↑倶利伽羅峠のトイレ標識(♂♀マークがツボにはまったので撮影^^;)
前回は倶利伽羅峠の概要と護国八幡についてお話ししましたが,今回は倶利伽羅の戦いに踏み込んでいきます。
なお,あいかわらずワタシの勝手な解釈が入っているので,気にしないでください
1183年5月11日未明,木曽義仲軍は,軍を7手に分け,平家軍を包囲殲滅する作戦に出ました。
源平盛衰記を根拠とした,埴生護国八幡宮社務所発行の「源平倶利伽羅合戦記」によれば,編隊は次のとおり。
本隊:総司令・木曽義仲 歩騎2万
中央隊:司令・今井兼平 歩騎6千
右翼隊(2隊):司令・樋口兼光 武将・余田次郎 歩騎7千
左翼隊(2隊):司令・根井小弥太 武将・巴 歩騎7千
志雄山方面への別動隊:司令・新宮十郎行家 歩騎1万
(なお,平家物語では余田や巴の名はない。)
対する平家軍は,総大将
小松三位中将維盛率いる本隊7万を倶利伽羅方面へ,
越前三位通盛率いる左翼隊3万を志雄山方面へ,それぞれ進行させていました(平家物語と盛衰記とでは通盛のポジショニングが異なりますが,ここでは盛衰記に従います。)。
数に劣る義仲軍は,とにかく①正面からまともに戦ってはいけない,②広い場所で戦ってはいけない,③敵の油断を誘わなければいけない,といった厳しい条件をクリアしなければなりません。
そこでまずは,平家軍の正面に白旗を30旗ほど立て大軍がいるように思わせ,土地感に暗い平家軍を足止めさせました。
平家軍も,下手に進むと敵の術中にはまると警戒し,その場に陣を敷きました。
この,平家軍が陣を置いた場所が
猿ヶ馬場です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/9e/6922407c5e0e5ac7fbce153ba532ea01.jpg)
↑猿ヶ馬場本陣跡
上の写真の場所で,三位中将維盛を大将として軍議が行われていたと伝えられています。
この辺り一帯,比較的広い場所となっており,陣を敷くにはちょうど良い場所だったのでしょう。
平家物語では,維盛が「
此山は四方巌石であんなれば,搦手へはよもまいらじ。」と言っていますが,実際に現地を見てみると,搦め手が背後から襲ってこれないほど険しい山には見えず,現に背後に回られているところからも,維盛ら平家の首脳陣がいかに油断していたのかが伺えます。
ここで維盛が戦況を良く分析できていれば,兵力を分散していた義仲軍に勝ち目はなく,その後の歴史は変わっていたかもしれません。
今井兼平の中央隊は,小隊で平家軍にちょっかいを出しては引くことで,夜まで時間を稼ぎます。
今井が時間を稼いでいる間,志雄山に向かった十郎行家隊以外の5隊は,徐々に次のような位置で維盛本隊を包囲していきます。
義仲本隊↓↓今井
余田→ 平家 ←巴
樋口→ 本陣 ←根井
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■■■地獄谷■■■
夜になり,平家軍も疲労が見え始めた頃,一番遠回りをした樋口隊が配置に付いた時点で,義仲軍は一斉に鬨の声をあげます。
太鼓,鏑矢,様々の音が山々に反響し,油断していた平家勢にとっては生きた心地がしなかったでしょう。
たちまち維盛軍はパニックに陥ります。さらに輪をかけたのが,義仲の用意した「
火牛」でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/ee/2f81ccf54fbd3ea9b09260b2e439d5d1.jpg)
↑倶利伽羅古戦場跡の火牛像
角を松明を巻き付けた500頭もの牛を,平家側に向け一斉に放したのです。
暗闇の中,進退窮まった平家勢は,皆が逃げる方へ逃げる方へと進みますが,皆が逃げたところは倶利伽羅でも特に険しい地獄谷の断崖絶壁。平軍の大半は次から次へを奈落の底へ落ちていきました。
生き残った者たちも,次々を木曽の兵に討たれていきました。
こうして倶利伽羅峠の戦いは,木曽勢の圧勝に終わり,平家方大将維盛はなんとか生き長らえましたが,7万あった騎兵のうち,残った兵力はわずか2千騎にすぎなかったそうです。
平家物語巻第七「倶利伽羅落」の章の記述です。
「まっさきにすすむだる者が見えねば,此谷の底に通のあるにてこそとて,親落せば子も落し,兄落せば弟もつづく。主落せば家子・郎等落しけり。馬には人,ひとには馬,落かさなり落かさなり,さばかり深き谷一つを,平家の勢七万余騎でぞうめたりける。巌泉血を流し,死骸岳をなせり。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)
しかし,さまざまな逸話に満ちている倶利伽羅の戦いですが,疑問はあります。
そもそも「火牛の計」自体本当に実行されたのでしょうか?
実は,平家物語を読んでも,火牛の話はどこにも出てきません。
平家軍は,木曽軍の鬨の声だけでパニックになり,谷底へ落ちています。
仮に火牛を用いたとしても,1日で500匹の牛をどこから集めてこれるのか疑問ですし,もしも総攻撃前に自陣で牛が暴走したら自分たちが危ないでしょう。
夜の暗闇の中,パニックに陥っている平家軍に対しては,火牛10匹か20匹程度あれば十分攪乱できたのだと思われ,これが源平盛衰記において大げさに表現されたのだとワタシは思います。
現在,この猿ヶ馬場には,倶利伽羅戦で亡くなった者たちの霊を慰めるため,大きな供養塔が建てられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/9b/846b95a3862629c0c2dd20159986fc4f.jpg)
↑源平供養塔
ワタシがこの地を訪れたのは平日で,人気はほとんどありませんでした。
ただ,霊感というものが全くないワタシが,供養塔をお参りした際,何か背後でザワっとしか感じがしました。未だにこの地にさまよっている平家の怨霊でもいるのでしょうか…
なお,平家の怨霊が原因なのかどうかはわかりませんが,この地はやたらハエが多いのが気になりました。
落ち着いて写真が撮れず,おかげで撮った写真の多くがピンボケになってしまい残念
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_naki.gif)
ちなみに猿ヶ馬場から地獄谷方面を見ると,ナニゲに絶景です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/star.gif)
紅葉シーズンに来てみたいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/f4/c7516c5b35beeb2cfc178f30a5248442.jpg)
↑倶利伽羅峠から見た地獄谷方面