◇白蓮とスエの熱き思い
四国の香川県丸亀市に「丸亀少女の家」という女子の少年院がある。今年1月と8月の二回、「丸亀少女の家」を訪ねる機会があった。
なんとも奇妙な空気が流れていると思った。
女子の少年院は、少年のそれに比べて緩やかな空気が流れているものだ。点呼や行進における少年のガナリ声が聞こえないし、少年を見守る法務教官の視線も女子施設のほうがあきらかに柔らかい。少年の行動に枠組みを示して教育する度合いが高い男子施設に比べて、女子の内面に寄り添うことの多い教育方法の違いもあるだろう。
それにしても「丸亀少女の家」は違う、と思った。この三年間に私が訪れた少年院は、指折り数えてみるとおよそ十である。他の施設に流れていない、不思議な空気がある。
「丸亀少女の家」のなかに茶室があった。床の間に掛け軸が下がっていて、達筆の短歌がしたためられている。
あまつ神のみ使ぞ これをとめらは 世の人のため 花と匂へよ 白蓮
「少女たちは、天津神の使いである美しい精霊なのです。世の人のため、女として花のように咲き誇り、生きていきなさい」というほどの意味であろうか。
短歌の贈り主は柳原白蓮(1885-1967)だ。伯爵家に生まれ、政略結婚をさせられた末に、大正10年、炭鉱成金・伊藤伝右衛門を捨て、宮崎竜介という新聞記者と駆け落ちするという波乱の生涯を送った女性である。白蓮の駆け落ちは当時の新聞を賑わせた大スキャンダルであったらしい。道具としての女を捨てて、命がけで恋に生きた人である。
そういう白蓮の「花と匂へよ」という言葉が、女子少年院の中央にある茶室に鎮座している。罪を犯して国家に自由を奪われた少女たちの教育施設を、善悪をはるかに超えた言葉がみつめている事実に、私は感動と戸惑いを覚えた。
「丸亀少女の家」の創設者は三原スエという女性だ。明治36年、津和野生まれ。娘の刑部サエ子さんが出版した『希望の炎 絶やすまじ(三原スエの生涯)』(平成十年私家版)によれば、スエもまた「七つの恋と二度の結婚をした」激しい生き方をした人だった。
女学校四年の時に初めての結婚をしたものの、妻子ある男性と恋に落ちるなど自分の激情をもてあました末に京都に出奔、社会奉仕や座禅に救いの道を求めた。京都の貧民窟で「ボロにくるまっている人たちと暮らしている」25歳のスエを嫁にしたのが、酒を片手に下げたまま袈裟衣の上にプロテクター、坊主頭にマスクをつけて野球のアンパイアをつとめる「野球狂の坊さん」三原憲照であった。
三
原憲照の故郷である丸亀市に戻ったスエは、太平洋戦争のさなか国防婦人会の先頭に立ち、大政翼賛体制にのめりこむ。国防婦人会の香川県支部長、四国四県五十万人をまとめる連合婦人会長をつとめ、出征兵士に宿を提供するなど、国の戦争遂行に自分の持てる力を捧げたのである。
そして敗戦。目の前に広がるのは、焼け跡と行く先をなくした子どもたちであった。
今日もまた裸体(はだか)に素足の子等をみぬ 世のあなどりに追われてありき
戦はいとしき子等の父をとり 家を焼き捨て母も奪いぬ
時は昭和22年、三原スエは高松駅の前に群れる戦災孤児の姿を眺めている。この時、スエは四十代半ばである。
もの総(な)べて奪わる中になお生きん いとし子なれば許しませ罪
決然と願いをたてし吾れなりき 母なき子等の母とならんと
吾が願い 世をも人をも焼きつくし 清く建てなん少女の家は
最後の一首は、火が吹き出るような国親思想と言えよう。
三原スエはさっそく行動を起こす。スエの嫁ぎ先である善照寺に少女を引き取るという活動から始まり、昭和23年には丸亀城の陸軍施設跡に私立「少女の家」が設立された(設立時の少女11名)。翌24年には新少年法の施行に伴い「四国少年院分院丸亀少女の家」として国立の施設となる。独立した少年院となった後、現在の中津町の海辺に移転したのが昭和27年のことだ。
中津町の土地を購入する際、三原スエは「花嫁学校を建設するのだ」という「首を吊る覚悟の嘘」を吐いて交渉に当たったとされている。
七人のわが子を育てながらの活動だった。戦争責任を我が身のこととして考え、これほどまでに深く反省することができた「美しい日本人」がいたのである。
柳原白蓮と三原スエの交流は戦後に始まったものらしい。講演で香川県にやってきた白蓮をスエが訪ね、やがて肝胆相照らす仲となった。「花と匂へよ」の短歌はそうした交流のなかで贈られたものである。
「丸亀少女の家」が生まれて六十年になろうとしている。日本社会は敗戦からの復興、高度成長、石油ショック、列島改造、高度消費社会の到来、バブル経済、グローバリズムのための構造改革を経験し、黄昏に佇む先進国として未来を模索している。
グローバリズムとは、独り勝ちを目指して獣のように他者をなぎ倒して生きなければ、死が待っている世の中のことらしい。
いつのまにかオトナがいなくなった。
非行少年に対面すれば、すぐにわかることだが、そこにあるのは驕慢や悪意などの過剰なエネルギーではない。ごく平凡な家族の愛情や周囲の大人からの信頼をもらいそこね、成功体験も少ない。そこから来る自己否定の感情、コンプレックス、怖れ。少年たちを苦しめているのは、そういう欠落なのだ。
私が「少女の家」で出会った女性の法務教官は、覚醒剤使用などで送られてきた少女たちと向き合いながら、「自分の体を使って真面目に働くこと、家族と仲良くすることを教え続けている」と語った。
次の一首は白蓮がスエのために贈った歌。
国と人の歴史のなかに身は生きて 誰かのためになりて死にたき
髪を三つ編みにしてスリッパを履いた少女たちはどこかすねた表情だ。彼女たちが、この少年院の暮らしのなかで、三原スエの情熱を受け取っていたのだと感得するのはいつのことだろうか?<絵・吉開寛二>
毎日新聞 2007年10月20日 西部朝刊
四国の香川県丸亀市に「丸亀少女の家」という女子の少年院がある。今年1月と8月の二回、「丸亀少女の家」を訪ねる機会があった。
なんとも奇妙な空気が流れていると思った。
女子の少年院は、少年のそれに比べて緩やかな空気が流れているものだ。点呼や行進における少年のガナリ声が聞こえないし、少年を見守る法務教官の視線も女子施設のほうがあきらかに柔らかい。少年の行動に枠組みを示して教育する度合いが高い男子施設に比べて、女子の内面に寄り添うことの多い教育方法の違いもあるだろう。
それにしても「丸亀少女の家」は違う、と思った。この三年間に私が訪れた少年院は、指折り数えてみるとおよそ十である。他の施設に流れていない、不思議な空気がある。
「丸亀少女の家」のなかに茶室があった。床の間に掛け軸が下がっていて、達筆の短歌がしたためられている。
あまつ神のみ使ぞ これをとめらは 世の人のため 花と匂へよ 白蓮
「少女たちは、天津神の使いである美しい精霊なのです。世の人のため、女として花のように咲き誇り、生きていきなさい」というほどの意味であろうか。
短歌の贈り主は柳原白蓮(1885-1967)だ。伯爵家に生まれ、政略結婚をさせられた末に、大正10年、炭鉱成金・伊藤伝右衛門を捨て、宮崎竜介という新聞記者と駆け落ちするという波乱の生涯を送った女性である。白蓮の駆け落ちは当時の新聞を賑わせた大スキャンダルであったらしい。道具としての女を捨てて、命がけで恋に生きた人である。
そういう白蓮の「花と匂へよ」という言葉が、女子少年院の中央にある茶室に鎮座している。罪を犯して国家に自由を奪われた少女たちの教育施設を、善悪をはるかに超えた言葉がみつめている事実に、私は感動と戸惑いを覚えた。
「丸亀少女の家」の創設者は三原スエという女性だ。明治36年、津和野生まれ。娘の刑部サエ子さんが出版した『希望の炎 絶やすまじ(三原スエの生涯)』(平成十年私家版)によれば、スエもまた「七つの恋と二度の結婚をした」激しい生き方をした人だった。
女学校四年の時に初めての結婚をしたものの、妻子ある男性と恋に落ちるなど自分の激情をもてあました末に京都に出奔、社会奉仕や座禅に救いの道を求めた。京都の貧民窟で「ボロにくるまっている人たちと暮らしている」25歳のスエを嫁にしたのが、酒を片手に下げたまま袈裟衣の上にプロテクター、坊主頭にマスクをつけて野球のアンパイアをつとめる「野球狂の坊さん」三原憲照であった。
三
原憲照の故郷である丸亀市に戻ったスエは、太平洋戦争のさなか国防婦人会の先頭に立ち、大政翼賛体制にのめりこむ。国防婦人会の香川県支部長、四国四県五十万人をまとめる連合婦人会長をつとめ、出征兵士に宿を提供するなど、国の戦争遂行に自分の持てる力を捧げたのである。
そして敗戦。目の前に広がるのは、焼け跡と行く先をなくした子どもたちであった。
今日もまた裸体(はだか)に素足の子等をみぬ 世のあなどりに追われてありき
戦はいとしき子等の父をとり 家を焼き捨て母も奪いぬ
時は昭和22年、三原スエは高松駅の前に群れる戦災孤児の姿を眺めている。この時、スエは四十代半ばである。
もの総(な)べて奪わる中になお生きん いとし子なれば許しませ罪
決然と願いをたてし吾れなりき 母なき子等の母とならんと
吾が願い 世をも人をも焼きつくし 清く建てなん少女の家は
最後の一首は、火が吹き出るような国親思想と言えよう。
三原スエはさっそく行動を起こす。スエの嫁ぎ先である善照寺に少女を引き取るという活動から始まり、昭和23年には丸亀城の陸軍施設跡に私立「少女の家」が設立された(設立時の少女11名)。翌24年には新少年法の施行に伴い「四国少年院分院丸亀少女の家」として国立の施設となる。独立した少年院となった後、現在の中津町の海辺に移転したのが昭和27年のことだ。
中津町の土地を購入する際、三原スエは「花嫁学校を建設するのだ」という「首を吊る覚悟の嘘」を吐いて交渉に当たったとされている。
七人のわが子を育てながらの活動だった。戦争責任を我が身のこととして考え、これほどまでに深く反省することができた「美しい日本人」がいたのである。
柳原白蓮と三原スエの交流は戦後に始まったものらしい。講演で香川県にやってきた白蓮をスエが訪ね、やがて肝胆相照らす仲となった。「花と匂へよ」の短歌はそうした交流のなかで贈られたものである。
「丸亀少女の家」が生まれて六十年になろうとしている。日本社会は敗戦からの復興、高度成長、石油ショック、列島改造、高度消費社会の到来、バブル経済、グローバリズムのための構造改革を経験し、黄昏に佇む先進国として未来を模索している。
グローバリズムとは、独り勝ちを目指して獣のように他者をなぎ倒して生きなければ、死が待っている世の中のことらしい。
いつのまにかオトナがいなくなった。
非行少年に対面すれば、すぐにわかることだが、そこにあるのは驕慢や悪意などの過剰なエネルギーではない。ごく平凡な家族の愛情や周囲の大人からの信頼をもらいそこね、成功体験も少ない。そこから来る自己否定の感情、コンプレックス、怖れ。少年たちを苦しめているのは、そういう欠落なのだ。
私が「少女の家」で出会った女性の法務教官は、覚醒剤使用などで送られてきた少女たちと向き合いながら、「自分の体を使って真面目に働くこと、家族と仲良くすることを教え続けている」と語った。
次の一首は白蓮がスエのために贈った歌。
国と人の歴史のなかに身は生きて 誰かのためになりて死にたき
髪を三つ編みにしてスリッパを履いた少女たちはどこかすねた表情だ。彼女たちが、この少年院の暮らしのなかで、三原スエの情熱を受け取っていたのだと感得するのはいつのことだろうか?<絵・吉開寛二>
毎日新聞 2007年10月20日 西部朝刊
いまも、あることに驚いている。 まいる