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心理セラピストのひとりごと

『象徴的イメージ統合療法』という心理療法を行っています。日々の中で感じたことを書いていこうと思います。

ひとついのち~「光の柱」に至る~

2021年05月21日 | 自分の体験からの気づき



「ワンネス(すべては一つ)」という考え方があります。命は根源ですべてつながっているという捉え方です。事実、臨死体験などの特殊な体験をした人たちの多くがこの「ワンネス」と感じる体験をしています。



例えば、脳神経学者のジル・ボルト・テイラーさんは自身が脳卒中を起こし左脳の活動が停止して、右脳の活動が主体になった時の体験を次のように話しています。



『(左脳の活動が停止して)左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。(中略)


「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。(中略)


左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。


もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。』




また、全身の末期癌で強烈な臨死体験後に蘇生してから、末期の全身癌が1ヶ月ほどで瞬く間に消えてなくなってしまったという体験をしたアニータ・ムアジャーニさんはその体験を次のように話しています。



『(臨死体験中に)私たち全員がつながっているということにも気づきました。その織り込まれた総合体は、人間や生物の範囲を超えて、もっと外へと拡大していき、すべての人間、動物、植物、昆虫、山、海、生命のないもの、そして宇宙全体まで含んでいるように感じられました。


宇宙は生きていて、意識で満たされており、すべての生命や自然を包み込んでいるのだと悟ったのです。あらゆるものが、無限の“全体”に属していました。


私も、すべての生命と複雑に絡まり合っていました。私たちはみんな、その統合体の一つの側面なのです。すなわち、私たちは一つであり、一人一人が集合的“全体”に影響を与えているのです。』




日本の神道でも、『人間は神の分霊(わけみたま)である』と、神(ひとつのもの)から分かれてきたのであると言っています。私たちの大本はゆらぎのないただ一つのエネルギーだったのだと思います。



心理学では、ユング心理学のカール・G・ユングさんが言われている人類全体がつながっている意識領域があるという集合的無意識(集合意識)の概念が(この場合、人類の意識領域と限定していますが)ワンネスにそのまま当てはまります。



このワンネスをもう少し違った表現をすると「ひとついのち」と言い表せます。私はこの表現が好きです。



私たちは、すべてのものの源である「ひとついのち」から、すべての命と共に枝分かれして、派生しています。ですから、元々はすべてがひとつのものでしたので、本来自他の区別などなくて、人間でいえば『「他人=自分」である』ということになると感じています。



人間は多くの人が、自分と違った身なり(外見、肌の色、人種)や雰囲気、考え方、主義・主張の人を否定し、排斥しようとします。



トラウマということでいえば、他の人の中に自分が好きではない部分と同じものを持っていると感じた時には、投影により、その人を自分に対してと同じように嫌います。(この投影が自分の子どもに出る場合が非常に多いです。母と娘の関係性はこれが顕著に出ます。特に、第一子長女には非常に強く出ます)



「自分はすごい」と思っている(思いたい)実は劣等感を持っている人は、「すごくない、ダメな人」と感じる相手を軽蔑して、嫌います。激しい場合には、攻撃もします。



でもそれは、「ひとついのち」の視点から観ると、自分が自分を嫌い、攻撃していることに他なりません。



相手を嫌い、否定すればするほど、エネルギー的にも自分を激しく否定していることになりますから、自分の周波数(波動)がどんどんと落ちていき、運も悪くなり、心と身体も重たく苦しくなっていってしまいます。



ある意味、自分が自分自身を否定している時よりも、相手を否定している時の方がネガティブな影響は強いのではないかと思える部分もあります。人は自分より外側の人や物や事は自分とは関係のないものと思っているので、そこに原因を作って責任転嫁した方が遠慮がなく楽ですし、またストレスを解放する場合の、対象物に向ける否定するエネルギーは容赦なく強くなりますから、返ってくるエネルギーも当然強くなります。「与えたものが受け取るもの(出した量と同じ量が返ってくる)」という法則の通りです。



また、「良くない人からだまされたり、人からの大変な目に遭ってきたので、付き合う人にはとても気をつけている」という表現を近年プライベートで何人かの方から聞きました。そうおっしゃる方には申し訳ないのですが、ここには「同じ周波数は共鳴する」という法則が作用しています。



それは、自分が出しているもの(周波数)が最初にあり、それに共鳴(同調)した人と出会う、寄って来るということです。ですから、だまされたり、大変な目に遭って、問題(と見えるもの)が起こっているということは、自分が出している周波数(波動)が元々何かが違っていたということです。それを相手が悪いのだと否定し、相手のせいにすると、本末転倒で逆にややこしくなるばかりなのです。



そして、これもまた法則の通り「何かに過剰に反応するところにはトラウマがある」ので、イヤだと感じる人、否定したくなる人、嫌いな人、と共鳴して出くわした時には、自分の内側にある自分自身に対してのネガティブな自己イメージや思い込み・観念に気づくチャンスをいただいたということになります。



これは、誰が良いわけでも、悪いわけでもなく、ただそういう法則に合致して、事象が発生しているというだけの話です。



このせっかくのチャンスを生かすには、自分のその部分(側面)を否定せずに受け入れていけばいいのです。



そして、「他人は自分」なので、それを意識の深いところに落として、否定が出て来た時には特にそのことを意識して、「ひとついのち」の自分である相手を受け入れていく練習をしていけばいいのだと感じています。私も恥ずかしながら、自分自身の人体実験経験やセラピー現場からも、他の人よりもたくさん色んな体験をいただいてきたのに、ここが腑に落ちるまでずいぶん回り道をしてきました。



このことに多くの人、人類が気づいていけば、私たちの中に元々あった「無条件の愛」は自然に発露して、その愛を周りのすべてのものにも自然に分け与えられるようになることだと感じています。



そのためには、この順番がとても大切です。まず最初に、自分自身に「無条件の愛」を与えることです。それができれば、自然に周りに「無条件の愛」を与えられるようになります。私もこの順番も間違っていたので、ずいぶんと遠回りをしてしまったのでした。



そうすれば、これも自然に世界は争いのない、人と人が調和して共存し、人と自然が共生したよりよいものへと変容していくことだと感じています。



これが、私がセラピー(ほんとうの自分に還るためのセラピー)をさせていただく究極の目的でもあります。



私たちが「無条件の愛」を体現できると、体の周波数(波動)が上がって光に満ちた存在となります。それはほんとうにエネルギーとしての光が出るということです。天と地をつなぐ「光の柱」の真ん中に佇む感じです。



私もかつて「無条件の愛」を体現した時に、それを強烈に経験した時期がありました。その時には、自分を大切にせずに、良くない意味で自分を捨てた状態ではあっても、純粋に人のために生きていましたので、どうも光が強く出ていたようで周りの人たちからは大変によろこばれ、どこに行っても驚くような特別扱いをされました。



しかし、それによりうれしさや楽しさは普通に感じていましたが、それでは、私の心が本質的に埋まることはまったくなく、ほんとうの「光の柱」には至れませんでした。



意味合いはちょっと違いますが、「柱」ということで連想されるのは、最近流行っている「鬼滅の刃」ですね。それに例えると、鬼滅の刃に出てくる柱は鬼(悪)をたくさん殺せる強いリーダーですが、「光の柱」(光柱)は、鬼さえも一人も殺さない、それさえも本質的に愛する「柱」です。なぜなら、鬼のような存在だとしても「ひとついのち」から派生した自分の分身(側面)なのですから。



このような「光の柱」があちこちに立ち上がると、その光が自然に周りの人へ伝播して広がっていきます。このエネルギーの伝播こそが究極のセラピーなのだと思います。



やはり私は、心からそのようなほんとうの「光の柱」に至れることを願います。


ホリスティック・セラピー研究所 https://holistic-ti.com



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あなたの中に生まれながらある『無条件の愛』に気づいていますか?

2021年04月14日 | 自分の体験からの気づき



私は若い頃(20代後半)に、おそらく誰もやらない、やりたくないと思う自分を使った強烈な人体実験をしました。



このブログにも、何度か少し書きました(『過去のメルマガから⑭「私たちは〈体験〉するためにこの地上に降りてきた魂である(4)」』)が、それは『誰からも嫌われて、相手にされなくなろう』と思い、自分からそう扱われようとした体験でした。そういう立場になり『完全に嫌ってくる人をも愛することができれば、「無条件の愛」が完成される』という私の内側の深いところから出てくる想いでした。



結果はというと・・・、「意識が現実を創る」ので、そう思っているから今まで経験しかことがないような激しく嫌われるという体験をいっぱいしました。最初は自分からその立場になることを望んでいるのですから計画通りと思い、そんなに気にしていませんでした。しかし、それが何度も何度も度重なってくると、次第に心が傷ついていきました。



『嫌ってくる人さえも、自分は愛することはできるだろう』と思っていたはずなのに、心が傷ついていくとまったく余裕がなくなり、「悲しみ」を強く感じ始め、そしてそれがいっぱいになってくると次には、嫌ってくる相手への「怒り」が出始めました。



こういった「怒り」はそれまでの私には、ほとんどないものでした。というか、自分を癒すまで自己価値観が低かったので、気づいていなかっただけなのかもしれません(^_^;)



受け入れてもらえないと感じて「怒り」が溜まると、性格の強い人は相手への「攻撃」行動へとなります。おとなしい人(いい子)は自分でも気づかないうちに「怒り」を抑圧して溜め込んでいきます。自己価値観がかなり低い人は、自分が悪いから、ダメだからと「自分を責める」ようになります。



また、嫌われることへの「怖れ」が強くなり、心がフリーズしてしまう場合もあります。私もそういうことがありました。



渦中の時には、とても苦しかったですけれども、今では、このようなある意味究極の体験ができたことを心からよかったと思っています。この実体験で、自分のこととして色んなことがよくわかりました(*^_^*)



人はみんな自分が好きと感じる人や苦手、嫌いと感じる人が多かれ少なかれいると思います。



好きな人とは自然に心から接しやすいですが、苦手、嫌いな人にはどうしても緊張してしまったり、接したくなくなったりします。



人によっては、苦手な人をまったく無視して関わろうとしなかったり、毛嫌いして攻撃する人もいますが、そういう行動をとる人においても感じることがあります。



それは、嫌いな人を毛嫌いしたり、無視する人もほんとうは「相手の人とつながって、仲良くなりたい」という思いを持っているということを感じるのです。



仲良くなりたいと思う、どこか好きな人だからこそ、過剰にそういう反応をするのだと感じるのです。



人はほんとうは誰からも、「受け入れてもらいたい」、「愛されたい」という欲求を持っています。これが承認欲求ですが、これを持ってない人はいないです。



この承認欲求が満たされずに、心が傷ついて反転してしまうと、『受け入れて欲しいのに、愛して欲しいのに、なんでそうしてくれないんだ!』と、そうしてくれない相手に反応して、無視したり、嫌ったり、攻撃するようになるだけです。いわゆる、「かわいさ余って憎さ100倍」というやつです。



激しく無視する人においても、ほんとうはそうして欲しいのに、この人(このタイプの人)は『絶対にそうしてくれない人だ』と思い込み、決め込んで、『こんな人はもう知らない。自分とは関係のない人間だから、いらない!』と自分を守るために過剰に距離を置こうとしているだけです。これは自分からそうしていることに、本人はまったく気づいていません。



この思い込み、決め込みはほとんどの場合、幼少期に身近にいた親や家族から刷り込んだものです。



私はトラウマ心理学で「過剰に反応するところにはトラウマ(心の傷)がある」と表現しています。



何かに過剰に、極端に反応する場合には、そこには必ず過去の経験で何か傷ついた思いや感情が残っています。そこに触れられると人は、無意識にも防衛反応をとります。



先ほども言いましたが、嫌いな相手を無視、攻撃する人の内側には、ほんとうは相手のことが気になっていて、「仲良くしてもらいたい」、「受け入れてもらいたい」、「愛して欲しい」という思いが隠れています。



ということは、『嫌いな人=好きな人』ということになります。



「人はみんな誰もが、周りから受け入れられたい、仲良くされたい、愛されたい」存在ですから、それを反転すると、「人はみんな誰をも受け入れたい、仲良くしたい、愛したい」という心からの思いを持っている存在だといえます。



すべては表裏一体、コインの裏表ですから、承認欲求も「承認されたい」の裏(奥)にあるものは、「承認したい」という欲求なのです。実はこれが本体(コインの表)です。



誰かに傷つけられることをされて、『なんだあいつ!』と思った時にも、ほんとうは相手から「受け入れてもらいたかった」、「仲良くしてもらいたかった」、のです。そしてさらに、相手を「受け入れたかった」、「仲良くしたかった」、のです。



だって、「その人のことがほんとうは好き」だから・・・です。
(この「好き」という想いは、意識の深いところにある場合もありますが、自分のその深いところにアプローチして感じていくと見えてきます)



私たちは自分で気づいていませんでしたが、ほんとうはこうやって、周りの誰をも「受け入れて」いて、「愛している」調和と共生の存在だったのです。



みんな「無条件の愛」を生まれた時からもうすでに持っていました(^_^)そこに至ろうとしなくても、私も元々生まれた時からもうすでに持っていたのです。それに気づいていなかっただけなのでした。 



これが人間の本質だと私自身の実体験から、ハッキリと感じています。



〈うまく伝わっていますでしょうか?(^_^;)〉



私たちはみんな「無条件の愛」の存在です。私たちは初めから光の存在であり、素晴らしい存在です。



ただこれが処理しないまま、処理できないまま残っている心の傷に触れてしまうことで、まったく反対の反応をしてしまっていただけです。



飛躍した論理のように聞こえると思われる方は、ちょっと感じてみて下さいませ。



『あなたが大嫌いな人でも、もしその人があなたに、とっても優しくしてくれて、あなたを心から大事にしてくれたとしたらどう感じますか?』


・・・・・・・・・。



『最初は「うわ~気持ち悪い」と思うかもしれませんが(^_^;)、その人がそれをずっと続けてくれたならどう感じるでしょうか?』


・・・・・・・・・。



『あなたはほんとうはその人とどのような関係になりたかったのでしょうか?』


・・・・・・・・・。



『あなたを大事にしてくれるその人と心から繋がり、純粋に仲良くしていることをイメージするとどう感じるでしょうか?』


・・・・・・・・・。



人間関係で傷ついた(と感じた)時には、『ほんとうはあの人とも、どこかで仲良くしたかったんだなあ』という思いに気づき、そこに意識を向けて感じてみてください。そうすると、ご自分の内から観えてくるもの、気づいてくるものがあると思います。



私たちの本心(魂)は、誰とも争いたくない、戦いたくない、否定したくない、嫌いたくない。ただ純粋に無条件につながりたい、と望んでいることを・・・・・・。



でも、自分の内を感じてみても、相手のことがどうしても許せない、腹が立つという方もおられると思います。それは、そう感じているのですから、それでいいのですよ。そう感じざるを得ない背景があったのですね。腹が立ちましたよね。イヤだったですよね。



ただ、その「怒り」は出来るだけ相手に向けるのではなく、効果的に発散して頂ければと思います。例えば、自分の好きな歌、その時に歌いたい歌を歌ってみるというのも一つの方法です。そうすれば、呼吸も深くなりますし、横隔膜が動けば自律神経のバランスがとりやすくなっていきます(^_^)



そしてもう一つ、お伝えしないといけないことがあります。これが私がこのような極端なやり方をした根本原因です。また、人が誰かを嫌う根本原因もここにあります。



それは、私の場合は『無条件の愛に至れるようにならなければダメだ。完全にそれが出来なければならない』と思い、それをちゃんと出来ない自分を責めて、嫌っていたのです。



こうやって、自分が自分自身を嫌っていると、他の人の中に自分が嫌っている部分(要素)が見えた時には、その相手を自分を嫌うように嫌います。また、自分が持っていたい、獲得したい部分(要素)を相手が持っている時には、それを持っていない自分を嫌う思いがうらやましさや嫉妬になって、それを持っているその相手を嫌うようになります。



結局、すべては自分と自分との関係だったのです。



自分を嫌う思いが強ければ強いほど、それに比例して、自分が嫌う同じものを持っていると感じる人、自分が欲しいものを持っていると感じる人に、過剰に反応してしまっていただけなのです。ここがすべての始まりです。



無条件の愛は、まず始めに、自分にこそ与えることが必要です



人は他の人のことには気づいたり、わかったりしても、こと自分のことに関しては、なかなか気づきにくいものです。私自身もそうです。



私たちが私たちの内側に初めから内在していた、「誰とも仲良くしたい」、「誰をも受け入れたい、愛したい」という『無条件の愛』に気づけば、自然に周りの人への対応、心の向け方も変わっていくことと思います。そして同時に、自分が自分自身をありのまま、無条件に許し、愛することができるようになれば、世界は調和と共生の社会へと自然に変わっていくことでしょう。



そういう世界が実現することを心から祈ります。


ホリスティック・セラピー研究所 https://holistic-ti.com



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初めての体験

2021年02月21日 | 自分の体験からの気づき


今日、日本古来の古武道に伝わる氣のエネルギーの活用法を教えてくれるセミナーに参加しました。その中で、真剣の日本刀を持たせてもらいました。



実家にはなぜか、刃こぼれした小刀がかつてあって、子どもの頃に握って構えたことはあったのですが、大刀を持つ経験は初めてでした。



持ってみると、自分のエネルギーがびゅんと切っ先から出て行くのを感じました。



このようなものを侍たちは使っていたのだなと感慨深いものを感じました。



ただ、日本刀を持ってみて改めて深く感じたのは、「自分はかつては剣(ソード)を使って戦っていたなあ」という感覚でした。



私はかつては、(司祭や牧師、僧侶などの聖職者としての体験もかなりありますが)戦いも幾度も経験した魂だと感じています。



そこには、国を守るため、仲間を守るため、正義のため、悪を駆逐するため・・・、という想いがその根底にはいつも存在していたことも感じています。



これが戦いへの唯一の原動力、動機だったのです。



それを・・・、今の自分として感じてみると、「正義とは何だろうか」という思いが湧き上がって来ます。



自分の立場(主観)では、「正義」であっても、相手も相手の立場(主観)からの「正義」が必ずあります。



このどちらも、その人にとっては紛れもない正しいこと「正義」です。



しかし、正義と正義がぶつかり合って、人が死んでいく、人が悲しむ、さらに国が滅びていくことが、この地球上でどれほどたくさん繰り返されてきたことでしょうか。



ならば、やはり感じます。「正義」とはいったい何なのでしょう。



私たちにはもう「正義」だけに限らず、様々な固定概念、観念はいらない時が来ました。そして、さらにいえば、常識というものも、それが観念的なものならば、そこから外れていいのだと思います。



私を含めた世界の人々が、俯瞰して、太極を観、感じて、今までは身を守るために必要だったものを心の内に安心感を増やしていくことで、どんどんと優しく手放していけれたらいいなあと感じます。



なんだかこんな事も感じさせてくれた初体験でした。


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心身の周波数(波動)を上げる方法② ~植物と触れ合い、無条件の愛をもらう~ (その2)

2021年01月16日 | 自分の体験からの気づき

よく行く自然公園の私の好きな木です。今日もご挨拶 (*^_^*)



前回の続きです。植物との驚くような出来事について何があったかを思い返してみると、植物だけでなく他のものからも、様々な体験をしていることを思い出しました。今回はそれらについても書いていきたいと思います。話しがあちこち飛んだりもしますがご了承下さいませ。


まず、田舎暮らしをした岡山県美咲町での二つ目のエピソードからご紹介していきます。


美咲町は岡山県北部のかなり寒い地域でした。そのため、冬の暖房は灯油ストーブと薪ストーブを使っていました。


薪ストーブはペレットも使えるものでしたので、最初はそれを使っていましたが、説明書に記載されている燃焼時間よりもかなり早く燃焼し切ってしまうので、そのうちに薪も使うことにしました。


薪を調達するのに、近くの山(私有地ではないところ)の倒木や小枝を使ったりしていました。数は少なくても、ほんとはダメなのですが…m(_ _)m


ある時、道沿いの山林に倒木があり、その朽ちていない部分を切っていた時、切り終わってボ~っとしていると、何やら自分の内側が静かになっていって、すごく清々しい心地のいい感覚に満ちていきました。


そんなに山深いところではなく、道路脇のまったく特別な場所とは感じないところでしたが、不思議にそのような感覚に満たされていきました。これは、木を触ることで静電気が抜けてアーシングしたということもありますが、この場所と木々がなぜか歓迎をしてくれていて、エネルギーを送ってくれたのだと感じています。


木だけではなく場所からの歓迎というものも、とても大切なことのように思います。昨年のこと、ちょっとキャンプをしようと思い「ハンモックテント」なるものを買いました。ハンモックの両端のベルトを木と木に縛って、吊したテントで横になるというものです。とりあえず、まず練習してみようと思い近くの山に入ってつけられる場所を探しました。


山に入り、よさそうな場所を見つけてまずやったことは、ベルトをつける二本の木に聞くことでした。


『ここでハンモックを吊るしてもいいですか?あなたにベルトをつけていいですか?』と・・・。


すると、最初の場所と木たちには『ダメ』と言われるというか、そう伝わってきました。


仕方がないのでさらに奥に入って行き、よさそうなところを見つけ、そこでまた聞きました。ここでは『ぜひどうぞ』という感じではないですが、『OK』という感じが伝わってきたのでハンモックを吊してみました。しかし、吊してはみたもののここは陰の気が多い感じで、それほど心地よさを感じませんでした。


また別の日に、2回目の練習をしようと山に入り、斜面のよさそうなところを見つけてまた聞いてみると、この場所はことごとく『ダメ』と言われる感覚が伝わってきました。ここも道からすぐの山深いところではないのですが、ことごとくダメでした。


こういう時、『ダメ』と言われてる感じなのに、無理にやろうとするとよろしくないことが起こります。だから、早々に帰りました。この時には、山に入る前から先に進むのを止めるような感じの予兆的な出来事が二つほど、もうすでにあったのでした。


「メッセージは最初に何らかの形で必ず来ているので、それにちゃんと気づいていれば大丈夫」ということを改めて学びました。


人が分け入っていない自然の場所には、目に見えない様々な存在がやはりいます。人間を歓迎しない存在も結構いる感じがしますので、あまりいい感じがしない場所には近づかない方がいいと思います。そういう意味でもキャンプ場は安心ですね。


今思い出しました。20年ほど前、修験道の行者さんたちが修行する山を運動がてらの遊び気分で登った時に、帰ってからすごく体調が悪くなったということがありました。その山道を携帯電話で写真に撮ったものを後で見てみると、周りの木々に重なるようにたくさんの顔が写っていました。修行のための山なのに遊び心で行ったことを反省しました。


美咲町での体験はもう一つあります。


妻が出かけて留守をしている時に、畑の野菜の収穫を頼まれました。確か夏だったのでオクラやきゅうりなどの収穫だったと思います。家のすぐ前の畑にしゃがんでどれを収穫しようかと見ていると、何だかほわ~っと心地よくなってきました。


その場所、半径1~2mのところがそこに寝転んでずっといたいと感じるようなパワースポットのような場所になっていました。その場所にいて、妻が愛情をもって野菜を育ててくれているのがよくわかりました。今思うに、ここは「野菜たち」とその「場」からの歓迎スポットだったのだと思います。


愛情を送ることによって、「場」からも歓迎されるようになるのは、「場」を愛で満たすことで、そこが愛に満ちた、愛をもらえる「場」に変わったのだと思います。


このことを一つの実例で示している記事をタイミングよく読みました。このブログでも何度かご紹介している立花大敬さんのものです。


大敬さんのブログからちょっとご紹介しますね。『立花大敬青空ひろば ~「場の力」で癒される~から』


〈引用開始〉-------------------------------
ある女性がいつもの整体師さんに施術してもらおうとした時に、その整体師さんから「完璧です!きれいに整っています。なにかヨガや体操をされたり、他の先生に施術してもらったんですか?」と、問われたそうなんです。


この女性は、特に思いつくことはなかったんですが、ふと、「そういえば、先週の日曜日に大敬先生という方の禅の会に参加したくらいですかねえ」とおっしゃったのだそうです。


すると、その整体師さんは、「ああそうですか。なるほど、禅の会の『場』の力が作用して、身心が自然に整ったのですね。そんな『場』を持っておられるなんて羨ましいですね」とおっしゃったのだそうです。やはり『場』が人を癒すということがあるのです。


それから、これも女性ですが、夜中にお腹に激痛が走るようになって、ウンウン苦しんで、もう我慢できない。救急車を呼んでもらおうと思った時、なぜかふと「大敬先生の禅の会」を思い浮かべられたところ、あんな激しかった痛みが一気に消えてしまったのだそうです。心配していたご主人も、その急な変化にとても驚かれたそうです。


この方は、実は大敬の禅の会に一度も参加したことがなくて、大敬の本を読んでおられただけなのですが、『大敬の禅の会の場』のことを思っただけで、こんな不思議な体験をされたそうなのです。


ということは、この『禅の会の場』というものは、地上世界の形の次元だけのものではない。霊的な次元にも『禅の会の場』が実際に存在しているということですね。そうでなければ、一度も禅の会に参加したことがない方が、禅の会のことを思っただけで癒されるというようなことは起こらなかったはずです。


私が念願していたような『場』が、霊的次元にもうすでに形成されはじめていて、まだ十分ではないにしても、徐々に機能するようになってきているということですね。本当にありがたいことです。


ですから、つらい時、苦しい時は『大敬さんの禅の会の場』と念じていただくだけで、楽になれるはずです。面倒であれば、『大敬さん(先生)』と念じるだけでも、その「場」に入れると思います。『クソ大敬!痛いやないか。何とかせい』と念じて下さっても大丈夫だと思いますよ。


ただ、この『場』に入るには条件が一つあります。


それは、大敬がこんな『場』を作ろうと念願したのは、自分の弱さ、無力さ、ダメさを痛感したことからなのです。


世の中には、そんな僕のようなひ弱な人間がたくさんいらっしゃるだろうから、そんな人たちでも許され、受け入れられ、癒され、元気を回復させるような『場』をどうしても作っておきたいと念願したのです。


ですから、そんな『癒しの場』に入る条件としては、自分の無力さ、ダメさをしっかり認め、そんな自分であることを受け入れます。でも私は私のこの位置から少しでも向上していきたいのです、という祈りを持った人が、この『癒しの場』に入ることができると思います。


つまり、自力でまだやれるという自負の心が止まない間は、この『場』には入れないようです。


この条件は、アミダさまが作られた癒しの場である「極楽浄土」に行き着けるための条件と同じですね。
〈引用終わり〉-------------------------------



やはり、「ありのままの自分を受け入れる」ということが、すべての前提になるようですね(^_^)


立花大敬さんの経歴や経験に裏打ちされた思想・哲学について興味のある方は、以下の大敬さんのブログや私のブログの記事をお読みくださいませ。


大敬さんのブログ:立花大敬青空ひろば

私のブログ:立花大敬さんのお話~心を軽くする、宇宙の中心軸と自分の肉体の中心軸を合わせる


お伝えすべきさらなる体験は、実家である岡山県玉野市での出来事です。


美咲町で5年間暮らした後に、実家に戻りました。短期間(5年ぐらいのスパン)で何回引っ越ししてるんだという感じですが、見えないところから動かされている感じで、この実家には私が子供の頃に亡くなった祖父から帰されました。ここも不思議な話があるのですがここでは割愛します。


玉野では離れに小さな庭があり、そこが妻のメインの庭でした。ある夏の日、妻が義母の様子を見に数日帰るので、植物の水やりを頼まれました。


大きな植物は何も考えず普通に水やりをすればいいのですが、二つだけ植えたばかりの正式な名前は忘れてしまいましたが、か弱い「グランドカバープランツ」という植物があって、これにはしっかりと水やりをする必要がありました。妻も気にかけていて、そう伝言されました。


水やりをしていて『確かに根づこうとしている最中だな』と感じながら、『水流を弱くしても直にかけるのは、この子にはかわいそうだな』と思い、15cmぐらい離れたところからその子のところにかなり注意しながら、ゆっくりとやさしく水が流れるようにやっていました。


すると!この庭は自転車道路に面した人通りの多いところなので、少し人目を気にしながらも水やりをしていたのに、突然、えもいわれぬ心地のいい感覚がしてきました。あまりにも心地よく、性的なものとは違うもっと根源的なエクスタシーを感じるという表現になるような感覚を感じはじめたのです。


あまりにも突然のことで何が起こっているかが一瞬わかりませんでしたが、我に返って感じてみると、今水やりをしている「グランドカバープランツ」この子から、よろこびのエネルギーが送られて(伝わって)来たことに気づきました。


『こんなにまだか弱い小さな植物なのに、何というエネルギーを送ってくるんだろう!何という至福の感覚なんだろう!!』と驚きました。


そして今感じるのは、その庭の他の植物たちからも無条件の愛のエネルギーを送ってもらえたのだと感じます。それは、こちらから「グランドカバープランツ」にやさしい思いを心から送ることで、植物界に意識が同調して、それでこの子からのよろこびのエネルギーとともに他の植物たちが元々持っている無条件の愛のエネルギーが、私にどっと流れ込んできたのだと感じています。


「こちらから愛を送ることで、愛の周波数帯域にチャンネルが合い同調して、植物本来の無条件の愛のエネルギーが共鳴してこちらに流れ込んできた」のです。


それにしても、突然の驚くような至福体験でした。特に神聖な場所でもない、何気ないまったく普通の庭でもこのようなことが起こり得ることに大変に驚きました。植物たちは、大地(地球・ガイア)とつながり、いつも無条件の愛を送ってくれているのですね。


私たちは三次元に生きていますが、どのエネルギーと同調するか共鳴するかによって、そこから感じるものや見えてくるものが驚くほど変わってくるのだなと実感した出来事でした。


自分の波動(周波数)を合わせたいものと同じ波動(周波数)に変えないと、望むものや事には同調できない、アクセスできないのですね。


であるのなら、すればいいとても簡単なことは、望むものや事を見たり、感じたりして、その波動(周波数)を体に馴染ませて、そこに意識を合わせていくということではないかと思います。


それを見たり、触れたり、感じたり、その時間が長ければ長いほど、それに比例して自然に波動(周波数)が合ってきます。ですから、自分が清く澄んだ人物になりたければ、清く澄んだものを見たり、触れたりすればいいのです。


(ですから、「鬼滅の刃」は登場人物のキャラやストーリーはとてもいいのですが、鬼やその殺し方の描写に関しては、清く澄んだ人物になりたい人には波動(周波数)的に合わないものだと言わざるを得ません。あのホラーチックな描写がもう少しゆるい違う描写だったら、さらにいいのになあと個人的には思っています)


植物とその波動合わせでいえば、花が咲く植物が好きな方はその植物に、草が好きな方は草に、樹木が好きな方は樹木に、優しく触れて、その植物を感じて同調していくといいと思います。あるいは、今は植物のところに行けないという方は、ただイメージして、その植物に触れているところを想像することもいいと思います。


その時に、「ありがとう」とか「愛している」という想いがあれば、さらに同調が速くなります(^_^)


余談ですが、経験上、樹齢の古い木からは心地のよい波動(周波数)が伝わってくることが多いです。様々な体験がありますが昨年のことでいえば、京都の上賀茂神社を歩いている時に急にあたたかいものを感じました。その方向を見るとそこには、樹齢300年以上の「睦(むつみ)の木」といわれているスダジイの木(シイノキ)がありました。やわらかい心地のいい波動(周波数)でした。


こういう波動(周波数)は植物だけでなく、石(鉱物)や絵画などからも発せられます。石(鉱物)での昨年の体験でいえば、友人の家に遊びに行った時、家の裏に磐座(いわくら:自然崇拝をしていた岩、石)があるというので家の裏に回ると、まるで遠赤外線を当てられているようにすごくあたたかい熱感を感じました。友人は「歓迎されているんだね」と言ってくれました(^_^)


絵(絵画)での印象に残っている体験では、これは20年ほど前のものですが、特殊な水(電子水)で院内の環境を整えたり、入所者の健康を促進しているある施設に、誘われて見学に行った時のことです。ホールを歩いていると、あたたかいものが急にふわ~っと来たので、驚いてその方向を見ると、7mぐらい先に大きな絵が掛けられていました。龍と観音様が描かれた絵だったように思います。聞いてみると龍敬子さんという方が描かれた絵でした。この人の絵はパワーがあると有名なようでしたが、確かに伝わってくるものがありました。これは、超有名な画家(あるいはそうでなくても想いの込められた人)の絵や書なども同じですね。


(先にも説明しましたが、特に、波動(周波数)が同調・共鳴した時に強く感じるのですから、今も同じくこの方の絵から感じるものがあるかといえば、正直体験してみないとわからないです。その時の私は同調したということだと思います)


意識、意思は色んなものに入る、入っているのですね。


石や絵は生きていないものだからと普通はみんな思っていますが、実はすべてのものが生きているのだなあと感じます。


これからのコロナ騒動後に来る超々大変化の時代をよりよく進んで行くためのコツは、『あたたかく、心地いいと感じるものにつながる』ということだと思います。


植物たちは、そのための入りやすい一つの入り口になるのではないかな、と感じています。


そして、植物とのつながりだけでなく、日々、出来るだけ「あたたかさや心地よさ」に意識を向けるようにして、「安心」を感じながら過ごしていきましょう(^_^)


私もそうしていきます。


あなたのおしあわせをお祈りいたします。


※1/18 追記
昨日、クライアントさんがご自分で作られた野菜を持ってきてくださいました。

手渡されて、袋に入っている野菜を見る前から、なんと言ったらいいか、よろこびとか楽しいとかかわいいというような感じの波動(周波数)が思いがけず伝わって来ました。

お聞きすると、野菜作りはとても楽しく、うれしいとおっしゃっていました。

野菜にこの方の想いが乗っているのと同時に、野菜自体からもよろこんで、かわいがって作ってもらったその想いが伝わって来たのがわかりました。

お野菜は神棚に供えているので、これから頂きます(*^_^*)

いのちに感謝です。ありがとうございます。


ホリスティック・セラピー研究所 https://holistic-ti.com



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心身の周波数(波動)を上げる方法② ~植物と触れ合い、無条件の愛をもらう~ (その1)

2020年11月30日 | 自分の体験からの気づき


この記事の①で、植物のことを書くとお伝えしていました。大変遅くなってしまいましたが記していきたいと思います。


まず、最初のエピソードは、ずっと以前に書いた記事だったのですが物語的に書いた文章でしたので、書き直してご紹介しますね。2009年11月初旬に起こった出来事でした。


私は岡山県で生まれてから父の転勤に伴い、すぐに千葉県へと引っ越して3歳まで住んでいました。そして父の死とともに4歳からまた岡山に戻り、それからずっと他県に住んだことがありませんでした。そのため、大人になってから一度他県で暮らしたいと思い立ち、選んだのが神戸でした。


2006年から3年間住みました。神戸でもありがたいことに、関西方面だけでなく関東など遠方のお客様も来て下さって相変わらず忙しかったのですが、さらに岡山でのクライアントさんのフォローと岡山で口コミで聞いた方々が神戸にもお越し下さるようになり、次第に猛烈な忙しさになっていきました。


もうこのような忙しさの中でこれ以上やっていると、完全に寿命が縮まってしまうと感じるぐらいに、すごく疲弊していました(これはこの当時、私の自己管理が成っていなかったことがすべての原因です)。


住んでいた場所は神戸の北区で自然も割りとあるところでしたが、もっと自然が多くて畑もあるところで田舎暮らしをしたいと強く思い、3年住んだ神戸から岡山県の美咲町に引っ越しをしました。
(当初、岡山に戻る気はなく、まったく別なところばかりを探していたのですが、不思議なことが度々起こり、まったく予想だにせず、連れて行かれるように美咲町へ引っ越しました。そこは、35歳の若さで亡くなった私の父の郷里の津山市のすぐ近くで、父方の先祖のお墓も割りと近くにあったのです)


それは、かなり広い畑のある築90年の古民家でした。家をリフォームして、庭は今後ガーデニングをしていくために、庭の整理で木の剪定をしたり、申し訳ないけれど必要のない木は切ろうと思い立ちました。


切るに当たって妻から、『切っていいかどうかを木に聞いてみてね』と言われて、それまでそんな風に意識を向けたことがほとんどありませんでしたので、戸惑いながらもやってみました。


まず1本目の木は、前に住んでいた人が上の方を中途半端に切って見栄えがよくなくなったモミジの木でした。心の中で『切ってもいいですか?』と聞いてみました。・・・けれど、何の反応もありません。


ということは・・・、この木はOKだと感じて(そう決めて)、申し訳ないけど心の中で謝りながら切らせてもらいました。


次には、何の木かわからない、私の背丈の倍近くある根本の方から二本に分かれた枯れかかったような木がありました。後でわかったのは、これは花蘇芳(ハナズオウ)という木でした。


この木も切ろうとして、聞いてみました。すると、モミジの木の時には感じなかった何かを感じるのです。


意識を向けてみて伝わって来たのは、『キラナイデ・・・、キラナイデ・・・』という言葉というか、波動といえばいいのか、そういう感覚が明らかに伝わって来ました。


驚くことに、「木(植物)も、はっきりとメッセージを送って来るんだ」ということがわかった瞬間でした。


聞いてしまったので、、、もう切れません。


この木は、下の方の枝分かれしている小さな枝だけを切って、形を整えて残してあげることにしました。


その夜のこと・・・・・・。


いつものように、2階でベッドのベッドボードにもたれて(※) 庭を背にした状態で、本を読んでいると、なんだか外から、明らかに強く、何かが流れてくるというか、伝わって来るのです。

(※)余談ですが、このベッドの所では、このブログにもどこかに書きましたが、2011年の東日本大震災の1~2ヶ月前に2度ほど、背後に「もう逃れられない身震いするような真っ黒な深い闇」が広がっているのを感じました。ここでくつろいで脳波が下がっている時に、迫り来るものを感じた(拾った)のだと思います。
これは後で気づいたのですが、こうやって結果的に東日本大震災発生を予知的な感覚で拾ったのは、私がそれに巻き込まれないからだと感じました。私が巻き込まれる時には、事前に感じる(拾う)ことはないのだと思います。それは事前に感じると、必ず回避してしまうので、直接的に大きく巻き込まれる時には強く感じないのだと思います。私自身が過去2度大きな怪我をしましたが、その時も事前に察知することなく、青天の霹靂のように起こりました。これは経験からのまったくの私的見解ですが、多くの場合そういうものなんだと確信しています。『災害は忘れた頃にやって来る』という言葉の通りだと思います。


『何だろう?!』と思い意識を向けてみると、すぐにわかったのは『アリガトウ』という感謝の思い、波動でした。


『アリガトウ!アリガトウ!アリガトウ!アリガトウ!アリガトウ!アリガトウ!・・・・・・・・・』と、ものすごくヒシヒシと波が寄せるように伝わってくるのです。


もう外は真っ暗で見えないので、伝わってくるその先を感じてみると、それはあの切らなかった「ハナズオウ」からだとわかりました。


『あ~~、切らなかったことをこんなにも喜んでくれているんだ!』と、植物はこんなにもメッセージを伝えてくることを驚きとともに感じて、私も喜びを感じながらその余韻の中で眠りにつきました。


次の日のこと・・・・・・。


ハナズオウは4月に花をつけて、それが落ちた後、実の小さな枝豆のような豆果(〈とうか〉マメ科の植物に特有の果実)をつけて、秋から冬にかけてそれは黒褐色に熟していきます。


11月でしたから、枯れているのかと思うぐらい黒褐色の豆果がたくさんついていて、剪定の時もおもしろいものがつくんだなあと思っていましたが、朝、庭に出て何となくハナズオウを見てみると、なんと、なんと、かわいいピンク色の花が4~5個咲いていました!! それも、10時間足らずの内にです(◎o◎)


下の画像が実際のものです。(大きな画像がなくなってしまい、小さなもので見にくいのですが)




そして、その翌日にはその花も増えていて、小さな緑の新しい葉っぱが二枚出ていました!


ただただ・・・、驚きでした。


「植物にも思い(意識)がある」ということは、色んな本には書いているので頭ではわかっていましたが、実体験として強烈に気づいた最初の出来事でした。


次のエピソードも美咲町でのことです。その前に、話がかなり脱線しますがお許し下さい。


畑の野菜作りは妻が担当してくれていました。畑は広かったので、その1/4くらいを使っていました。空いている他の1/4の部分は、家のトイレをコンポストトイレ(カナダ製)にしていましたので、ウンチ(堆肥)やオシッコ(液肥)の処理や諸々の手入れは私が毎日していました。


微生物で発酵させるのですが、その環境の管理が大切です。色々使ってみましたが、最終的には「えひめAI-1」(えひめあいいち)という微生物資材が良くて、これを使っていました。サトウキビから採れた精糖蜜を栄養源に、パン酵母・ヨーグルト用乳酸菌・納豆菌を培養した微生物資材です。自分でも作ることが出来るので最後の方は作っていました。

製造元の東洋殖産株式会社のホームページです。→http://www.toyoshokusan.co.jp/business/bus_009.html
オイルを使う暮らしでも配管きれい「えひめAI」を作ってみよう!→https://around-india.com/ehime-ai/


ただ、私が買ったコンポストトイレではタンク内の温度を上げられないので、微生物を十分に活性させるにはちょっと難しいところがありました。それでも、微生物は分解を進めてくれて、臭いは消えませんがあの臭さはなくなり、気にならない状態になりました。それらを畑の1/4の部分に堆肥として埋め、液肥も流していました。この場所は、何年かしてから利用しようと考えていました。


それは昔から言われていることですが、未完熟堆肥で野菜を作ってはダメなのです。昔からある肥壷(こえつぼ)も糞尿をそのまま入れて雨水が入らないように屋根を作って、何年も寝かせて発酵させてから、肥料として与えていました。


奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんもおっしゃっていますが、未完熟堆肥で野菜を作ると野菜に硝酸態窒素がたくさん含まれるようになります。この物質は、多くの病気の根源とも言われている恐ろしいもののようです。


木村さんは2015年にイタリアでスローフード協会が主催した農業関係者の集いに招待された時に、「安心、安全な農業を復活させよう」というスピーチを行った後、多くの農業に従事している外国人の若者に、「日本では硝酸態窒素が多く含まれた野菜をいまだに売っていると聞いているが、なぜ日本人はそんなに無防備なのか?」、「日本の食材は本当に安全なのか?」と吊るし上げを食らったそうです。


この辺りを『「日本農業再生論~〈自然栽培〉革命で日本は世界一になる!」木村秋則、高野誠鮮 共著 講談社』からちょっと引用します。


〈引用開始〉-------------------------------
今から60年ほど前のアメリカで、ある母親が赤ん坊に裏ごししたホウレンソウを離乳食として与えたところ、赤ん坊が口からカニのように泡を吹き、顔が紫色になったかと思うと30分もしないうちに息絶えてしまう悲しい出来事がありました。ブルーベビー症候群と呼ばれるものです。


牛や豚、鶏などの糞尿を肥料として与えたホウレンソウの中に硝酸態窒素が残留していたんです。硝酸態窒素は体内に入るとか硝酸態窒素という有害物質に変わり、血液中のヘモグロビンの活動を阻害するので酸欠を起こし、最悪の場合死に至ってしまう。また、発がん性物質のもとになったり、糖尿病を誘発すると言われている恐ろしいものなんです。


家畜の糞尿は有機栽培でも使われますが、堆肥を十分に完熟させてから施せば問題はありません。しかし未完熟の堆肥を使うと、特に葉ものには硝酸態窒素が残ってしまうので危ないのです。


さらに危ないのは化学肥料を施しすぎた野菜で、要注意です。


このような事件がその後も多発したために、ヨーロッパでは硝酸態窒素に対して厳しい規制があり、 EU の基準値は現在およそ3,000ppm と決められています。それを超える野菜は市場に出してはならない。汚染野菜として扱われるのです。ところが日本にはその基準がなく野放し。農林水産省が不問に付しているからです。


スーパーで売られているチンゲンサイを調べたら硝酸態窒素、いくらあったと思いますか?16,000ppm だよ!米はどうか?最低でも12,000ppm 。高い方は・・・・・・とんでもない数値でした。ここには書けません。皆さん、パニックになってしまうから。


それに比べて自然栽培農家の作った小松菜は、わずか3.4ppm でした。


農薬も問題です。


日本は、農薬の使用量がとりわけ高い。平成22(2010)年までのデータによると上から中国、日本、韓国、オランダ、イタリア、フランスの順で、単位面積あたりの農薬使用量は、アメリカの約7倍もあります。


残留農薬の野菜を食べ続けると体内に蓄積されていって、目まいや吐き気、皮膚のかぶれや発熱を引き起こすなど、人体に悪影響を及ぼすとされています。


日本の食材は世界から見ると信頼度は非常に低く、下の下、問題外。もう日本人だけなの。日本の食材が安全だと思っているのは。


ヨーロッパの知り合いから聞いた話ですが、日本に渡航する際、このようなパンフレットを渡されたそうです。


「日本へ旅行する皆さんへ。日本は農薬の使用量が極めて多いので、旅行した際にはできるだけ野菜を食べないようにして下さい。あなたの健康を害する恐れがあります」

(中略)

平成21(2009)年、アメリカ海洋大気庁(NOAA)が、地球温暖化の新たな原因について発表しました。


NOAAが原因として指摘したのは、農薬や化学肥料、家畜の排泄物などに含まれる亜酸化窒素ガスです。このガスの増加によって、オゾン層の破壊が進み、地球温暖化に拍車をかけているため、早急に排出削減に向けて、これらを使わない栽培を研究開発することが急務であるとホームページに掲載されたのです。


亜酸化窒素ガスは地球温暖化の原因の一つと言われる二酸化炭素の310倍の温室効果があるという驚きの報告もありました。


私は30年ほど前から自然栽培の指導と合わせて農薬や化学肥料の危険性、そして硝酸態窒素の危険性を訴えてきたのですが、耳を傾ける人がほとんどいませんでした。


イタリアで20人の大柄な若者たちに吊るし上げを食らった時も、自分でもとうにわかってることを指摘されたのだからこれほど情けないことはなかった。


震える思いでいたら、一人の若者がさらにこう加えたのです。


「2020年は東京でオリンピックが開催されますね。けれど選手団のために自国の野菜を持っていった方がいいのではないかと、皆で話し合っているんです」
〈引用終わり〉-------------------------------



私たちには、やることがたくさんあります。


それは特に、「(自分たち人間のことだけしか考えない発展、成長という名の洗脳的妄想から抜けだし)いかに自然環境と調和するか」こそ、第一にやるべきことだと感じています。人間的活動はその土台があってからのことだと思います。


自然と調和した状態になって初めて、人間の活動も自然環境とだけでなく、自分自身とも調和した本来のよりよいものとなるのではないでしょうか。


そのための入り口として、まず誰もがやりやすいのは、「自然」に意識を向けて「自然」と触れ合い、繋がることだと思います。


植物も「意識」を持っています。メッセージもしっかりと発します。そして何よりも、「無条件の愛」を持っています。自然の中でリラックスし、この無条件の愛に周波数を合わせられれば、私たちの波動も上がります。


この辺りのことをさらに、私自身のいくつかの実体験を紹介しながらお伝えしていきたいと思います。

つづく
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過去のメルマガから⑭『私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(4)』

2019年08月23日 | 自分の体験からの気づき
閲覧が出来なくなっている過去のメルマガの記事の主要なものを抜粋して載せていっています。今まで一部の人にしか話していない、伝えることを躊躇していたものもいくつかありますが、このブログでも公開しようと思い立ちました。


ただし、前に書いた文章ですので、今の私の表現とはもうすでに違っているところもありますし、補足、追加したいところもありますから、その部分については加筆していきます。


よろしければ、お読み下さいませ(^_^)


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メルマガ しあわせに生きるための「トラウマ心理学」
私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(4)2018年4月

私は今までの人生の中で、様々な自分を対象にした人体実験による実体験をしてきました。我ながらかなり特殊な体験をしてきている人生だと思っています。


これらのことは本に詳しく書こうと思っていますが、私の最大の人体実験は24、25歳頃に行った『すべての人から嫌われる』という立場を積極的に体験しようとしたことでした。


こんなことは普通は誰もしないことですから、「そんなことをするなんてどうかしているんじゃないか!」と思う方が多いと思います。ただこの根底には、そうなろうと思ったある強い思いがありました。


その頃はサラリーマンをしていて、仕事においては順調で会社の部署で一緒に働いている人たちからも、得意先の方たちからも、有り難いことにみんなから慕われてとてもとても大切にして頂いていました。


しかし、私の内側ではそのことで満たされることはなく、その中に身を置いている内に、心の奥から思いが湧き上がりまじめたのです。


『自分を愛してくれる相手を愛することは、大変にたやすくて簡単だ。だから、自分を嫌う相手を愛することができた時にこそ、相手がどのような人であれ、誰をも愛する無条件の愛が私の中で完成される』と、精神的・霊的にさらに成長しようというある意味宗教的ともいえる思いが出てきたのでした。


今度は逆のそういう立場に身を置いた時の自分を見たい、体験したいと、実験的に一端自分を嫌われるという立場に身を落とすことを決めたのです。


だけど、いつもいいますように、何かに過剰に反応するときには必ずトラウマの影響がありますので、やはりここにも私のトラウマが関係していました。


幼少期からのトラウマがあると心の中心に深い安心感がないので、自分以外の外側から受け入れてもらって、どんなに心地いいと感じるやり方で扱われ、それをどれだけたくさんもらっても、心の表面上はその時は埋まったように感じますが、心の内側ははまったく満たされないということも、この時の実体験からハッキリとわかりました。


人生は心から強く望んだものは必ず実現しますので、誰からも嫌われるということもしっかりと実現しました。しかし、その体験は自分が予想していたよりも大変長い期間になり、とても苦しみました。


いざその状況になると、あれほど自分が望んだことだったはずなのに、大変に傷ついて自分を嫌う人を受け入れて愛するどころか、その人たちに怒りが湧き上がるようになってしまいました。


これは社会人になるまでの人生でも、とりあえずは大きな問題は無く周りから受け入れてもらえるという立場を体験してきて、その辺りの怒りを感じた経験がほとんどなかった自分からは考えられないことでしたので、そのことでも悩みました。


結局ここには、「誰をも無条件で愛せるようにならなければならない」という思い込み、観念が存在していて、その根底には「深い精神性に至らないといけない」という思いや「それがちゃんとできない自分はダメだ。価値がない」という自分への罪悪感や自己否定感が存在していたのです。


その当時にはまったく気づいていませんでしたが、私の直感的主観では、ここには幼少期からのトラウマだけでなく、キリスト教的な自分に難を与えるという「受難」に関係した過去世からのトラウマの影響もあり、この人体実験をする前に、もうこういう思いで自分を責めていたということもわかりました。


最初から自分が自分自身を否定して愛していなくて、自分のありのままを受け入れず味方にならずに、自分が自分を責めて嫌っているのに、その上に人から
嫌われるという状況が重なってくると、次第に周りを敵にしてしまい怒りの思いが出てきていたことに気づきました。


私は自分自身(インナーチャイルド)に対して「もっと、しっかりと成長しろ!!」と、どこかで突き放して、見捨てていたのでした。


大変苦しみましたが、この体験をしたことで、『ありのままの自分を受け入れ愛し、まず自分が自分の味方になる』ことの重要性というか、その重大性が心の底からわかりました。


自分を愛していなければ、本当の意味で周りの人を愛することは出来ません。無条件の愛を与えるべきは、まず自分自身だったのです。自分が自分自身とつながらないと、自分らしい自分の人生をつくり上げることも出来るはずがありません。


本当の理想は、人間の人生でベストなのは、幼少期に親から無条件の愛をもらえることです。まずそれがあれば、子供の心は安定し、培われた深い安心感は一生心の底に定着します。


それがなければ、人間の心は安定せず「ネガティブな感情」の影響をモロに受けてしまい、生存本能が過剰に活動してしまい、戦うか、逃げるか、フリーズするかになります。


また、そのために不安を感じながら自分の身を守ることが主体となって、安定した精神状態で人生を送ることが出来なくなってしまうことがわかりました。


これが幼少期からであれば、どれだけその子は心を痛め、「怒り」と「恐怖」と「悲しみ」の人生を生きていくしかなくなるだろうかとその苦しみがしっかりと理解できるようになりました。


人間にはこういう性質があるため、その部分を処理していくことが出来るインナーチャイルド療法(や前世療法)という手法は大変に重要なもので、これがインナーチャイルドを癒すことの必要性であり、この療法の存在意義でもあります。


私はこの人体実験からの人から嫌われることでの「怒り」と、その奥にある傷ついてきた「深い悲しみ」をインナーチャイルド療法で癒しました。


そうすると、やはり嫌ってくる相手が自然に気にならなくなりました。同時に怒りを感じることも次第に減っていきました。


すると、面白いことに嫌ってくる人もどんどんと減っていきました。自分が自分を受け入れて愛していくことで、それと同じように周りが受け入れてくれるようになります。


『自分を扱うように周りから扱われる』というのが法則であるということも、この人体実験で改めてよくわかりました。


すべては自分への向き合い方が、外側に反映しているだけです。外側に存在するように見えたのは、ほんとうは自分自身だったのです。


人間はトラウマを負うことで、自然にネガティブな感情や思いを感じるようになりますが、その闇ともいえるネガティブな感情を隠すことなく、嫌うことなく、闇としてありのまま受け止め受け入れると、その闇は自然に光へと変わっていきます。(そう!ここも自分の中の闇への無条件の愛です)


そうすれば、この光は自分の内側から出てきて輝き出しているものですから、外側から光を当て続けなくてももう消えることはなく、たった一人でいても心の底からの安心感がいつもどんな時もそこに存在するようになります。


この三次元世界は二極でできていますので、光ばかりになれば闇と感じるものは悪となり敵とみなすようになります。また、闇ばかりになっても光と感じるものを嫌い敵にしてしまいます。


この安心感は光と闇、その二極の中で、その二つをありのまま全部ひっくるめ包括したその真ん中のゼロ地点(中庸・中道、±0)に静かにバランスよく安定しながらたたずんでいるという感覚だと表現できます。


大変だった闇も処理しているので、闇からのよりよい経験だけが残っていて、その闇と光の間(±0、ゼロ地場)に存在しているという感じです。


今、私の中にもそのような感覚があります。これはとても心地のいいものです。何があってもなくても、もうこの感覚は消えることはないということを静かに感じています。


人体実験中は予想外のことが起きて大変だったですが、その体験があったおかげで様々な心の反応パターンやその奥にある感情に気づき、それを受け入れ癒して、このゼロ地点の感覚を心から味わうことができるようになりました。


目覚めた人を意味するブッダと呼ばれた、ゴータマ・シッダルタさんは、どのようにしても「この世は苦でいっぱいである」ので、そのことを認めなさいといわれました。これが彼が悟った哲学の一つです。


今も昔も、この苦である「病気があること」、「老いること」、「死ぬこと」、「悩みがあること」は、人間から消えることなく続いていきます。ということは、はじめは違っていたと思いますが、人類史のある時期から、「苦」こそが魂が人間存在を体験するときの一つの大きな体験項目となっていったのだと感じるのです。
(なぜなら、前にも書きましたが、我々魂が天と一体であった時には苦というものなどはまったく存在しなかったのですから)


シッダルタさんは、人間が生きるということはそういうものだから、「こだわらなければよい。受け入れなさい!」と悟られたのだと思います。


その後に生まれた救い主の称号の「受膏者」を意味するキリストと呼ばれた、ナザレのイエスさんは、人生とはそういうものだから「そのまますべてを愛したらよい。愛しなさい!」と悟られたのだと思います。


いずれにしろ、『苦をそのまま見て受け止めよう!』というのがお二人の悟りのその根底に流れている哲学であると感じるのです。


苦(闇)は抑圧したり抵抗すると余計に暴れだします。それをありのまま受け入れ受け止める(愛する)ことではじめて、苦は苦でなくなっていきます。


しかし、今まで人類はその苦と戦って、そこから様々なネガティブな感情が発生していき、人生が生存本能からの身を守るための行為となって、死後そこから後悔や罪悪感が鮮明になり、体験しきれなかったという未練、後悔やもっとしっかりと体験したいという欲求などの思いが出てきていたのだと感じます。


それをカルマ(業)として、また肉体に生まれてくる動機にしていくというサイクルに、感情を処理しないことで人類はどんどんとはまっていったのだと感じています。


人間は感情を持ち、強くその影響受けるという特質があるがゆえに、その処理をしないことで解離(感じないように、わからないように)して味わい切ることが出来なくなり、魂の当初の計画よりも転生する(生まれ変わってくる)回数がどんどんと増えてしまったのではないかとも感じています。


私は様々な自分の人体実験経験からも、数多くの心理療法での臨床経験からも、ネガティブな感情(闇)に向き合うことでありのままの自分を愛すること(光)ができるようになることをもうゆるぎなく完全に確認しました。


そうすることで、人間の心は安定し、元々あった共感する能力が発露し、我欲から離れ、自己防衛から外れ大局を見ることができるようになります。さらには、人類主導の地球生態系システムとの共存、共栄が可能になると確信しています。


そして、人間本来の精神性や霊性を発露する鍵も「過去から持ち越している感情を解放する」ということにあります。ただし、そこで重要なのは、ただ解放するのではなく根本・根源からの解放なのです。

悟りとは、解離せずにありのままの事実に正面から向き合い、認識して、受け入れることではないかと思います。それはイコールすべてをありのまま見る「目覚めた人」になることでもあると感じるのです。


実は、ほとんどの人が必要な生存本能としての反応なのですが、子供の頃に「対処のしようがない心地よくないと感じること」から、身を守るためにそれを感じないように自然に解離をしています。


しかし、大人になってもそれを処理しないままでいるとその状態がそのまま続いていて、言葉が悪いですが意識の一部が「眠ったままの状態」にあるといえます。


ここには、子供の頃からはまり込んでしまっているので、自分ではそのことに気づくことは難しい(気づかないようにしている)のですが、本当はそこから人生の根幹に関わる大変大きな影響を受けているのです。


私の活動が、多くの人へのそのような部分を解放し、処理するサポートになれることを心から願っています。そのための心のことやトラウマに関してのことはすべてわかったので、まずはそれを「トラウマ心理学」としてそのすべてを記した本を書いて、世に示していこうと今思っています(*^_^*)


◆編集後記
人の心の深いところがわかってくると、お目にかかったり、声を聞いただけでもかなりの部分がわかるようになりました。それがいいことなのかどうか…という思いは正直あります。わかればわかるほど、生存本能からの「解離」というものの奥深さというか、その影響の大きさに驚くばかりです。


ほとんどというか人間みんなが実は解離をしています。それは私自身もです。ただ、私の場合には様々な経験をさせて頂いたことで、かなりの部分解離から外れていますが、何か心にふっと反応するネガティブと感じる出来事があった時には、自然に解離しようとする思考の働きに気づきます。それぐらい解離というものは自然に働くものです。


簡単にいいますと、トラウマ=感情の抑圧=解離 です。


我々を守るための機能がいつまでも働かせ続けてしまうと、逆に我々を中心から縛るものへと変わってしまいます。


解離に関しては、これだけで一冊の本がかけるぐらい深いです。解離があると、人は洗脳を簡単に受けやすくなります。この部分を利用して、洗脳しようとする勢力がたくさん存在していることも感じます。


解離が外れると、〈自分にとって〉何が本当のことか、何が違うことかが、心からハッキリとわかるようになります。自分にとっての真実がはっきりと見えるように、感じることが出来るようになります。そうすると、人生のすべてにおいて、我欲からではなく真我から、自分にとってのよりよい選択が出来るようになります(^_^)


人類が解離の影響から外れられたら、世界は短期間でよりよいものへと変容していくことでしょう(^o^)/
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ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。



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過去のメルマガから⑬『私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(3)』

2019年08月19日 | 自分の体験からの気づき
閲覧が出来なくなっている過去のメルマガの記事の主要なものを抜粋して載せていっています。今まで一部の人にしか話していない、伝えることを躊躇していたものもいくつかありますが、このブログでも公開しようと思い立ちました。


ただし、前に書いた文章ですので、今の私の表現とはもうすでに違っているところもありますし、補足、追加したいところもありますから、その部分については加筆していきます。


よろしければ、お読み下さいませ(^_^)


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メルマガ しあわせに生きるための「トラウマ心理学」
『私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(3)』2018年3月

前回最後に、『我々魂が(自分から体験項目を選んで)この地上に降りてきた当初は、こんなにも強いトラウマ的体験や重苦しい体験をしようと望んでいなかったのではないかと感じるのです。ここに、人間という存在のある特殊性が深く関係していることがわかりました。』と書きました。


人間の特殊性って何だと思いますか?


肉体というものから離れた外の世界から人間という存在を見ていると想像してみると・・・、何が見えてくるでしょうか?


見えてくるもの・・・・・・、


食欲や性欲などの欲といわれるものがあること。


生存本能というものがあって、身に危険がおよんだり、およぶかもしれないと感じると、逃避したり、攻撃したり、固まったり(フリーズ)などして、生存本能として自己防衛行動を自然にとること。


空気が必要で呼吸ができないと生きていけないこと。


食べ物が必要で食べないと生きていけないこと。


そのために空気を生成する植物や食料となる動植物などなど、地球という生態系システムの中で生かされていること。


「お金」という経済システムを作り出し、その中でほとんどの人間が生きていること。


その活動の中で大量の生産と消費を繰り返して、地球生態系システムを自らで破壊していっていること。


・・・・・・・・・。


人間は大自然の生態系システムの中で生かされているのに、経済活動を優先してその大自然を自分からどんどんと破壊していくというまったく矛盾する自殺的行為を平然と行っている世にも珍しい生き物であるといえます。


この部分においても元々魂はこのようなものへの囚われを持とうとは思っていなかったのではないかと思います。


そして、この囚われの大本となるものが「感情」というものの存在にあると私は思っています。


簡単にいいますと、人間の、肉体をより安定した状態に保ちたいという欲求の根本には、生存本能からも派生する「恐れ」や「不安」が存在します。


そして、その「恐れや不安」が強くなる時には、「怒り」や「さみしさ」、「悲しみ」などの感情がその根底にもれなく付随しています。


私が重要視する人間の特殊性とは、人間は「感情」を持った生き物であるということです。


こうやって人間は生存本能を「ネガティブな感情」によって起動させられて、それが過剰になった時には、いかに安心、安全に生きるかを最優先して、大局を見ることができなくなり、無意識のうちに自己防衛のためだけの生き方をするようになってしまいます。


魂が最初、どのようにして肉体というものに入ってきたのかは想像の域を超えられませんが、たぶん肉体というものの特殊な感覚を楽しむために出入りを繰り返すうちに、次第に物質的な肉体特有の低い振動数に共鳴してそこに絡め取られ、もつれ込んで(エンタングルメント)抜けられなくなっていったのではないかと思っています。


適切な例えではないかもしれませんが、それは以下のようなことに近いかもしれません。


甘いものやお酒やタバコなど嗜好品といわれるものを過剰に欲する人が、それを摂りすぎた時には「もう明日からやめよう!!」と思っていたはずなのに、また欲しくなって摂ってしまうというサイクルを繰り返す場合が多いですが、ある意味肉体というものを味わうために体に入った魂もこのような感じで、肉体に囚われ次第に輪廻というサイクルにはまり込んでしまったのではないかと感じます。


前回にも少し書きましたが、輪廻においてもこの「感情」というものの影響があります。


様々な出来事から自然に感じてしまう「ネガティブな感情」を脳が生存本能で不安定にならないように隠して解離させることで、普段の意識である顕在意識では、はっきりと認識しないようになります。


しかし解離しているだけで「感情」自体は消え去らないので、死んだ後には潜在意識が主体になり、解離状態がなくなりクリアになるために、生前の様々な出来事から本当はどれだけたくさん色んな思いや「感情」を感じていたか、というその全貌に死後になってはっきりと強烈に気づきます。


こうやって、肉体を有する生前に、その思い(思い込み・観念)や「感情」(罪悪感、後悔の念を含む)を心の底に隠してしまい未処理にしてしまったために、それが動機(カルマ)となり、肉体を有するからこその感情体験に、また自分の意思で戻ってくるようになるのだと感じます。


それぐらい人間存在にとって「感情」というものの影響は大変に強く、その処理は大変に重要なものなのです。


ですから、地球という生態系システムの中でしか生きられない私たち人間が、その中で自然と共存しながら、安心安全によりよく自己実現して生きていくためには、この人間の特殊性である「感情」(根本的には「不安と怖れ」、「深い悲しみ」)をどう扱うのかということがとてもとても重要になります。


「感情」を安定させるための方法としては、世の中にはもう様々なやり方が存在しています。


その方法を大きく二つに分けると、ネガティブな感情をポジティブな感情に変えていく方法と、ネガティブな感情を抱きとめて包み込んでいく方法の二つになると思います。


別な言い方をすると、闇に強い光を当てて光に変えていく方法と、闇を闇として受け入れて癒し光に変容させていく方法の二つがあるということもできます。


これはどちらも素晴らしい方法です。


このどちらを選ぶかはその人の性格や特質もありますし、人によって生まれ持ってきた体験するテーマややりたいと感じる方法は違いますので、自分が取りたい方法を取ればいいのだと思っています。


私は世の中には「これしかない!!」というものは、存在しないと思っています。


人により合う合わないは確かにあるので、自分に合った方法をただ選択すればいいのだと思います。


「これしかない!!」、「これこそ正しい!!」にはまってしまうと、それ以外のものは異質なもの、間違ったものとしか認識しなくなってしまいます。


これが世界に争いや戦争が存在する根本的な理由なのだと思います。


話を元に戻しますね(^_^;)


私自身においては、この世に生まれてきたテーマの一つに「何事も自分の感覚で実体験する」というものがあることを感じています。


だから私は、この実体験主義というものをとても大切にしています。


もっと極端な言い方をすると、私は人間という存在を根源から理解し認識して、研究するために自分を被験者とした人体実験をすることを一つの目的にしてこの世に生まれてきた魂なのだろうなと思っています。


今まで55年(2018年時点)の人生の中でも様々な自分を対象にした人体実験、実体験がありました。


その中の一つに、大人になってからの普通は誰もが絶対にしないであろう実験もありました。


そこからの苦しみの経験でも、『「感情」を処理すること』と『自分を癒し、自分とつながること』の大切さがほんとうに・・・骨身に染みてわかったのです。
〈続く〉


◆編集後記
人間にとって、感情体験というものがとても大きな影響を与えるということを示すセッション事例があります。


あるクライアントさんが肉体に宿る前の魂の存在で、魂の計画として「こういう経験をしよう」とはっきりと決めて、お母さんのお腹に入りました。


しかし、お腹の中の胎児という自分の肉体に入ってみると、急にお母さんの考えてる思いや心の声がダイレクトに自分の心の中に入ってきて、そのお母さんの苦しい思いや感情が手に取るように伝わってきて、まるで自分の事のように強烈に感じた人がたくさんおられました。


魂の時には、そういう感情を感じることも計画したことなので冷静に分かっていましたが、いざ肉体というものに入った時の肉体の感情を感じる時の感覚は想像もできないほどの特有のものだということがわかったそうです。


また、自分には強いトラウマはないとか、色んな出来事はあったけどまったく平気だったとか、ごくごく波風のない普通の人生だったと言われる方たちが、個人セッションでご自分の心の内を見ていくと、そこには深い感情が抑圧して隠されていたことに気づき、衝撃を受ける方が大変に多いです。


これぐらい、人間にとっての感情体験というものは特殊で特別なものだということが、その方たちの経験からも私自身の経験からもよくわかりました。


人間は「感情」を有する生き物であり、私たち魂は感情体験をするために地上に降りてきたのではないでしょうか。地球はこの珍しくて特殊な感情体験をするための星であるといえると思います。
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ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。



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過去のメルマガから⑫『私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(2)』

2019年08月16日 | 自分の体験からの気づき
閲覧が出来なくなっている過去のメルマガの記事の主要なものを抜粋して載せていっています。今まで一部の人にしか話していない、伝えることを躊躇していたものもいくつかありますが、このブログでも公開しようと思い立ちました。


ただし、前に書いた文章ですので、今の私の表現とはもうすでに違っているところもありますし、補足、追加したいところもありますから、その部分については加筆していきます。


よろしければ、お読み下さいませ(^_^)


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メルマガ しあわせに生きるための「トラウマ心理学」
私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(2)2018年2月

前回、「地球は体験のためのテーマパークであり、人間(地球人)に与えられた(体験したい)アトラクションで、それには限定があって、振動数の遅い肉体というものを持ち、男・女や右脳・左脳などの二極に分断された設定の中で生きる」とお伝えしました。


ここに、もう一つお伝えし忘れていたことがあります。それは、無限の根源的エネルギーの世界には存在しない、肉体は有限で「死」というものがあることも設定されているということです。これは時間という概念を越えた無限の世界からすれば、とても独創的でユニークな体験になることだと思います。


そして、私が、我々人間が「体験する」ため今ここに存在していると思い始めたのは、心理療法の現場でのたくさんの経験から以下のような流れに気づいていったからです。


子供は、幼少期の家庭環境で“自分が満足するやり方での愛情”をもらえないことが度重なるとトラウマ(心的外傷)を負い、その時に感じた感覚や感情を感じるとその家で生きていくことがさらにつらくなるので、感じないように意識をそらせるためにぼ~っとした状態を作り出し「解離」をします。


この解離は、生存本能として脳が司ってその感情に焦点が当たらないようにしっかりと隠すための、子供の頃のその渦中においては絶対に必要な機能です。


「子供は愛情を自分が満足するやり方でもらえないとトラウマを負う」という理論からいうと、トラウマを負っていない人はほとんどいません。ですから、人間はみんな多かれ少なかれ解離をしている存在だといえます。


現に、セッションや講演会などでも、あるイメージワークを使って心の内を見てもらうと、ほとんどの人がその人独自の解離のパターンを持っていることに気づいて驚かれます。


それから、セッションでクライアントさんが自分を癒していく時に、置かれていた幼少期の環境がかなり大変だった人は、なかなかそのトラウマを手放そうとしませんでした。


それはその方がダメだということなどではまったくなくて、そこには幼少期からずっとその状態が普通だったので、そのようなものが処理できるとは到底感じていないし、『トラウマを負ったその時の感覚と感情に触れていくのが怖い』という思いも強く形成されているからです。


それでも、次第にセッションを安全に安心感を感じながら進めていき、インナーチャイルド(トラウマを負った子供の頃の自分の感覚と感情の部分)を癒すと、そのようなクライアントさんも見違えるように楽になっていかれます。


しかしながら、この仕事を始めた初期の頃には、そんな怖れを持った自分でも癒されていくということが実体験でわかられだしても、過去のトラウマに固執して完全に手放そうとしない人が多かったのです。


ではどうしたら、こういったとても強いトラウマを負っているクライアントさんの癒しをより進めることが出来るかと考えているうちに、そういったクライアントさんの心の内には『自分が悪い(親から愛されないのは自分が悪いから)』という自分に対しての「罪悪感」があるということに気づきました。


特に、幼少期の環境が大変だったクライアントさんの心の内には、それが大変強く巣食っていました。


子供(人間)は多かれ少なかれみんな、こういう罪悪感を心の奥に持っています。この罪悪感が強い場合には、楽になったり、しあわせになることを自分に許さないようになってしまいます。


このような強固な罪悪感は、インナーチャイルド療法だけではなかなか取れにくいもので、こういうものを解放していくのに有効なのが(前世というがあるかないかは別にして)前世療法だということに気づきました。


前世での出来事からも、多くの人が自分が悪いという思いを今世に持ち越していることがわかりました。(これも実際の前世からのものかどうかは関係なく、このような手法できちんと焦点を当てると罪悪感が消えてしまうという事実があるのです)


前世療法でこの罪悪感が解放されると、自分に許しが出て心の内を止めるものがなくなり、その後インナーチャイルド療法によりアプローチすると、心の奥深くの幼少期から抑圧してきた感覚と感情を素直に心の底から感じることができはじめます。


この部分が解放されると、その人はまるで別人のように生き方がよりよく変わっていきます。

(ただし、ここで重要なのは最終的な癒しを行うことが出来るのはインナーチャイルド療法においてだということです。なぜなら、今現在の心と体に直接的に強く影響を与えているのは、幼少期からの出来事によってだからです)


そして、さらにわかったのは、この前世からの罪悪感が次に生まれ変わる動機になるということです。ですから、罪悪感=カルマ(業)といえます。


ただこれは、地上で人間として生きている間に自分で持った罪悪感ですから、天からの罰などではなく(そのようなものは存在しません)、自分からそれに見合った体験をしようとまた人間として生まれてくることを選ぶということなのです。


ですから、罪悪感並びに感情をきちんと処理しないでおくと、それがカルマとなって(自分からして)しまう可能性が高くなります。


『自分が悪い』という罪悪感は一つの基本的なものですが、私は長年心理療法の現場で、多くのクライアントさんが前世の出来事から持ったそれぞれのその動機に気づいていくところに同席をさせて頂いてきました。これらの流れは、そこからの実体験でわかったことです。


少しわかりにくいと思いますので、恥ずかしいですが私のことを例に出して、このことを具体的に説明してみますねf(^_^;)


私は両親と3歳離れた兄がいる家庭に生まれました。父は社会人野球の選手で県下でも大変名が知られている有名人でした(高校野球の地区予選のラジオ解説などもしていたそうです)。兄は今でもそうですが、子供ながら周りの子らの目を引く何か独特の強い存在感を放っている目立つ子でした。


残念ながら、この父は私が4歳の時に亡くなりましたので、私には父に関する思い出がほとんどありません。


私がこういった療法の勉強の時の実習で、3歳のチャイルドが出てきて、その子から伝わってきたのは、『パパ大好き!』→『パパはお兄ちゃんをかわいがって、ボクのことは嫌いなんだ』→『嫌われるのは自分がかわいくなくて、悪いからだ』→『この家にはお兄ちゃんがいればいいんだ。ボクはいてもいなくてもいいんだ』→『自分はいる必要のない子。いてもいなくてもいい子』→『そんな自分は嫌いだ!』という思いでした。(これが私の自己イメージになり、思い込み・観念になっていました)


まさかまさか、3歳の記憶はなかったですし、3歳の時点でこのような流れでこんな思いや決定事項を持ったことなんてまったく気づいていませんでした。本当に本当に驚きました。

(これが、私がいう「頭の言い分」と「心の言い分」は違うということです。また、「顕在意識」と「潜在意識」の思いは違うということでもあります。さらには、こうやって私も3歳の時からしっかりと「解離」をしていたのです。これは、こういう療法を行わない限り、一生気づけなかったことだと思います。今も我ながらラッキーだったと思っています)


そして、この子からさらに伝わってきたのは、大好きな父から「愛されない深い悲しみ」でした。これが中心の(原初的な)感情です。


それがまったく自然にリアルに伝わってくると、もうこの子がかわいそうでいとおしくて、この頃から自分が嫌いな私でしたが、チャイルドの心の奥の感情が伝わってくることで、まったく自然に嫌いだったはずの自分を抱きしめて大号泣しながら、伝わってくるそのままの思いを受け止めることが出来ました。


受け止めていると、大人の私の中に得も言われぬ安心感、幸福感が猛烈にわき上がってきて、心の底から癒されました。


こうやってチャイルドを癒すとその瞬間から、私の中に3歳からその年齢までずっと持っていた『自分が悪い』、『いてもいなくてもいい自分』、『目立たない力のないダメな自分』などという思いがまったく無くなってしまったのです。


ここから、私の中ではもう別人になったように心地よく自分に自信も出て、人生が劇的によりよく変わり始めました。


それからも、自分の中で気になる思いや感情が出てきた時には心の内を覗いて処理していましたが、ある時、何か自分の中のさらに深いところに、重たいものがあることに気づきだしました。


このタイミングではわかっていませんでしたが、さらに中心にあるものが消えるために浮いてきたのです。これが浮き上がってきて、身体反応も出てきたので腰を据えて、自分のセッションのやり方でその部分にアプローチしようと思いました。


感じていくと、これは前世からのものだとわかりました。


出てきたのは、前世である国の国王か元首をしていて、よりよい国を造ろうと思う思いが強過ぎて、理想の国を造るのにそぐわない愚かな民と感じる人々を粛清して、弾圧したり殺してしまったことに気づいたのです。


このために前世の私は、その人生を終えた後に強烈な罪悪感にとらわれました。(これも、前世があるかないかは別にして、私の中からこのような想像もしていなかったその思いや感覚が自然にはっきりと出てきました)


前世においても、ネガティブな感情を処理しない限り、脳の機能としてそれを隠すために解離をしてしまうので、こういうものは死んだ後になって初めて強烈に感じ始めるものだということもわかりました。

(たぶん、これが死ぬと閻魔大王に閻魔帳で生前の罪状を言い渡されるという表現になったのではないかと感じます。また、走馬燈のように今までの人生が思い出され、その時の思いや感情を強烈に感じるというのもこういうことなのだと思います)


伝わってきたのは、『たくさんの人たちを自分の行き過ぎた理想で抑圧したり、殺してしまった』→『自分は悪い存在。そんな自分が人々の中心に立つのはダメだ』→『目立ってはいけない!権力(力)を持ってはいけない!』→『自分も上から抑えられることでそのつらさを味わおう』という思いを強く持ったことがわかりました。(これが過去世から持ち越した思い込み・観念です)


さらにわかったのは、前世で持ったこの罪悪感が私のカルマとなって、今世の環境を選んで生まれてきたということです。


だから、特別な男性性を強く持っている父と兄(役割としても、父親は社会に出て行く存在で、長男は社会に生まれたことを知らしめてもらえる跡取りとして大事な存在)から愛されず、認めてもらえない、『ダメな自分』、『無力な自分』、『目立つ立場にはなれない』などという本来の自分の力を発揮しないようにするための思い込み・観念を持たざるを得ないというか持つための環境と立場をピンポイントで選んで生まれてきたのです。

(「罪悪感の強さ」と「選ぶ環境の大変さ」は比例しているのだと感じます。ただし、環境を選ぶ根底には、「それを体験したい」という純粋な欲求も存在しています。ですから、しあわせな心地の良い人生体験を選ぶ人もいます)


何度もいいますが、これは罰では無くて、自分の思いで自分から進んで選んだものであるだけです。自分で選んできたものですから、『もうこの体験は味わったので手放そう。もう手放していい』と感じて、心の底から選択を変えようと思えば(思えると)人生は思うように変容していきます。


私はこのような流れに気づき、心(魂)から理解してこの部分を癒してからは、『よし!世のため人のため、この国をよくするため世界をよくするために、自分がわかったことをお伝えさせて頂こう!!』と自然に心の底から強烈な思いが湧き上がってきました。これが、かつて国王、国家元首だった時からの純粋な思い、心からの願いだったのだと今感じます。


そう思っていると、会ったことが無い人から電話がかかってきて、数百人の人が集まる大きな講演会の依頼を受けたのです。そこから不思議なことに、自分が望んだ時期と回数通りにそういったご依頼を頂けるようになりました。


ただし、本当にびっくりするほど、自分が思った通りの流れになるようになりましたが、思い方、思考に気をつけないと良いものだけでなく悪いものもすぐに実現するようになります(-_-;)


私の体験のみではなく、たくさんの方々が目の前で見せて下さった経験で、人間(魂)は自分が望む体験をするために、自分から選んでこの地上に降りてきたということがわかりました。


しかしながら、我々魂がこの地上に降りてきた当初は、こんなにも強いトラウマ的体験や重苦しい体験をしようと望んでいなかったのではないかと感じるのです。


では、一体ここには何が影響しているのでしょうか?・・・・・・


ここに、人間という存在のある特殊性が深く関係していることがわかりました。


〈続く〉

※前世についての理論には、本当はもう少し複雑というか少し違う捉え方があるのですが、長くなってしまうのと本筋は違わないのでここでは省略しています。

◆編集後記

インナーチャイルド療法と前世療法はセットで行っていくべきものだと感じています。(ただし、アカデミックな公的な分野に入っていく時には、この前世療法がネックになるのも事実です)私の場合には、一回のセッションの中でその二つを流れの中で組み合わせながら進めさせて頂くこともよくあります。そうすると、劇的にネガティブな自己イメージや思い込み・観念が外れ、原初的な感情の解放が出来るようになります。


長年の経験から見えてきたのは、人間の心の内には本当に様々な『思い込みや観念』が作り上げられていること、過去から持ち越している『感覚』や『感情』もたくさんたくさんあることです。しかしながら、お伝えしたようにこれも『解離』によってずっと抑圧され隠され続けています。実はほとんどの人が、この解離によってフリーズしたままの状態だといえるのです。


それぐらい、育ちの環境というものは人間にとって、最重要に大切なものだということがわかりました。今世においても前世においても、根本はその生での育ちの環境の中からトラウマを負い、ネガティブな思い込み、観念を持って、心の奥に「不安と怖れ」が棲みつくことで、無意識の内にも、とにかく自分の身を守ることを中心にして生きるようになり、そのための行動でまたトラウマを負い、それらをさらに強化して行ってしまったのです。


大きな視点で見ると、体験するためにではあるのですが、そこにはまりすぎてしまうとそのこともわからなくなって、その人生にただただ翻弄されてしまいます。人間存在とそのアトラクションテーマはその特殊性ゆえに、変な言い方ですが、「宇宙の中でも大変珍しく貴重なものなのだろうなぁ」と感じています(*^_^*;)
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過去のメルマガから⑪『私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(1)』

2019年08月15日 | 自分の体験からの気づき
閲覧が出来なくなっている過去のメルマガの記事の主要なものを抜粋して載せていっています。今まで一部の人にしか話していない、伝えることを躊躇していたものもいくつかありますが、このブログでも公開しようと思い立ちました。


ただし、前に書いた文章ですので、今の私の表現とはもうすでに違っているところもありますし、補足、追加したいところもありますから、その部分については加筆していきます。


よろしければ、お読み下さいませ(^_^)


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メルマガ しあわせに生きるための「トラウマ心理学」
私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(1)2018年1月

いつも、この拙いメルマガをお読み頂きまして、ありがとうございます。


前回、「私たちの魂は天と一体であった」とお伝えしました。このことは、臨死体験をした方の多くがその体験を語る時に、このような感覚を味わったと証言しています。


そして、「天と一体である」ということは、「私たち個々も元々は一体である」ということであります。


ずいぶん前に、ブログの方でも詳しく紹介していますが、ジル・ボルト・テイラー博士という脳科学者が、自身の左脳に出血が起きて4時間で左脳の機能が失われていき、右脳の活動のみが主体となりました。


脳科学者として、その経過を一部始終観察をしたそうです。その時に、博士が体験したことを講演の中でこう話しています。(著書では『「奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき」新潮文庫』があります)


『私たちの右半球は、すべて現在のこの瞬間にかかわっています。まさに今ここです。私たちの右半球は、画像で考え、 体の動きを通じて身体で学びます。情報は、エネルギーの形をとって、われわれのすべての感覚器官を通って、同時に流れ込んできます。(中略)私は、右半球の意識を通じて、私を取り巻くすべてのエネルギーと繋がったエネルギー的存在です。私たちは、一つの人間家族のように、右半球の意識を通じて互いに繋がったエネルギー的存在です。そしてまさに、今ここで、私たちすべてはこの惑星上で兄弟姉妹であり、世界をより良い処にするためにここにいます。この瞬間、私たちは完全です。私たちは全体です。そして私たちは美しい。・・・』


そう。我々は元々一つのエネルギー存在だったのです。


では、「なぜ人間には、物事を論理的・分析的にしか捉えなくて、意識を過去や未来へと分断してしまう左脳があるのだろうか?」という疑問が浮かび上がってきます。右脳が中心に働いていれば、いつも幸福感だけを感じられて、争いなどなくなり、人生はよろこびでしかなくなるのに・・・。


この疑問に対して、私の今までの経験や自分の直感的感覚から導いてきた仮説は次のようなものです。おとぎ話として聞いて下さっても結構です(^_^)


我々は大いなるエネルギー(天)と一体で、その根源的エネルギー自体でした。


根源的エネルギーには、まったくゆらぎがなく、人間世界での表現でいえば、絶対的安心の中で、平安であたたかく、静寂で、心地よく、心配や不安や孤独などという感覚など微塵もない、たおやかな世界でした。


この次元世界では、時間というものがないので、この心地よさは無限に続くのです。人間世界での表現でいえば、気温の安定した、暖かな湿度の低いさわやかな気候の国で、お金も充分あり、きれいな居心地のいい住居で、何の心配も不自由もなく、いつもいつもしあわせを感じながら生きている、そんな状態といえるでしょう。


感じてみて下さい。この状態が未来永劫永遠に続いていくのです。


いくら心地のいい状態でも、それがず~~~~っとず~~~~っと続いて、そうでない他の感覚を味わうことがないのです。もしも、寿命が1000年あって、ハワイなどの心地のいい土地で何不自由なくずっと暮らしていたら、たまにはちょっと、他の土地や環境も体験してみたいと思うのではないでしょうか?それが根源的エネルギーにおいては、1000年どころではなく、永遠に・・・という感じです。


そのような感じで、根源的エネルギーはもう少し違う感覚も味わうことに決めました。そして、別な体験もすることでさらに自分を進化させ成長しようと思いました。


そのために、自分の意識を分裂させ分身をつくり、一度に色んな体験が出来るようにしました。


その個々の意識は、元々制限のないところにいるので、自分の自由意志で好きな体験をするために自分が味わいたい環境、状況を作り出して、そこでそれを味わいました。


分身たちが自分が体験したくて体験した経験や感じたことは、つながっている根源的エネルギーに自動的に伝わり、根源的エネルギーの体験値、経験値はどんどんと上がってさらなる進化、成長が行われます。


こうして根源的エネルギーの目的は、自身の更なる進化、成長になり、そのために、分身をさらに増やしていきました。


その中で、大変に好奇心旺盛な魂たちが、地球で人間として生まれてくることを選びました。それが、私たち地球人です。この私たちの星、銀河系太陽系第三惑星の地球は、他にはない体験が出来る特別な星です。


それは、地球の人間という存在は、肉体という振動数の遅い物質を持ち、それにより根源的エネルギーや他の分身たちからも隔離されて、分離して、また、男・女、右脳・左脳、善・悪、N極・S極、+・-などの二極性でも元々一つのものが二つに分断された環境の中で生きるのです。


そして特に、摩訶不思議と思える、感情というものも持っています。


これが地球というテーマパークのシステム、形態であり、地球人に与えられた(体験しようと思った)アトラクションではないかと感じています。


私たちは、この滅多にない特殊性を味わい、体験するために、この地上に降りてきた希有な存在なのではないでしょうか。


何の根拠を持って、このような荒唐無稽な仮説を説くのかは、そこに長年心理療法の現場での経験からわかった、こうとしか思えない理由があったからでした。

〈続く〉
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過去のメルマガから⑩『天のエネルギーとつながる』

2019年08月14日 | 自分の体験からの気づき
閲覧が出来なくなっている過去のメルマガの記事の主要なものを抜粋して載せていっています。今まで一部の人にしか話していない、伝えることを躊躇していたものもいくつかありますが、このブログでも公開しようと思い立ちました。


ただし、ずいぶん前に書いた文章ですので、今の私の表現とはもうすでに違っているところもありますし、補足、追加したいところもありますから、その部分については加筆していきます。


よろしければ、お読み下さいませ(^_^)

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メルマガ しあわせに生きるための「トラウマ心理学」
天のエネルギーとつながる2017年10月

今回のメルマガは、もしかして宗教的に捉えられてしまうかもしれない内容ですので、最初にお伝えしておきたいことがあります。私はどの宗教にも宗教的な組織にも関係しておりません。ここに書いている内容は(今までも同じですが)、あくまで私が個人的に自分の直感と感覚で感じたことを率直に書いているだけです。


今まで、何人もの本を出版されている方や講演会やセミナーを数多くされているある程度名が通っている方にお会いさせて頂いてきました。その私自身の経験でいいますと、本を読んでよかったと感じた人ほど、なぜかお目にかかって、その人柄やエネルギーを感じてみると本の印象とは違う人が多かったです。


ある人は、生き方に関する本がベストセラーで、現職の肩書きも大変立派で、名前も通っていてたくさん著書を出されている方でした。お目にかかると人柄は誠実で一生懸命な好感の持てる方で、後ろにおられる守護霊さん(突然の流れでゴメンナサイf(^_^;))からも「みんなをよりよくしよう!!」という感じの思いが強く伝わってきました。


しかし、それがちょっと強制的な感じで「これこそが善だから、従いなさい!」という感じのエネルギーでしたので、思わず、「人間には自分で体験を選択する自由意志があるので、強制するのはやめてほしい!」と心の中で思いました。この時に私に見えたイメージは、その人の守護霊さんから天女の白い羽衣のようなやわらかい布がふわふわと幾重にもなって、会場の一番後ろまでいってその場にいる全員を包んでいるものでした。よりよいと感じるものであり、やわらかく心地のよいと感じるものでも、人の自由意志を阻害するものは押しつけでしかないということを学びました。


またある人は、自分が人体実験者になって超常的な現象を論理的に研究している人で、著書からはよい研究者だなあと感じていましたが、お目にかかると、この人の奥からはものすごくにごった危ないものを感じました。


こんな感覚はこの時にしか感じたことがないのですが、その人のエネルギーを感じるとエネルギー自体がずっと離れた他の空間、次元へとつながっていて、その次元にいる存在たちは魑魅魍魎という表現がピッタリな感じのとてもおどろおどろしい存在で、私が気づいたことを察知して「見たな~!!」という感じで私の方へ来ようとしました。ビックリしてすぐに感じている感覚を遮断すると、こちらには来なくて安堵したことを覚えています。


世界は目に見えるものだけでなく、見えないほんとうに様々な存在や次元へとつながっていることに気づかされた出来事でした。このように、その人に直接お目にかかかることで感じた経験は色々ありました。


その中で逆に、この人は本物だなと強く感じた人は今までに二人おられます。


【他の記事でもご紹介していますが】お二人とも私が心理の仕事を始める前、25年ほど前の同じ頃に存じ上げた方でした。なぜか面白いことに、お二人ともに今年はじめてお目にかかりました。


お一人は、姫乃宮亜美(ひめのみやあみ)さんといわれる方です。


セミナーに参加させて頂いて伝わってきたエネルギーは、ものすごくやわらかく、同時に強く、「愛」のエネルギーが届きました。まったく強制的な感じはなく、人々をありのまま誠実に愛する無条件の愛のエネルギーでした。姫乃宮さんは「聖母意識」と表現されていますが、天、高次のエネルギーと自分をちゃんと持ちながら、しっかりとつながられているとても素晴らしい方でした。


【ネットでは2019年6月29日より、『聖母意識メッセンジャー・姫乃宮亜美のLiving With Grace』というサイトを開かれています。毎日更新されているエッセイが無料で読めます。エネルギーが乗った毎回素晴らしい内容です。ご興味がある方はご覧下さいませ。過去の記事から順番に読まれることをお勧めします。】


もうお一人は、立花大敬(たちばなだいけい)さんという方です。


この方は、最初講演テープを知人からもらい聞いていると、何と力の抜けた我欲のまったくない人だろうと驚きました。著書も何冊も買って読みましたが、本からはやわらかい、やさしいエネルギーが伝わって来ました。講演会に参加させて頂いて直接伝わってきたエネルギーは、男性ですがやはりやわらかい、やさしいエネルギーでした。


立花さんは、有名進学校の教員をされていましたが、教員になる前は定職に就かず禅の修行をされていて、42才の時に行き詰まり、伊勢神宮で「私はこれから自分のために生きることをやめます。何か、どんなに小さなことでも構いませんから、神様のためになるような役割をお与え下さい。もし、"お前には神のための役割など果たせないよ"とおっしゃるなら、わたしはもう生きている意味がないので、すぐにでも命を取り去って下さい」とお祈りした途端、天と地を結ぶエネルギーが出現して、自分がその中にいるという不思議な体験をされてから生きづらさが一気に消えて、大変難解な禅の本もスラスラと内容がわかるようになったそうです。


今年、この立花さんが『開運!まいにち神様』という本を出されました。古くから伝えられている祝詞(のりと)の大祓詞(おおはらえのことば)についての本でした。すぐに読んでみて、私は祝詞も神道(しんとう)にも余り興味がありませんでしたが、あの立花さんが勧められているので声に出して唱えてみました。すると、なんだか心地のいい感じがしました。私の場合、数日唱えていると、なんだかわかりませんが確かにエネルギーが上がって来ていい感覚です。この感じは、自分の心がよろこんでいる時の感覚でもあります。


古くから伝わる祝詞はいくつも存在するようですが、毎日神社で唱えられている祝詞は大祓詞だけで、天皇が儀式の時にあげるのもこの祝詞だそうです。


これは人間の罪、穢れ(けがれ)を払うための祝詞ですが、私はトラウマも罪、穢れだと感じています。トラウマ的捉え方では、罪は「自分が悪い」という自分で持った罪悪感ですし、穢れ(=氣枯れ)はそのため「自分を愛せない」ことからの生命力、エネルギーの低下だと感じています。


実は私たちの魂は、この罪、穢れさえも味わって体験しようとこの地上に降りてきたのですが、そこにはまり込んでしまって抜け出しにくくなってしまったのだと感じています。


このメルマガや私のブログにもよく書いていますが、今地球の波動がより軽やかなものへと急激に変わろうとしています。ですから、人間が早く罪、穢れやトラウマや囚われから抜けて、自分から軽やかになることを望む人は(自由意志で望まない方もおられますが)、どんどんと軽くなっていった方がいい時が来ました。


ただ、人それぞれに思想、感覚、感性または地球での体験項目が違いますので、それぞれの人に対応するために、軽やかになるための様々な方法が世に存在しています。しかし、それでも軽やかになっていくスピードが遅いので、どうも天(大いなるエネルギー、大自然のエネルギー、宇宙エネルギー)がいよいよ動き出して、人々がより早く軽やかさを取り戻すためのサポートをはじめたように祝詞を唱えていている時に感じました。


元々我々は天と一体(天の一部)でありましたが、様々な体験をするためにそこから分離してきたと感じています。これは立花さんも同じことをおっしゃっています。


ですので、天は我々の魂の親だといえます。今、この魂の親が「いつもどんな時もすべてを愛しているよ」と、我々にさらに強く、無条件の愛を送ってくれています。しかし、この世には自由意志がありますので、天は強制的につながらせようとはしないのです。


よりつながりたい人は、まずは、ただつながりたいという思いを持つといいと思います。そして、行動したいと感じるなら、大祓詞を唱えてもいいですし、神社に参るのもいいですし、ただ心の中で天に向かって「よろしくお願いします」と伝えるだけでもいいと思います。


大切なことは、やってみたいと感じる方法、あるいはやってみるとうれしい、心地いいと感じた方法をとればいいのです。もう時代が変わったので、例え、苦しみから逃れるためにはじめたことだとしても、それが心から楽しくよろこびを感じられることなら、それを行うことで人生はよりよい方向に向かうようになりました(^_^)


とにかく、よろこんだもん勝ち、みたいな流れになってきた感じがします。でもそれは、「心の奥から純粋に感じるよろこび」という限定が付いていますが・・・。


土に足を着けて、アーシングして大地、地球とつながり、やりたいやり方で天とつながり、そして天と地の間で、自分が心から楽しくよろこびを感じられることを自分のために行っていると、どんどんとよりよい流れに乗っていけます。


自分のためにと自分を心地よくすることに意識が向かない、それを自分に許せない、あるいはその方法がまったくわからないという方は、自分が受けたいと思うセラピーで、まず自分を癒して下さい。


どうも、時代は少し急いでいるように感じます。あせらず、一人一人がしたいと思うやり方でどんどんと軽やかになっていきましょう!!


あなたのおしあわせをお祈りいたします。


◆編集後記

天とつながろうとした時、あるいは神社に行った時などに大切なことは、「すがる」のではなく「つながる」を意識することだと思います。「心地よい、楽しい、よろこぶ」という感覚は、「すがる」からは出て来にくくて、「つながる」からは出てくる感じがしますよね。


「すがる」は不安、怖れ、愛されたい(満たされたい)から出るものだと思います。多くの人は、本物と感じる人や物を見つけた時には「すがる」という傾向が強いと思いますが、「すがる」のではなく、その奥にあるものを感じてそれに「つながる」といいと思います。本物の人でいうと、ただその人のそばに行って安心するために「すがる」のではなく、その人が言われていることに「つながり」それを実行するということだと思います。
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ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。



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