閲覧が出来なくなっている過去のメルマガの記事の主要なものを抜粋して載せていっています。今まで一部の人にしか話していない、伝えることを躊躇していたものもいくつかありますが、このブログでも公開しようと思い立ちました。
ただし、前に書いた文章ですので、今の私の表現とはもうすでに違っているところもありますし、補足、追加したいところもありますから、その部分については加筆していきます。
よろしければ、お読み下さいませ(^_^)
----------------------------------------------------
メルマガ しあわせに生きるための「トラウマ心理学」
『私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(4)』2018年4月
私は今までの人生の中で、様々な自分を対象にした人体実験による実体験をしてきました。我ながらかなり特殊な体験をしてきている人生だと思っています。
これらのことは本に詳しく書こうと思っていますが、私の最大の人体実験は24、25歳頃に行った『すべての人から嫌われる』という立場を積極的に体験しようとしたことでした。
こんなことは普通は誰もしないことですから、「そんなことをするなんてどうかしているんじゃないか!」と思う方が多いと思います。ただこの根底には、そうなろうと思ったある強い思いがありました。
その頃はサラリーマンをしていて、仕事においては順調で会社の部署で一緒に働いている人たちからも、得意先の方たちからも、有り難いことにみんなから慕われてとてもとても大切にして頂いていました。
しかし、私の内側ではそのことで満たされることはなく、その中に身を置いている内に、心の奥から思いが湧き上がりまじめたのです。
『自分を愛してくれる相手を愛することは、大変にたやすくて簡単だ。だから、自分を嫌う相手を愛することができた時にこそ、相手がどのような人であれ、誰をも愛する無条件の愛が私の中で完成される』と、精神的・霊的にさらに成長しようというある意味宗教的ともいえる思いが出てきたのでした。
今度は逆のそういう立場に身を置いた時の自分を見たい、体験したいと、実験的に一端自分を嫌われるという立場に身を落とすことを決めたのです。
だけど、いつもいいますように、何かに過剰に反応するときには必ずトラウマの影響がありますので、やはりここにも私のトラウマが関係していました。
幼少期からのトラウマがあると心の中心に深い安心感がないので、自分以外の外側から受け入れてもらって、どんなに心地いいと感じるやり方で扱われ、それをどれだけたくさんもらっても、心の表面上はその時は埋まったように感じますが、心の内側ははまったく満たされないということも、この時の実体験からハッキリとわかりました。
人生は心から強く望んだものは必ず実現しますので、誰からも嫌われるということもしっかりと実現しました。しかし、その体験は自分が予想していたよりも大変長い期間になり、とても苦しみました。
いざその状況になると、あれほど自分が望んだことだったはずなのに、大変に傷ついて自分を嫌う人を受け入れて愛するどころか、その人たちに怒りが湧き上がるようになってしまいました。
これは社会人になるまでの人生でも、とりあえずは大きな問題は無く周りから受け入れてもらえるという立場を体験してきて、その辺りの怒りを感じた経験がほとんどなかった自分からは考えられないことでしたので、そのことでも悩みました。
結局ここには、「誰をも無条件で愛せるようにならなければならない」という思い込み、観念が存在していて、その根底には「深い精神性に至らないといけない」という思いや「それがちゃんとできない自分はダメだ。価値がない」という自分への罪悪感や自己否定感が存在していたのです。
その当時にはまったく気づいていませんでしたが、私の直感的主観では、ここには幼少期からのトラウマだけでなく、キリスト教的な自分に難を与えるという「受難」に関係した過去世からのトラウマの影響もあり、この人体実験をする前に、もうこういう思いで自分を責めていたということもわかりました。
最初から自分が自分自身を否定して愛していなくて、自分のありのままを受け入れず味方にならずに、自分が自分を責めて嫌っているのに、その上に人から
嫌われるという状況が重なってくると、次第に周りを敵にしてしまい怒りの思いが出てきていたことに気づきました。
私は自分自身(インナーチャイルド)に対して「もっと、しっかりと成長しろ!!」と、どこかで突き放して、見捨てていたのでした。
大変苦しみましたが、この体験をしたことで、『ありのままの自分を受け入れ愛し、まず自分が自分の味方になる』ことの重要性というか、その重大性が心の底からわかりました。
自分を愛していなければ、本当の意味で周りの人を愛することは出来ません。無条件の愛を与えるべきは、まず自分自身だったのです。自分が自分自身とつながらないと、自分らしい自分の人生をつくり上げることも出来るはずがありません。
本当の理想は、人間の人生でベストなのは、幼少期に親から無条件の愛をもらえることです。まずそれがあれば、子供の心は安定し、培われた深い安心感は一生心の底に定着します。
それがなければ、人間の心は安定せず「ネガティブな感情」の影響をモロに受けてしまい、生存本能が過剰に活動してしまい、戦うか、逃げるか、フリーズするかになります。
また、そのために不安を感じながら自分の身を守ることが主体となって、安定した精神状態で人生を送ることが出来なくなってしまうことがわかりました。
これが幼少期からであれば、どれだけその子は心を痛め、「怒り」と「恐怖」と「悲しみ」の人生を生きていくしかなくなるだろうかとその苦しみがしっかりと理解できるようになりました。
人間にはこういう性質があるため、その部分を処理していくことが出来るインナーチャイルド療法(や前世療法)という手法は大変に重要なもので、これがインナーチャイルドを癒すことの必要性であり、この療法の存在意義でもあります。
私はこの人体実験からの人から嫌われることでの「怒り」と、その奥にある傷ついてきた「深い悲しみ」をインナーチャイルド療法で癒しました。
そうすると、やはり嫌ってくる相手が自然に気にならなくなりました。同時に怒りを感じることも次第に減っていきました。
すると、面白いことに嫌ってくる人もどんどんと減っていきました。自分が自分を受け入れて愛していくことで、それと同じように周りが受け入れてくれるようになります。
『自分を扱うように周りから扱われる』というのが法則であるということも、この人体実験で改めてよくわかりました。
すべては自分への向き合い方が、外側に反映しているだけです。外側に存在するように見えたのは、ほんとうは自分自身だったのです。
人間はトラウマを負うことで、自然にネガティブな感情や思いを感じるようになりますが、その闇ともいえるネガティブな感情を隠すことなく、嫌うことなく、闇としてありのまま受け止め受け入れると、その闇は自然に光へと変わっていきます。(そう!ここも自分の中の闇への無条件の愛です)
そうすれば、この光は自分の内側から出てきて輝き出しているものですから、外側から光を当て続けなくてももう消えることはなく、たった一人でいても心の底からの安心感がいつもどんな時もそこに存在するようになります。
この三次元世界は二極でできていますので、光ばかりになれば闇と感じるものは悪となり敵とみなすようになります。また、闇ばかりになっても光と感じるものを嫌い敵にしてしまいます。
この安心感は光と闇、その二極の中で、その二つをありのまま全部ひっくるめ包括したその真ん中のゼロ地点(中庸・中道、±0)に静かにバランスよく安定しながらたたずんでいるという感覚だと表現できます。
大変だった闇も処理しているので、闇からのよりよい経験だけが残っていて、その闇と光の間(±0、ゼロ地場)に存在しているという感じです。
今、私の中にもそのような感覚があります。これはとても心地のいいものです。何があってもなくても、もうこの感覚は消えることはないということを静かに感じています。
人体実験中は予想外のことが起きて大変だったですが、その体験があったおかげで様々な心の反応パターンやその奥にある感情に気づき、それを受け入れ癒して、このゼロ地点の感覚を心から味わうことができるようになりました。
目覚めた人を意味するブッダと呼ばれた、ゴータマ・シッダルタさんは、どのようにしても「この世は苦でいっぱいである」ので、そのことを認めなさいといわれました。これが彼が悟った哲学の一つです。
今も昔も、この苦である「病気があること」、「老いること」、「死ぬこと」、「悩みがあること」は、人間から消えることなく続いていきます。ということは、はじめは違っていたと思いますが、人類史のある時期から、「苦」こそが魂が人間存在を体験するときの一つの大きな体験項目となっていったのだと感じるのです。
(なぜなら、前にも書きましたが、我々魂が天と一体であった時には苦というものなどはまったく存在しなかったのですから)
シッダルタさんは、人間が生きるということはそういうものだから、「こだわらなければよい。受け入れなさい!」と悟られたのだと思います。
その後に生まれた救い主の称号の「受膏者」を意味するキリストと呼ばれた、ナザレのイエスさんは、人生とはそういうものだから「そのまますべてを愛したらよい。愛しなさい!」と悟られたのだと思います。
いずれにしろ、『苦をそのまま見て受け止めよう!』というのがお二人の悟りのその根底に流れている哲学であると感じるのです。
苦(闇)は抑圧したり抵抗すると余計に暴れだします。それをありのまま受け入れ受け止める(愛する)ことではじめて、苦は苦でなくなっていきます。
しかし、今まで人類はその苦と戦って、そこから様々なネガティブな感情が発生していき、人生が生存本能からの身を守るための行為となって、死後そこから後悔や罪悪感が鮮明になり、体験しきれなかったという未練、後悔やもっとしっかりと体験したいという欲求などの思いが出てきていたのだと感じます。
それをカルマ(業)として、また肉体に生まれてくる動機にしていくというサイクルに、感情を処理しないことで人類はどんどんとはまっていったのだと感じています。
人間は感情を持ち、強くその影響受けるという特質があるがゆえに、その処理をしないことで解離(感じないように、わからないように)して味わい切ることが出来なくなり、魂の当初の計画よりも転生する(生まれ変わってくる)回数がどんどんと増えてしまったのではないかとも感じています。
私は様々な自分の人体実験経験からも、数多くの心理療法での臨床経験からも、ネガティブな感情(闇)に向き合うことでありのままの自分を愛すること(光)ができるようになることをもうゆるぎなく完全に確認しました。
そうすることで、人間の心は安定し、元々あった共感する能力が発露し、我欲から離れ、自己防衛から外れ大局を見ることができるようになります。さらには、人類主導の地球生態系システムとの共存、共栄が可能になると確信しています。
そして、人間本来の精神性や霊性を発露する鍵も「過去から持ち越している感情を解放する」ということにあります。ただし、そこで重要なのは、ただ解放するのではなく根本・根源からの解放なのです。
悟りとは、解離せずにありのままの事実に正面から向き合い、認識して、受け入れることではないかと思います。それはイコールすべてをありのまま見る「目覚めた人」になることでもあると感じるのです。
実は、ほとんどの人が必要な生存本能としての反応なのですが、子供の頃に「対処のしようがない心地よくないと感じること」から、身を守るためにそれを感じないように自然に解離をしています。
しかし、大人になってもそれを処理しないままでいるとその状態がそのまま続いていて、言葉が悪いですが意識の一部が「眠ったままの状態」にあるといえます。
ここには、子供の頃からはまり込んでしまっているので、自分ではそのことに気づくことは難しい(気づかないようにしている)のですが、本当はそこから人生の根幹に関わる大変大きな影響を受けているのです。
私の活動が、多くの人へのそのような部分を解放し、処理するサポートになれることを心から願っています。そのための心のことやトラウマに関してのことはすべてわかったので、まずはそれを「トラウマ心理学」としてそのすべてを記した本を書いて、世に示していこうと今思っています(*^_^*)
◆編集後記
人の心の深いところがわかってくると、お目にかかったり、声を聞いただけでもかなりの部分がわかるようになりました。それがいいことなのかどうか…という思いは正直あります。わかればわかるほど、生存本能からの「解離」というものの奥深さというか、その影響の大きさに驚くばかりです。
ほとんどというか人間みんなが実は解離をしています。それは私自身もです。ただ、私の場合には様々な経験をさせて頂いたことで、かなりの部分解離から外れていますが、何か心にふっと反応するネガティブと感じる出来事があった時には、自然に解離しようとする思考の働きに気づきます。それぐらい解離というものは自然に働くものです。
簡単にいいますと、トラウマ=感情の抑圧=解離 です。
我々を守るための機能がいつまでも働かせ続けてしまうと、逆に我々を中心から縛るものへと変わってしまいます。
解離に関しては、これだけで一冊の本がかけるぐらい深いです。解離があると、人は洗脳を簡単に受けやすくなります。この部分を利用して、洗脳しようとする勢力がたくさん存在していることも感じます。
解離が外れると、〈自分にとって〉何が本当のことか、何が違うことかが、心からハッキリとわかるようになります。自分にとっての真実がはっきりと見えるように、感じることが出来るようになります。そうすると、人生のすべてにおいて、我欲からではなく真我から、自分にとってのよりよい選択が出来るようになります(^_^)
人類が解離の影響から外れられたら、世界は短期間でよりよいものへと変容していくことでしょう(^o^)/
----------------------------------------------------
ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。
ただし、前に書いた文章ですので、今の私の表現とはもうすでに違っているところもありますし、補足、追加したいところもありますから、その部分については加筆していきます。
よろしければ、お読み下さいませ(^_^)
----------------------------------------------------
メルマガ しあわせに生きるための「トラウマ心理学」
『私たちは「体験する」ためにこの地上に降りてきた魂である(4)』2018年4月
私は今までの人生の中で、様々な自分を対象にした人体実験による実体験をしてきました。我ながらかなり特殊な体験をしてきている人生だと思っています。
これらのことは本に詳しく書こうと思っていますが、私の最大の人体実験は24、25歳頃に行った『すべての人から嫌われる』という立場を積極的に体験しようとしたことでした。
こんなことは普通は誰もしないことですから、「そんなことをするなんてどうかしているんじゃないか!」と思う方が多いと思います。ただこの根底には、そうなろうと思ったある強い思いがありました。
その頃はサラリーマンをしていて、仕事においては順調で会社の部署で一緒に働いている人たちからも、得意先の方たちからも、有り難いことにみんなから慕われてとてもとても大切にして頂いていました。
しかし、私の内側ではそのことで満たされることはなく、その中に身を置いている内に、心の奥から思いが湧き上がりまじめたのです。
『自分を愛してくれる相手を愛することは、大変にたやすくて簡単だ。だから、自分を嫌う相手を愛することができた時にこそ、相手がどのような人であれ、誰をも愛する無条件の愛が私の中で完成される』と、精神的・霊的にさらに成長しようというある意味宗教的ともいえる思いが出てきたのでした。
今度は逆のそういう立場に身を置いた時の自分を見たい、体験したいと、実験的に一端自分を嫌われるという立場に身を落とすことを決めたのです。
だけど、いつもいいますように、何かに過剰に反応するときには必ずトラウマの影響がありますので、やはりここにも私のトラウマが関係していました。
幼少期からのトラウマがあると心の中心に深い安心感がないので、自分以外の外側から受け入れてもらって、どんなに心地いいと感じるやり方で扱われ、それをどれだけたくさんもらっても、心の表面上はその時は埋まったように感じますが、心の内側ははまったく満たされないということも、この時の実体験からハッキリとわかりました。
人生は心から強く望んだものは必ず実現しますので、誰からも嫌われるということもしっかりと実現しました。しかし、その体験は自分が予想していたよりも大変長い期間になり、とても苦しみました。
いざその状況になると、あれほど自分が望んだことだったはずなのに、大変に傷ついて自分を嫌う人を受け入れて愛するどころか、その人たちに怒りが湧き上がるようになってしまいました。
これは社会人になるまでの人生でも、とりあえずは大きな問題は無く周りから受け入れてもらえるという立場を体験してきて、その辺りの怒りを感じた経験がほとんどなかった自分からは考えられないことでしたので、そのことでも悩みました。
結局ここには、「誰をも無条件で愛せるようにならなければならない」という思い込み、観念が存在していて、その根底には「深い精神性に至らないといけない」という思いや「それがちゃんとできない自分はダメだ。価値がない」という自分への罪悪感や自己否定感が存在していたのです。
その当時にはまったく気づいていませんでしたが、私の直感的主観では、ここには幼少期からのトラウマだけでなく、キリスト教的な自分に難を与えるという「受難」に関係した過去世からのトラウマの影響もあり、この人体実験をする前に、もうこういう思いで自分を責めていたということもわかりました。
最初から自分が自分自身を否定して愛していなくて、自分のありのままを受け入れず味方にならずに、自分が自分を責めて嫌っているのに、その上に人から
嫌われるという状況が重なってくると、次第に周りを敵にしてしまい怒りの思いが出てきていたことに気づきました。
私は自分自身(インナーチャイルド)に対して「もっと、しっかりと成長しろ!!」と、どこかで突き放して、見捨てていたのでした。
大変苦しみましたが、この体験をしたことで、『ありのままの自分を受け入れ愛し、まず自分が自分の味方になる』ことの重要性というか、その重大性が心の底からわかりました。
自分を愛していなければ、本当の意味で周りの人を愛することは出来ません。無条件の愛を与えるべきは、まず自分自身だったのです。自分が自分自身とつながらないと、自分らしい自分の人生をつくり上げることも出来るはずがありません。
本当の理想は、人間の人生でベストなのは、幼少期に親から無条件の愛をもらえることです。まずそれがあれば、子供の心は安定し、培われた深い安心感は一生心の底に定着します。
それがなければ、人間の心は安定せず「ネガティブな感情」の影響をモロに受けてしまい、生存本能が過剰に活動してしまい、戦うか、逃げるか、フリーズするかになります。
また、そのために不安を感じながら自分の身を守ることが主体となって、安定した精神状態で人生を送ることが出来なくなってしまうことがわかりました。
これが幼少期からであれば、どれだけその子は心を痛め、「怒り」と「恐怖」と「悲しみ」の人生を生きていくしかなくなるだろうかとその苦しみがしっかりと理解できるようになりました。
人間にはこういう性質があるため、その部分を処理していくことが出来るインナーチャイルド療法(や前世療法)という手法は大変に重要なもので、これがインナーチャイルドを癒すことの必要性であり、この療法の存在意義でもあります。
私はこの人体実験からの人から嫌われることでの「怒り」と、その奥にある傷ついてきた「深い悲しみ」をインナーチャイルド療法で癒しました。
そうすると、やはり嫌ってくる相手が自然に気にならなくなりました。同時に怒りを感じることも次第に減っていきました。
すると、面白いことに嫌ってくる人もどんどんと減っていきました。自分が自分を受け入れて愛していくことで、それと同じように周りが受け入れてくれるようになります。
『自分を扱うように周りから扱われる』というのが法則であるということも、この人体実験で改めてよくわかりました。
すべては自分への向き合い方が、外側に反映しているだけです。外側に存在するように見えたのは、ほんとうは自分自身だったのです。
人間はトラウマを負うことで、自然にネガティブな感情や思いを感じるようになりますが、その闇ともいえるネガティブな感情を隠すことなく、嫌うことなく、闇としてありのまま受け止め受け入れると、その闇は自然に光へと変わっていきます。(そう!ここも自分の中の闇への無条件の愛です)
そうすれば、この光は自分の内側から出てきて輝き出しているものですから、外側から光を当て続けなくてももう消えることはなく、たった一人でいても心の底からの安心感がいつもどんな時もそこに存在するようになります。
この三次元世界は二極でできていますので、光ばかりになれば闇と感じるものは悪となり敵とみなすようになります。また、闇ばかりになっても光と感じるものを嫌い敵にしてしまいます。
この安心感は光と闇、その二極の中で、その二つをありのまま全部ひっくるめ包括したその真ん中のゼロ地点(中庸・中道、±0)に静かにバランスよく安定しながらたたずんでいるという感覚だと表現できます。
大変だった闇も処理しているので、闇からのよりよい経験だけが残っていて、その闇と光の間(±0、ゼロ地場)に存在しているという感じです。
今、私の中にもそのような感覚があります。これはとても心地のいいものです。何があってもなくても、もうこの感覚は消えることはないということを静かに感じています。
人体実験中は予想外のことが起きて大変だったですが、その体験があったおかげで様々な心の反応パターンやその奥にある感情に気づき、それを受け入れ癒して、このゼロ地点の感覚を心から味わうことができるようになりました。
目覚めた人を意味するブッダと呼ばれた、ゴータマ・シッダルタさんは、どのようにしても「この世は苦でいっぱいである」ので、そのことを認めなさいといわれました。これが彼が悟った哲学の一つです。
今も昔も、この苦である「病気があること」、「老いること」、「死ぬこと」、「悩みがあること」は、人間から消えることなく続いていきます。ということは、はじめは違っていたと思いますが、人類史のある時期から、「苦」こそが魂が人間存在を体験するときの一つの大きな体験項目となっていったのだと感じるのです。
(なぜなら、前にも書きましたが、我々魂が天と一体であった時には苦というものなどはまったく存在しなかったのですから)
シッダルタさんは、人間が生きるということはそういうものだから、「こだわらなければよい。受け入れなさい!」と悟られたのだと思います。
その後に生まれた救い主の称号の「受膏者」を意味するキリストと呼ばれた、ナザレのイエスさんは、人生とはそういうものだから「そのまますべてを愛したらよい。愛しなさい!」と悟られたのだと思います。
いずれにしろ、『苦をそのまま見て受け止めよう!』というのがお二人の悟りのその根底に流れている哲学であると感じるのです。
苦(闇)は抑圧したり抵抗すると余計に暴れだします。それをありのまま受け入れ受け止める(愛する)ことではじめて、苦は苦でなくなっていきます。
しかし、今まで人類はその苦と戦って、そこから様々なネガティブな感情が発生していき、人生が生存本能からの身を守るための行為となって、死後そこから後悔や罪悪感が鮮明になり、体験しきれなかったという未練、後悔やもっとしっかりと体験したいという欲求などの思いが出てきていたのだと感じます。
それをカルマ(業)として、また肉体に生まれてくる動機にしていくというサイクルに、感情を処理しないことで人類はどんどんとはまっていったのだと感じています。
人間は感情を持ち、強くその影響受けるという特質があるがゆえに、その処理をしないことで解離(感じないように、わからないように)して味わい切ることが出来なくなり、魂の当初の計画よりも転生する(生まれ変わってくる)回数がどんどんと増えてしまったのではないかとも感じています。
私は様々な自分の人体実験経験からも、数多くの心理療法での臨床経験からも、ネガティブな感情(闇)に向き合うことでありのままの自分を愛すること(光)ができるようになることをもうゆるぎなく完全に確認しました。
そうすることで、人間の心は安定し、元々あった共感する能力が発露し、我欲から離れ、自己防衛から外れ大局を見ることができるようになります。さらには、人類主導の地球生態系システムとの共存、共栄が可能になると確信しています。
そして、人間本来の精神性や霊性を発露する鍵も「過去から持ち越している感情を解放する」ということにあります。ただし、そこで重要なのは、ただ解放するのではなく根本・根源からの解放なのです。
悟りとは、解離せずにありのままの事実に正面から向き合い、認識して、受け入れることではないかと思います。それはイコールすべてをありのまま見る「目覚めた人」になることでもあると感じるのです。
実は、ほとんどの人が必要な生存本能としての反応なのですが、子供の頃に「対処のしようがない心地よくないと感じること」から、身を守るためにそれを感じないように自然に解離をしています。
しかし、大人になってもそれを処理しないままでいるとその状態がそのまま続いていて、言葉が悪いですが意識の一部が「眠ったままの状態」にあるといえます。
ここには、子供の頃からはまり込んでしまっているので、自分ではそのことに気づくことは難しい(気づかないようにしている)のですが、本当はそこから人生の根幹に関わる大変大きな影響を受けているのです。
私の活動が、多くの人へのそのような部分を解放し、処理するサポートになれることを心から願っています。そのための心のことやトラウマに関してのことはすべてわかったので、まずはそれを「トラウマ心理学」としてそのすべてを記した本を書いて、世に示していこうと今思っています(*^_^*)
◆編集後記
人の心の深いところがわかってくると、お目にかかったり、声を聞いただけでもかなりの部分がわかるようになりました。それがいいことなのかどうか…という思いは正直あります。わかればわかるほど、生存本能からの「解離」というものの奥深さというか、その影響の大きさに驚くばかりです。
ほとんどというか人間みんなが実は解離をしています。それは私自身もです。ただ、私の場合には様々な経験をさせて頂いたことで、かなりの部分解離から外れていますが、何か心にふっと反応するネガティブと感じる出来事があった時には、自然に解離しようとする思考の働きに気づきます。それぐらい解離というものは自然に働くものです。
簡単にいいますと、トラウマ=感情の抑圧=解離 です。
我々を守るための機能がいつまでも働かせ続けてしまうと、逆に我々を中心から縛るものへと変わってしまいます。
解離に関しては、これだけで一冊の本がかけるぐらい深いです。解離があると、人は洗脳を簡単に受けやすくなります。この部分を利用して、洗脳しようとする勢力がたくさん存在していることも感じます。
解離が外れると、〈自分にとって〉何が本当のことか、何が違うことかが、心からハッキリとわかるようになります。自分にとっての真実がはっきりと見えるように、感じることが出来るようになります。そうすると、人生のすべてにおいて、我欲からではなく真我から、自分にとってのよりよい選択が出来るようになります(^_^)
人類が解離の影響から外れられたら、世界は短期間でよりよいものへと変容していくことでしょう(^o^)/
----------------------------------------------------
ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。