Luna's “Tomorrow is another day”

生活情報、人間、生きること…。新聞記事から気になる情報をスクラップ!

◆聖徳太子/上 本当に実在の人物だったのか

2008年02月01日 | スクラップ
毎日新聞 2003年 01月 31日



 聖徳太子が架空の人物だと聞けば、バカな!と思う人が多いだろう。7世紀初頭の推古朝、遣隋使を送り、十七条憲法を制定した開明的政治家。一方で、時代に抜きんでた仏教理解を示し、法隆寺を建立した偉大な宗教家……。ところが、こんなポピュラーな太子像がいま劇的に揺らいでいるのだ。

 架空説の震源は大山誠一さん(中部大教授)。歴史ファンの勝手な推理ではなく、アカデミズムの中から出てきた新説だけに同業の専門家も捨て置けない。賛否両論、かまびすしい。

 概要を紹介しておきたい。聖徳太子の業績は日本書紀に詳しく残されている。大山さんの言う「法隆寺系史料」というものもある。法隆寺の釈迦三尊像の光背にある銘文や、中宮寺に伝わる刺しゅうの工芸品「天寿国繍帳(しゅうちょう)」などだ。

 これらを使い太子の聖人像が描かれてきたのだが、大山さんによれば、書紀の膨大な記事にも太子の実在を示すものは一つもない。例えば、小野妹子の隋への派遣や冠位十二階の制定など、中国側史料(隋書)にも記載された記事には、聖徳太子は出てこないのだ。半面、大山説では後世につくられたのが明らかな十七条憲法のようなところには出てくる。確実な史実には太子は一切登場しないのだ。

 一方の法隆寺系史料。古風な表現が残り、評価の高い史料もあるが、太子時代にはなかった「天皇」号の使用など、大山さんは逐一理由をあげてすべての信用性を否定する。「書紀の編者は太子の業績を克明に調べたはずだが、法隆寺系史料がまったく引用されていないのはなぜだろう」といったなるほどと思わせる論考もある。

 以上のことから、何が言えるのか。厩戸(うまやど)と呼ばれた蘇我系の有力な皇族はいた。しかし、数々の偉業でたたえられる聖徳太子はいなかった。聖徳太子は720年成立の日本書紀に初めて登場した概念であり、法隆寺系史料は当然、その後につくられたものである――。

 驚天動地というべきだろう。誰が何のために、という重要な疑問には後に触れる。反論は多様だが、一つの典型が「法隆寺があるではないか」というものだ。法隆寺は670年に全焼したが、今日のように再建された。その動きは早く、天武朝(680年代ごろ)には着手されたことを大山さんも認める。だが、法隆寺は私寺で、しかも太子一族は蘇我入鹿(いるか)に滅ぼされている。誰も再建など考えそうにないそんな寺が荘厳に復活したのは、早くも太子を聖人視する「太子信仰」が芽生えていたからだ、太子が架空ならばなぜ太子信仰があるのか、という論理だ。

 これに対し、大山さんは法隆寺は寺自体と周辺に住む豪族の財力で再建されたと考える。法隆寺の最大のスポンサーが太子一族であったことは否定しないが、斑鳩(いかるが)全域の諸氏族の氏寺だったとみるのだ。だから、今日の法隆寺は確かに立派だが、同時期に国が建てた大官大寺(だいかんだいじ)や川原寺(かわらでら)の方がはるかに巨大。その一流クラスに比べれば法隆寺は相当小さい。太子信仰のような強力な宗教的推進力がなくても、地場の財力で十分再建できたとみるのだ。

 大山さんは「太子架空説」について、ひとつでも反証があれば崩壊すると言う。だが、「まだ学問的に納得できる反論はない。今後も絶対ないという自信がある」と言い切っている。




◆聖徳太子/中 架空の人物を生んだ3人の男   

2003年 02月 07日

 大山誠一さんの「聖徳太子架空人物説」。誰でも抱く疑問は、誰が何のために日本書紀の中で太子を創作したのか、である。

 まず、「誰が」について。大山さんは、藤原不比等と長屋王の二人の意向を受け、道慈(どうじ)という唐帰りの僧が書いたと断定する。命令した二人は日本書紀が完成した720年当時の最高の権力者である。道慈は702年に入唐し、718年に帰国している。この三人がどう絡んでくるのだろうか。

 聖徳太子の人物像に注目したい。仏教に帰依した人物とのイメージが強い太子だが、実は道教や儒教的要素も色濃い。例えば、十七条憲法。「篤(あつ)く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」とあるように仏教色は明らかだが、それ以上に儒教道徳が目立つ。君臣関係や官僚の服務規程順守が強調されているのだ。一方、道教的要素も見逃せない。太子が飢えた人を哀れんで食糧を与えたがその人は死ぬ、ところが埋葬された死者の体が消えて衣服だけが残る「片岡山の飢者説話」という話が書紀にある。これは、仙人の不老不死を強調する神仙思想そのものだ。

 律令国家の基礎を固めたい不比等は儒教の支持者である。また最古の漢詩集「懐風藻」によれば、長屋王の神仙への憧(あこが)れようは大変だった。そして、僧の道慈は仏教への傾倒は当然だが、唐では道教思想にも親しんでいたらしい。もちろん、在唐17年で最新知識には事欠かない。こうして不比等、長屋王コンビが、書紀編纂(へんさん)の最終段階で道慈を参加させ、3要素がミックスした太子をつくらせた――これが大山さんの筋書きである。

 ところが、この道慈述作説をくつがえしかねない著作が現れた。森博達(ひろみち)さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書)だ。漢文で書かれた日本書紀の文字の音に注目して全30巻を分析。中国音による表記の巻(α群)と、日本音の表記の巻(β群)に区別できることを発見した。さらに音だけでなく、日本語の発想に基づく漢字や漢文の意味や用法の誤用がβ群に偏在することも立証した。

 こうしてα群は渡来唐人の述作、β群は日本人の新羅留学僧の述作だと精密な論証で推理したのだが、問題の推古紀(巻22)はβ群に属する。つまり、漢文の知識が未熟な日本人が書いたことになる。だが、道慈は20年近くも中国語で生活した俊才だ。それにしては考えにくい漢語の誤用や奇用が多すぎる、ごく初歩的なミスまである――これが大山説への批判だ。しかも、巻22では太子関係記事にも、その他の記事にも区別なく誤用が出現する。これでは編纂の最終段階で道慈が太子関係記事を書き加えたとする推定も揺らぐ。

 ピンチに見えた大山さんも反論する。「在米20年の日本人でもアメリカ人の英語はしゃべれない。道慈も中国語の知識や教養は身につけても、ネイティブな発音は身につかなかったのではないか」。さらに、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)という最新の経典が書紀全体に引用されているのも道慈述作を裏付けるという。この経典は翻訳の経緯から道慈が帰国の際にもたらしたと考えるしかなく、α群β群に関係なく道慈の関与は明白と主張する。

 正しいのはどちらの言い分か。ともあれ大山説が成立するならば、後に残る謎は「何のための太子創作か」だろう。




◆聖徳太子/下 歴史の創作はさらに根が深い!?  

2003年 02月 14日

 聖徳太子が架空の人物だったとしたら、創(つく)られた理由は何か。

 「太子架空人物説」の大山誠一さんは「白村江(はくそんこう)の敗戦が決定的だった」と述べる。663年、滅亡した百済の復興を支援した倭軍が唐・新羅連合軍に惨敗。救援どころか両軍の進攻を恐れる非常事態を招いた。先進地、大陸との交流は断絶し、文化の差も一層広がった。遣唐使が再開され、遅れをまざまざと思い知らされる。

 「当時、新羅は全盛時代で、半世紀は日本の先を行っている。コンプレックスですね。けんかをすればこっちが強い。でも、文化でも勝ちたい。急に追いかけるには“飛び級”が必要なのです。誰かに跳んでもらわなければいけない。日本という国が聖徳太子を必要としていたのです」

 大山説に従えば、8世紀初頭の東アジア情勢の帰結としてつくられたのが、理想的天皇像としての聖徳太子だった。律令を整え、平城京をつくり、新しい律令国家を主宰する天皇が「中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示した」のだった。仏教、儒教、道教をハイレベルで理解している超人、聖徳太子。時の玄宗皇帝をその目で見、718年に帰国した留学僧・道慈(どうじ)の存在によって初めて可能な人物創造劇だったという。天皇の権威を高め、日本の立派さを中国、新羅に政治的に誇示する正史・日本書紀編纂(へんさん)の重要目的にもピタリ合致するというわけだ。

 理想的天皇像をつくるのになぜ天皇ではない厩戸(うまやど)が選ばれたかだが、子孫が断絶してしまい、粉飾のしやすさが買われた、とみる。もちろん推古朝の有力者で、仏教の普及に貢献したことも間違いない。後世、大人物に祭り上げられてもさほどの違和感がなかっただろう、という。こうして藤原不比等、長屋王、道慈の3人が書紀の中でつくり上げた聖徳太子像に肉付けした中心人物は、藤原氏の出で聖武天皇の后(きさき)の光明子だという。母や藤原4兄弟の急死で危機感を抱き、太子の加護を求めた。法隆寺を盛んに援助し、太子信仰の発展を促したのである。

 実在した厩戸を利用した聖徳太子の創作と発展劇。納得いただけただろうか。それにしても、疑問が尽きるわけではない。光明子の行動にしても、心から誰かにすがりたいと思った時、よりによって架空の人物に頼るだろうか? だが、話ははるかに複雑なのだ。そもそも太子は日本史上の大悪人とされてきた蘇我氏直系の人物ではないか。それがなぜ聖人に……。

 6~7世紀ごろの歴史はわからないことが多すぎる。例えば、推古朝ごろの中心地・飛鳥に当時の天皇の墓がない点が不審、と大山さんは言う。太子の父・用明、次の崇峻(すしゅん)、さらに推古、太子自身、いずれも西に山を越えた河内に葬られた。一方、飛鳥の巨大墓には稲目(いなめ)、馬子の蘇我父子が眠り、次の代の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子も飛鳥に造った墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせたと書紀は記す。単に呼ばせたのではなく、事実「陵」だった可能性はないか。本当のところ、どちらが大王だったのか。

 「大化の改新(645年~)の段階で日本の歴史が変えられている」。大山さんの聖徳太子架空説は、太子一人をめぐる謎解きにとどまらず、古代史の壮大な見直しの第一歩でもあるのだ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 特集:女性のための漢方セミ... | トップ | オトコとオンナの事情・フラ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

スクラップ」カテゴリの最新記事