翌年、天皇の側室、その母、姉数名が突然死、天皇の母も死亡
790年ー天皇正室死亡、京は天然痘が大流行
日本紀略には「街には死体の山」と記されているそうです
794年ー天皇家の祖先を祀る伊勢神宮が全焼
皇太子、安殿親王は病気。
陰陽師により、「早良親王の祟り!」という事になります
この時から桓武天皇の大後悔の日々がはじまります
すぐに淡路島に使者を送り、墓を建立しますが
6月に長岡京に鉄砲水が発生し、7月には大地震が起こり
逃げる様に平安京へと移って行きます
<長岡京市乙訓寺の早良親王供養塔>
残念ながら平安京にも早良親王の怨霊はしっかりついてきます
身内の急死や、800年3月には富士山までも大噴火し
火山灰が太陽光を遮り一日中夜の様だったと・・・
追い詰められた桓武天皇は、早良親王を天皇にし
「崇道天皇」として墓から骨をとりだし八島寺に納めて手厚く祀り
淡路島には大寺院を建立します
桓武天皇死の直前には、種継事件で罰せられた者は全員無罪
位や役職もすべて元にもどしています
平安京の北には上御霊神社、南には下御霊神社
どちらも主祭神は早良親王です
京の鬼門(丑寅、北東)には親王のみを祀る崇道神社を建立
全国の国分寺で月7回も鎮魂のお経を読ませ
国をあげて謝罪をしますが、桓武天皇ついに亡くなってしまいます
この後も早良親王は、菅原道真ら八所御霊と共に
平安京の空に永く君臨し続けることとなります
<乙訓寺の空海(弘法大師)像>
811年ー嵯峨天皇(桓武天皇の子供)が空海の力を
借り何とかしようと、乙訓寺の別当に任じます
空海は早良親王の苦しみを慰めるために現在
乙訓寺の秘仏になっている、八幡大菩薩「合体大師」を作り上げます
863年ー早良親王らの御霊会が行われることになります。
790年ー天皇正室死亡、京は天然痘が大流行
日本紀略には「街には死体の山」と記されているそうです
794年ー天皇家の祖先を祀る伊勢神宮が全焼
皇太子、安殿親王は病気。
陰陽師により、「早良親王の祟り!」という事になります
この時から桓武天皇の大後悔の日々がはじまります
すぐに淡路島に使者を送り、墓を建立しますが
6月に長岡京に鉄砲水が発生し、7月には大地震が起こり
逃げる様に平安京へと移って行きます
<長岡京市乙訓寺の早良親王供養塔>
残念ながら平安京にも早良親王の怨霊はしっかりついてきます
身内の急死や、800年3月には富士山までも大噴火し
火山灰が太陽光を遮り一日中夜の様だったと・・・
追い詰められた桓武天皇は、早良親王を天皇にし
「崇道天皇」として墓から骨をとりだし八島寺に納めて手厚く祀り
淡路島には大寺院を建立します
桓武天皇死の直前には、種継事件で罰せられた者は全員無罪
位や役職もすべて元にもどしています
平安京の北には上御霊神社、南には下御霊神社
どちらも主祭神は早良親王です
京の鬼門(丑寅、北東)には親王のみを祀る崇道神社を建立
全国の国分寺で月7回も鎮魂のお経を読ませ
国をあげて謝罪をしますが、桓武天皇ついに亡くなってしまいます
この後も早良親王は、菅原道真ら八所御霊と共に
平安京の空に永く君臨し続けることとなります
<乙訓寺の空海(弘法大師)像>
811年ー嵯峨天皇(桓武天皇の子供)が空海の力を
借り何とかしようと、乙訓寺の別当に任じます
空海は早良親王の苦しみを慰めるために現在
乙訓寺の秘仏になっている、八幡大菩薩「合体大師」を作り上げます
863年ー早良親王らの御霊会が行われることになります。
これが御霊会の起源です
御霊会ー思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための儀礼
869年-流行した疫病が八坂神社の祭神牛頭天王の祟りで
あるとして御霊会を行う、祇園御霊会の始まりです
970年以降恒例の祭祀となり現在に至ります
*注:八所御霊ー藤原氏によって踏み倒され恨みを持って亡くなったひと達