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果報は寝て待て!

浮世は疲れることばかり…
いそがず,あせらず,のんびりいきましょう。

なんて素晴らしい企画だ!

2009年03月25日 | 平家物語-一般
今月号のサライは、冒頭写真のとおり平家物語の特集というファンにはたまらない企画でした。
以前、同様の企画で「奥の細道」の特集をしていましたが、やはり平家マニアの私としては、今回のサライを逃すわけにはいきませんでした。
例によって「その時歴史が動いた」の松平キャスターの朗読による平家物語の抜粋CDが付録として付いており、これまたマニア心をくすぐります!
(こんな音声データを通勤電車で聞いて楽しんでいる人間は、私のほかにそういないでしょう…^^;)
雑誌の内容的には、物語の舞台となった土地の紹介等なのですが、意外と既に攻略済みの場所が多く、今後の課題として、未だ訪れていない「一の谷」「檀之浦」はいつの日か訪れなければならないという気にさせられました。

そういえば、数年前に屋島を訪れたレポートがおざなりになったままでした。
いいかげんにアップせねば…

弁慶と田辺市(その2)

2007年11月17日 | 平家物語-一般

↑紀伊田辺駅からほど近い場所に鎮座する闘鶏神社

(前回の続き)
熊野地方においては,熊野三山を統括していた熊野別当の地位にある者が相当な権威を持っていました。
そして熊野別当は陸地における権威に止まらず,海域においても勢力を持ち,熊野水軍といえば,その戦力が味方に付くか否かで海戦の勝敗を分けるほどの影響力を持っていました。

時に元暦2年(1185年)3月。
源氏が平家を屋島において敗走させた後,平家側は得意とする海戦にて源氏勢を迎撃せんと,山口沖の壇ノ浦に集結していました。
源氏としては騎馬兵力において勝るものの,水軍の数においては平家に劣り,来る壇ノ浦の決戦までに,いかに水軍を揃えるかが勝敗の鍵を握ります。
源氏の西征軍の大将である源義経は,各地域の有力水軍に対し,源氏側への参戦を必死に呼びかけます。
その中で,最強の水軍と謳われる熊野水軍の動向は,源氏,平家ともに重大関心事であったことは想像に難くありません。
当時の熊野別当・田辺湛増(たなべのたんぞう)は,一説には妻が平家縁者の姫であったり,娘が平家に嫁いでいたりともともと平家方に与しており,いよいよ平家側に参戦しようとしていました。
その際,田辺の鳥合王子社(現・田辺市の闘鶏神社)において祈誓したところ「白旗(源氏側)につけ」とのお告げがあり,困ってしまった湛増はさらに闘鶏で熊野権現の真意を諮ろうと赤・白それぞれ7羽の鶏を戦わせたところ,赤い鶏は1匹も勝てずに逃げてしまったことから,熊野権現の神意は源氏方にありとして,湛増は源氏に加勢することを決意し,熊野水軍は壇ノ浦に向けて出陣しました。

↑田辺の海岸に立つ「熊野水軍出陣の地碑

古典「平家物語」では次のとおり記述があります。
熊野別当湛増は,平家へや参るべき,源氏へや参るべきとて,田辺の新熊野にて御神楽奏して,権現に祈誓したてまつる。「白旗につけ」と御託宣有けるを,猶うたがひをなして,白い鶏七つ,赤い鶏七つ,これをもつて権現の御まえにて勝負をせさす。赤きとり位置もかたず,みな負けてにげにけり。さてこそ源氏へ参らんと思ひさだめけれ。
(岩波文庫「平家物語(四) 巻第十一 鶏合 壇浦合戦」より抜粋)

ここで,古典平家や源平盛衰記などを見るに,湛増は特に誰から言われることなく勝手に闘鶏をして源氏への加勢を決めたように読めますが,一般に時代劇や小説ではどういうわけか,武蔵坊弁慶が湛増に源氏への加勢を説得したとしてこの場面が現れることが多いものと思われます。
この弁慶の身上関係につき,多くの伝説において「熊野別当の子」とされています。
(「義経記」では,名前は湛増ではありませんが,やはり「熊野別当の子」とされています。)
そうなると時期的に弁慶が湛増の子である可能性もあり,義経からの救援要請の使者としては最も適任であることから,このような伝説が残されてきたものと思われます。

↑闘鶏神社境内にある湛増と弁慶の像

吉川英治の「新平家物語」では,この鶏合わせの話は,湛増のイカサマの末,必ず「赤い鶏」が勝つように仕組まれ,これにより平家側を油断させ,実は源氏に荷担するといった一風変わったストーリーに仕上げられていました。
いずれにせよ,世相を読むことに長けていた湛増としては,最初から源氏に荷担したいと思っていたところ,平家の身内の手前公然と源氏に加勢できず,なんとか源氏に味方するための大義名分を得んといろいろ悩んでいたのではないでしょうか?

・ウィキペディア→「闘鶏神社


弁慶と田辺市(その1)

2007年11月14日 | 平家物語-一般
これまで,熊野古道についてお話ししてまいりましたが,今回,熊野方面の旅の拠点にしたのは和歌山県田辺市でした。
この地域は,武蔵坊弁慶のゆかりの地というだけあって,あちこちに弁慶にちなんだものが見られました。

宿をとったのは,JR紀伊田辺駅にほど近いところでしたが,紀伊田辺駅前には弁慶がファイティングポーズを決めて立っていました(冒頭写真)。
さすがにこの地においては,主である源判官義経は全く関係がないようで,義経ゆかりのものの存在はまず見られず,この地では「判官びいき」というより「弁慶びいき」に傾いているように見られました

駅前メインストリートには「弁慶祭」なる横断幕が張られていました。
私が訪れたのは9月下旬だったので,ちょうど町ではお祭りムードで盛り上がっていたところだったのではと思われます。
田辺に訪れるのがあと1,2週間ずれていれば弁慶祭が見られたんですけどね。ちょっと残念…

さすが地元!
このような(↑)お酒もあるのですね!
地元民の弁慶を愛する心がこのようなところからもうかがい知れます。

次回,この地における弁慶の動静と,田辺の勇・別当湛増及び熊野水軍について検証したいと思います。

静御前と郡山市(その2)

2007年08月22日 | 平家物語-一般
前回,郡山市の静御前堂についてお話ししましたが,今回はその続きです。

郡山市の市街地から多少西側の,東北自動車道方面に外れた田園地帯に,郡山市の運転免許センターがあります。
昔,私も原付免許を取った思い出があるところなのですが,その免許センターの北側の道路を挟んだ目の前に,どこにでもあるような池が存在します。
その池には特に名前の表示もなく,「魚の養殖をしているので勝手に立ち入るな」的な看板が一つ立っているだけの,誰も気に留めない池。
実はこの池が,前回お話しした,静御前が身を投げた「美女池」と呼ばれる池なのです。

各種文献を見るに,静御前が池に身を投げた理由は,静御前堂の説明板に書かれている「義経が平泉に発ってしまった」ためではなく,郡山の地で「義経の訃報を聞いたため」というのが一般的です。
もし前者の説明を根拠にするのであれば,義経自体がこの郡山にしばらくの間逗留し,その話を聞いた静御前が,平泉ではなく郡山の地を目指してやってきたという筋書きになってしまい,さらにそうであるならば,郡山にはこれだけ静御前の伝説だけが残っているのに,義経が何かをしたといった伝説の残る地は,私の知る限りでは存在せず,不自然であります。

吉野山で義経と行動を別にし,あるいははぐれ,六波羅,鎌倉へと連行されていった静御前が,鎌倉で子を産み,解放されるまで少なくとも半年から1年は経っていると思いますが,その間に義経は,すでに平泉に到達していてもおかしくはないでしょう。
鎌倉から解放された静御前は,「義経記」によれば京の実家に帰り,さらに19歳で剃髪し,小庵に籠もり,念仏をして往生を遂げたとあります。
イメージを勝手に膨らませるに,静御前は,1186年春ころ京の実家に戻り,そうしてしばらくしたころ義経の消息を伝えられ,居ても立ってもいられなくなった静御前は義経に会いに行く旅を決意。
(鎌倉でも義経の所在を掴んだのは1187年に入ってからと言われているので,静御前の情報入手はそれより後の可能性高し。)
ただ,釈放されたとはいえ,静御前には義経の縁者としておそらく六波羅の監視の目が光っていることを考えると,静御前は髪を剃るか死んだことにしていたほうが都合が良かったのかもしれません。
そうして愛する義経に会うために旅に出た静御前ですが,郡山の地までたどり着いたところで,長旅が災いし,病か怪我か何かでもしてこの地にしばらくの間足止めを喰らったのではないでしょうか。
(そうでも考えないと,いくら足の遅い女性の旅とはいえ,京から平泉にたどり着くには1年もあれば十分と思われ,あまりにも時間がかかりすぎている。)
1189年初夏,義経が平泉で討伐されたという訃報をこの地で聞いた静御前は完全に希望を絶たれ,そして美女池に身を投じることに…

郡山には,「かつぎ沼」「小六峠」「針生(はりゅう)」といった,静御前のお供をしていた者達にちなんだ地名が他にも何件か残されています。
特に針生は,静御前堂の近所の地名であり,静御前及び侍女が里人に針を教えていたことから付けられたとのこと。
このことからも,里人たちが,静御前にただならぬ親近感を抱いていたことが想像できます。

郡山市の静御前に関連する地名についてはこちらのホームページが詳しいです

美女池で鯉の養殖をしている会社のホームページです

「大河ドラマ『義経』第46話」で石原さとみさんが静の舞いを披露したことについて拙ブログで語った記事

静御前と郡山市(その1)

2007年08月18日 | 平家物語-一般

私が生まれ育った福島県郡山市
実家の近所には,不思議と「静御前」にまつわる史跡が存在します。
今回はそのうち,郡山市静町に存在する「静御前堂」をご紹介します。

源義経の愛妾として有名な静御前ですが,鎌倉に対する反逆者として追われることとなった義経一行と行動を別にした静御前は,吉野の山中において鎌倉の追っ手に捕らえられます。
「義経記」によれば,鎌倉に護送された静御前は,当時義経の子を身ごもっており,生まれた子が男子であったため,頼朝は後の憂いを絶つためにその子を命を奪います。
挙げ句の果てに,鶴岡八幡宮において,頼朝らの面前で舞いを披露させられる屈辱を受けることになります。
(男子の命を奪われるのが先か,鶴岡八幡宮で舞いを披露したのが先かは,文献及び各小説等で異なりますが,古典「義経記」や大河ドラマ「義経」はこの流れでした。)
頼朝の前で堂々と義経を慕う舞いを披露した静御前の姿に共感したのか,頼朝の妻政子は静御前に褒美を取らせ,静御前は釈放されることになりました。

ここまでは誰もがご存じの話かと思われますが,その後の静御前の消息は様々な伝説が残るのみで,確定的なものは無いようです。
そのような背景の中で,この郡山の地に一つのアナザーストーリーが存在するのです。

この「静御前堂」の由来につき,本堂の前に設置してある説明板には次のとおり解説があります。

「静御前堂は里人が静御前の短い命をあわれみ,その霊を祭ったのがこのお堂であると言い伝えられています。
 静御前は,平家滅亡後,頼朝に追われて奥州の藤原秀衡のもとに下った義経を慕って北に向かい,この地までたどりつきましたが,すでに義経は平泉にたったと聞きとほうにくれてついに池に身を投じたという言い伝えがあります。(以下略)」

なんとなくわかるようで,しかしイマイチ不自然かつ不明確な解説であります。

なぜ愛する義経に生きて再会するためはるばるここまでやってきた静御前が,今さら義経が「平泉にたった」ことを聞いて「とほうにくれ」て「身を投げ」なければならなかったのか,この解説だけでは辻褄があいません。
次回,勝手に静御前の行動を検証したいと思います。

余談ですが,私の学生時代は,このお堂のある場所は細い道路しかない閑静な住宅地であり,よく「人魂を見た」とか「幽霊を見た」とかいう都市伝説が絶えない場所であったのですが,今は開発により,お堂の前には巨大な幹線道路が横たわり,もはや人魂が出てくれそうな環境ではなくなっています。

郡山観光協会のサイトはこちらをクリック


高松平家物語歴史館

2006年11月02日 | 平家物語-一般

私にとって,秋の四国巡りの旅のうち,香川県を訪れた目的の大半は「平家物語の史跡を巡ること」に凝縮されます。
よって,今回香川県に来ながらにして,栗林公園は見なかったは,琴平参りはしなかったは…といった邪道なスケジュールを組んだ私…

まあ,細々とした史跡のアップは後々の楽しみに取っておくこととして,今回は高松平家物語歴史館をご紹介しましょう。

高松の市街地から屋島に向かう途中らへんに位置するこのテーマパークは,いわば蝋人形の館!

1階は,正岡子規や板垣退助など主に四国の偉人の蝋人形が40体ほど展示されています。
メインは2階。合計約300体もの蝋人形が,平家物語の名場面を再現しつつ我々を待ち受けていました。

今考えてみると,館内の写真撮影が可能だったのか否かよく見ていませんでしたが,平日の昼間だったこともあり,客が我が家ほか1組くらいしかいなかったので,容赦なく館内を撮りまくってしまいました

ここでは,その何点かご紹介します。

私の好きな祇王と仏御前の話。
尼になった祇王たちの後を追って,仏御前も髪を剃りやってきたシーンです。
(この話については当ブログでもご紹介しておりますので,詳しくはこちらから。)
清盛がお抱えにしてしまうほどの舞い上手でかつ美人だったはずの彼女らですが,蝋人形を見ている限りではそれほどベッピンさんにも見えませんね(髪を剃っていることを差し引いても…

高松と言えば屋島!
屋島と言えばやはりこれ!扇の的でしょう。
会場の関係でやたら的が近いですが(…),私ならこの距離でも的を外すでしょう…
実際,那須与一が扇を射たとされる史跡にも足を運びましたが,はっきりいってあの距離を扇の根っこから打ち落とせるのはゴルゴ13くらいだと思います。
そのレポートはいずれまた

このシーンは壇ノ浦で義経との死闘の末,義経を取り逃がし,敵兵を道連れに入水する平教経サマのカット。
大河「義経」ではアベちゃん演じる平知盛においしいところを持って行かれまくり,教経サマは存在すら消されていましたが,これはある意味ガンダムにおいてシャアを登場させないくらいの暴挙だと今でも思っているところであります
この蝋人形館において,このシーンを忘れずに再現されていたのには,ワタシ的に高い評価を差し上げたいと思います!
しかし,この教経サマ,江口洋介と中村獅堂を足して2で割ったような顔つきですな。

「水の底にも都がありまする…」
あまりにも有名な安徳天皇入水のシーン。
しかし,御座船にしてはやたら狭い,救命ボード並の舟です
むかし,どこかの川下りでこのような舟にぎゅうぎゅう詰めにされた記憶があります。
まあ,これも会場の関係上仕方ありませんが…
ちなみに,ナニゲに後の平家の女御たちもリアルです。

とまあ,こんな感じで平家の繁栄から滅亡までの流れが「肉眼で」見ることができるこの蝋人形館。
平家物語に興味のある方は,是非一度ご来館くださいませ

高松平家物語歴史館の公式HPはこちらをクリック


平家物語の人物について<祇王と仏③>

2006年01月13日 | 平家物語-一般


これまで2回に渡りお話ししてきました祇王と仏についてですが,最後は仏御前のその後についてお話しします。
(前回から間がかなり空いてしまったので,復習する方はこちらから→「祇王と仏」第1回第2回

小松市原町。小松市市街地から,以前お話しした「鳥越一向一揆歴史館」に向かう途中のこの地に,ひっそりと「仏御前の里」があります。

この地が仏御前の生まれ故郷であり,終焉の地とされています。
なぜ仏は京の往生院を去らねばならなかったのでしょう?

そこで,加賀に伝わる仏御前の伝承を大ざっぱですがお話ししましょう。

祇王の後を追って往生院に入った仏でしたが,あるとき仏は身体の異変に気付きました。
実はそのとき既に,仏は清盛の子をお腹に宿していたのです。
いずれこの場で子を産むこともできず,産んだら産んだでその子をめぐり,また清盛の呪縛から逃れることができなくなってしまう予想される運命。ましてや祇王に対する面目も立たないその身…
晩春のある日,仏は一人,故郷である加賀の郷に帰ることにしました。
身重である仏一人での加賀への旅路はさぞやたいへんだったことでしょう。
仏は美濃を経由し,白山麓の木滑(きなめり。現・吉野谷村)まで来たとき,陣痛が起こり,通りかかった老婆の力を借りて,その場で出産しました。
ところが,その子は産まれて間もなく死んでしまいます。
しばらく,亡くなった子を木滑の地で弔った後,ようやく故郷にたどり着いた仏は,生活の手段として茶屋を開きました。
元加賀一の白拍子が開いたという茶屋は日に日に繁盛し,村の男たちは仕事を忘れて,仏の茶屋に通うようになりました。
そんなことが続いたこともあり,村の女たちは仏に嫉妬し,村に災いを呼ぶものとして,最後,仏は21歳の若さで村の女たちに惨殺されてしまったのでした…



この話を初めて耳にしたときは衝撃でした。
というより,私が「仏御前の里」を訪れた際には,仏がこの地に帰ってきて亡くなったことしか情報がありませんでした。
そのうちいろいろと調べていく内に,このような伝承があることが判明しました。
なんとなく,ドラえもんの最終回とかサザエさんの最終回とかのうわさ話を彷彿させる悲劇の結末なのですが,わからない話ではありません。
今でも,仏御前の里界隈では,仏御前の祟りが降りかからぬよう,出産の際には四方窓を閉め切って行うしきたりがあるらしいです。

しかし,今では町を挙げて仏御前が大切にされています。
現在,町の一民家に仏御前の木像が代々大切に保管され,事前に連絡をすれば見せてもらえるとのことです。
また,原町には,仏が開いた茶屋の跡や,仏の墓,屋敷跡が残されています。
(冒頭の写真は仏の屋敷跡に残されている仏の墓です。)

この地とは別に,仏が子を産んだ場所とされる吉野谷村の木滑神社境内には,仏が出産するときしがみついたという石が残されており,皮肉にも現在ではその石は安産祈願の石とされています。


さて,伝承では,仏御前が祇王に寺を出ることを話したのかどうかまでははっきりとしませんが,おそらく仏は祇王になんらかの相談をし,祇王たちの協力の下に京を去ったのではないでしょうか。
そして,仏が京を去ったときに,仏は往生院で亡くなったことにし,仏のその後の幸せを祈りつつ祇王たちは仏を送り出したのかもしれません。
しかし,結果は最悪でした。
自ら夢を求めて京に上ってきた仏御前。
一度は夢を掴んだかに見えた彼女でしたが,はかなくも運命に翻弄され悲劇の結末を迎えることになってしまった彼女の物語こそ,平家物語に残されるべきだったのではと思う今日この頃です。

仏御前の里のHPはこちら


平家物語の人物について<祇王と仏②>

2005年12月22日 | 平家物語-一般



(前回からのつづき)

仏御前の出現により,これまで賜っていた月あたり百石,百貫の報酬は停止され,ついには清盛の館を追い出されてしまった祇王たち。

もはや清盛には関わるまいと思っていた祇王でしたが,あるとき清盛から,仏が退屈しているので,来て舞を披露せよとの命が下ります。
本当は行きたくないところですが,これを断り,自分はおろか,年を経た母にまで危害が及ぶことを憂えた祇王は,再び妹祇女とともに西八条の清盛邸へ出向いていきました。
もはや過去のような特別な扱いはされず,控えの間すら差別され,そのあまりの仕打ちに,仏も哀れみ,なんとか清盛に昔のように接するよう頼み込みますが,聞き入れられませんでした。
それはまさに,今の愛人のために,臨時で適当な白拍子を呼びつけ,ただ舞うだけ舞わせて帰させるという,過去に寵愛を受けた祇王にとっては屈辱的なものでした。
このような屈辱が今後繰り返されるくらいならば,いっそ自害して果てようとも考えた祇王でしたが,母刀自の説得により自害は思いとどまり,出家の道を選ぶことになりました。
そうして母子3人入った寺が嵯峨の往生院の尼寺(後の祇王寺)でした。

旧祇王寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となりましたが,後に祇王の話に打たれた元京都府知事北垣国道氏が,自ら所有していた別荘を明治28年に寄付し,これが現在の祇王寺となったとのことです。

祇王寺の建物の中はそんなに大きくはありませんが,内部には鎌倉期に作られたとされる祇王,祇女,刀自,仏御前,そしてなぜか清盛の木像が安置されてありました。
旧祇王寺が廃されるときに,これらの木像は大覚寺によって保管され,滅失の危機を免れました。
祇王を愛する人々の心が木像を守り抜いたんでしょうね。

また,この建物の中には,CMでも使われたという有名な丸窓があります。
これらの写真も撮りたかったのですが,内部は撮影禁止だったためあきらめました

しかし,何よりも私の気を引いたのは,祇王寺の縁側に寝ころんでいた大きな白猫でした。



ずいぶん人慣れしているのか,近づいても全く動じることのないネコちゃん。
毛繕いに夢中で,「ほら~,こっちむけ~」と言っても無視されまくり…
結局こんな格好の姿しか写せず,うーん,ネコのくせに態度がでかいな~と思って内心むかついていましたが,後日,祇王寺の記事を載せられていた蒼葉月さんのブログ(「ゆるり,蒼葉月」)にコメントさせていただいた折,このネコちゃんが「まろみちゃん」というお名前を持つ,あまりお目にかかれないネコちゃんであることを教えていただき,逆にこのお姿を写真に収めることができただけでも幸いであったのかも,と思うようになりました
ちなみに,上記蒼葉月さんのブログでは,祇王寺の美しい風景写真もご覧になれますので,ぜひお立ち寄り下さい

さて,話を祇王に戻します。
平家物語巻一「祇王」の段は次のように閉められます。

(祇王,祇女,刀自,仏の四人は)四人一所にこもりゐて,あさゆう仏前に花香をそなへ,余念なくねがひければ,遅速こそありけれ,四人あまども,皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば後白河の法皇の長講堂の過去帳にも,「祇王・祇女・仏・とぢらが尊霊」と,四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。」

これを読むと,祇王ら四人は皆この地で大往生を遂げたように読めます。
今回,冒頭に,祇王寺境内にある祇王らの墓の写真を貼付させていただいておりますが,この写真に写っている説明板には「右 清盛公供養塔 左 祇王祇女母刀自の墓」とあります。
これを見てふと疑問を感じた方はいないでしょうか。

そう,なぜここに仏御前の名前がないのでしょう?

私が気が付かなかっただけかもしれませんが,この地には,仏御前の墓と称される碑は見つかりませんでした。
この説明板の説明は,真実に基づくものか,それとも後世の人が勝手にそう語っていただけなのか,定かではありませんが,この祇王の一連の話は,仏が祇王らのあとを追って尼になり,皆同所で往生の素懐を遂げるところに悲しくも美しく,人の心を打つものがあると思われるところ,あえて後世の人たちが仏御前だけを無き者として祇王一家だけを祀ることは考えにくく,さらに寺内の木像は仏御前のものもちゃんと存在していることから,実のところ,仏はこの地では亡くなっていなかったため,この地に仏御前の墓と称されるものが存在しないのでは,との憶測が出てきます。

そして次回,このような見解に立った上で,加賀の地に伝わる仏御前の悲しい伝承についてコメントしていきたいと思います。


平家物語の人物について<祇王と仏①>

2005年12月20日 | 平家物語-一般


↑京都・嵯峨の祇王寺本堂

初秋に京都と加賀を旅してきたこともあり,今回から3回にかけて,平家物語にも特に有名な「祇王(ぎおう)」の段について,お粗末ながらお話しさせていただきたいと思います。

予定としては
第1回:祇王の物語の概要と祇王の故郷について
第2回:出家に至った祇王一家と祇王寺
第3回:仏御前の知られざる悲劇
という具合に進められたらなと思っております。

白拍子・祇王の悲話は,このブログを訪れている方であるならば,既に話の内容はご承知のはずと思われるので,今までのシリーズのように「ぴえる版めちゃ訳」は止めて,ホントに概要だけ申し上げます。

    

美人で舞上手な白拍子として名が高かった祇王と妹祇女(ぎにょ)は,当時の権力者平清盛の目に留まり,清盛の専属白拍子として,母刀自(とじ)とともに,清盛から手厚く保護されることになります。
あるとき,加賀出身の仏(ほとけ)と称する白拍子が,自分を売り込みに清盛の下を訪れますが,清盛は相手にしなかったところ,祇王は,はるばるここまで舞うためにやってきた仏を一度も舞わせずして帰すのは同じ白拍子として忍びないと進言し,仏は清盛の前で舞うことが適いました。
ところが清盛は仏の舞に心奪われ,逆に祇王一座はないがしろにされるようになりました。
世を儚んだ祇王親子は出家して嵯峨の往生院に籠もりました。
しばらくして,祇王らの庵を訪れる者がありました。
それは,まぎれもなく剃髪して尼になった仏の姿でした。
自らの存在により,結果的に祇王ら親子を不遇せしめてしまった罪を滅ぼすべく,仏もまた世俗を断ち切ることを決め,その後,祇王らと仏の4人一所に念仏の日々を送り,それぞれ往生の素懐を遂げました。

    

本当は,もっと細々とした心情変化や,平清盛のわがままぶりもあるのですが,これから少しずつお話ししていく中で,多少なりとも補足できたらと思います。

祇王の故郷はもともと近江国野洲(現・滋賀県野洲市)でした。
祇王の父は地元の庄司でしたが,一説では保元の乱で討死したとか,何らかの罪で北陸に流されたとか,少なくともある時点からは母子家庭になったことがうかがえます。
吉川英治氏の「新・平家物語」では,幼い祇王は人買いに売られてしまったりとひどい扱いをされたように書かれていましたが,それについてはここでは触れないことにします。

当時の白拍子とは,いわゆる遊女という立場ではなく,立派な職業集団の一つでした。
特に名だたる白拍子一座は,現在の宝塚なみの知名度があったのかもしれません。
祇王と祇女がいつから白拍子を習い始めたのかはわかりません。もしかすると母の刀自が若い頃白拍子を学んでいて,家族経営で独自路線を確立させていたのかもしれませんね。
ともあれ,それほど不自由のなかった庄司の家での生活から一転して,日々生きるために何らかの職を身につけねばならなくなったことには変わりがなく,そういったハングリー精神も彼女らの優れた芸能性の一助となったことは想像するに難くないものと思われます。

やがて祇王の一座の名が響き渡ると,それは当然権力者の耳にも入ることになります。
平清盛という日本一のパトロンを付けた祇王は,その報酬として,故郷・野洲の地の用水工事を清盛に進言します。
当時,祇王の故郷であった江部(辺)庄は水利の便が悪いところであったようで,庄民たちは,水が安定して供給されることを願って止みませんでした。
祇王は,清盛の保護の下での裕福な生活にあっても,故郷の人たちのことを忘れてはいなかったのですね。
そうして野洲川の湧き水から全長12キロに渡る用水路創られ,その用水路は現在でも妓王井川という名で野洲の町を流れています。
この野洲市には,祇王が住んでいたとされる屋敷跡や,祇王の死後,村人たちが仏御前を含め祇王ら4名を祀った「妓王寺」(京都の「祇王寺」と漢字が違うのがミソです。)などが残され,故郷のために貢献した祇王たちを愛する地元の人たちの思いが感じられます。
ちなみに,私は野洲市を訪れたことがないので,今後の旅行でのターゲットとしたいと思っています

今回はこの辺で一旦休憩。
次回,その後の祇王と祇王寺についてお話しします。

野洲市観光物産協会さんの妓王寺の案内はこちら

「平家物語の人物について」シリーズ
→「小督
→「滝口入道と横笛


平家物語の人物について<滝口入道と横笛>

2005年12月09日 | 平家物語-一般

前置きでお話ししましたストーリーを前提に滝口入道と横笛ゆかりのお寺「滝口寺」についてお話しします。

京都,嵯峨にひっそりとたたずむ滝口寺。
なんとなくお隣の祇王寺の人気に押され気味のこの小寺ですが,ワタシ的にはこの2つの寺は同じくらい思い入れがあるところです。

滝口寺はもともと三宝寺といい,隣の祇王寺とともに往生院という寺院の一部です。
往生院自体は,高野聖として知られている滝口入道横笛をいう女性の悲恋の舞台として平家物語にも描かれております。

祇王の話よりもあまり知名度のないと思われるこの話も,明治期の文豪高山樗牛の小説「滝口入道」に紹介されて以降,一般にも知られるようになったとも言われています。

余談ですが,この高山樗牛は,今から約120年前,我が母校,福島県立安積高校が未だ旧制中学校だったころの卒業生であり,あまりOBに有名人のいないウチの高校においては伝説的存在です

私が滝口寺を訪れたときは,初秋でしたが残暑が厳しい日でした。
そのとき,ちょうど本堂の中で,地元のボランティアさんが,滝口と横笛のご講話を始めようとしていたところで,せっかくなのでワタシもその場にいた観光客の方々といっしょに聞かせていただきました。
涼しげな本堂内にいて,京言葉で語られる横笛のストーリーに,思わず暑さを忘れて聞き入っていました
上の写真の木像は,本堂内に安置されている滝口入道と横笛の木像で,鎌倉時代後期の作と伝えられているとのこと。

さて,滝口入道こと斎藤時頼の家は,名宰相として名高い小松宰相平重盛に仕える家系でした。
重盛亡き後,平家の嫡流を継いだのは,三位中将平維盛でしたが,彼はなにげに戦が下手なのか,富士川の戦いでは水鳥の羽音に驚き戦わずして全軍撤退,倶利伽羅峠の戦いでは義仲の奇策とはいえ通常では考えられないような包囲をされほぼ全滅状態,という不名誉を背負い続け,一ノ谷で平家が破れた段階で維盛は,もはや生きていてもしょうがないと思うようになります。

世を憂えた維盛は屋島の平家の陣を抜け出して死ぬための善知識を求めに高野に入りますが,そこで維盛は高野聖となった斎藤時頼に再会し,時頼に導かれた維盛は,入水し大往生をとげることになります。

そんな高僧とまでなった時頼の心を支えていたのは,自らが愛した女性・横笛の存在でした。
親の反対にも遭い,かといって駆け落ちなどしようものなら主である小松殿への面目も立たない八方塞がりの状態で,結局時頼は,全てを捨て,仏門に入る道を選びました。
もはや俗世では一緒になれない時頼と横笛…
横笛も最終的には,時頼の後を追って出家することになりますが,横笛は早々に亡くなってしまいます。
仏に帰依したとはいえ,常に横笛の心にあったのは時頼の姿だったに違いありません。
死をもって横笛の精神は,時頼のもとへ届き,精神世界でようやく一つになれた時頼と横笛。
「高野聖」という伝説的存在は,その二人の心が融合した,究極の愛の具現なのかもしれませんね



前回の特集,「小督」についてはこちらから


平家物語の人物について<滝口入道と横笛(前置き)>

2005年12月08日 | 平家物語-一般

忘れたところにやってくる「平家物語の人物について」シリーズ第2回は,滝口入道と横笛の悲恋について語らせていただきたいと思います。

さて,知っている人も多いと思われますが,例によって「ぴえる版めちゃ訳」で,平家物語における滝口入道と横笛のストーリーをお話ししましょう。

    

むかしむかし,横笛という女の子がいました。
彼女は建礼門院さまの雑仕女として,宮中で,今でいうハウスキーパーさんのような仕事をしていました。

あるとき,宮中警護のプロ集団,滝口隊に斎藤時頼という若者が入隊しました。
氏に「藤」の字が付いていることでもお解りのとおり,斎藤家は藤原氏の庶流の家系であり,仕えている主も平清盛公の嫡男小松宰相重盛様という,良いお家柄でありました。
時頼の父としては,どこかの身分の高い家の姫でも時頼の嫁にもらいたいとお考えのようでした。

同じ宮中で働く時頼と横笛,やがて二人は出会い,恋に落ちました。
それは,身分の高いエリートと雑仕女という卑しい身分の間の恋…二人の間には,身分の違いという高い壁が立ちはだかることになるのです。

時頼は父に,横笛のことを話しますが,そんなことが父に許されるはずがありませんでした。
時頼は悩みます。
「人間,生き長らえてもせいぜい70,80程度。そのうち青春時代はわずか20年ちょっとじゃないか。そんなわずかな人生を,オヤジがどこからか見つけてきた女を無理矢理妻として押しつけられたりしたらたまったものではない。かといって,横笛を妻として駆け落ちでもしたら,オヤジの命に背くことにもなってしまう…人はこうした苦しみをきっかけに出家を志すのだろうか。ならば,私にとってもこれが良い機会なのかもな…」

父の命令も横笛との愛の生活もどちらも選ぶことができなかった時頼は,きっぱりと出家してしまいました。
時頼の父は,時頼の気違いじみたこの行動に,時頼を勘当してしまいました。

横笛は,時頼が出家出奔したことを伝え聞き,ショックを隠せませんでした。
「自分に一言も相談なく,一人で背負い込んで出家しちゃうなんて,あの人は何を考えてんのよ!会って話を聞かなきゃ!!」
と,嵯峨野の往生院あたりに時頼がいるとの未確認情報だけを頼りにある冬の暮れ方,ふらりと時頼を捜しに向かいました。

いざ往生院といっても,広大な敷地にたくさんの建物が並んでいるこの巨大寺院,そう簡単には見つかるものではありませんでした。
時頼の消息がつかめず途方に暮れていたところ,近くの房から念仏を唱える男声が聞こえてきました。それはまぎれものなく時頼の声でした。
横笛はその房に駆け寄って叫びます。
「私よ!横笛よ!時頼さま,たとえあなたの姿が変わり果てたとしても,一度でいいからあなたに会いたい!そのために,寒い中ここまでやってきたのよ!」

その声を聞き,時頼も房の内から横笛の姿を垣間見ました。
時頼は,横笛の一途な姿に心動かされました。
しかし,一度決めた仏門への帰依の道…心とは裏腹…時頼は,同僚の坊主に
「俺はここにはいない。門違いだと彼女に言ってくれ。」
と頼み,横笛は追い返されてしまいました。

横笛は,もはや自分に会ってもくれない時頼に何を思ったのでしょうか?
なんて薄情な人とでも思ったでしょうか?
それとも,自分のために時頼はそんなに苦しんでいるのかとでも思ったでしょうか?
横笛は,寒さの中,近くにあった石に,指から流れる血で歌を書きました。
「柴の戸の房に悩んで籠もられているあなた,本当の自分の気持ちに素直になって,私をお導きになってくださいまし」

こうして横笛は帰っていきました。

時頼は,横笛の去りゆく姿を愛しく,涙ながらに見ていました。
今回は心を強くして彼女を追い返しましたが,再び彼女がやってきたら,今度こそ心が揺らいでしまうだろうと思った時頼は,自分の甘さを断ち切るため,遙か遠い高野山に移ってしまいました。

愛する人に捨てられた横笛は,他の男に心移りすることなく,自らも時頼同様,出家し尼になってしまいました。

これを聞いた時頼は,横笛に歌を送りました。
「私も出家するまでは世を恨みもしたが,あなたも仏門に入ったと聞き,うれしく思っています。」

横笛はこれに対し,
「あなたが出家したことを今更お恨みしてもしょうがありません。あなたの決意は私に止められるものではありませんから…だから私もあなたに習って髪を剃ったのです。」

やがて,横笛は,思慕の念が積もったためか,出家先の法華寺で短い生涯を終えました。

横笛の死を知った時頼は,ますます仏道の修行を続け,さらなる境地に至り,後に高野聖と呼ばれる高僧になったということです。

    おしまい   

次回,このお話を前提に,コメントさせていただきます。


平家物語の人物について<小督>

2005年11月20日 | 平家物語-一般



小督についての史跡は,東山,嵯峨野界隈に何カ所か点在しています。
その中で,今回は嵐山の小督塚をご紹介します。

京福電鉄嵐山駅から大堰川に沿って西へ歩いて3~4分,ちょっと裏路地に入ったところにひっそりと立っていました。
この場所は,小督が清盛からの迫害を避けるために仮の住居とした付近であるとのことで,近くには源仲国が琴の音を聞いてこの場を探し当てたことにちなんだ「琴聴橋」の跡碑もあります。

しかし,この石塔,もともとはここではなく化野に転がっていたものらしく,むかしオロナイン軟膏のブリキ看板に出ていた故浪花千恵子さんがこの場に供養した旨,京都新聞出版センター発行の「義経ハンドブック」に説明されてました。
たしかに,言われてみれば昔からある石塔にしてはきれいです。
しかし,化野には無数の石塔があり,よく小督のものが見つかったなあ,とある意味感心。

また,この場所とは大堰川を挟んで反対側の法輪寺でも,この地と同様に仲国が琴の音を頼りに小督に巡り会えたとの伝説があります。
源平盛衰記にはこんな下りがあります。
是より法輪は程近ければ、そも参給へる事もやとて、そなたへ向てあゆませ行。亀山のあたり近松の一叢ある方に、幽に琴こそ聞えけれ。
(国民文庫「源平盛衰記」より)

仲国がどういうルートで小督の仮居所にたどり着いたのかは諸説あるようですが,最初嵯峨方面に向かって,そこから南下する形で辿ってきたとすると,法輪寺へ向かうには大堰川が立ちふさがり,当時この場所に大きな橋でもかかってないと,馬で渡るのは困難なのではないかとも思われます。
「亀山のあたり」ともあることから,法輪寺の方へ向かおうとしていたところ,亀山(今の天竜寺付近,小倉山の旧称とも)で琴の音が聞こえたとするならば,今の小督塚があるあたりの方が信憑性がありそうですね。

さて,清盛に強制出家させられた小督。彼女の臨終の後はどうなったのでしょう。

高倉天皇は,遺言どおりに,小督が尼になった東山の清閑寺に眠ることになりましたが,その清閑寺にはやれ小督の塚だ,やれ小督の墓だといろいろな石碑があるようです。
後の心ある人たちが,あえて小督の亡骸を高倉帝のそばに埋めてあげようと計らったのでしょうか?

もしそれが妥当だとした場合,嵐山の小督塚が昔,化野に転がっていた石塔であったという話は何なのか?
そもそも,大原に籠もった尼の死体は化野に捨てられるものなのか?
前に取り上げた「義仲の女たちの史跡」シリーズでも同様なことが言えましたが,今回も摩訶不思議です

まあ,彼女がその後どうなったのかは,人々の想像に任せることにして,平凡な女性であれば数奇な運命を辿ることがなかったであろう小督。
必要以上の美しさは,当然,権力者の目にも留まりやすく,また,その権力によって運命を弄ばれてしまう…
いつの時代でも起こり得る悲劇。
小督の物語は,そういった世の中に対するアンチテーゼとして,永遠に問題提起をしているのかもしれませんね。

実はワタシ,先日京都を訪れた際には嵯峨,嵐山方面しか訪れることができず,東山の清閑寺までは見ておりませんでした
今となっては心残りでしたが,次回京都へ行くときの楽しみにしたいと思います。



平家物語の人物について<小督(前置き)>

2005年11月19日 | 平家物語-一般

平家物語巻第六に「小督(こごう)」という段があります。
あまりにも有名なこの話は,ブログ上でもさまざまご紹介されており,いまさらワタシが語るのも何ですが,とりあえず前置きとして簡単にストーリーを振り返ってみましょう。

  

むかしむかし,中宮に仕える小督という女房がいらっしゃいました。
この方は,桜町中納言さまの御娘で,桜町中納言さまがまだ左兵衛でいらっしゃったころの官職の呼び名から,この女房も小ちゃんと呼ばれていました。

小督ちゃんは,それはそれは美しく,宮中一の美人と謳われ,さらに琴の名手であるという才色兼ね備えた方でございました。

そんな彼女にも,隆房クンという彼氏がいました。
この隆房クン,実は当時権勢ときめく平清盛の娘の一人を奥さんとしていましたが,にも関わらず,隆房クンは小督ちゃんにぞっこんで,何度も何度も小督に歌を送り,努力の末に小督ちゃんをゲットしたのでした。

ところが… あるとき,当時の帝であった高倉天皇をお慰めするために,こともあろうに小督ちゃんが派遣されることになってしまいました。
それはすなわち,他の男のことを考えず帝にだけつくしなさい,という命令に他なりません。
結局別れたくもないけど,別れざるを得なくなった隆房クンと小督ちゃん,お互い涙を流して悲しみました。

その後も隆房クンは小督ちゃんをあきらめきれず,ちらほら小督ちゃんの部屋の近くまでやってくることもありましたが,会うこと適わず,密かに小督ちゃんの部屋に投げ入れたラブレターも,読まれることなく投げ返される始末。
隆房クンは,「もはや,僕の手紙すら読んでくれないんだね…」とあきらめるしかありませんでした。
手紙を投げ返した小督ちゃんも,その行動に心は裏腹だったのは言うまでもありません。

そのうち,帝も小督ちゃんをたいそう気に入り,奥さんであった平清盛の娘徳子をそっちのけで小督ちゃんを大事にするようになりました。
ここで怒ったのが帝のお義父の平清盛でした。
帝と妻徳子との間に子ができない一方で,小督などという小娘に帝を盗られ,さらに自分の婿だった隆房クンも小督に心を奪われる始末。
清盛にとっては,二人の婿を腑抜けにした小督ちゃんの存在は許し難いものでした。
「ええい!小督がいる限り帝と徳子の夫婦仲の障りになるわ!召し連れてぶち殺してくれるわ!!」
と清盛が憤っていることをある筋から聞いた小督ちゃんは,このままだと自分だけでなく,帝にもご迷惑がかかってしまうと思い,ある夜,どこかへと行方をくらましてしまいました。

帝はショックのあまり,昼はお泣きあそばすばかりでご公務にもお出ましにならず,夜はお月さまをぼーっと眺めるばかり…
たまらず,帝はちょうど宿直に来ていた仲国というご家来をお呼びになって,
帝 「キミは小督が何処に行ったか知らんかね?」
仲国 「いや,知らないっすよ~(>_<)」
帝 「噂によると,嵯峨野の辺りにいると聞いたんだがねえ。すまんがなんとか小督を探し出してきてくれんかね?」
仲国 「そんなことおっしゃっても,誰のうちにいるのかもわからなきゃ,探せませんよ~(>_<)」
帝 「そうよのう…」
帝は泣き出してしまいました。
仲国は困り果てましたが,ふと,以前自分の笛と小督ちゃんの琴とでデュオをしたことがあったことを思い出しました。
小督ちゃんの琴の爪音は,他人には真似できない美しいもので,仲国もその音色は鮮明に覚えていました。
今夜は良い月夜。もしかしたら帝のことを思って,月明かりの下,琴を奏でているかもしれない,と思い,その琴の音色だけを頼りに仲国は嵯峨野へ向かうのでした。

しかし,いざ向かってみると,まったくそれらしい気配もありません。
こんなことなら引き受けるんじゃなかったなあ,トホホ…と思っていたそのとき,どこからともなくかすかな琴の音が!
音のする家の方に向かってみると,その音は紛れもなく小督ちゃんの琴の爪音ではありませんか!
さっそくその家を訪れたところ,思ったとおり小督ちゃんがおり,小督ちゃんが言うには
「清盛入道が恐くて恐くて,こんなところで琴なんか弾いてたらいつ見つかるかとビクビクしていましたが,もうそんな生活も嫌なので,明日からは大原に入ろうかと思っていたところで,ここでの最後の名残を惜しんで琴を弾いていたところでした。」
とのこと。
大原に入るということは,すなわち小督ちゃんが出家してしまうということでした。
仲国は,こうしてはいられないと,一緒に連れてきた部下をその場に残し,大至急帝にご報告に戻ったのでした。

夜も深いというのに,仲国が帰っても帝はまだ御座所でぼーっとしていました。さっそく仲国が一連の顛末をご報告申し上げたところ,帝は居ても立ってもいられず,
「清盛がなんだ!帝として命ずる!今夜中に小督を連れ戻せ!」
と仲国にお命じになりました。
こんなのが清盛様に知れたらどうなることやら…と間に挟まれた仲国はきっとたいへんだったでしょう。
小督ちゃんを迎えに行った仲国は,嫌がる小督ちゃんをなんとか説得して連れ帰りました。

それから小督ちゃんは,内裏の中でも人目に付かないところでひっそりと生活することになり,夜な夜な帝に召されておりましたが,そんなことをしていて,いつまでもバレないことはありません。
やがて帝と小督ちゃんの間に姫君が産まれ,このことを伝え聞いた清盛は激怒し,小督ちゃんを捕らえ,東山清閑寺で尼にして追放してしまいました。

もともと出家するつもりでいたものの,こんな形で尼にさせられてしまった小督ちゃん。当時23歳でした。
才色兼備であったが故に権力者たちに人生を狂わされてしまったこの女性は,嵯峨野に戻り暮らしていましたが,その後は大原に入ったということです。

ちなみに高倉帝は,自分が天皇の地位にありながら,一人の女性すら思い通りにならない身を嘆き,「私が死んだら,小督が出家させられたという清閑寺に埋めてくれ。」と言い残し,これまでの気苦労がたたったのか,21歳の若さでお隠れになってしまいました。
   おしまい   

簡単に済ませるつもりでしたが,ストーリーだけが長くなってしまいました
で,次回が本題,といっても竜頭蛇尾になる可能性大ですが,あらかじめご了承下さい。