果報は寝て待て!

浮世は疲れることばかり…
いそがず,あせらず,のんびりいきましょう。

理想論のみで生徒と教師の運命を弄ぶセンセイたち

2006年10月31日 | 雑談
必須科目未履修問題…
本日の報道によると,とうとう熊本県を除く全国46都道府県,495校に及んだとのことですね。
さらに,茨城県の某高校においては,この件がきっかけに校長が引責自殺するといった事態にまで発展してしまいました。

本日の文部科学省の会見によると,各学校長から各都道府県の教育委員会に,未履修科目も履修として虚偽の報告をされてしまったら,もはや文部科学省では一々把握できないといったようなコメントがなされていました。
確かにこれはもっともなことで,それらの報告の真偽を全て確認作業を行うことは,現実的に不可能であろうと思います。
虚偽の報告をした学校側にも当然責められるべきところがありますし,もしかしたら各都道府県の教育委員会も見て見ぬふりをしていた可能性は十分あり,それらの責任問題もあるかもしれません。

ただ最も問題なのは,なぜ全国的規模で必須科目の未履修が起こったのか?ということです。

マスコミ等では「大学受験偏重の指導方法」,「学校自体の成績,成果主義」といったものが主立った背景にあると連日のように報道されています。
なるほど,確かにより良い大学へ進学させるために,各高校は受験に必要な科目の履修を重視することは,ある意味生徒側のニーズにも応えている形でもあり,受験に向けたカリキュラムとしては最も理想的な形でありましょう。
理数系の受験をするのに,あえて世界史に時間を割くのは,これまでの受験主義の教育現場からすれば,ある意味非常識とも捕らえられかねません。
おそらくは保護者の側も,受験に有利になる教育方針を学校に求め,受験に必要ない科目までオールラウンドに学ばせるという見解には消極に傾いていたのではないかと思います。

そのようなお受験重視の社会背景があることを知りながら,国は各教育機関に対し,学習指導要領によって,受験に不要な科目まで履修させることとしてしまいました。
これは,現代社会,国際社会の一員たるに必要な知識を満遍なく学習させるといった,一見もっともな説明がなされています。
しかし,国のその方針が,一般の教育の場で受け入れることができるものであるのであれば,おそらくは今回のような大規模な問題にまで発展することはなかったのではないかと思いますが,実際は違いました。
要するに,国の作った新たな学習指導要領は,現実の社会背景を無視し,理想論のみ先行して作られた結果,現場では受け入れられず,特に進学校と称される高校においては独自のカリキュラムが組まれてしまったのだと思われます。

最近の報道では,特に必須科目となっている世界史の未履修が問題になっているようですが,国際社会の一役を担う人物を育成するために世界史を必須にするというのであれば,逆に世界に羽ばたいた日本人が,必須でなかった日本史を学ばず,自国の歴史すら語れなくて良いのか!?と,私は声を大にして言いたい。

結局のところ,国はポーズのみで現実に合わない教育方針を下々に課した結果が今回の事件の根本原因です。

今回,校長が自殺してしまった高校において,生徒,現場の教師,保護者…これらの当事者の行き場のない怒りはどこに向けられるでしょう…?
…おそらくその矛先は,現場から手の届かないところで教育を語る官僚センセイたちに向けられるのではないでしょうか?

巧妙が辻(第43回)

2006年10月30日 | 大河ドラマ
一世一代の賭け!一切合切徳川様に差し上げまするっ!!

人間,人生に一度は,全てを賭けるときがあるのかと思いますが,一豊にとって,今回の小山会議はまさに人生の全てを賭けた戦場だったに違いありません。

そもそも徳川家康は,恐ろしいほどに慎重な人物であり,この小山会議の時点では,自分に付き従う諸侯がいつ裏切るかといった疑心暗鬼に苛まれていた時期だったに違いありません。
口先だけの忠誠だけなら誰でもできる。
諸侯から「お味方つかまつる!」と次々と声が上がれど,家康の心に彼らの声は響いていませんでした。
そんなとき発せられた一豊の一言!

掛川の城,領地,一切合切,徳川様に差し上げまするっ!

さすがの家康も耳を疑ったのは当然でしょう。
城と領地を失うというのは,すなわち無一文となるということ。
例え戦に勝ったとしても,家康が一豊にその対価に相当する恩賞を与える保証などどこにもありません。
下手をすれば,戦で勝っても無一文のままになってしまうかもしれないという危険な賭けなのです。

しかし,一豊は臆することなく全てを家康に差し出しました。
それは,一豊が家康を全面的に信頼するという真の忠誠の証となりました。
永年人質生活を強いられてきた苦労人・家康にとって,一豊のこの発言の意味と重みはすぐに理解されるとともに,この山内一豊という律儀者の存在に対し,心中あらためて感謝の意を表したに違いありません。

諸侯は次々と一豊に続きました。
これにより徳川勢は強固な結束を産み出し,関ヶ原の戦へと踏み出すことができました。

全てを差し出す…これはもともと戦友・堀尾吉晴がその子・忠氏への命として残したものであり,忠氏から一豊もその旨話を聞いていたことがきっかけでした(少なくともこのドラマにおいては…)。
本来,この話を小山会議の席上で語るべきは忠氏であったはずで,もしも堀尾吉晴自身がこの場にいたとしたら,もしくは堀尾忠氏が臆することなく一豊よりも先に城と領地を差し出すと発言していたとしたら,歴史は変わっていたかもしれず,山内家の土佐25万石の話もなかったことでしょう。
忠氏も事後に一豊に話していましたが,父・吉晴も盟友である一豊にこのセリフを言われたとなれば,本望であったことでしょう。

気持ちもあらため,いざ清洲城へ!
しかし,家康に掛川城を明け渡してしまった一豊の一軍は城の外で雨ざらし。
兵達の士気は下がる一方です。
ただ,ここで一豊は雨ざらしのまま兵達を叱咤激励しました。
昔,一豊の父親代わりというべき五藤吉兵衛が,自らの死の前夜,一豊に対し,部下に対してはこういった口上で戦場に送り出すべしであると教え諭していました。
吉兵衛の死から十数年。
いつのまにか一豊は,自らの言葉で,兵達を送り出せる人物へと成長していました。
一豊と一体となった兵達…あの世で吉兵衛はこう言っているに違いありません。

「殿…ご立派になられた…」

<その他>
・福島正則が一豊に相談!?
なかなかあり得ないと思われる光景でしたが,若武将にとっても一豊の律儀さと正直さが,このようなとき最も頼りになると,本能的にわかっていたのかもしれません。

・小早川,毛利,その他諸々の武将が続々と初お目見えしてましたね(初登場じゃなかったとしたらすいません…
とくに小早川のお馬鹿そうなのが良かったです。
次回のオロオロぶりが楽しみです

・先週と違い,あんまり出番のなかった千代さん。
今回は亭主に花を持たせましょうかね…

次回の関ヶ原は,ちゃんと戦闘シーンがあるみたいですね!
期待しましょう!ではまた来週~

さぬきうどん初心者

2006年10月28日 | 旅日記,郷土の歴史

四国の旅2日目の主たる目的は,高松の平家物語に関する史跡を渡り歩くことでした。
細々とした史跡については,四国の旅日記を完結した後に,少しずつ放出していこうと思いますので,まずは史跡以外の事項について書いていきましょう。

香川県と言えば,なんといっても讃岐うどん
旅行前から,平家の史跡も捨てがたいが,讃岐うどんも捨てがたい!と思っていました

事前に調べたところ,讃岐うどんにも,①店員が具やダシなどを運んできてくれる通常店タイプ,②学食のように自分で具材を選んでいくタイプ,③製麺所で具材を自分で刻んだりするマニア向けタイプ,といった3タイプがあるようでしたが,今回は時間も限られており,②③の店は行列ができている可能性が高いため,讃岐うどん初心者にも安心な①タイプの店を選択。

そして訪れたのが,四国民家博物館「四国村」の敷地に存在する「わら家」というお店。
場所的に,平家史跡巡りにも便利な屋島に位置しているため,比較的行きやすいお店でした。


江戸末期の藁葺き民家を改築して作られたこのお店は,外には風情のある水車が回り,中には昔ながらの藁葺きの高い天井といった,落ち着いた空間。

とりあえず釜揚げうどんを注文。
すると,まず次のようなものが運ばれてきました。

さすが,生姜を摺り下ろしてこないところがニクいです
ネギはこれでもか!というくらいてんこ盛りでした!

うどんは注文してからゆで始めるらしく,だいたい15分程度待たされるもののようです。

しばらくすると,うどんより先に,瓶出し紹興酒の壺のようなものが運ばれてきました。

この中に入っているのは,うどんにかけるダシ汁です。
持つところが,首に縛られている縄みたいな部分のみで,他のところを間違ってさわると,熱くてヤケドします
(ちなみに上の写真は,変なトリミングをしていますが,切り取った右半分に余計なものまで写っていたので,やむを得ず写真の左端のみ残した次第であります…

さんざん待ったあげく,ようやく待ちに待ったうどんが到着!
熱くて思いダシの壺から,いかにしてダシ汁を注ぎ出すか難儀し,無事ダシ汁を注ぐことに成功した私は,飢えた餓鬼のようにうどんにむさぼりつく!

うまいっ!!

腰があって,咬みごたえ十分なうどんに,薄すぎず濃すぎないダシが食欲をそそります。
大量の刻みネギとおろしたばかりの生姜が,さらに一層うどんの風味を豊かにし,一気にフィニッシュ!

ふー,おなかも満ち足りて満足,満足…
あれ,何かを忘れた気がする…

しまった!肝心なうどんの写真を撮るのを忘れた!!


<本日の一句>
無我夢中さぬきうどんをすする秋 

「わら家」についてのサイトはこちらをクリック


おやすみ,松山の町…

2006年10月26日 | 写真とひとりごと

正岡子規は,
名月や伊予の松山一万戸
という句を残しています。

夜,どこから眺めたのかはわかりませんが,満月の月明かりと,松山の地の存する家々のわずかな光が,子規の目には美しいものに写ったには違いありませんね。

子規の時代,松山の町の世帯数はその程度だったのでしょうが,現在は歴史と文化を兼ね備えた近代都市に発展しています。
時代こそ違えど,松山の町の美しさは,今も昔もこれからも変わらずにあってもらいたいと心より願っております。

初めて訪れた文学の町松山。
おやすみ…また会う日まで…

<本日の一句>
松山の街の灯浮かぶ秋の暮 


リラックママグカップ

2006年10月24日 | 雑談

先週土曜日,めずらしく妻をつれて新宿に買い物に出かけました。
三越ビルに入っているロフトに立ち寄ったところ,「リラックマ3周年記念コーナー」なるものが設置されていました。

そこで,ナイスなマグカップを発見!
置いてあるだけでダラダラしてしまいたくなるような代物です
ただ,我が家には使わないで放置してあるマグカップ,ティーカップたちが腐るほどいるので,今回の商品を購入すべきか密かに悩みましたが,妻の頭の中には,「この商品を買わないで帰る」という選択肢は存在しないらしく,「はい,これとこれ!」といってさっさと手渡され,レジ直行を言い渡されました

いざ使ってみると,取っ手も大きめで使い勝手がグッドです
団子を食べながらこちらを見ているリラックマ…不思議と見入ってしまうのがある意味おそろしいこのマグカップ…
コーヒーの入ったこのマグカップを脇に,優雅にブログを書いている私が今ここにいるのでした…


巧妙が辻(第42回)

2006年10月22日 | 大河ドラマ
がらしゃ,がらしゃ,みちたもう,まりあ…あーめん

かたや妻を守らんと忠臣を妻の元へ派遣する夫がいると思えば,かたや家のために妻に死を命じる夫もいる…戦国の世の倣いとはいえ後者の妻となった者は不幸でありましょう。
ただ,その妻は,そのような仕打ちを受けたとしても,それが夫の愛の形であると信じるとともに,世の平和を願いつつ,そして再び自分のような身の上の者が現れない時代が来ることを信じて,臣の槍に身を任せました。

キリシタンとなった細川忠興の妻・ガラシャこと

以前,明智光秀の謀反の際にも,細川家では,謀反人光秀の子である玉を山奥に幽閉したことがありました。
幽閉が解かれていざ夫のもとへ戻ると,夫は「よくぞ戻った」と言いながらも側室との間に子を作っていました。
それでも玉は,それが夫の愛の形であると,半ばあきらめをもって受け入れようとしていました。
このドラマにおいて,玉がキリシタンに入信した背景には,このような事情がありました。

この世に生きることに疲れたガラシャですが,それ以上に人を愛したかったガラシャ,愛されたかったガラシャがそこにいました。
故に,死にたくても自らを殺せないキリスト教の教えを身に受け,さらに隣人を愛せよとする教えを身に受けたのではないでしょうか。

ガラシャの死をもって,またもや細川家は救われました。
これまでどちらかというとガラシャを細川家の厄介者として考えていた大御所・細川幽斎も,渋い表情で「玉の死を無駄にするな!」として石田勢と徹底抗戦の構えを見せるに至りました。
千代とは正反対の不器用な生き方を余儀なくされたガラシャ。
不器用だからこそ自らが見いだした拠り所に向かって真っすぐに生きることができたのだと思います。

そして彼女の魂は,ようやく戦国の世の呪縛から解き放たれました…

地味ながら,妖しい魅力で我々を魅了してくれたガラシャ役の長谷川京子さん,お疲れ様でした!

<その他>
・ 一豊に招かれた家康。
未だに徳川,石田のいずれに付くか迷っている一豊は,正直に「どちらに付くか迷っておりまする」と発言。
一豊の健気さも然るものながら,家康も無理に勧誘をするわけでなく逆に「大いに悩みなされ」と予想外の回答!
まさに家康の貫禄勝ちといったところでした

・ 石田の使者が千代様を大阪城に連れて行こうと,山内邸に来たときの千代様の対応。
いや~,かっこよかったですね!
また仲間由紀恵さんの株が上がりました!
一仕事する前の,お約束のズッコケもさすがです!

・ 千代からの密書を命がけで一豊に届けた田中孫作って,実際もあんな感じだったのでしょうか?
途中,盗賊に出くわしたりといった有名なエピソードは,本作品ではカットですか。
逆に六平太の方が目立っちゃっていましたよ
もっと孫作の活躍をクローズアップしてもらいたかったのが正直な感想。

では,次回の小山会議でまたお会いしましょう!

旅館ふなや

2006年10月20日 | 旅日記,郷土の歴史

私が一人旅をする際は,基本的にはビジネスホテルや安い民宿を渡り歩く方が経済的で好きなのですが,今回は久々に妻を連れての旅行だったため,せっかくなので宿泊先にはこだわろうかと思い,自分的には通常ありえない選択をしてみました

今回の旅で宿泊した道後温泉の旅館「ふなや」は,創業370年以上の老舗。
過去には正岡子規や夏目漱石も宿泊し,それぞれ
亭ところゝ渓に橋ある紅葉哉
はじめての鮒屋泊りをしぐれけり
といった句を残しています。

館内は広く,温泉部分は別館に存在し,敷地は日本庭園になっており,宿泊コースによっては,庭園に流れる小川の脇に作られた庵で夕食がとれるコースもありますが,庭園を散策していたところ,小川の付近で見事に蚊に喰われたので,このコースを選択するのは春や秋の方が良いと思われます。
(もちろん貧乏な我が家は通常の部屋食コースでしたが…

なお,この旅館は皇族の方々も頻繁にご利用されているようであり,天皇陛下,皇太子ご夫妻,秋篠宮ご夫妻といった方々が来泊された際の写真も展示されてありました。
ちなみにふなやのロビーフロアには,昭和期に皇族が使用された部屋の一部を再現した部屋が公開されていました(下の写真。人が少ない夜中に撮影に行ったためちょいと写真が暗かったですね…

さて,ここでのお食事の話です
どちらかというと小食な私。
いつもの夕食もおかずは一品あればそれで満足な生活をしていたところ,ふなやの夕食は,和を基調としたフルコースが次から次へと出てくるため,途中でおなかがグロッキー状態になりましたが,出てくる食事はどれも洗練されたものばかりだったので,妻が食べきれなかったものまで奪い取り完食!
特に牛ヒレとお造りが最高でした
(食べることに必死で,肝心のメインディッシュの写真撮るの忘れた…

温泉はもちろん道後温泉の湯
なんとなく露天風呂部分は思ったより小さく,物足りなかったような感じはありましたが,さすが道後の湯。湯の中で身体をさすっていると,どんどん肌がすべすべになっていきます。
道後温泉の名はダテではないことが,実際入浴して実感しました

さんざん歩き回って,腹一杯おいしいものを食べて,名湯に浸かって…
世は満足ぢゃ…

ふなやの公式HPはこちらをクリック


道後の町

2006年10月18日 | 旅日記,郷土の歴史
四国の旅の報告の続きです。

今回の旅で,1日目の宿はぜひ道後温泉に泊まりたいと思い,名宿「ふなや」を予約しました。
夕方5時ごろ「ふなや」に到着し,夕食まで多少時間があったので,道後の町をふらふらしてみました。
(旅館「ふなや」については次回アップ予定です)

道後の町で欠かすことのできない建造物は,なんといっても道後温泉本館の建物でしょう。
道後温泉自体は古代から塾田津の温泉(にきたつのゆ)と呼ばれ,史料としては「日本書紀」にも登場するとのこと。

この道後温泉本館の建物は明治27年に建てられたもので,平成6年に国の重要指定文化財に指定されています。
温泉というよりは銭湯といった感覚に近い建物かもしれませんが,湯上がりに広々とした座敷の休憩所でのんびりするのはなかなか贅沢なひとときですね。

残念ながら,今回は外から眺めただけで,本館内の湯に浸かることはできませんでしたが,その分,宿の温泉でじっくり道後の湯を堪能することにしました

「ふなや」の手前には,正岡子規及び松山の歴史を博物館的に紹介している「松山市立子規記念博物館」がありました。
入館締切時間寸前のところで転がり込み,閉館までのんびり見ていましたが,この記念館のおもしろいところは,伊予の国誕生の歴史からといった大きな視点で歴史の流れが時系列的に解説され,そのうち子規が誕生した時代まで来ると,今度は子規個人の人生の流れに焦点が当てられるといった配置がなされ,子規という人物が現れた風土的な歴史を踏まえさせた上,子規個人を理解させるといった,郷土史と子規の興味がある人間には一粒で二度おいしい博物館でした

小説「坂の上の雲」で,子規は自分を含めた同僚たちの能力を個別分析し,順位付けをするといった話が出てきていたのを記憶していますが,その順位付けをしたノートの展示もあったり,興味深い資料が多々ありました。

もっと時間があれば,映像資料とかもじっくり見てこれたのですが,閉館のアナウンスが流れてきたので,一目散に売店までダッシュ。
子規の句集と日めくりカレンダーを購入し,宿に帰りました。

道後温泉本館の公式サイトはこちらをクリック
松山市子規記念博物館の公式サイトはこちらをクリック

巧妙が辻(第41回)

2006年10月16日 | 大河ドラマ

現役を去る戦友たち…託された一豊の思いは…

徳川か石田か?
どちらに付くかで揺れている一豊をよそに,戦友である堀尾吉晴は隠居,中村一氏は死を予感し隠居後間もなく死去。
信長の時代からともに戦場を駆けめぐり,巧妙を争ってきた彼らは,いつの間にか歳を取っていたのです。
少なからず一豊より石高の多い吉晴と一氏。
彼らにも豊臣に対する恩顧はあれども,豊臣の家臣であったと同時に,彼らは今,多くの家臣を抱える一城の主。
義のために滅びるには,彼らも大きくなりすぎていました。
そして吉晴と一氏は,未来の家の運命を徳川に委ねることを決意しました。

彼らの決断は,悩める一豊の心を揺るがしたに違いありません。
妻である千代は,六平太に「早まるな」と釘を刺されてはいましたが,淀への忠言の中にも見えるように,少なからず現段階で徳川に利ありと悟っていたのでしょう。
ただ,決め手のない現段階では,千代は未だ一豊へ,徳川への参戦を積極的に促してはいません。
それは,一豊の,夫として,城主としてのプライドを守る健気な妻の心遣いなのでしょう。

戦友達に,後の巧妙を託された一豊…彼の心も徳川になびくのももはや時間の問題です。

<余談>
・このドラマ,いくら戦友とはいえ,石高の大きい堀尾吉晴が,石高の少ない一豊邸を訪れることが多いですね。
権勢順からすれば,一豊が堀尾邸を訪れるのが筋のような気がしますが…当時の諸侯の権勢順とはその程度のものだったのでしょうか…?
でも実際は古くからの友人であれば,どっちの家に遊びに行くのはどんな身分になっても変わらなかったのかな?

・このドラマ,男性キャラはやたら歳を取って見えるのに,女性キャラはまったく歳を感じさせないのは気のせいでしょうか?

・中村一氏役の田村敦さん,名演技でした…と言いたいところでしたが,シーンが病に伏せっていた場面が多かったせいか,セリフ回しに切れがなかった感があります。
いずれにせよ,お疲れ様でした!

・家康が,「前田家のまつ殿を人質に」と言った時に,密かに「ある期待」をしてしまったのは私だけ…?
ああ,苦い濃いより甘い濃い

次回,ハセ京の艶やかなお姿が見れそうですね!
というわけで,また来週!


坊ちゃん列車

2006年10月14日 | 旅日記,郷土の歴史
子規堂の目の前に,坊ちゃん列車の客車が観光用に展示されていました。

現在でも,松山市内から道後方面にかけては路面電車が走っていますが,明治期から昭和にかけては,蒸気機関を利用したミニSLのような路面汽車が活躍していたようです。
夏目漱石が,松山に英語教師として赴任してきた時の経験をベースに書かれた小説「坊ちゃん」において,この路面汽車が「マッチ箱のような汽車」と表現されていたこともあり,この路面汽車は「坊ちゃん列車」と呼ばれるようになったとのこと。

客車の内部はこんな感じで,今考えてみると,座っていた人のお尻が痛くなりそうですね

路面電車の出現により,坊ちゃん列車は昭和の半ばに廃されたものの,地域住民及び各地のファンの熱い要望により,噴煙を散らす汽車ではなくディーゼル車としてリニューアルされ復活。
現在も観光用に,定期的に運行されている模様です。

今回の旅では,時間の関係上坊ちゃん列車には乗れなかったどころか,走っている姿にも遭遇できませんでしたが,いつの日か再度松山を訪れた際には,是非とも乗ってみたいと思います

松山観光コンベンション協会の坊ちゃん列車のサイトはこちらをクリック

子規堂

2006年10月12日 | 旅日記,郷土の歴史
私はブログを書くようになってから,たまに俳句を詠むようになりました。
(例によって,文法,表記等はめちゃくちゃですが…
山頭火みたいな型破りなものも含め,俳句というものは,概念や主義など,諸派によって様々あるようですね。
ただ,私的には「俳句は言葉による写真」というスタンスが一番性に合っていると思っていますので,その意味では,写生俳句を真っ先に提唱した正岡子規には共感すべきところがあります。

というわけで,「病床六尺」やら司馬遼太郎の「坂の上の雲」などをかじりつつ,子規へのロマンを馳せつつ,やってきました松山!

とまあ前置きはこの程度にして,伊予鉄道松山市駅よりわずかに南下した場所に正宗寺というお寺があります。
駅前ということもあり,人通り,車の通りも多め場所ではありますが,このお寺の敷地内にひっそりと残されているのが,俳人・正岡子規が17歳まで生活していた小庵「子規堂」です。

子規はここでの生活後,政治家を目指しつつ上京し,22歳で喀血。
その後は脊椎カリエスという難病と闘いながらも文学の探究,短歌・俳句の革新に専念し,36歳で生涯を閉じます。

子規堂の中は,古き良き時代の庶民的なたたずまいで,子規が書いた書面やら絵やらが所狭しと展示されておりました。

子規の勉強部屋です。
3畳間のこぢんまりとした部屋で,特に目立った特徴は見受けられません。
しかし,このような何の変哲もない部屋で,日夜子規が黙々と勉強していたのかと思うと,もっと私も,幼いころにやる気になれば勉強できたのでは,と反省させられてしまいます…

子規庵の裏は墓地になっており,そこには子規の遺髪が埋葬されている碑が建っております。
私がこの地を訪れたのは9月19日。
特に計算して訪れた訳ではないのですが,この日はちょうど子規の命日で,つい先ほどまで「子規忌」の法要が行われていたとのことでした。

子規は辞世に「をととひの糸瓜(へちま)の水も取らざりき」という句を残したことからも,子規の忌日は別名「糸瓜忌」とも呼ばれています。
なるほど,線香の匂いも残り,石碑にはヘチマが供えられておりました。
これも奇縁。
故人の偉大なる業績に,掌を合わせる私の姿がそこにありました

<本日の一句>
子規の碑や糸瓜三本残されし  ぴえる

松山市観光ガイド(子規堂)のサイトはこちらをクリックしてください

巧妙が辻(第40回)

2006年10月10日 | 大河ドラマ

キツネとタヌキの化かし合い!前哨戦はタヌキ優勢か!?

「巧妙が辻」においては,度々生きるための選択を迫られる場面がありますが,山内家にとってこれからが最後の,最大の選択になりますね

競馬においても,どの馬に賭けるかは,下馬評を見るよりパドックでその馬を現実に見て賭ける人たちがいるように,石田三成か,徳川家康か,どちらに付くべきかは実際にそのひととなりに触れた上で検討すべき事項なのかもしれません。
今回のいい例は,養子問題で家康に尋問に訪れた一豊らでした。
どう考えても約定違反の家康が,かえって三成をうつけ者呼ばわりして一豊らを追い返したあの度量に,常に慎重派の堀尾吉晴ですら真っ先に家康に付く意向を示しました。
そこにあるのはまさにカリスマという目に見えない脅威とも畏敬ともつかないものですが,人が人を引きつけるのは,まさにそのカリスマに他なりません。
その意味で,家康はカリスマという目に見えない力を自在にコントロールできる人物だったのでしょう。

それに対する石田三成…
確かに三成も,頭が切れて行動も早い人物ですが,カリスマという面では家康にまだまだ及ばないようです(このドラマがそういう作りをしているせいなのかもしれませんが…)。
朝鮮から命からがら帰ってきた福島正則や加藤清正などは,7年間命を賭けた朝鮮での地獄の代償につき,三成から「時をあらためて,茶の湯でも」という労いのみ…
こんな賃金未払いを平気でする会社には,当然勤めたくないと思うのはごく自然なことで,さらに三成が自身を秀吉の後を任されたような振る舞いをしていることからも,
まさに「事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!」と言いたくなるのは当然です。
人の心は自然と離れていってしまうものです。

爆発した諸大名の不満は三成暗殺計画に発展。
なぜか一豊が単独で三成脱出に手を貸す奇妙さは,番組の性質上仕方がないこととして(),退路を断たれた三成が,あえて家康のもとへ助けを求めたこの逸話は,三成の判断力と行動力のなせる起死回生の一手であり,いつでも殺せる状態の三成をあえて殺さず野放しにする家康のタヌキぶりもまた恐ろしいものであります。
三成が飛車を取られる状況を,家康はあえて見逃し,後々に王手飛車を狙うといった今回のやりとりは,まさに今回の巧妙が辻の見せ場でした。
家康役の西田敏行氏,三成役の中村橋之助氏がまたそれぞれ「タヌキ」と「キツネ」的で互いにいい味を出しています。
これからの彼らの化かし合いが楽しみなところです

ちなみに今回の一豊は,例によってどっちつかずでした。
この大局にありながら,あくまでも義を重んじ三成方に付かんとしていますが,この時点で千代さんの方は,時代の流れを既に読んでいたようですね。
早くダメ夫を然るべく方向へ導きましょう,千代さん

ちなみに余談ですが,前田利家は登場するかと思わせておいて,次の瞬間死亡との報告…唐沢さん,ホントに先週だけの登場だったんですね

というわけでまた来週!


一日おくれても名月

2006年10月08日 | 写真とひとりごと
前回,月が見れなくてダンゴのみ食べた記事をアップしましたが,十五夜が過ぎた次の夜の月は,台風やら前線やらが通り過ぎていってしまったため清々しい夜空となりました

お月様も若干,形の整わない円になっていましたが,それでも名月は名月!
たまに薄い雲がかかる程度で,輝かしいばかりに夜空の支配者と君臨しておりました。

ああ,ここにダンゴとススキがあったなら…

しかし,コンパクトデジカメで満月に近い,光量の多い月を撮るのはなかなか難しいことがわかりました。
シャッタースピードを速めると,単なる白丸にしか写らず,逆にシャッターを遅くすると,太陽のように必要以上に光ってしまいます(今回の写真はまさにそれです…
むかし,天体望遠鏡を持っていた時代に,月の光量を減らして見やすくするための「ムーングラス」というフィルターがあったことを記憶していますが,このデジカメにはそのようなオプションが付けられるような機能は残念ながらないですね…
肉眼で月の中のウサギさんが見える状態でも,それを撮影するにはそれなりの技術とカメラ性能が要されることを痛感した月夜でした

<本日の一句+α>
雨去りぬ十六夜待ちて名月や 
名月や団子は既に無かりけり 

月よりダンゴ

2006年10月06日 | 写真とひとりごと
今年の中秋の名月は10月6日。
虫の音を聞きながら,優雅にお月見と洒落込もうかと思いきや,あいにくの雨空…

しかし,たねやの月見団子だけはしっかり買って帰りました

月を見れない分,団子だけはおいしくいただいた私でした!

<本日の一句>
秋雨や団子喰えども月は無し  ぴえる

松山城二之丸史跡庭園

2006年10月04日 | 旅日記,郷土の歴史
先日,松山城を訪れた折の記事を掲載し,その敷地の広大さについて簡単に触れさせていただきましたが,今回ご紹介する「二之丸史跡庭園」は,やはり松山城の敷地の一部,旧二の丸の部分に,平成4年に作られたものです。

二之丸はもともと,本丸を防衛する施設として建築され,その敷地には,藩主の政務に供される屋敷(二之丸邸)が建てられておりました。

明治期にも当初は県庁として使われていたようですが,明治5年に火災により二之丸邸は消失してしまいます。

歴史的にも貴重なこの二の丸の遺構を残さんと,新たな試みがなされたのが,この「二之丸史跡庭園」。
というのは,通常史跡を残す場合には,旧跡と同じレプリカを再建築し,公開していくことが多いかと思われますが,この二之丸庭園は,もと藩邸が配置されていた位置に,存在していた各部屋の間取りと同じ区分で,流水の池や石廊の配置,植樹がなされているのです。
(冒頭写真をご覧いただければ,人工池の部分に規則的な区切りがなされていることがご覧いただけるかと思いますが,これが当時の建物の部屋の配置とのことです。)

当時の建物を再現した部分も一部存在しますが,逆にその建物の縁側に腰掛けて流水園や植樹園を眺めるのも一興です。

敷地の北よりの部分には,深く掘られている井戸の遺構が,残されています。
深さは9メートルと説明されており,旧二の丸邸は,この井戸の東半分にやぐらのようなものを組み,せり出す形で建てられていたというから,当時の土木技術の高さが偲ばれます。

植樹されている木の多くは,愛媛県らしく柑橘系の樹木でした。
遺構,建築物のみならず,それらの木々もまた,大柄の実を実らせ,私の目を楽しませてくれました。

独自の発想により,旧跡の美徳をほぼ失わせることなく現代美術とコラボレーションすることに成功したこの庭園は,名城・松山城のもう一つの観光資源として,今後も語り継がれていくことでしょう。

<本日の一句>
秋の陽に緑々たるや蜜柑の実  ぴえる

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