悲憤の島から:第2部・コザ孤児院/1(その1) 「ひめゆり」の先生と教え子60人
■再会「命どぅ宝」 65年、戦後生き抜き
沖縄の梅雨が明けた翌日の6月20日。夏の訪れを告げる強い日差しが降り注いでいた。1945年の沖縄戦の孤児を収容した「コザ孤児院」で亡くなった子供たちの慰霊祭が沖縄市納骨堂で初めて開かれた。かつての戦争孤児ら約60人が集い、再会を喜び合う中に仲里マサエ先生(86)の姿もあった。
65年ぶりに並んだ懐かしい顔。幼かった子供たちはそれぞれの人生を歩み年齢を重ねていた。
その元気な姿を見て、仲里先生は「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」という沖縄言葉を思い浮かべた。「生きていれば、会えるんだね」。長嶺将興(しょうこう)さん(77)ら教え子たちの肩を抱き寄せていた。
◇
孤児たちの記憶に、ある歌声が刻まれている。「コケコッコー夜が明けた お空は真っ赤な朝焼けだ」。21歳になったばかりの仲里先生の歌声が毎朝、まだ眠りの中にいる子供たちを目覚めさせた。
当時12歳の長嶺さんは一緒にコザ孤児院に入った4歳の弟が栄養失調で亡くなり、独りぼっちだった。昼間は他の孤児とはしゃいでも、夜になると涙がぽろぽろこぼれた。いつも先生のそばに寄り添った。母のぬくもりを感じたかった。
教科書やノートがなく、授業はあまり進まなかったが、大きな木の下で仲里先生が砂の上に「ABC」を書いて教えてくれた。先生がドラム缶を切って作ったブリキの大太鼓をたたき、草笛や缶詰の楽器で合奏した。先生の笑顔が母と重なり寂しさを忘れさせた。
仲里先生は、負傷兵の看護などに動員されて多くの犠牲者を出したひめゆり学徒隊の一員だった。米軍の捕虜になったが、師範学校に通っていた経験を買われ、コザ孤児院で教えるよう命じられた。家族の安否が分からず、「先生も同じよ、みんなで頑張ろうね」と孤児たちを励ました。
夜は、生徒と一緒にテントで寝た。親が恋しくて、泣き出す子供たち。「お星様を見てね。お父さん、お母さんが見守ってくれてるよ」。赤ん坊をあやすように、背中をさすり、子守歌を歌った。栄養失調で腹が膨らんだ子、赤痢なのか下痢が続く子、朝起きると毎日のように何人かの子が亡くなっていった。
両親と弟3人が生きていると分かり、仲里先生は45年秋、沖縄本島北部の郷里に帰ることになった。「強く生き抜いてほしい」。そんな思いを込めて自分の髪を切り、紙に包んだお守りを子供たち一人一人に手渡した。「寂しい時は思い出して。元気でいれば、いつか会えるから」
孤児院を離れた仲里先生は、郷里の中学・高校で教員を務め、定年まで働いた。「あの子たちはどうなったかね」。忘れたことはなかった。
長嶺さんは、先生からもらったお守りをズボンのポケットに入れ、いつも持ち歩いていた。そして夢に見た再会を果たした。
コザ孤児院でたくさんの幼い命を見送った2人。「平和で静かな沖縄」を取り戻すことが、弔いになると信じている。【大沢瑞季】
◇
65年前の沖縄戦で家族を失った孤児たちが歩んできた道のりは、沖縄の悲しみと怒りの歴史と重なる。第2部はその人生を追った。(次回から社会面掲載)
■ことば
◇コザ孤児院
米軍は1945年4月に沖縄本島上陸後、各地に難民収容所を作った。現在の沖縄市内にその一つ「コザキャンプ」ができ、キャンプ内の空き家を利用してコザ孤児院が作られた。800人以上の戦争孤児が収容され、県内の孤児院では最大規模。小学校も併設され、戦時中に師範学校などに通っていたひめゆり学徒隊員ら約10人が教師を務めた。49年に各地の孤児院が統合されたため閉院した。当時のコザキャンプは返還され、現在は民家が建ち並ぶ。
■砲撃で家族6人失い、弟も4歳で栄養失調死 ◇「悲しみ、我々で終わりに」
「コザ孤児院」で亡くなった子供たちの慰霊祭。長嶺将興さん(77)は祭壇の前で静かに手を合わせ、4歳で短い生涯を閉じた弟の冥福を祈った。「天国ではお父さん、お母さんと一緒だよね」
米軍の砲撃で家族6人を失った長嶺さんは1945年6月、生き残った弟と2人でコザ孤児院に入れられた。だが、弟は栄養失調で日に日に弱っていく。近くの水田から取ってきたタニシをせんじて飲ませ、必死に看病したが、幼い命は1カ月ももたなかった。ある朝、横で寝ていた弟に触れると冷たくなっていた。「これでもう独りぼっちなんだ」。地面に掘られた大きな穴に、他の孤児の遺体と一緒に投げ入れられる弟をぼうぜんと見ていた。
終戦から1年後の夏。親類の家に引き取られた長嶺さんは、家族の遺骨を拾うため南部に向かった。親類の家がある首里から、家族が砲撃を受けた地まで約20キロの道のり。緑で覆われていた山は、炎で焼かれて白い岩肌を見せ、激戦の傷跡を残していた。サトウキビ畑の間をぬうように歩きながら、あの日の記憶をたどった。
45年6月、長嶺さんの家族は自宅近くの防空壕(ごう)に避難していた。「作戦に使用するので出るように」。日本軍の張り紙が張られ、どしゃぶりの雨の中を逃げた。ある夜、避難していた民家が米軍に砲撃され、父と姉、弟2人は即死。生後数カ月の弟の頭は吹き飛ばされていた。母は内臓が見え、父のゲートルを巻いてあげたが、翌朝息を引き取った。無傷だった長嶺さんも一緒に死にたかった。「天国に行く時は、僕の手を引いてね」と、右腕をもがれた祖母に懇願した。「手を引くよ」とうなずいてくれた祖母も一人で旅立った。
家族が最期を迎えた民家は、裏手にあった井戸が目印となり、簡単に見つかった。かやぶきの家は焼け落ち、炎に包まれた家族の亡きがらは粉々の骨に姿を変えていた。「迎えに来たよ。一緒に家に帰ろうね」。泣きながら灰を手ですくうと、麻袋がいっぱいになった。意外にも軽く感じた袋を背負い歩き出すと「自分は家族に生かされている」と思えた。
戦後はただ一人生き残った者の務めと思い必死に働いた。米軍基地のハウスボーイ、親類の菓子店の手伝い……。40歳で独立し、首里城の近くでチーズケーキが人気の洋菓子店を妻と2人で営んだ。沖縄の伝統菓子ちんすこうを作る職人だった父の背中を無意識に追っていたのかもしれない。
5人の子供に恵まれた。「父さんは独りぼっちで寂しい思いをした。お前たちはきょうだい5人で支え合っていくんだよ」。何度も子供たちに言い聞かせた。
◇
コザ孤児院で亡くなった子供たちの遺体は、コザキャンプ内にある墓地に埋められたが、その後、沖縄市納骨堂に一括して移された。長嶺さんの弟の遺骨もあるはずだ。
慰霊祭で手を合わせながら、長嶺さんは一心に祈っていた。「子供たちに悲しい思いをさせちゃいけない。戦争孤児は我々で終わりにしてほしい」と。【大沢瑞季】
毎日新聞 2010年8月11日 東京朝刊
悲憤の島から:第2部・コザ孤児院/2 家族5人失った姉弟、戦場の記憶
■「人の尊厳って何だ」
夜、布団に横になると、妹を失った時の記憶がよみがえる。道なき道を逃げ回る自分と妹。右にも左にも敵がいて、どこにも行けない--。田島貞子さん(87)はいつしか睡眠薬を手放せなくなった。
弟の西平守雄さん(76)も時々同じような夢を見る。酒に酔って帰宅すると、泣きながら沖縄戦で犠牲になった家族の話を妻にしているらしい。年に何度も会う仲のよい姉と弟はつらい記憶を共有している。
65年前の梅雨。沖縄本島南部に米軍艦からの艦砲射撃が降り注いだ。母が両足を負傷して動けなくなった。「へえくなー、ひんげれー、ひんげれー(早く、逃げなさい、逃げなさい)」。2人の耳にはあの時の母の声が今もはっきり残っている。
「後で迎えに行こうね」と言う父の声は涙で震えていた。長女の貞子さんは一升瓶に水をくんで母のそばに置いた。「あんまー(お母さん)よー」と泣く三男の守雄さん。逃げながら何度も後ろを振り返った。母の最期は分からない。何日か生きて苦しんだのだろうか。「どこかで捕虜になって生きてないか」。ずっと祈っていた。
民家に避難していると突然、銃口で戸を払い、米兵が侵入してきた。男たちは庭に並ぶよう命令され、父も列に並んだ。女性や子供は裏口から逃がされた。「バラバラバラ」。背後で銃声が聞こえ、懸命に走って逃げた。
母と父を失った。食料も着替えもない。畑のサトウキビをしゃぶって空腹をしのぐ日々。「どうせ死ぬなら家に帰って死のう」。貞子さんの提案で道を引き返す途中、銃弾が7歳の妹の頭を撃ち抜いた。「私が帰ろうって言わなければ」。貞子さんは今も苦しむ。
当時22歳の貞子さんを筆頭に3歳の弟まできょうだい6人が捕虜になり、米軍キャンプ内にできたコザ孤児院に送られた。すぐに5歳の妹は栄養失調で死んだ。日本軍にいた長男も戦死し、10人家族は5人になっていた。
貞子さんは炊事係として働き、守雄さんは孤児院内の小学校で学んだ。倉庫から缶詰を盗むのが守雄さんの楽しみになった。卵の黄身やアイスクリームの粉末だったら大当たり。裏山に隠し、味わったことのない甘い粉末をなめた。夜は、誰にも気づかれないよう、静かに涙をぬぐった。
高校卒業後、守雄さんは米軍基地で働いた。軍港で荷物検査員をしていた時は、ズボンに缶詰をたくさん隠し、持ち帰った。トラック1台分の荷物を盗み、闇市に流す同僚もいた。略奪は、戦果を上げるという意味の「戦果アギャー」と呼ばれ、罪の意識はなかった。
一方で、米国には複雑な感情を抱いた。10代のころは「家族を殺された。自分も米兵を殺そう」と思い詰めたこともある。基地内の信用金庫で働いていた時、同僚の米国人からホームパーティーに招かれ、何度も飲食を共にした。だが、最後まで心は開けなかった。
守雄さんは終戦後、遺骨収集を手伝ったことがある。サトウキビが勢いよく茂っている場所には必ず遺体があった。ごろごろと転がる遺体を担架で運び出して埋葬した。「人間の尊厳って何なんだ」。いかに戦争がそれを奪うか。その時感じた怒りと悲しみが消えることはない。【大沢瑞季】=つづく
毎日新聞 2010年8月12日 東京朝刊
悲憤の島から:第2部・コザ孤児院/3 初めて話す集団自決
■65年経て…「悲惨な事実消えてしまう」
「よく今まで生きてきたなと……。今は孫も10人いて……」。沖縄戦の集団自決で家族を失い、たった1人生き延びた松本実さん(73)は、こみ上げる涙で言葉が続かなくなった。6月20日に沖縄市で開かれたコザ孤児院の慰霊祭。かつての戦争孤児たちの前で自分のことを語るうち、生かされていることへの感謝と、絶望の中で死んだ家族の無念を思う気持ちがない交ぜになった。
戦闘が激しさを増した1945年初夏。8歳の松本さんは家族と一緒にガマ(自然壕(ごう))に身を隠していた。ある日、大雨が降ってガマに濁流が流れ込んだため、近くの廃屋に移って息を潜めていると、誰かがささやいた。「米兵が近付いてくる」。米兵に見つかれば残酷な殺し方をされると教えられていた。
「もう駄目だ」
「殺されるくらいなら自決しよう」
大人たちの話し声が聞こえた。数十人の住民の中に交じっていた2人の日本兵が自爆攻撃用の爆薬を詰めた木箱を持っていた。皆で木箱の周りに輪になって座り、松本さんも両親、姉、弟と肩を寄せ合った。爆発の瞬間はよく覚えていない。目を開けると、血だらけで後ろに倒れる人影が見えた。低いうめき声も聞こえた。娘を背負って逃げる男性が見え、とっさに後をついていった。
戦場をさまよい約1週間後に米兵に見つかり、コザ孤児院に収容された。体を洗われた時、破片が腕に刺さっているのに初めて気付いた。いつも面倒を見ていた4歳下の弟が気がかりだった。「もし生きていれば」と思い、孤児院に連れて来られる子の中に弟を捜したが、とうとう現れなかった。
孤児院を出ると親類の家を転々とした。海水をくんで豆腐を作ったり、子守も進んでやった。「いい子」でいないと、自分の居場所がないように感じた。中学卒業後、米軍基地で靴磨きやハウスボーイ、エンジニアとして定年まで働いた。
孤独で貧しかった少年時代。松本さんには抱き続けた夢があった。自分が家庭を持つときは、子供が寂しくないよう兄弟は3人以上。みじめな思いをさせないように大きな家に住む。そう決めていた。
28歳の時、友人の紹介で知り合った妻藤子さん(71)と自宅でささやかな結婚式を挙げた。新婚旅行は宿代を節約するため夜行列車で移動した。4人の子供が生まれ、夫婦で懸命に働いた。結婚40年を迎えた05年、松本さんは初めて藤子さんにラブレターを書いた。「わがままな私の思いをすべてかなえてくれて、本当にありがとう」
それでも、あの集団自決のことは藤子さんに詳しく話してこなかった。「なぜ、家族を置いて逃げたのか」と悔やみ、自分を責めていた。今年の慰霊祭が転機となった。「自分が話さなければ悲惨な事実が消えてしまう」と思い直した。
慰霊祭の翌日。芝生が広がり、ゴーヤが実る庭に面した浦添市の自宅の居間で、松本さんは悲しい記憶を初めて藤子さんにつぶさに語った。
横で静かに耳を傾けていた藤子さんはほほ笑みながら言った。
「お父さんは小さい時、独りぼっちで、小さくなって生きてきた。これからはその時の分まで威張っていいからね」【大沢瑞季】=つづく
毎日新聞 2010年8月13日 東京朝刊
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