩透かし。バックにてっし主張のかけらもない。実に無難にこなしているという感じで、決して手抜きではないのだが職人的な態度に終始しているように思えた。従って解釈はラビンにかかってくるわけだが、これがまた非常に安定した技術を駆使しながらも今一つ音色に映えがなく教科書的な演奏。この曲はアウアーだかの示唆を受けているだけあって難所もチャイコほどの無理は無くよくできているのだが、かといってただ正しい音を出すだけでは曲にならない面もある。そこを情緒で埋めないと、曲が緊密にできているから聞けないことはないのだが、どこが面白い曲なのかわからなくなる。たとえば第二部のファンファーレとの掛け合いは思いっきり派手にぶっぱなさないとその前の実にグラズノフらしい半音階的なくぐもりとのコントラストがつかない。暗く重いロシア的情緒の延長上でカデンツァ的に奏でられる重音トリルの独特の技巧に目を惹かれ、その後のいきなり明るい祝祭的雰囲気に気持ちがついていかず、「なんだこのあほみたいなファンファーレ!」という印象を抱いたかたは多いと思うが、それはきっといい演奏ではなかったのだ。もっとあほみたいに強引にぶっぱなしさえすれば、そのあとの怒涛の変奏の渦に有無を言わさず押し込まれ、民族的技巧と感情的高揚にいつのまにか大団円を迎える、といった感動に至ることができるはずなのだ。この演奏は余りにファンファーレが引いていて突出しない(録音バランスは悪くない)。ラビンの追奏と音量的にはつりあっているのだが、あれあれいつのまにか進んでる、といった引っかかりの無さがある。その後もラビンもバックもそつがないという言葉がとても似合う演奏ぶりで無難にこなしており、奏者の融合具合からしても完成度は多分そうとうに高いと思うのだが、それが芸術的感興を呼んでいるかというと否と言うしかない。拍手はふつう。無印、二度聴きたいと思わない。

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