goo blog サービス終了のお知らせ 

心理セラピストのひとりごと

『象徴的イメージ統合療法』という心理療法を行っています。日々の中で感じたことを書いていこうと思います。

四大元素(追記)

2015年07月13日 | 本などからの気づき
このところ、「ひとりごとバージョン」で書いていますが、今回は「お伝えバージョン」で書きますね(^_^)

四大元素についての追記です。

前回の記事を書いている時に、私の妻も四大元素(エレメント)に関しても書いている本をちょうど読んでいたそうです。

シンクロがおもしろかったので、お伝えすることも必要かと思い、今日はその本から要約して転記してみますね。


-------------------------------------------------------------------------------------------------------------(転記始め)
四大エレメントは、自然な自分に戻り、幸せへと進む私たちの道しるべとなってくれます。

風のエレメント
新たなひらめきや情報やいのちを私たちのもとに届けてくれるのが、風のエレメントの力です。

心地よく私たちの体をなでていくそよ風は、ただボーッとして気持ちよく当たっているだけでも、すばらしいヒーリングの力があるのです。

思わず身を縮めてしまうような突風や台風などの強い風には、強力な浄化力があります。

台風が去った翌朝は、いつもより太陽の光や空気がクリアになって、心まで晴れ晴れとしてきますね。それは、風のエレメントの力によって、不要なエネルギーが祓われ、私たちの意識が拡大しているからなのです。

台風の時には、地球のエネルギーも大きく動きますが、私たちのエネルギーも大変影響を受け、意識の変化が起きます。

天の現象が私たちの生活を苦しめることがあるのは、自然界のリズムと私たちの心の波動が離れているからなのです。

私たち自身が自分たちの生命の自然な状態からずれているので、大自然のリズムともずれて、本来恩恵をもたらすエレメントの力が違った形に映ってしまうのです。

けれど、私たちが自分の生命に自然な生き方をしているときは、大自然の天の現象のタイミングとハーモニーを奏でるようになります。ちょうどいい場所、ちょうどいいタイミングで雨が降ったり、風が吹いたりするのです。

エレメントのすばらしい働きに感謝し、天気と私たちの内側とのつながりを大切にしていきたいですね。

それでも、ふと不安や恐怖を感じてしまったときは、やわらかなそよ風にそっと吹かれてみましょう。

風のエレメントが優しさを運び、その心をほどいてくれるでしょう。

火のエレメント
火のエレメントの力は、私たちが生きる上での生命力をもたらします。私たちが生きていくためには、この炎の力が必ず必要なのです。

私たちは、夢中になって何かに取り組んだり、情熱を持って行動したりすることを「燃える」と表現します。また、何かを全力でやりきった時に「燃え尽きた」といいます。

心が炎をもっていないと、いきいきと「燃えて」行動することも、「燃え尽きる」まで何かをやり遂げることも出来ません。

たとえば、運動をすると体温が上がり、体があたたかくなりますね。それは、火のエレメントと同じものが私たちの中で働き、熱を発しているということです。火のエレメントの力をいただき、情熱を燃やして行動するからこそ、私たちは成長できるのです。

また、天に祈りを捧げるとき、瞑想や儀式などを通して神聖な自分に触れようとするときにも、人は昔から明かりを灯してきました。そうやって、火のエレメントと触れ合うことで、自分たちと、より偉大な存在とのつながりを深めてきたのです。

何かを燃やすために生まれてくる強い炎には、守護と浄化の力があります。

キャンドルの小さな灯火も、じつは大きな力をもっています。どんなにちいさな明かりであっても、そこにひとつ灯火が灯ることで、その場の空気がまるで魔法のようにスッと変わります。かすかな炎がひとつあるだけで、あたりは神聖な雰囲気に包まれます。

調子が悪いときやよろこびを感じにくいときなど、人生の袋小路に入ってしまっているようなときは「光不足」の状態なのです。そんなときは、火のエレメントの象徴である太陽が必要です。

散歩をしたり日光浴をしたりして、太陽の光を浴びてみましょう。それも、間接的に火のエレメントの生命力をいただくことにつながります。

水のエレメント
水のエレメントと触れ合うと生気を取り戻し、オーラがきれいに洗い清められます。そして、天につながるみずみずしい感性がもたらされるのです。

水のエレメントは、私たちの心や体を洗い清め、浄化してくれる存在です。また、物事をあたたかく受け止める受容性を育て、心にうるおいを与えてくれます。

小川のせせらぎや波音などの美しい音色を耳にすると、穏やかな気持ちになりますね。そういった涼やかな水音にも、水のエレメントの優しさと癒しの力が宿っています。

泣きたいときにグッと我慢をしてしまったり、言いたいことを飲み込んでしまったりすることが、ひんぱんに続いてしまうと、私たちの心はかわいて固くなってしまいます。

すると、すてきなものが身近にあったとしても、そのすばらしさに気づくことができません。幸せであっても、幸せだと感じられなくなってしまいます。

長い間水やりをせずに乾燥してしまった庭の土が、カチカチに固まって水をはね返してしまうような状態になってしまうのです。

そんなときには、水のエレメントと触れ合ってみましょう。

素敵なものを素敵だと思えるには、心のやわらかさが必要です。

人生を楽しむために必要な感動する心、うるおいのある心は、水のエレメントによって運ばれます。水とのつながりを深めると、心にやわらかさが戻り、感動する力が再び芽生えてくるでしょう。

水のエレメントとのつながりを紡いでいけば、目的を達成するためには何をすればいいのか、どんなご縁を紡いでいけばいいのか、スッと気づけるようになります。

例えば、ある人に声をかけるとか、このことをやってみるとか、ちょっとした行動のきっかけがわかります。そして、実際に行動してみると、スルスルッと解決の糸口が見つかるご縁やチャンスに出会えます。

心が乾いて固まってしまったら、チャンスに気づくことができません。

水のエレメントとの触れ合いによって、心のやわらかさを保つことが大切なのです。

地(土)のエレメント
今、忙しすぎてバランスを崩す方がとても多くなっています。

それは、私たちが自然から離れ、土との触れ合いが少ないと、いのちに必要なエネルギーが補給しづらくなります。

ですからもう一度、地のエレメントに意識を向けて触れ合うことは、私たちにとって、とてもすばらしいことなのです。

知り合いのある方は、土と触れ合うことで、心のバランスを見事に回復されました。(補足:うつ気味の方が、畑作業していたらうつが治ったという話を私も何人かの方から聞いたことがあります)

特に地のエレメントは、グラウンディングの強い力をもっています。グラウンディングは、生きるためのすべてを肯定する力ですから、精神が安定し、生活するのに必要なすべて―住む家、働く場所、働きやすさ、生活するためのお金―すべてが整う運命へと変わっていきます。

また、物事をしっかり固めて形にするパワーももっています。

ですから、どうしようもなく不安で心が定まらないとき、自分の信念やビジョンがはっきりとしないとき、地のエレメントを意識し、触れ合う機会をつくってみましょう。

自分に自信がもてないと、立っている地盤も揺れてしまいますね。

しかし、地のエレメントの力につながると、不安定だった状態からきちんとバランスがとれる状態へと変わり、自分を強く信じる力を培うことができるのです。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------(転記終わり)


とにかく、自然と触れ合うことはすべてにおいてよりよいことが起こり、人間にとって必要なことなのだと思います。

なぜなら、我々も自然の一部でしかないのですから・・・。


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行いを意識して味わう

2014年12月03日 | 本などからの気づき
前回の記事の続きになります。

前回は、短い文章でしたが、日常のそれぞれの「行いを意識して味わう」ということが、「しあわせ」を感じることにつながり、「今を生きる」ことにもつながると書きました。今回は、それを体感するための一つの方法である「瞑想」をご紹介します。

私は瞑想に関しては、32年前に超越瞑想(TM)という瞑想の方法が日本に入ってきた頃に習いましたので、瞑想はよいものだと実感しています。精神科医の先生の中には、積極的に瞑想を進めている方もおられます。

瞑想には色々なやり方がありますが、「行いを意識して味わう」ことが簡単に体感していける瞑想には、『ヴィパッサナー瞑想』というものがあります。もうずいぶん前に、この瞑想法をあるアイドルグループ(確かTOKIOだったと思います)が体験しているテレビ番組を見て興味を持ったことを思い出します。

私は、『「自分を変える気づきの瞑想法【増補改訂版】」アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ発行』という本でその方法を詳しく知りました。

少し、要約して簡単にご紹介しましょう。

------------------------------------------------------------------------------------------------
ヴィパッサナー瞑想とは、物事をありのままに観る瞑想という意味で、2500年以上前にゴーダマ・ブッダによって再発見されたインドで最も古い瞑想法の一つです。物事をありのままに、明確に観ることで、観察する能力を育てます。「観察」こそが「知恵」の入口です。

人は大部分の時間を過去や未来のことを考えることに費やしています。つまり「思考」で頭をいっぱいにしながら生きています。そこには、事実ではない、事実かどうかわからない「妄想」なども含まれます。実は、私たちが苦しむのは、大部分がそういった「思考」のエスカレートによるものなのです。

ところが、現在の瞬間に気づく心を訓練していくと、その「思考」が止まるのです。この現在の瞬間の事実に気づくことをサティといいます。気づき(サティ)を声にしてではなく内語で実況中継しながら確認していきます。ヴィパッサナー瞑想は、現在の事実に気づいて実況中継することによって「思考」をストップさせ、事象をあるがままに観察し確認していく訓練です。立つ、歩く、座る、それぞれの状態の瞑想があります。

座る瞑想で簡単にその方法を説明しましょう。

「座る瞑想」
座り方のポイントは、背筋をまっすぐ伸ばし、お尻を後ろに引き、下腹を心持前に出し、顎を引きます。リラックスして普通の呼吸をします。息を吐けばお腹がへこみ、息を吸えばお腹が盛り上がります。この腹部感覚が、座る瞑想の中心対象です。お腹に意識を集中して、お腹のあたりの感覚を感じてみてください。すると、お腹がふくらむ、縮む、という感覚が感じられるようになってきます。お腹のふくらみを感じたら「ふくらみ」、お腹の縮みを感じたら「縮み」・・・「ふくらみ」、「縮み」・・・と、心の中で実況中継をします。大事なポイントは、お腹の感覚を受け止めることに重きをおくことで、実況中継は感覚に気づいた証しとして行うものということです。とはいっても、なかなか簡単にはいきません。雑念が割り込みます。思考しないことに挑戦する瞑想ですので、思考したら「雑念」、あるいは「考えた」、「妄想」などと、実況中継していきます。

この瞑想の一番のポイントは「事実に気づくこと」です。事実に気づくことによって、心の中から無駄な思考が排除されていくと、物事がありのままに正しく観えてくるでしょう。その事実に正しい反応を起こしていけば、人生の流れを変えていくことができます。
------------------------------------------------------------------------------------------------

ヴィパッサナーで観察をする時には、自分で分析しようとしないこと。それと、瞑想で何か発見できるだろうと期待しないことが大切だといっています。要するに無心で自然に任せて行うということです。「分析」とか「強引に何かをひきだそう」とすると、隠れている「私」がでてきて「思考」の燃料になるといいます。

そして、この「思考」こそが、トラウマの影響から出てきたものです。人間はトラウマを負うと、「思考」を使って起こった出来事やその時に感じた感情や思いのその事実から何とか逃れよう、隠そうとします。受け入れられない出来事を拒絶して不快な体験を認めない様に「否認」したり、その時に感じた感情を感じないように「抑圧」したり、出来事自体を忘れてしまって「解離」したり、対象の人や物事などを実際以上により良いものだと思い込んで「理想化」をしたり、様々な自分の身を守るために「思考」を使って防御をします。また、過去ばかりに囚われて、過去の出来事を何度も何度も思い起こして「反芻(はんすう)」したり、心に根付いてしまった不安から、まだ起こらない未来を心配、不安に思ってそればかりを考える場合もあります。

身を守ることだけから駆使されている「思考」が休まれば、今現在を生きることができやすくなります。今生きていることを感じられれば、生きることへの感謝やよろこびを感じやすくなります。

今、とりあえず、呼吸ができていること・・・。

今、とりあえず、手足を動かすことができること・・・。

今、とりあえず、見ることができること・・・。

今、とりあえず、しゃべることができること・・・。

今、とりあえず、食べるものがあること・・・。

今、とりあえず、雨風をしのげていること・・・。

・・・・・・などなど。

我が日本では、日常のごく自然で当たり前だと感じていることの多くは、ほんとうはとてもよろこばしい感謝の対象となるものに満ちあふれています。

もしも、よろしければ、一度このような瞑想法を行ってみて、「今この瞬間」を意識して味わってみてはいかがでしょうか。


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共感した雑誌のインタビュー記事から

2013年07月26日 | 本などからの気づき
私は出張などで、一ヶ月の車の走行距離数が割りと多いので、安全のためにJAFに加入しています。

JAFからは、毎月JAFMateという雑誌が送られてきます。今回のものを読んでいて、「そうだよね!」と共感するインタビュー記事がありましたので、ご紹介します。

--------------------------------------------------------------------------------------------

『あったカー対談』 ゲスト:石井竜也(元米米CLUBのミュージシャン) インタビュアー:久保純子

久保:今、一番楽しいことは何ですか?

石井:石井竜也をやっていることが一番楽しいです。そもそも、僕らの仕事で大事なのはある種のナルシシズム、つまり自分が好きであることなんですが、ただ、内に向かって自己満足するナルシシズムではダメなんですね。ファンや見に来てくれる人に対するナルシシズムを持てるかということが大切なんです。

(中略)

石井:子供は、「あのドアの向こうにとんでもない世界がある」と思って冒険できるんです。ところが大人になると、そんな無駄なことを考えてはいけないような気がして、どんどん小さなマスの中に入って、いろんなことがつまらなくなるんです。

久保:そういえば「大人って何だろう?」と考えると、我慢ばかりしているかなと思ったりします。

石井:「じゃあ、喜びはどこにあるの?」と聞くと、「我が子の成長」という人が多いでしょ。「じゃ、自分は?」というと、「俺はもう、どうだっていい」となっちゃうけど、自分がどうだっていい人に、人間が育てられるとは僕は思わない。

久保:そうですよね。

石井:でしょ?自分を大切にするからこそ他人を大切にするし、他人を大切にするからこそ子供を育てられるし、子供を大切にするから社会も大切にするんですよ。だから自分をないがしろにするとすべてが消えてしまう。日本という国は、そこに気が付いてない国なんだと思いますね。

久保:ナルシシスト万歳ですね。

石井:そうなんです。そこからしか、物事はひろがっていかないんですよ。

--------------------------------------------------------------------------------------------

その通りだと思います!

石井竜也さんは、アーティスト、デザイナー、プロデューサー、映画監督など、多岐にわたり活動されているようです。

ただ、ナルシシストというとやはり誤解をする人もおられると思いますから、これを私の表現でいいますと、「究極の個人主義」という表現になります。

この状態は、抑圧してきたネガティブな感情や思いを解放した(あるいは、過去に終わったこととして完全に気にしなくなった)後に訪れる状態ですから、自分勝手にもならず、利己的にもならず、ただただ純粋に自分を大切に扱うということが自然に出来るようになります。

もしも、自分を大切に扱えていない状態で人の助けをしても、助けるということはとても大切なことですが、自分を大切にしていないとその行為は、犠牲的な行為となってしまいます。犠牲で人を助けても、犠牲の雰囲気がどこかで出るので、助けられた相手はなんだか知らないけど「ごめんなさい」と思ってしまうようになると思います。

逆に、自分を大切にしていて、その余力で自然に人を助けることがで来ている人に助けられると、自然に「ありがとう」という思いになるのだと感じます。

同じことをしていても、する人の心の状態によって、そこに乗るエネルギーはまったく違ったものになるんだと思います。


私もしないといけないことに追われ、このところ、自分を満たせていないなあ。もっと自分を満たして行こうっと!!


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

右脳と左脳

2013年02月11日 | 本などからの気づき
今思えば、私は10代の頃から人間の構造というものに興味を持っていたように思います。特に、脳の構造やその知覚機能に関してはとても興味を持っていました。

テレビで、てんかんの発作を止めるために、右脳と左脳をつないでいる脳梁を手術で切断した人の知覚の変化の話しを大変興味深く聞いたことを覚えています。(脳梁を切断した脳を分離脳と呼びます)

記憶の曖昧な所もあったので、以下の分離脳の知覚変化の説明は、ネットで検索したものを参考にさせてもらいました。

『脳の機能に左右差があることは、1960年代に発見され、当時、アメリカでは重症のてんかん発作の治療として、大脳の左右半球の間を連絡している脳梁を切断するという乱暴な手術を行っていました。

脳梁を切断すると左右の脳が別個に働いてしまいます。右脳で行なったことが左脳ではわからない(またはその逆)ことが頻繁に起こるようです。

左目からの情報は右脳に、右目からの情報は左脳にそれぞれ送るので、たとえば、右目をふさぎ、左目だけでリンゴを見ると、その名前を言う事ができないのです。しかし、リンゴを取るように指示すると、ちゃんとリンゴを選ぶ事ができます。逆に右目だけで見ると、ちゃんと名前を言う事ができるのです。右脳は感覚を、左脳は論理を司っているからです。

あるいは、左目だけに「目の前のレモンを取ってください」という文を見せると、右脳だけがその情報を受け取り、患者は左手でレモンを手に取ります。右脳は左手を、左脳は右手を支配しているからです。』


おもしろいのは、その後、今度は右目に「なぜレモンを取ったのですか」という文を見せると、患者は答えられません。その情報を受け取った左脳には「先ほど指示が出されたから」という理由がわかりません。そこで左脳がどうするかというと、なんと、「香りをかぎたかったから」などと、適当につじつまが合う返答をするのです。つまり、左脳は自分ではわからないことでも、「自分がレモンを取った」という断片的な情報をもとに、適当な理由を繕って、もっともらしい結論を導くのです。

これらの実験で明らかになったのは、「左脳は、断片的な情報から、自分が安心できる、またはもっともらしい結論を出したがる」ということです。結論を導くのに必要な情報が十分にある場合はよいのですが、不十分で断片的な情報しかない場合、左脳は、なんとかつじつまが合う結論を導き出そうとします。しかも、その際、なるべく少ない情報で結論を出そうとします。左脳は、不安定な状態を極力排除しようと働くもののようです。

左脳は自分が傷つかないように、一生懸命防御するのです。そして、トラウマが強くなるほど、それに比例して防御はどんどんと強化されていきます。防御が強くなると、安定するため、安心するためだけを目的として生きるようになり、これが過剰になると、「今だけ・自分だけ・お金だけ」の我欲の呪縛にはまり込んでしまいます。

こうやって、改めて脳に思いをはせるきっかけになったのは、ある本を読んだからです。

「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 新潮文庫です。

本の紹介では、『脳科学者である「わたし」の脳が壊れてしまった―。ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していた彼女は37歳のある日、脳卒中に襲われる。幸い一命は取りとめたが脳の機能は著しく損傷、言語中枢や運動感覚にも大きな影響が…。以後8年に及ぶリハビリを経て復活を遂げた彼女は科学者として脳に何を発見し、どんな新たな気づきに到ったのか。驚異と感動のメモワール』とあります。

勉強した学問としての理論ではなく、紛れもない、自分自身で体験されたことですから、大変興味深く読ませてもらいました。自分の実体験、それこそが自分にとっての真実です。この本は、とても参考になりましたので、少し引用してみますね。


[転載開始]

脳卒中の最初の日を、ほろ苦さとともに憶えています。左の方向定位連合野が正常に働かないために、肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。魔法の壷から解放された、アラビアの精霊になったような感じ。人きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。

肉体の境界がなくなってしまったことで、肉体的な存在として経験できる最高の喜びよりなお快く、素晴らしい至福の時がおとずれました。意識は爽やかな静寂の流れにあり、もう決して、この巨大な魂をこの小さい細胞のかたまりのなかに戻すことなどできはしないのだと、わたしにはハッキリとわかっていました。

(中略)

わたしは左脳の死、そして、かつてわたしだった女性の死をとても悲しみはしましたが、同時に、大きく救われた気がしていました。

あのジル・ボルト・テイラーは、膨大なエネルギーを要するたくさんの怒りと、一生涯にわたる感情的な重荷を背負いながら育ってきました。彼女は、仕事と自己主張についてはあくまでも情熱的で、ダイナミックな人生を送ることにこだわり続ける女性です。

ですが、好ましく、そして賞賛にも値する個性であっても、今のわたしは彼女の心に根を張っていた敵対心を受け継いではいません。わたしは、兄と彼の病についても忘れ、両親と、両親の離婚についても忘れ、仕事と、ストレスの多い人生のすべてを忘れていました。そして、この記憶の喪失によって、安堵と歓びを感じたのです。わたしは、せっせと多くの物事を「やる」ことに打ち込みながら、三十七年の生涯を費やしてきました。でもこの特別な日に、単純にここに「いる」意味を学んだのです。

左脳とその言語中枢を失うとともに、瞬間を壊して、連続した短い時間につないでくれる脳内時計も失いました。瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。ですから、何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。それは、とっても美しい。

「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。もちろん、わたしは流れている!わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のなかで振動する原子と分子からできているわけですから。言語中枢のなかにある自我の中枢は、自己を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。

左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無隈の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。

自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、字宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。

しかしわたしの場合、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でい一ぱいになった袋として存在しています。異なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。しかし結局のところ、全ての粒は、優雅なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。あなたとわたしの全ての微塵を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原子的な物体とエネルギーでできている。

(中略)

自分をひとつの固体として感じていた今朝までは、わたしは、死や傷害により肉体を失うことや、心痛による感情的な喪失を感じることができていました。しかし、変容してしまった認知力では、肉体的な喪失も感情的な喪失も、受け取められなくなってしまったのです。

周囲から分離していること、固体であることを体験する能力が失われてしまったせいで。神経が傷を負っているのに、忘れ得ぬ平穏の感覚が、わたしという存在のすみずみにまで浸透しています。そして、静けさを感じました。

存在する全てと結ばれている感覚は幸せなものでしたが、自分がもはや正常な人間でないということに、わたしは身震いしました。わたしたちはそれぞれ、まったく同じ全体の一部であり、わたしたちの内にある生命エネルギーは宇宙の力を含んでいる。そんな高まった認知力を持ちながら、いったいどうやって、人類のひとりとして存在できるでしょう?怖い物知らずにこの地球を歩くとき、どうして社会に適合できるでしょう?わたしは誰の基準においても、もはや正常ではありませんでした。この特殊な状態で、重い精神の病に罹っていたのです。そして、外界の知覚と外界との関係が神経回路の産物であることがわかったとき、それは自由を意味すると同時に挑戦でもあったのです。わたしの人生の長い歳月のあいだ、わたしというものが自分の想像の産物にすぎなかったなんて!

[転載終わり]


テイラーさんが体験されたことは、ほんとうに「みんなはひとつ」という感覚で、いわゆる「ワンネス」の体験だったのだと思います。強制的ではありましたが、左脳が停止し、右脳が働くようになると、ここまで強烈に「ワンネス」につながれるということは、私にとっては新たな発見でした。

私とクライアントさんのセッションからの経験で、ワンネス体験に近いものでいえば、まず(1)ハート(ハートチャクラ)が開いて、(2)頭に被われていた観念のフィルターが取れて松果体が活性化し、周りが明るく見えるようになり、(3)足がしっかり地に着いた感じになり、エネルギーが地面に降りていくという体感が起こり、(4)心からの安心感を感じて、自分にも周りにもとても優しい、自然にすべてを受け入れた気持ちになるという流れでした。

私はトラウマに焦点を当てている時には、あえて脳は一つのものとして扱っていますので、「脳」の観念のフィルターを外すという説明に留めていますが、厳密には左脳の観念のフィルターを外すということになります。(ただ、観念のフィルターを外しても、生存本能からの自分が傷つかないようにするための防御は必要なのでなくならなくて、トラウマが故のその過剰な防御の部分だけがなくなります)

そして、テイラーさんは、左脳の機能が戻ってくるに従い、「宇宙との一体感」がなくなっていき、自分がこころよく思わない過去の感情や人格の傾向が次第に戻ってきたといいます。

でも、そのことでテイラーさんは自分がこれから何をしたいのかがわかりました。


[転載開始]

この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵を私は授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

このことに気づいてから、わたしの回復により、他の人々の人生も大きく変わるにちがいないと考え、ワクワクしました。他の人々とは、脳障害からの回復途中の人々だけでなく、脳を持っている人なら誰でも!という意味です。幸福で平和な人々があふれる世界を想像しました。そして、回復するために受けるであろう、どんな苦難にも耐えてみせよう、という気持ちでいっぱいになりました。わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」はこういえるでしょう。

「頭の中でほんの一歩を踏み出せば、そこには心の平和がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」

(中略)

脳卒中を経験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。左脳が司る判断や分析といった特性が、わたしの人格を支配していたのです。脳内出血によって、自己を決めていた左脳の言語中枢の細胞が失われたとき、左脳は右脳の細胞を抑制できなくなりました。その結果、頭蓋の中に共存している二つの半球の独特な「キャラクター」のあいだに、はっきり線引きができるようになったのです。神経学的な面においては、二つの脳波全然違う方法で認知したり、考えたりすることはありません。しかしこの二つは、認知する情報の種類にもとづいて、非常に異なる価値判断を示し、その結果、かなり異なる人格を示すことになります。

脳卒中によってひらめいたこと。それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。右脳は世界に対して、平和、愛、歓び、そして同情をけなげに表現し続けているのです。

これまでは、右と左の脳の性質を判別することは、不可能ではなくとも難しかったと言えるでしょう。その理由は単に、わたしたちが自分自身を、ひとつの意識を持った一人の人間だと感じているからです。

あなたが、左右それぞれの「キャラクター」に合った大脳半球の住み処を見つけてやれば、左右の個性は尊重され、世界の中でどのように生きていきたいのか、もっと主張できるようになります。

わたしは、そのお手伝いがしたいだけ。

頭蓋の内側にいるのは「誰」なのかをハッキリと理解することによって、バランスの取れた脳が、人生の過ごし方の道しるべとなるのです。

[転載終わり]


私も今後、人間が特殊な状況からでなく通常の生活の中で、右脳が活性化されていった時に、どこまで強くワンネス体験ができるものなのか。ワンネス体験を経験することで、【ほんとうの意味で】観念および観念のフィルターがどのぐらい取れていくのか、【ほんとうの意味で】トラウマがどれぐらい解消されていくのか、それを見極めたい、それを深める研究をしていきたいと思いました。(左脳を休め、右脳を活性化する一般的な方法は「瞑想」だと思います。私は瞑想歴は長くて、とてもいいものだと感じています。しかし、トラウマということでいえば、瞑想はトラウマに焦点が当たらないようになるだけで(このことは大切なことですが)、トラウマの解消は出来ないことをはっきりと確認しています)

もしも、それができたら、人間が生まれ持った本来の姿を取り戻し、人間も世界も変容していくことがたやすくなります。

やはり、脳についての研究はおもしろい!(^o^)/

ちなみに、YouTubeではテイラーさんの講演が見られます。字幕付きです。
ジル・ボルト・テイラー「脳卒中体験を語る」1/2  http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識についての考察(4)

2008年12月26日 | 本などからの気づき
先日、私のHPの「しあわせの法則」の所に書いている「ありがとう」「ばかやろう」の紙を貼ったご飯の実験を自分もしてみたら、その通りになったという人が驚いて連絡をくれました(実体験は大切ですね)。そこで今回は、そこに関連する意識場について少し書いていこうと思います。

日本ホリスティック医学協会の帯津良一先生は、この場というものを大切にしておられます。帯津先生はホリスティック医学は「場の医学です」とおっしゃいます。先生はすべての場をひっくるめて「生命場」と表現されています。

「私という生命場、家族という生命場、病院という生命場、会社という生命場、社会という生命場、世界、地球、宇宙という生命場・・・この場の調和、平和・愛・静寂・躍動・成長・進化を阻害し、止めているもの、ないがしろにしてきたもの、切り捨ててきたものが、今バランスをとろうとしている姿が、個人においては病気や人生に起こる様々な苦しみとなって表れることがよくありますし、今、社会で、世界で起きているネガティブな現象も同様なのではないか」といわれます。

また、イギリスの生物学者ルパート・シェルドレイクが1981年に発表したシェルドレイクの仮説というものもあります。

1983年にはイギリスのテレビ局によって、この仮説を調査してみようと公開実験が行われました。一種のだまし絵を2つ用意し、一方の解答は公開しないものとし、もう一方の解答はテレビによって視聴者200万人に公開したのです。

テレビ公開の前に、2つの絵を約1000人にテストし、テレビ公開の後に同じように別の約800人にテストしました。いずれも、この番組が放映されない遠くに住む住人を対象としました。

その結果はというと、テレビ公開されなかった問題の正解率は放映前9.2%に対し放映後10.0%であり、もう一方のテレビ公開された問題は放映前3.9%に対し放映後6.8%となったといいます。この3.9%から6.8%という上昇率は統計学上偶然では説明出来ない数字だそうです。

要するに、テレビで公開されて多くの人が答えがわかった問題は、テレビを見ていない人にも回答がわかる確率が上がったということは、「形の場」による「形の共鳴」が過去の形態(情報)を未来へ伝えていくとシェルドレイクの仮説ではいいます。

では、冒頭のご飯の実験では何が起こっているでしょうか。私の仮説(オーガの仮説?)では、古来からの日本人の「ありがとう」という言葉や文字が、感謝を示すポジティブな良い言葉であるという認識が完全に出来上がっているので、その大多数の思いが意識場となって「ありがとう」という文字に刻印されているかと思います。

それともう一つ、「あ・り・が・と・う」という発音(言霊)の組み合わせそれ自体が、良いエネルギー場を持っているのだと思います。だから、それを表記する文字自体も良いものを持っていて、それが組み合わさることでさらに、良いエネルギー場を発生するのかと思います。

この二つが相まって、「ありがとう」ではご飯が腐らなくなって発酵したり、水が結晶化して、「ばかやろう」ではその反対で、腐敗したり、結晶化しなくなったりするのではないでしょうか。

私の実体験からも、同じようなことを感じたことがあります。

インナーチャイルドを癒す作業を始めた頃、子どもの頃の自分をイメージする事自体がうまく出来ない人が何人もおられました。でも、今ではイメージ自体が出来ないという人はまったくおられません。

それは、「経験を重ねて上手になった」というものだけではないと感じています。言葉でうまく表現できませんが、ここには、みんな必ず見ることが出来るという私の確信の場がその奥には大きく影響しているように感じるのです。

世の中に様々な願望実現の方法や潜在意識活用の方法があり、その効果が証明されているように「人が確信することは実現する」のだろうと思います。

前回ご紹介しました立花大敬さんは、人類の進化の段階が肉体という第一の身体から、心という第二の身体を意のままにあやつることが出来るところまで進みつつあるといわれます。

新年を迎えるにあたり、今年の自分自身を観じて、そして世の中全体のよりよい未来への確信(意識場)を強めていきたいと思っています。

あなたも出来るだけ、よりよい未来をイメージしてみて下さい。みんなの意識場がみんなのしあわせへの鍵となりますから・・・。


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識についての考察(3)

2008年11月20日 | 本などからの気づき
(1)、(2)は数年前にHPに載せていたものでしたが、今回はリアルタイムに書いています。

バクスター博士は、植物を使った同様の実験で有名です。また機会があればその内容を紹介していきたいと思います。

私も人の意識に関しては、間接的な体験をいくつかしています。それは心理療法のセッションの中での出来事でした。

ある人は子供の頃からずっと愛情をかけてくれなかった母親に持っていた感情をたくさん解放していくと、自然にあれだけ憎いと思っていた母親のことがほんとうは好きだったことがわかり、心から許すことが出来て帰ってゆかれました。

数日してから、その人から驚いた感じで電話があり、『こんなことがあるのでしょうか。家に来ることなどほとんどない母親が急に家に来て、突然に「今までずっと大事にしてあげられなくてすまなかった」と頭を下げてくれたのです』とお伝え下さいました。

またある人は、セッションの中で、まったく愛情をくれなかった母親を同じような感じで許すことが出来てから数日後、『もう何年も話していなかった母親から突然電話がかかってきて「お前今まですまなかった。これから一生かけて償うから」といわれたんです』ととても興奮して知らせてくれました。

ちょっと違った感じでは、嫁姑の仲がかなり悪いお嫁さんが、セッションの中で姑との関係が出てきてその姑さんへのため込んできた思いを解放していくと、自然にこの人も大変でかわいそうな人だったんだと思うことが出来て帰られてから、『なんとあれだけ仲の悪かった姑がこれをあげるよと、100万円くれたんですよ』とだいぶたってから教えてくれました。

実は、このような例が他にもいくつかあるのです。

それらの中には、相手の人を許せたのでその人と話している話し方が自然にやさしくなって、その雰囲気が伝わって相手の対応が変わったという人もいるとも思いますが、そんなに話していないのに突然にそういわれたという人もおられます。

このことも、ユングの集合意識という概念からも説明がつくと思います。ある人が他の人に強く持った思いは、距離は関係なくまったく接触していなくても集合意識から伝わってその人に届くとユングは主張しています。

これについて私の直接的な実体験では、これは多くの人が経験していると思いますが、しばらく来られていないクライアントさんや気づいてみるとかなり長く来られていないクライアントさんがふと気になる時があります。あの人はどうしているのだろうか、お元気にされているのだろうかと思っていると、かなりの確率でその人からメールが来たり、電話がかかってきたりします。

ある時などは、突然クライアントのある人のイメージが頻繁に浮かんできて、何でこの人が急に浮かんでくるのだろうかと思っていると、数日中に必ずその人から連絡が来ます。

このようなことをユングは共時性(シンクロニシティ)と表現していますが、意識が伝搬して相手の人に伝わっていっているのです。

とても変わった体験では、初めて大勢の前で講演会をした日の夜に、とりあえず無事に終わり、今日はよかったなあと寝る前にほってしていると、周りに何人もの人がいて私の方に意識を向けている感じが、その日の余韻としてではなくとてもリアルに感じられてびっくりしました。

初めてのことなので、なんだこの感じは、この人たちは誰だろうと、探ってみると、今日講演会を聞いてくれた人たちのような感じがしました。

コンサートで大勢の人の前に立つことの多い妻に、こんな感じがするんだと伝えてみると、「それってよくあるわ。今日の話はよかったなあと思い出してくれている人の思いが来ているのよ」といいました。

「ああ、やっぱりそうか」と、とても不思議だけど、こんな風なこともあるのだなあと実感した出来事でした。

スピリチュアル的な表現をすれば、これが生き霊なのでしょう。私が好きな表現では、人の意識。意識のエネルギーです。

セッションではいつもお話しますが、「感情は見えないですがそこにちゃんと存在する物質的なものなのです。見えないから半物質といえますね」といいます。だから、解放しなければいつまでもそこに残り続けるし、解放すると完全に消えてなくなるのです。

人の意識や思いはエネルギーです。見えないですが、そこにはっきりと存在しているのです。そしてそれは、時間や空間にも関係なく、あらゆる方向へと広げてゆくことが出来るものなのです。

つづく


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識についての考察(2)

2008年11月01日 | 本などからの気づき
過去にHPに載せていたものです。

いよいよ、心の変化が体の外に取り出した白血球にどう影響を与えるかのオレアリー博士の実体験が始まりました。

博士から採取した白血球に電極を取り付け、本人は数メートル離れた椅子に座り、バクスター博士からプライバシーに関する不愉快になるような質問を受けました。すると、質問に対してオレアリー博士が不愉快な思いをすると、必ず記録紙には反応が出るのです。また、逆にごまかそうとして、不愉快な思いを感じているふりをしてみても、記録紙には何の反応も現れませんでした。ここにきてほんとうに、博士はこの実験は間違いなく本物だと確信するに至ったのです。

そこで次は距離の問題です。白血球からもっと離れてみることにしました。実験時間は、白血球が元気なうちの8時間が限度です。博士は、飛行機に乗って実験室から350マイル(約560km、約東京~大阪間)離れた自宅に戻り、その間中も、心の中に不安や不快な思いを感じたら、その出来事とその時間をすべて克明にメモしました。

曲がり角をまちがえて高速道路に乗れなかったこと、込んだ駐車場にレンタカーをもどしたこと、飛行機の切符を買う長蛇の列で立ちっぱなしだったこと、あやうく飛行機に乗りおくれそうになったこと(その夜の最終便だった)、離陸、着陸、空港に出迎えにきているはずの息子がいなかったこと、トイレに入ったこと、そして帰宅し、就寝するまでのことなどでした。

翌日、オレアリー博士は実験室に戻り、メモと記録紙を比べてみたのです。博士はいいます。『わたしが不快や不安を感じた瞬間のほとんどすべてに、非常に強い相関関係を示す振幅があり、そのほかにもいくつか振幅が加わっていた。わたしの就寝後は、記録紙はまったく落ち着いたものだった。この結果には強い感銘を受けた。もしこの結果が有効であれば、白血球の提供者が自分の血球と感情的に交信し、しかも、その信号は何百マイルもの距離をおいてあきらかに減衰すらしなかった、という仮説を受け入れなくてはならなくなるのだ。まさに、驚天動地である。明らかにわれわれの意識は底辺の部分で、なんらかの形で結びついており、他の生き物と交信ができ、しかもその信号は、遠距離でも衰えることがないのである。』

さらに、オレアリー博士の探求心は衰えません。今度は博士の友人に被験者になってもらいました。もっと結果を確認したい博士は友人と数マイルはなれたホテルに戻りながら、信号を無視したり、ホテルのドアをバタンと閉めたり、友人が心の痛みを感じるような事柄を持ちだすなどといった、実験的いたずらまでしました。そして、友人が不快に感じそうな他に起こった出来事もすべて正確にメモしておきました。

その結果は、またもや感情的反応と記録計の動きは気味が悪くなるほどぴったりと合っていたのです。また、睡眠中には、記録計は何の反応もなく静まりかえったままでした。

バクスター博士はこのような実験をすでにさまざまな人を被験者として何度も行っていて、すべて同様の結果を得ています。

以上、参考文献「内宇宙・外宇宙への旅」ブライアン・オレアリー著 廣済堂

このことから、オレアリー博士もいうように、人の白血球や細胞などの体の小さな一部分にも意識が存在するという可能性が見えてきました。そして、それは本人の体から遠く離れていても距離に関係なく伝わります。ならば、もしかして、すべてのものについても、このことは例外なく当てはまるのかもしれません。人間でいうと、個人だけでなく、家族単位、民族単位、人種単位、そして人類という大きな種においても・・・。

物理的には、一見バラバラに見えるものでも、深いところでは実はつながっていて、気づかない内に大きく影響し合っているのかもしれません。我々は、心の中のほんの小さな活動でさえ、周りになにかしらの影響を与えているのでしょうか。また、この実験は、心理学者ユングの「集合意識」という考え方を、実証したものであるといえるのかもしれません。

つづく


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識についての考察(1)

2008年10月24日 | 本などからの気づき
今回も過去にHPに載せていた文章です。

世界には、クオンタム・ゼイロイドのような測定機を研究、開発している方がたくさんおられます。イギリスやドイツなどでは、それらの機器が医療現場でも使用されていて、健康保険がきくものまであるようです。

これらの機器の大部分は、体の電気の流れを測定して分析・解析しています。たとえば、人の体は、神経の伝達や細胞への栄養や水分の取り込みや代謝活動、老化現象などはすべて電気的作用によって起きています。それゆえ、人間は電気エネルギーのかたまりであると表現することもできます。

しかし、多くの研究者の研究結果の中には、電気エネルギーだけでは説明することができない、驚くべき報告をいくつか見つけることができます。そこで今回から数回、元NASAの宇宙飛行士のブライアン・オレアリー博士の実験体験や植物の意識活動を見つけたクリーブ・バクスター博士の研究をご紹介しながら、意識について考察していきたいと思います。

ブライアン・オレアリー博士は、元プリンストン大学教授。専門は惑星科学と航宙学で、NASAのアポロ計画では宇宙飛行士であり、マリナー10号では金星ー水星テレビジョン科学チームの副団長を務めました。現在は旅行、講演、著作の生活を送っています。

博士はある時、ある実験報告のデータを入手しました。彼は、このデータを手にしたことにより、常識的な理論一辺倒の懐疑的科学者から現代科学で解明できない現象もあることを認める柔軟な立場へとがらりと変わってしまったのです。

実験は、ある女性の唾液から白血球を採取し、それを水溶液の中に入れ、電極をつけて電気反応をグラフで記録できるようにするところから始めます。そして、実験室から5マイル(約8km)離れたところにいるその女性の活動を観察しました。すると、女性がパートナーとの愛の営みの最中には、グラフは激しいのこぎり状の波形を描き、二人の営みが終わったとたんグラフの活動も収まり、睡眠中の数時間はまったく変化しなっかったのです。

この実験は、博士に心の変化と白血球のあいだには、なにか神秘的なある種の関係があることを認めさせました。それに報告書上では、時間を照らし合わせてみると、距離が離れていたにもかかわらず、心の情動と記録紙の波形の変化は驚くほどぴったりと合っていたのです。

そこで、博士は、実験者であるクリーブ・バクスター博士に、ほんとうに心の変化に白血球が反応するのかどうか、そして、距離が離れていてもはたして反応するのだろうか、自分を被験者として実験してもらい、実体験でその真偽を確かめることにしました。

つづく


ホリスティック・セラピー研究所 http://holistic-ti.com
心理や人間存在についての専門的な内容は、HPの「こころのこと」に載せていきます。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする