果報は寝て待て!

浮世は疲れることばかり…
いそがず,あせらず,のんびりいきましょう。

東慶寺(とうけいじ)(その1)

2005年11月30日 | 旅日記,郷土の歴史


JR北鎌倉駅から徒歩5分程度のところに存在する東慶寺
鎌倉幕府第8代執権北条時宗の妻・覚山尼が開創したこのお寺は,群馬県太田市の満徳寺とともに「縁切寺」「駆け込み寺」として有名なお寺です。
室町初期においては後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住待となり,「松ヶ岡御所」として寺格を上げることになります
余談ですが,大河ドラマ「北条時宗」では覚山尼を十朱幸代さん(出家前は西田ひかるさん)が演じていましたっけ

さて,中世,寺には治外法権的な特権が存在し,政治権力ですらうかつに立入,介入することが許されてはいませんでした。
そして,寺内におけるもめ事は,寺独自の「寺法」によって解決が図られてきました。
特に尼寺は,男子禁制という性質上,女性の立場からの離婚申し出の場として大きな役割を果たすことになりました。

しかし,江戸期になると幕府の寺院法度による統制なども影響し,寺法の絶対的効力も薄れていく中,この東慶寺については,徳川家康が豊臣秀頼の遺児(後の天秀尼)をこの寺において出家させた折,天秀尼が,開山からの寺法が断絶することのないよう配慮されたい旨を家康に願ったことから,東慶寺の縁切り寺法は明治期に至るまで強力な効力を持ち続けることになりました。

その一例として,東慶寺の男子不入の禁を破った会津城主加藤明成には,お家没収という厳しい処分が下され,その後東慶寺の寺法に反しようとする者はなくなったということです

家康が東慶寺の特権維持を認めた裏の理由として,男女間の紛争はただでさえ厄介であり,それらの紛争は幕府奉行所の手だけでなく,幕府の公認した寺院に委託することで,裁判業務の負担を軽減させるという政策的意図もあったのかもしれませんね。
一辺倒な幕府役人の詮議によるよりも,心理学カウンセラー的な尼さんに話を聞いてもらえる方が,意外に円満解決の糸口が見つかったりするかもしれません。
現在司法制度改革において検討されている,裁判所以外の機関で紛争解決を図る「ADR」を彷彿させます。

むかしは尼寺だった東慶寺も,今現在は男僧が住職となっています。
単なる駆け込みの場所というだけでなく,適度な敷地に美しい庭園が広がります。
春には枝垂れ桜が咲き誇るということなので,今度訪れるときには桜の時期を狙いたいと思います

次回は,東慶寺における縁切りの手引き(!?)についてお話しします

東慶寺のホームページはこちらをクリック

経県値

2005年11月28日 | 雑談
ひろきさんのブログ(徒然日記)で紹介されていました「経県値

自分が日本をどの程度歩き回っているか点数を付けてくれるサイトです。
さっそく私もためしてみました。
私の結果はこちらです。
やはり西日本が弱いので,今後はがんばって歩き回りたいですね

しかしなにげに自分の故郷,福島の隣県山形に一歩も足を踏み入れた記憶がないことにあらためて気付かされました。
考えてみると蔵王でスキーすらしたこともないのか,ワタシは…

これを契機に山寺にでもいきますか…

安宅の関

2005年11月28日 | 旅日記,郷土の歴史


昨日,大河ドラマ「義経」で「安宅の関」を舞台に松平健さんと石橋蓮司さんの熱い名演が見れたところで,私も今年の9月に安宅の関を訪れたので,多少コメントしましょう。

この日,一人金沢からレンタカーで,東は倶利伽羅峠,西は加賀市の篠原古戦場跡などを巡り,道に迷いながらようやくたどり着いた小松市の「安宅の関」。
そこは小高い丘のような体裁で,北側は眼下に日本海が迫ります。

義経一行がここを通ったときはどんな感じだったのかはわかりませんが,今では公園として整備され,広場の一角に,青空の下,義経,弁慶,富樫の像が勧進帳を演じているのを見ることができるでしょう。



実際の安宅の関跡は,勧進帳の像があるところより東側の,住吉神社への通路みたいなところにあります。
この松林に富樫泰家が関守を任された安宅の関があったのでしょうか。

さらに,現在では公園部分に,勧進帳にまつわる数多くの展示がされている「勧進帳ものがたり館」という施設が併設されています。



「勧進帳」は,昔から歌舞伎や文楽で多くの人たちに親しまれてきました。
「勧進帳ものがたり館」の中には,文楽で使用されていた人形が展示されていました。
さすがに私は文楽を見たことがないですが,この人形がどのように生を吹き込まれるのか見てみたいような気がします。

また,建物の中には小さなシアターゾーンがあり,そこでは歌舞伎「勧進帳」をダイジェストで10分程度にまとめて上映しています。
私が訪れたときは,季節はずれの平日だったこともあり,館内には誰も観光客がいず,シアターも貸し切りでした
市川團十郎さん演じる弁慶の姿に,現代劇とはまた違う日本古来の「勧進帳」を見た気がしました。
ちなみに,冒頭写真の勧進帳のブロンズ像は,歌舞伎「勧進帳」をモデルに作成されているとのことです。

冬の寒さの中,この地に演じられた「智・仁・勇」のドラマ。
今でもそのドラマに魅せられて,この地を訪れる人は絶えることがありません。


<本日の一句>
(冒頭写真の現場に実際訪れたときの印象として…)
爽やかに魅せる松原勧進帳 ぴえる


<関連記事>
義経(第47回)の勧進帳

勧進帳の里公式ホームページ

義経(第47回)の勧進帳

2005年11月27日 | 大河ドラマ

↑弁慶,偽物の勧進帳を読み上げる(中尊寺発行「源義経公東下り絵巻」より)

みなさん気が付いたでしょうか?
オープニングのスタッフロール,通常なら頼朝役の中井貴一さんが大とりなのですが,今回,中井貴一さんは中とり。
そして見事にいつもなら義経の次くらいに名前が出ていた(と思った…マツケンが大とりでした。
まさに,マツケン一世一代の名演をオープニングの段階で感じさせた「安宅の関」!

マツケンの勧進帳を読む場面,義経を殴る場面,さすが役者が違いましたね~
義経が静からもらった笛まで踏んずけて割っちゃうし…
しかし,マツケンさながら,私がゾクゾクしたのは誰でもない,石橋蓮司さん演じる富樫泰家!やっぱり彼でしょう!

私のこれまでの認識では,勧進帳の富樫は最初から切れ者であるイメージがあったのですが,蓮司さんはこのイメージをいい方向に破ってくれました。
最初登場したときのあの酔っぱらいオヤジの姿には正直驚かされました
無能ゆえ鎌倉から加賀の僻地に飛ばされたかのような無能な役人を演じ,たわいのない話を投げかけまくり,実は少しずつ,まるで真綿で弁慶の首を絞めていくかのように適格に追いつめていく計算された詮議。
現実にあれをやられたら,はっきりいって最初から切れ者関守の姿で登場されるより,弁慶ご一行に与える心理的プレッシャーはただならぬものではなかったのではでしょうか?
その「脳ある鷹は爪隠す」的な富樫を見事に演じきった名優石橋蓮司さんに熱いものを感じた今回でした


↑弁慶,義経に許しを請う(中尊寺発行「源義経公東下り絵巻」より)

ちなみに,今回巴さまが久々に登場したわけですが,これまた今までにない新解釈ですね。
義仲死後,いずこかに落ち延び,一説ではわざと鎌倉方に捕まり,和田義盛の妻になったり…などという逸話の多い巴。
でも,現実問題として,一人の女としての人生で考えれば,今回のような落ち着き方が一番幸せなのかもしれませんね。

ちなみに巴の逸話については私のブログでもいくつかご紹介しておりますので,こちらもごらんください

葛原が岡公園(くずはらがおかこうえん)

2005年11月26日 | 旅日記,郷土の歴史


↑葛原岡神社

細くくねくねした源氏山ハイキングコースを歩いていくと,源氏山公園に至る前に,広めの自然公園を通過することになります。
ここは葛原が岡公園と呼ばれているところで,春には桜の名所となる場所です。

どちらかというと源氏山公園への通過経路程度にしか認識されていないかもしれない葛原が岡公園ですが,この地は,鎌倉幕府倒幕に向けて奔走した公卿・日野俊基終焉の地として重要な史跡であります。

日野俊基は早い時期から北条氏率いる鎌倉幕府の衰退を見極め,天皇による親政復活を各地に説き続け,1324年の正中の変の際には一度は捕らえられましたが無事解放されます。
しかし2度目のクーデター計画である1331年の元弘の変において再度捕らえられ,後醍醐天皇は隠岐に配流,そして俊基は六波羅から鎌倉に護送され,この葛原岡において処刑されました。


↑日野俊基終焉の地の石碑

明治時代になり,明治天皇の思し召しによって,この地に日野俊基を祭神とする神社の建立が計画されました。
それが現在の葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)です。

葛原岡神社の境内の片隅には,「俊基卿終焉之地」とされる小さな石碑が残されています。
俊基は処刑にあたり,辞世の句を詠んでいます。

秋待たで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん
古来ノ一句 死モ無シ生モ無シ 万里雲尽テ 長江水清シ

自分の無念を必ず後に続くものが果たしてくれる,そういった思いで最期を遂げた俊基の遺志は,やがて足利尊氏,新田義貞らの手によって果たされることになるのでした。


↑日野俊基の墓

神社から少し離れた場所に,日野俊基は眠っています。
俊基死去より数年の後に滅んだ鎌倉幕府。
しかし俊基の理想の具現であった後醍醐天皇による建武の新政も,武家にはなじまず足利尊氏は反乱。
世の中は南朝方,北朝方に別れて相争う未曾有の方向へと流れていくのです。
結局は,鎌倉幕府の崩壊は,南北朝の争いの序章にすぎなかったのかもしれません。
俊基は,この墓の下で,時代の流れに何を思ったのでしょう?

<(俊基の辞世に句にちなんで)本日の一句>
行く秋や葛原岡に墓碑ぽつり ぴえる

…思いっきり無理があったかな…


化粧坂(けわいざか)

2005年11月24日 | 旅日記,郷土の歴史

源氏山公園を北側から出ると,そこは足下が危なっかしい岩場の下り坂。
ここは化粧坂と呼ばれ,鎌倉紅葉スポットの一つとされていますが,例によってなかなか色づいてくれません

かつて,反鎌倉幕府陣営に与した新田義貞が鎌倉を攻めた際,幕府陣営はこの地を防衛ラインとし,義貞も化粧坂の突破にはずいぶんと手こずったようです。
義貞勢の海側の別働隊が鎌倉侵入に成功すると,幕府側は総崩れとなり,それまで化粧坂を攻め倦ねていた義貞もようやく化粧坂を攻略することが叶い,これにより鎌倉幕府は終焉を迎えます。

現在でも,切通しが当時のまま残されています。

実際問題,幅はそれほど広くもなく,足場も悪く,義貞がどうやってここを攻めたのかは,私もまだまだ勉強不足なので,現在読んでいる「私本太平記」で勉強させていただきますが,鎌倉攻めの戦闘により,少なからずこの地に無数の屍が転がったことは間違いないでしょう

紅葉スポットとはいえ,ひんやりしてどこか寂しげに感じた化粧坂。
この地に散った名も無き兵たちが,道行く観光客を未だに恨めしく思っているのでしょうか?

<本日の一句>
冷やかな切通しかな化粧坂 ぴえる

源氏山公園

2005年11月23日 | 旅日記,郷土の歴史


JR鎌倉駅と北鎌倉駅の間に存在する標高93メートルの山。
かつて源頼義が前九年の役出陣の際(もしくはその子義家が後三年の役に出陣の際)に白旗を立てて戦勝を祈願したとされる源氏山です。

その山頂に至るためには,古の切通しやハイキングコースを経由することになり,ちょっとした運動になります。

ちなみに,山頂に至るルートをご紹介すると,
① 鶴岡八幡宮方面から寿福寺境内を経由するルート(おそらくこれが一番楽)
② 北鎌倉駅から浄智寺脇を通り,源氏山ハイキングコースを辿るルート(私はこのルートで到達)
③ 北鎌倉駅から亀ヶ谷坂切通し,化粧坂切通しを経由するルート(古の切通しと紅葉目的ならいいかも。下山は化粧坂おりました。)
④ 鎌倉大仏方面から裏大仏ハイキングコースを辿るルート(歩いたことはありませんが,観光目的だとすると結構たいへんかも)
⑤ 鎌倉駅西口から一般道を通り,銭洗弁天を経由するルート(舗装道路とはいえ,結構急な坂道を登った記憶が…)
といった具合でしょうか。

山頂には,頼朝さんの銅像が,大いばりにあぐらをかいて鎮座しており,ゴザをひいてお弁当でも食べるのにちょうどいい公園(源氏山公園)になっています。


ここは紅葉スポットらしいのですが,先週末に訪れた際には色づきは微妙で,辛うじて一部分が紅葉がかっていた程度でした
紅葉が待ち遠しいですね。

<本日の一句>
紅葉待つ頼朝像かな源氏山 ぴえる


フライング

2005年11月22日 | 写真とひとりごと

先日,休みを利用して,ふらっと鎌倉に行ってきました。
今回は,普段行かないようなところを歩き回ろうかと思いましたが,半分以上は代わり映えのないコースを放浪してしまいました

とはいっても,今回は大船の駅から源氏山経由で大塔宮まで飲まず食わすに歩いたので,さすがに体中が痛くなりました

ついでに鎌倉も紅葉してないかなあと思いきや,やはりまだ早かったようです。
あと2週間くらいしたらいい感じになるかもしれませんね。

でも,ただ帰るのもなんなので,あちこち写真を撮ってみましたが,紅葉はどこも中途半端…
きれいな赤はあきらめていたとき,通りすがりの某学校の校庭に,鮮やかな黄色が飛び込んできました。

まだ緑のイチョウも多い中,ここのイチョウはいい色でした

ちなみに,今回の放浪で得た歴史ネタは,例によって今後,ちょびっとずつ放出予定です



義経(第46回)の舞姫

2005年11月21日 | 大河ドラマ

↑現在の鶴岡八幡宮の舞殿

石原さとみちゃん,やってくれました!
大河のHPでのさとみちゃんのコメントを読んでみたところ,今日この日のために猛練習をしたみたいですね。
想像以上にきれいな,かつかっこいい舞いにびっくり。
ちなみにあの歌はさとみちゃん歌唱でしょうか?
それとも口パク?
いずれにせよ,あの美しい「しづやしづ~♪」の,まるでノートルダム楽派のような微妙な半音が入る歌は,感じるものがありました。
CD出ないかな~

史実とは異なり,舞ったのが子を産んだ後であることは,この際どうでもいいや。
ホントに北条政子サマと同様,ブラボーと叫びたかったです
(ちなみに,あの紅葉,ちょっとやりすぎなのでは…

踊りのほかに,政子サマを掴んで泣き叫んでいた姿も引き込まれましたね!


さて,さとみ静ばかりではなく,その他の突っ込みどころを何点か。

1・どうしても兄継信と同じく義経サマの前で亡くならせたかったのか,いきなり現れて集団に斬られた佐藤忠信。
先週,崖から落ちて,まさかこれで最後かと思いきや,しっかり生きていましたね。
しかし,あの最後ってなんだかなあ…しかも朱雀の翁の一言で,斬られた忠信を放っておいて役人たちみんなどっかいっちゃうのはありえん
忠信については,古典義経記のように,大物浦で行方がわからなくなった忠信は,愛人に会いに京に帰り着き,愛人に密告され六波羅兵に討たれる方が,それはそれでドラマになって良かった気がします。
忠信役の海東健さん,お疲れ様でした。

2・静のお母様・磯禅師さん。
あなたはなぜ鎌倉にしょっぴかれないのでしょう?

3・静が舞っていたときに越前国境で戦っていた義経ご一行様。
あんな大人数の敵をあっさり倒してしまえるのであれば,もはや隠れていく必要はありませんよ!
「九郎判官に相異あるまい」と言われて,ダメもとでもいいからなんで「いや人違いだ」と言わないかなあ…
しかし,あの強さがあれば,次の安宅の関だって破って行けてしまうのでは???

まあ,今回は静サマに免じてこの辺で…

平家物語の人物について<小督>

2005年11月20日 | 平家物語-一般



小督についての史跡は,東山,嵯峨野界隈に何カ所か点在しています。
その中で,今回は嵐山の小督塚をご紹介します。

京福電鉄嵐山駅から大堰川に沿って西へ歩いて3~4分,ちょっと裏路地に入ったところにひっそりと立っていました。
この場所は,小督が清盛からの迫害を避けるために仮の住居とした付近であるとのことで,近くには源仲国が琴の音を聞いてこの場を探し当てたことにちなんだ「琴聴橋」の跡碑もあります。

しかし,この石塔,もともとはここではなく化野に転がっていたものらしく,むかしオロナイン軟膏のブリキ看板に出ていた故浪花千恵子さんがこの場に供養した旨,京都新聞出版センター発行の「義経ハンドブック」に説明されてました。
たしかに,言われてみれば昔からある石塔にしてはきれいです。
しかし,化野には無数の石塔があり,よく小督のものが見つかったなあ,とある意味感心。

また,この場所とは大堰川を挟んで反対側の法輪寺でも,この地と同様に仲国が琴の音を頼りに小督に巡り会えたとの伝説があります。
源平盛衰記にはこんな下りがあります。
是より法輪は程近ければ、そも参給へる事もやとて、そなたへ向てあゆませ行。亀山のあたり近松の一叢ある方に、幽に琴こそ聞えけれ。
(国民文庫「源平盛衰記」より)

仲国がどういうルートで小督の仮居所にたどり着いたのかは諸説あるようですが,最初嵯峨方面に向かって,そこから南下する形で辿ってきたとすると,法輪寺へ向かうには大堰川が立ちふさがり,当時この場所に大きな橋でもかかってないと,馬で渡るのは困難なのではないかとも思われます。
「亀山のあたり」ともあることから,法輪寺の方へ向かおうとしていたところ,亀山(今の天竜寺付近,小倉山の旧称とも)で琴の音が聞こえたとするならば,今の小督塚があるあたりの方が信憑性がありそうですね。

さて,清盛に強制出家させられた小督。彼女の臨終の後はどうなったのでしょう。

高倉天皇は,遺言どおりに,小督が尼になった東山の清閑寺に眠ることになりましたが,その清閑寺にはやれ小督の塚だ,やれ小督の墓だといろいろな石碑があるようです。
後の心ある人たちが,あえて小督の亡骸を高倉帝のそばに埋めてあげようと計らったのでしょうか?

もしそれが妥当だとした場合,嵐山の小督塚が昔,化野に転がっていた石塔であったという話は何なのか?
そもそも,大原に籠もった尼の死体は化野に捨てられるものなのか?
前に取り上げた「義仲の女たちの史跡」シリーズでも同様なことが言えましたが,今回も摩訶不思議です

まあ,彼女がその後どうなったのかは,人々の想像に任せることにして,平凡な女性であれば数奇な運命を辿ることがなかったであろう小督。
必要以上の美しさは,当然,権力者の目にも留まりやすく,また,その権力によって運命を弄ばれてしまう…
いつの時代でも起こり得る悲劇。
小督の物語は,そういった世の中に対するアンチテーゼとして,永遠に問題提起をしているのかもしれませんね。

実はワタシ,先日京都を訪れた際には嵯峨,嵐山方面しか訪れることができず,東山の清閑寺までは見ておりませんでした
今となっては心残りでしたが,次回京都へ行くときの楽しみにしたいと思います。



平家物語の人物について<小督(前置き)>

2005年11月19日 | 平家物語-一般

平家物語巻第六に「小督(こごう)」という段があります。
あまりにも有名なこの話は,ブログ上でもさまざまご紹介されており,いまさらワタシが語るのも何ですが,とりあえず前置きとして簡単にストーリーを振り返ってみましょう。

  

むかしむかし,中宮に仕える小督という女房がいらっしゃいました。
この方は,桜町中納言さまの御娘で,桜町中納言さまがまだ左兵衛でいらっしゃったころの官職の呼び名から,この女房も小ちゃんと呼ばれていました。

小督ちゃんは,それはそれは美しく,宮中一の美人と謳われ,さらに琴の名手であるという才色兼ね備えた方でございました。

そんな彼女にも,隆房クンという彼氏がいました。
この隆房クン,実は当時権勢ときめく平清盛の娘の一人を奥さんとしていましたが,にも関わらず,隆房クンは小督ちゃんにぞっこんで,何度も何度も小督に歌を送り,努力の末に小督ちゃんをゲットしたのでした。

ところが… あるとき,当時の帝であった高倉天皇をお慰めするために,こともあろうに小督ちゃんが派遣されることになってしまいました。
それはすなわち,他の男のことを考えず帝にだけつくしなさい,という命令に他なりません。
結局別れたくもないけど,別れざるを得なくなった隆房クンと小督ちゃん,お互い涙を流して悲しみました。

その後も隆房クンは小督ちゃんをあきらめきれず,ちらほら小督ちゃんの部屋の近くまでやってくることもありましたが,会うこと適わず,密かに小督ちゃんの部屋に投げ入れたラブレターも,読まれることなく投げ返される始末。
隆房クンは,「もはや,僕の手紙すら読んでくれないんだね…」とあきらめるしかありませんでした。
手紙を投げ返した小督ちゃんも,その行動に心は裏腹だったのは言うまでもありません。

そのうち,帝も小督ちゃんをたいそう気に入り,奥さんであった平清盛の娘徳子をそっちのけで小督ちゃんを大事にするようになりました。
ここで怒ったのが帝のお義父の平清盛でした。
帝と妻徳子との間に子ができない一方で,小督などという小娘に帝を盗られ,さらに自分の婿だった隆房クンも小督に心を奪われる始末。
清盛にとっては,二人の婿を腑抜けにした小督ちゃんの存在は許し難いものでした。
「ええい!小督がいる限り帝と徳子の夫婦仲の障りになるわ!召し連れてぶち殺してくれるわ!!」
と清盛が憤っていることをある筋から聞いた小督ちゃんは,このままだと自分だけでなく,帝にもご迷惑がかかってしまうと思い,ある夜,どこかへと行方をくらましてしまいました。

帝はショックのあまり,昼はお泣きあそばすばかりでご公務にもお出ましにならず,夜はお月さまをぼーっと眺めるばかり…
たまらず,帝はちょうど宿直に来ていた仲国というご家来をお呼びになって,
帝 「キミは小督が何処に行ったか知らんかね?」
仲国 「いや,知らないっすよ~(>_<)」
帝 「噂によると,嵯峨野の辺りにいると聞いたんだがねえ。すまんがなんとか小督を探し出してきてくれんかね?」
仲国 「そんなことおっしゃっても,誰のうちにいるのかもわからなきゃ,探せませんよ~(>_<)」
帝 「そうよのう…」
帝は泣き出してしまいました。
仲国は困り果てましたが,ふと,以前自分の笛と小督ちゃんの琴とでデュオをしたことがあったことを思い出しました。
小督ちゃんの琴の爪音は,他人には真似できない美しいもので,仲国もその音色は鮮明に覚えていました。
今夜は良い月夜。もしかしたら帝のことを思って,月明かりの下,琴を奏でているかもしれない,と思い,その琴の音色だけを頼りに仲国は嵯峨野へ向かうのでした。

しかし,いざ向かってみると,まったくそれらしい気配もありません。
こんなことなら引き受けるんじゃなかったなあ,トホホ…と思っていたそのとき,どこからともなくかすかな琴の音が!
音のする家の方に向かってみると,その音は紛れもなく小督ちゃんの琴の爪音ではありませんか!
さっそくその家を訪れたところ,思ったとおり小督ちゃんがおり,小督ちゃんが言うには
「清盛入道が恐くて恐くて,こんなところで琴なんか弾いてたらいつ見つかるかとビクビクしていましたが,もうそんな生活も嫌なので,明日からは大原に入ろうかと思っていたところで,ここでの最後の名残を惜しんで琴を弾いていたところでした。」
とのこと。
大原に入るということは,すなわち小督ちゃんが出家してしまうということでした。
仲国は,こうしてはいられないと,一緒に連れてきた部下をその場に残し,大至急帝にご報告に戻ったのでした。

夜も深いというのに,仲国が帰っても帝はまだ御座所でぼーっとしていました。さっそく仲国が一連の顛末をご報告申し上げたところ,帝は居ても立ってもいられず,
「清盛がなんだ!帝として命ずる!今夜中に小督を連れ戻せ!」
と仲国にお命じになりました。
こんなのが清盛様に知れたらどうなることやら…と間に挟まれた仲国はきっとたいへんだったでしょう。
小督ちゃんを迎えに行った仲国は,嫌がる小督ちゃんをなんとか説得して連れ帰りました。

それから小督ちゃんは,内裏の中でも人目に付かないところでひっそりと生活することになり,夜な夜な帝に召されておりましたが,そんなことをしていて,いつまでもバレないことはありません。
やがて帝と小督ちゃんの間に姫君が産まれ,このことを伝え聞いた清盛は激怒し,小督ちゃんを捕らえ,東山清閑寺で尼にして追放してしまいました。

もともと出家するつもりでいたものの,こんな形で尼にさせられてしまった小督ちゃん。当時23歳でした。
才色兼備であったが故に権力者たちに人生を狂わされてしまったこの女性は,嵯峨野に戻り暮らしていましたが,その後は大原に入ったということです。

ちなみに高倉帝は,自分が天皇の地位にありながら,一人の女性すら思い通りにならない身を嘆き,「私が死んだら,小督が出家させられたという清閑寺に埋めてくれ。」と言い残し,これまでの気苦労がたたったのか,21歳の若さでお隠れになってしまいました。
   おしまい   

簡単に済ませるつもりでしたが,ストーリーだけが長くなってしまいました
で,次回が本題,といっても竜頭蛇尾になる可能性大ですが,あらかじめご了承下さい。


中村紘子ピアノリサイタル

2005年11月17日 | 雑談


↑サントリーホールエントランス前(携帯で撮影

昨夜は、中村紘子のピアノを聞きに、サントリーホールまで行ってきました

音楽活動から離れて久しい私。
クラシックのコンサートに出掛けたのも数年ぶりでした。

当初,プログラム上では、モーツアルトのソナタ3曲、ドビュッシー、ラヴェル、グラナドス、リストといった内容でしたが、サービス精神旺盛な中村さん、アンコールをなんと5曲もやってくれました!
アンコールの閉めにショパンの革命を持ってきたところが何とも心憎い演出です

私,実は中村紘子の演奏をじっくり聞いたのは今回が初めてでした。
今回が中村さんの演奏を聞いて思ったのは、やはり中村紘子にはロマン派の曲がよく似合うということでしょうか。
モーツアルトやラヴェルを聞いていても、実のところあまりインパクトを受けなかったのですが、リストやショパンになったとたん、音に信じられないくらいの重みが載り、あらためてこの人の凄みを感じました

私の聞くピアノ曲の傾向としては、ラヴェル、ドビュッシー等の印象派が大半で、ショパン等のロマン派はあまり聞かないですね。
純粋に音の奏でる美しい映像をのんびり味わえる無機質なラヴェルに対し,ショパンは人の血が通いすぎていて,聞きすぎると疲れてしまうのです。
しかし今回の演奏会では、ロマン派の曲にこそ,情熱あふれる中村紘子の真骨頂を見た気がしました。
やはりライブには気迫が不可欠ですね


ご結婚おめでとうございます!

2005年11月16日 | 雑談
今日(もう昨日か…)の東京は朝から冷たい雨が降ったり止んだり…
残業で力尽き,帰宅しテレビをつけると,ニュース番組は黒田さんと紀宮様の披露宴に彩られていました。

一昔前まではほとんど感じませんでしたが,婚約が決まったあたりから紀宮様がなんとなく可愛らしくなったような気がします。
今日のブラウン管内の紀宮様は,皇室特有の嫌味さを全く感じさせず,ほんとにのほほんと,庶民的な良い顔をしておられました

天皇陛下,皇后陛下が列席した披露宴も,日頃我々が出席する一般市民の披露宴と何ら変わらないように見え,ある意味,時代の流れを感じましたね。

今後は専業主婦として新たな人生を歩み出す紀宮様。
料理は大丈夫とのことですが,買い物なんかは地元商店街とかでするんでしょうかねえ?
ある意味波乱に満ちた結婚生活になりそうですね

ここ最近,暗い報道ばかり続いていましたが,今日の黒田さん・紀宮様ご成婚のニュースは,久々に,世の中を明るくしてくれるニュースでした
これを機に,世の中が良い方向に流れていけばいいですね。

本当ににおめでとうございます!

<本日の一句>
時雨止み照らす花嫁紀宮 ぴえる

菊のかをり

2005年11月15日 | 写真とひとりごと

週はじめだというのになんとなく疲労気味…カゼをひいたとも思えませんが,なんだか疲れたので気分を落ち着かせる話題でもひとつ。

立冬も過ぎたというのに,未だに冬が来たとは思われない暖かな休日
さわやかな陽の光が包む近所の公園を歩いていると,小さな一角に所狭しと咲いていた菊の一団に遭遇しました。

品評会に出てくるような大首のものはありませんでしたが,多種多様,いろいろな菊が美を競っていました。
その外見だけでなく,集団で醸し出すその独特の香りは,フェロモンに似た,ほどよい陶酔を引き起こします。
そのフェロモンに誘われてやってくる蜂たち。
蜂も,その品定めには,贅沢な迷いを感じているのでは?

<本日の一句>
ゆらゆらと蜂も惑いし野菊の香 ぴえる

すいません。写真には蜂が見あたりませんが,よく見ると何匹かいるはずです
アップで蜂を撮ろうと思って携帯電話を近づけたら襲いかかって来そうだったので,蜂の仕事を邪魔しないように配慮させていただきました(逃げの口実…

菊に関連して余談。
歳時記を紐解くと,秋の季語として「菊膾(きくなます)」という言葉がでてきました。
いわゆる菊の花びらを茹でて酢に漬けたお浸しみたいなものですが,そういえば田舎にいたときは1年に1度くらい食卓に上っていた記憶があります。
東京に来てからは,ここ数年食べてないですね。
わざわざ菊膾を自分で作ることもあまりしませんし…
菊を見ていたら,急に食べたくなってきました

<関連ブログ>
「菊(キク)」(ゆるり,蒼葉月)