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悲憤の島から:第1部・日米のはざまで/4 力ずくで農地奪われ

2010年08月21日 | スクラップ


  


■移民の苦難伝えたい

 那覇市内から車で国道58号を北上し、宜野湾市に入ると、急に英語の看板が目立ち始める。沖縄本島を南北に貫く58号。右に左に基地が続く。米軍が基地間の移動のために整備したといわれる。普天間飛行場の西を抜けると、すぐにキャンプ瑞慶覧(ずけらん)が右手に見える。フェンスの向こうには青々とした芝生が広がっていた。沢岻安三郎(たくしあんさぶろう)さん(67)の土地はその中にある。

 沢岻さんは55年前の異様な光景を鮮明に覚えている。1955年7月19日早朝。目覚めて家の外に出ると、58号を隔てた水田に鉄条網が張り巡らされていた。銃を構える何人もの兵士も見えた。宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜地区の土地はその日、米軍に強制収用された。水田には砂利が流し込まれ、家屋はブルドーザーで壊された。周囲の大人たちは「この土地は死んだ」と嘆きあった。

 朝鮮戦争などで緊迫する極東情勢を背景に、米軍は沖縄の基地拡大を進めていた。伊佐浜の土地も明け渡しを求められていた。沢岻さんの父らが反対運動を展開したが、「銃剣とブルドーザー」の前には無力だった。

 生活の支えの農地を失った両親はブラジル移住を決意する。「人種差別がなく、広くて豊かな国」。沢岻さんも新天地にあこがれた。出発直前に自宅前で撮影された記念写真には、両親の間で笑顔を浮かべる14歳の沢岻さんが写っている。

 57年8月、伊佐浜出身の10世帯60人を乗せた貨客船が那覇港を出発した。約2カ月の船旅。沖縄出身の移民が経営するコーヒー園に着くと、沢岻さんは広大さに目を見張った。見渡す限りの平らな土地に等間隔でコーヒーの木が並んでいた。

 だが、仕事は過酷だった。朝6時から12時間、他の労働者と1列に並び、競うように雑草を抜いた。土ぼこりが舞い、下着の中まで入り込んだ。冬は夜明け前の寒さに凍えながらくわを握った。安い日給でその日を生きるのが精いっぱい。電気や水道もなく、夜は石油ランプをともした。

 体調を崩した母は「帰りたい」と繰り返した。激しいインフレも追い打ちになり、62年秋、失意のうちに帰国した。中学をやめてまでブラジルに来たのに、またゼロからのやり直し。那覇港が見えてくると、懐かしさと不安で涙が止まらなかった。

 食べていくには仕事を選ぶ余裕はない。「アメリカを恨んでも仕方ない」と割り切り、米軍基地で食糧運搬の仕事をしたこともある。「せめて高校を卒業したい」と仕事の傍ら夜間学校にも通ったが、受験会場では保護者と間違われ、恥ずかしさでいっぱいになった。

 ブラジルで失った5年間を取り戻すために必死で働き、今では宜野湾市に建築設計事務所を構える。自宅を兼ねた事務所で沢岻さんは、他界した両親のブラジル時代の写真に視線を落とし、ため息交じりにつぶやいた。「アメリカはなかなか放さないですよ」。半ばあきらめながらも、父から受け継いだ土地が戻ってくればと願う。

 家族でブラジルから戻った唯一の世帯。語り継げるのは自分しかいない。沢岻さんは今、手記にして地域史に残す準備を進めている。子や孫の世代に伝えたい。故郷を追われた移民の苦難の歴史を。【椋田佳代】=つづく

 


毎日新聞 2010年8月4日 東京朝刊

 

 

 

 


悲憤の島から:第1部・日米のはざまで/5止 捕虜になり日系2世通訳兵と結婚
 
 


■今、ともに平和祈る

 参院選投開票日の7月11日。米ハワイ・カウアイ島に住む瀬川晴子さん(83)は、与党の過半数割れを伝える日本語放送のニュースを見ながらため息をついた。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題はどう決着するのか。故郷の行く末に不安が募る。

 65年前の沖縄戦で、晴子さんは女子学徒隊に動員され、病院として使われた壕(ごう)に配属された。傷ついた日本兵を懸命に看護した。あごが割れ、管で食事を与えるしかない兵士、最期を悟ったのか「お母さーん」とか細い声を上げる兵士。胸が痛んだ。「どうしてこんな戦争を始めたの」。涙をこらえ、壕の中を右に左に走った。

 那覇市の積徳高等女学校に通っていた晴子さんたちの「積徳学徒隊」は、軍医の小池勇助隊長が率いていた。「姫たち、乙女たち」と声を掛け、命の尊さを説く珍しい軍人だった。1945年6月23日に日本軍の組織的な戦闘が終わった3日後、小池隊長は生徒を集め、解散を告げた。そしてこう言った。「決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に戻り、せい惨な戦争を語り伝えてくれ」。一人一人と別れの握手を交わした。

 壕を出た晴子さんは米兵がまいたチョコレートとたばこを見つけ、隊長にあげようと戻った。「隊長殿、隊長殿」。目を閉じて横たわる隊長に声を掛けると、そばにいた副官がつぶやいた。「もう仏様になられたよ。5分遅かったなあ」。青酸カリを飲み、自決していた。声を上げて泣いた。

 日本の敗色が濃くなった8月。米軍の捕虜になった晴子さんは、看護師として働くよう命じられた北部の海軍病院で、後に夫となる省三さん(89)と出会った。日系2世の通訳兵に良い感情は抱かなかった。「日本人の血が流れているのに、どうして攻めてきたの」。疑問をぶつけると、こんな答えが返ってきた。「違うんだ。殺しに来たんじゃない。助けに来たんだ」

 省三さんも両親の国と戦うことに葛藤(かっとう)していた。「日本語はできない」とうそをつき、日本行きを免れようとしたが、軍は省三さんがハワイの日本語学校を卒業していることをお見通しだった。

 8月のある晩、晴子さんが他の生徒と日本の歌を歌っていると、省三さんも一緒に口ずさみ出した。「もしかしたら気持ちが通じるかも」と思えるようになっていった。

 47年8月に結婚し、カウアイ島に渡ってからも、「生きて、語り伝えて」という小池隊長の言葉が心にあった。小学生向けの日本語学校の教師をしながら、授業の合間に学徒隊の話をした。死が美徳と考えられた時代に、積徳学徒隊25人のうち22人が生還できたのは、小池隊長の言葉があったからだと思っている。

 3年前、小池隊長の出身地・長野で慰霊祭が営まれた。ハワイから参列した晴子さんの傍らには、墓前に手を合わせる省三さんの姿もあった。「『元米兵が』と思われるかもしれませんが、晴子を生かしてくれてありがとうございました」

 戦争がなければ出会わなかった2人。地獄を見たからこそ、平和への思いはひとしおだ。晴子さんは基地に揺れる沖縄を思い、毎日「早く落ち着きますように」と仏壇に祈りをささげる。そこには省三さんが毎朝供える花が香りを放っている。【野口由紀】=第1部おわり

 

 

毎日新聞 2010年8月5日 東京朝刊

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