乙訓寺に早良親王の供養塔があります。
早良親王は桓武天皇と同母であり、実弟にあたります。
たいへん賢明で、父・光仁天皇の愛情も深く受けていました。
6世紀後期「長岡京」建設の中心人物である藤原種継が暗殺され、
この事件に連座した罪を着せられ、早良新王は乙訓寺に幽閉されました。
親王は身の潔白を訴え、抗議のため断食し、淡路島へ流される途中餓死しました。
その後、近親者に不幸が続き、天災も起き、
これは亡くなった親王の崇だとおそれた桓武天皇は、
平安京への遷都を決断しました。それから、早良親王の供養塔も建て、
桓武天皇から崇道天皇という称号が与えられました。京都には崇道神社も
建てられています。
乙訓寺には、この時期、紫露草、アガバンサスの花が咲いてます。