7/27(日)、長岡京市ふるさとガイドの会主催の
歴史講演会「乙訓の西国街道」が開催されました。
向日市文化資料館館長の玉城氏を講師にお招きし、
大勢の方が参加されて大盛況でした。
講演会では、古文書や絵図をもとに、主に江戸時代の
西国街道の様子についてのお話がありました。
西国街道は、京都の東寺口を起点に西国へ向かう幹線道路です。
古代には「山陽道」と呼ばれ、時代によって呼び名や道筋が
変わりますが、京の都と西国とを結ぶ重要な道でした。
現代につながる西国街道の道筋は、豊臣秀吉による朝鮮出兵を
機に、拡張・整備されたことで「唐街道」などと呼ばれるように
なり、それに伴って街道沿いに茶屋町や町屋敷の建つ町並みが
形成されていきました。
江戸時代になると、山崎から伏見へと通じる道が幕府認定の
公道となったことで、山崎から京都までの乙訓における
西国街道は、見方を変えれば、公に認められないことによって
秀吉時代に呼ばれた「唐街道」という名が定着し現在まで
残っているのではないか、という考察も興味深いお話でした。
「西国街道」といわれるようになったのは明治時代に
入ってからとのことです。文献から当時の様子を探り、
いにしえを学ぶ面白さを感じました。
西国街道には当時を偲ばせる建物が今でも残っています。
生活の一部となっている道も、じっくり観察してみると
新しい発見があるかもしれませんね
歴史講演会「乙訓の西国街道」が開催されました。
向日市文化資料館館長の玉城氏を講師にお招きし、
大勢の方が参加されて大盛況でした。
講演会では、古文書や絵図をもとに、主に江戸時代の
西国街道の様子についてのお話がありました。
西国街道は、京都の東寺口を起点に西国へ向かう幹線道路です。
古代には「山陽道」と呼ばれ、時代によって呼び名や道筋が
変わりますが、京の都と西国とを結ぶ重要な道でした。
現代につながる西国街道の道筋は、豊臣秀吉による朝鮮出兵を
機に、拡張・整備されたことで「唐街道」などと呼ばれるように
なり、それに伴って街道沿いに茶屋町や町屋敷の建つ町並みが
形成されていきました。
江戸時代になると、山崎から伏見へと通じる道が幕府認定の
公道となったことで、山崎から京都までの乙訓における
西国街道は、見方を変えれば、公に認められないことによって
秀吉時代に呼ばれた「唐街道」という名が定着し現在まで
残っているのではないか、という考察も興味深いお話でした。
「西国街道」といわれるようになったのは明治時代に
入ってからとのことです。文献から当時の様子を探り、
いにしえを学ぶ面白さを感じました。
西国街道には当時を偲ばせる建物が今でも残っています。
生活の一部となっている道も、じっくり観察してみると
新しい発見があるかもしれませんね