果報は寝て待て!

浮世は疲れることばかり…
いそがず,あせらず,のんびりいきましょう。

人形劇歴史スペクタクル「平家物語完全版」第三部

2006年06月23日 | 平家物語-木曽義仲関連
つい最近になって,NHK人形劇の平家物語が待望のDVD化が実現しました!
全5巻なのですが,出費が痛い…と思って諦めかけていたところ,職場の方がなんと全巻購入!
ちゃっかりお借りしちゃいました!

今まで,3巻まで借りて見たのですが,吉川英治氏の原作をほぼ忠実に再現!
こんな場面はカットされるだろうと思っていたこだわりの場面もコンパクト化されつつも割愛されることなくきちんと再現されていて感動!
さらに何と言っても「第3巻 乱」は珠玉の中の珠玉!
わが敬愛すべき木曽義仲がパッケージを飾り,当ブログ「シリーズ・義仲の足跡を辿る」でもご紹介したあたりの,義仲の黄金時代から戦死までの話が盛り込まれたファンにはたまらない一品です
全巻買えなくても,この巻だけは買おう!

ちなみにまだ見ていない第4巻は,これまた私の敬愛すべき能登守教経の勇姿が見れそう…結局これも買いか…

木曽義仲シリーズ番外編

2006年05月11日 | 平家物語-木曽義仲関連

最近出かけていないため,なかなか旬なネタがないので,過去ネタで一席

昨年の暮れ頃,近所のダイエーに買い出しに行ったところ,処分品コーナーのワゴンの中にあった食玩「カバヤ 義経風雲録」。
かの源義経に関わるミニフィギュアが入っているという代物です。

処分されるのはかわいそうにと,思わず衝動買い…

そして中から出てきたのは,なんと義経VS義仲

どっちが義経でどっちが義仲かイマイチ区別がつきませんが,どうやら白糸威の方が義仲っぽいです。
個人的には義仲にはヒゲでも付けてもらいたかったです。
ともあれ義仲サマのレアな一品を処分品価格100円でゲットできたのは儲けものでした

あれ以来,ダイエーの処分品コーナーは常に目を光らせている私だったりします


義仲の女たちの史跡~その6~<義仲寺の巴塚>

2005年11月10日 | 平家物語-木曽義仲関連

↑義仲寺境内の巴塚

前回に続き,義仲寺内の史跡ですが,今回は同境内にある巴塚についてお話しします。

これまで,巴に関する塚もしくはお墓は,日義村の徳音寺(「義仲の里を歩く4」),倶利伽羅の巴塚(「義仲の女たちの史跡1」)でご紹介してきましたが,ほかにも,全国にいくつもの巴の塚やら墓やらがあるらしいです。

今回の義仲寺の巴塚の説明板を読んでみると,
木曽義仲の愛妻巴は,義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが,義仲の強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り,涙ながらに落ち延びた後,鎌倉幕府に捕らえられた。和田義盛の妻となり,義盛戦死の後は尼僧として各地を廻り,当地にも暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処となく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたという。
とありました。

鎌倉幕府に捕らえられ,和田義盛の妻となったまでは,これまでのコーナーでも取り上げてきたような話ですが,義盛や子の朝比奈が亡くなった後,いままでの話を総合すると,とりあえずは福光城主の石黒氏のところに身を寄せ,尼になった後,現在の義仲寺にやってきて義仲の供養をし,最後に福光に帰ったか,そのまま故郷の木曽の地へ帰って大往生を遂げたか…ということになるのでしょうか。
よって,義仲寺にある巴塚はあくまでも供養塚であり,巴のお墓ではないことになりますね。
日義村義仲館にあった義仲の系図を見ると,子義重だか義基だかをどこかへ隠しておいたらしく,その子孫が代々木曽家を継いできたということなので,少なからず木曽の地にはまだ巴のゆかりの人たちが生き残っていたに違いありません。
個人的には,巴は,最後に生まれ育った木曽の地に戻り,木曽の地で終焉を迎えたと考えたいですね


これまで,義仲をとりまく女性たちの史跡について語らせていただきましたが,最後に巴,山吹,葵以外の女性についてもふれて終わりにしたいと思います。

義仲は上洛後,藤原基房卿の娘伊子(尹子)を娶りました。一般には,「娶った」というより「奪った」といわれていますね。
平家物語でも,義仲が最後の戦いに行く前にこの姫のもとに立ち寄り,別れを惜しんでなかなか出陣しようとしないので,部下がその場で自害して出陣を促した話があるくらい,義仲はこの姫に執着していたのかもしれません。
吉川英治氏の「新・平家」では冬姫という名前で,義仲戦死と同時くらいに自害したことになっていますが,上記義仲館の系図によれば,義仲を伊子の間に生まれた姫鞠子は鎌倉摂家将軍(何代目だったか忘れましたが…)の正室だか側室になったらしいことの記載がありました。
そうなると,義仲と伊子は出会って数ヶ月しか経っていないうちにそれぞれ亡くなったことになり,子が産まれることも不可能です。
少なくとも伊子は,義仲の死後も生き延びたのでしょう。

また,義仲には妹宮菊がいたとされており,義仲館で購入した小冊子の年表によると,「1185年5月1日源頼朝,木曽義仲の妹宮菊を鎌倉に召し,美濃国遠山庄内の一村をあてがい,信濃の御家人小諸太郎らに扶持させる。」
と記載されております。
この出典は,鎌倉がらみの内容から,吾妻鏡かなんか記載なのかもしれませんが,ワタシにはわかりません。
その年の4月21日に義仲の嫡子義高が討たれているので,それに伴う義仲関係者への処理の一環だったのかもしれません。

以上をもちまして「義仲の女たちの史跡」シリーズは,終了したいと思います。
とりとめのない話ばかりでしたが,ご覧いただきありがとうございました。



義仲の女たちの史跡~その5~<義仲寺の山吹塚>

2005年11月03日 | 平家物語-木曽義仲関連


↑義仲寺境内の山吹塚

以前「義仲の足跡を辿る9」でとりあげました大津市の義仲寺内にも,義仲をめぐる女性たちの史跡がひっそりとのこされておりました。
そこで,今回と次回にわたり,義仲寺内に存在する巴塚山吹塚をそれぞれ紹介していきたいと思います。

まず今回は,山吹塚について見ていきたいと思います。

この山吹塚の説明板の記載によると,
山吹は,義仲の妻とも妾とも云う。病身のために京に在ったが,義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕らえられたとも云われる。その供養塔である。元大津駅前に在ったが,大津駅改築のため,此の所に移されたものである。
とのこと

山吹についての逸話は前回,前々回においてもお話ししましたが,京で病身であったこと以上の記述がないため,その後の山吹の行動は,巴の逸話以上にイメージの世界となってしまうのでしょう。
病気の身ではるばる波乱の大津までやってきて,愛する義仲様が戦死しましたとの報を聞いたとしたら,確かにもはや生きていてもしょうがないと思うのかもしれません。
ここで自害したとすると,この供養塔の意味が出てきますが,その代わり,前回,前々回の嵐山町の班溪寺京都三条の山吹御前塚の話に繋がらなくなります。

当時は身分証明書などもありません。氏名詐称などいくらでもできた時代です。
数年前,有栖川家だかなんだかといって皇室一族との関係を詐称し,パーティなどに人を集めていた男女二人組が逮捕されましたが,あんなことは,当時からすれば日常茶飯事だったことでしょう。
偽物の人物が,自分は悲劇の英雄木曽義仲ゆかりの巴だ,山吹だ,と言っていかにも本人らしく振る舞っていれば,近隣住民からみれば,「おお,巴御前ぞ」とか「山吹姫ぞ」とか,逆にありがたがられたかもしれません。

でも,大津駅前に山吹塚があったとなると,過去にその地で,少なからず山吹に関する何らかの出来事があったのだと思われます。
氏名詐称は生きていくためにするものなので,もしもそこで自害した人物が山吹と名乗ったならば,それは偽物ではなく山吹本人,もしくは本物の山吹を逃がすためをに身を犠牲にした山吹の腹心の者だったのかもしれませんね。

いろいろ考えるとキリがないのでこのへんでやめます

次回は義仲寺内の巴塚についてコメントします。


義仲の女たちの史跡~その4~<京都三条の山吹御前塚>

2005年10月26日 | 平家物語-木曽義仲関連

前回に引き続き,木曽義仲の愛妾山吹についてお話ししましょう。

寿永3年1月,いよいよ京に攻め入ってきた鎌倉勢。
義仲にとっても,これが最期の戦いとなりました。
義仲は,愛妾巴とともに,最後の戦場を駆けめぐりましたが,山吹は病気か何かで戦闘に参加できず,都にとどまることになってしまいました。

平家物語等を見ても,女武者の存在は木曽軍の中くらいしか見られませんが,木曽という厳しい環境の中で生きていくためには女性としても身体を鍛練して生きていかざるを得ず,木曽の女性には,自然と男性並みの戦闘能力が身に付いていたのかもしれません。
巴については,武芸の一環として「巴ヶ淵」において水泳の鍛錬をしていたという伝説が残っているほどです。
これらのことからも,巴や山吹,はたまた近隣の出身である葵なども,愛する殿方とともに出陣することは女性の誇りだったのかもしれません。

そんな木曽女性の心理を考えれば,殿の最後の戦いに同行できないことは,山吹にとって屈辱以外の何物でもなかったでしょう。

やがて,義仲は粟津の地で討ち取られます。
その首が六条河原でさらされたことは,以前「義仲の足跡を辿る9」においてお話ししました。

ここで,山吹の逸話があります。

六条河原の首掛けの木には無数の首がさらされていました
義仲の首もそのひとつでした
あるとき何者かが,人知れず義仲の首をそこから盗みだしました。
その者は,義仲の首を笹の葉に載せて引きずって,三条河原付近までたどり着き,密かに弔っていました
その者こそ山吹であったとのことです。

病に伏せっていた山吹ですが,木曽義仲の妻とも妾とも言われている女性を,鎌倉勢が見逃すはずはありません。
山吹は女乞食にでも身を代えて,追っ手の目をくらましたのでしょう。
動くのもままならない身で,意地でも愛する義仲さまを取り返すべく,首掛けの木からなんとか義仲の首を取り落とし,笹の葉にくるんで,人知れず夜の闇の中を去っていったのでしょうか。

この伝説に基づく塚が,京都の京阪三条駅から南東へ徒歩3分くらいの距離にある有済小学校敷地内に存在します。


山吹御前塚(京都新聞出版センター発行「義経ハンドブック」より転載)↑

この場所は,小学校の敷地内で,学校側に事前予約をしていないと入れないため,ワタシも行き当たりばったり現地まで行ったのはいいものの,この塚の現物を見ることはできませんでした
よって,ガイドブックの写真を恐れながら転載させていただきました…

この地に埋めた首が義仲のものだとしたら,前にお話しした法観寺の義仲の首塚には誰の首が埋められているのでしょう?
そもそも夜の闇の中,身体の自由の利かなかった山吹が,義仲の首を判別することができたのでしょうか?
昼のうちに事前に義仲の首の場所をチェックしていたのでしょうか?
謎は深まるばかりです。

なお,吉川英治氏の「新・平家物語」では,義仲に出会ってからここに至るまでの山吹の心情の変化をかなり狂信的に表現しており,義仲を巡る巴・葵・山吹の三つどもえの争いに強烈なスパイスを利かせています




義仲の女たちの史跡~その3~<班溪寺>

2005年10月20日 | 平家物語-木曽義仲関連


↑班溪寺山門

木曽義仲の愛妾の中に,山吹という名前が出てきます。
源平盛衰記をざっと眺めると,この名前は見あたりませんが,平家物語においては,「木曾最期」の段で一箇所だけ見ることができます。
「木曾殿は,信濃より,巴・山吹とて二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって都へとどまりぬ。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)

これを見ると,山吹はなんらかの体調不良により,以後の戦闘には参加せず,都に留まっていたことがうかがえます

この山吹も,巴と同様,単なる義仲の妾だったのか,それとも正妻だったのかは諸説あるようです。
鎌倉へ質子として出された清水冠者義高が,義仲と巴との間の子であるとすれば,源平盛衰記において,巴が最期に鎌倉方に捕らえられたのも,愛する息子に会うためにわざと捕らえられたと考えれば納得のいく話で,吉川英治氏の「新・平家」でも巴正妻説の立場で描かれていますが,義高は山吹との間の子であるとの説もあるようです。

ワタシが埴生護国八幡宮で購入した「源平倶利伽羅合戦記」の年表を見ると
「1170年(嘉応二)兼遠の兄,海野兼保の娘山吹,義仲に嫁ぐ。」
との記載があり,これによると,巴は中原兼遠の娘であると言われているので,巴と山吹は従姉妹どうしであることになりますね。
義高が山吹の子とするならば,大河「義経」で,義高が巴を「おばうえ」と呼んでいたつじつまが合います。

さて,今回は義高が山吹の子であるとの解釈で,山吹に関わる史跡を一つ紹介しましょう。
以前,「義仲の足跡を辿る1」において,義仲誕生の地,嵐山町をご紹介しましたが,義仲の父義賢が館を構えた大蔵の地に「班溪寺」という曹洞宗のお寺があります。

説明板を読むと,この寺の梵鐘に次のとおり刻まれているとのことです。
「木曽義仲長男清水冠者源義高為阿母威徳院殿班溪妙虎大姉創建スル也」

妙虎大姉というのが山吹のことであり,1185年4月に鎌倉を脱出し入間河原で討たれた義高の菩提を弔うため建てたというのがこの寺の由来のようです。

この寺の境内には墓地があり,そこには山吹の墓まであります。


↑山吹の墓

塔婆や塚の文言がはっきりしないため,これも説明板によりますと,「建久元年(1190年)11月22日ここに寂す」とあるそうです。

信濃生まれ,信濃育ちの山吹が,あえて武蔵国までやってきて,子の義高の冥福を祈り,その地に果てたというのも一つのドラマですが,次回は,京において最期の戦闘に参加できなかった山吹についての逸話をご紹介しましょう。




義仲の女たちの史跡~その2~<倶利伽羅峠の葵塚>

2005年10月16日 | 平家物語-木曽義仲関連


↑葵塚

前回ご紹介しました巴塚から1分ほど山に入ったところに,葵塚がありました。

そもそもとはどんな人物だったのでしょうか?

源平盛衰記にちらっと出てくる以外,過去のどの文献に葵が出てくるのかわかりませんが(平家物語に出てくる葵御前は,ここでいう葵とは別な人),吉川英治氏の小説「新・平家物語」によると,葵は伊那で生まれ,栗田寺別当範覚にもらわれていたが,範覚が義仲勢に加わったことがきっかけで,葵と義仲は出会ったと書かれています(同氏著,講談社「新・平家物語(八)」参照)。

この小説における葵の話は,「義仲と葵はラブラブで,妻である巴と恋の火花を散らせ合う毎日であったが,義仲を巡る以外は,巴と葵は姉妹のように睦まじかった。ある日,葵の従えている女雑兵山吹が義仲のお手つきとなり,倶利伽羅の戦いにおいて,葵は,嫉妬に狂った山吹が戦闘のどさくさにまぎれ放った毒矢を受け,その後は戦闘には出れない身体になったものの,最期の粟津原の戦いでは,病床の葵も義仲のために死力を尽くして戦い,行き倒れていたところを巴に助けられ無事一命を取りとげ,その後はどこかへ流れていった…」といった感じのストーリーでした。
最後の,巴が葵を助ける場面は,涙なくしては読めない名場面です

とまあ,小説では生き残る葵ですが,葵塚の横に立っていた説明板によると,葵塚の碑文には「葵は寿永二年五月,砺波山の戦いに討死す。屍を此の地に埋め墳を築かしむ。」と刻まれているとのことでした。

源平盛衰記にも,粟津戦の際,巴に対峙した内田三郎家吉が郎党に話している場面で,唯一(たぶん…)葵の存在について述べている箇所があります。

木曾殿には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討れぬ、巴は未在ときく、
(国民文庫「源平盛衰記」より)

倶利伽羅(砺波山)の戦いでは,木曽軍は大勝しましたが,ただ,犠牲もなかったわけではありません。
前哨戦の際に,葵は不幸にも討たれてしまったのかもしれません。

葵はこの地に葬られ,後にこの地を訪れた巴も,生前の縁故から,葵塚の近くに葬られたのかもしれません…
…というと美しい話ですが,葵塚と巴塚は,隣接しておらず微妙な間隔(約70メートルと現地案内では表示)があり,なんであえて距離を置いたのかは謎です。
もしも,後世に旧街道の観光のスポットとしてこの2塚を建てたというのであれば,隣接させたほうが便利であったとも思われます。
やはり,木曽義仲をめぐって女の熾烈な戦いがあったことが念頭におかれ,微妙な間隔を置いてそれぞれ塚が作られたのでしょうか?

そもそも日本各地に巴と称する人の塚や墓があるので,ホンモノはどれなのかもわからないのが,歴史の楽しいところです




義仲の女たちの史跡~その1~<倶利伽羅峠の巴塚>

2005年10月15日 | 平家物語-木曽義仲関連
今回から,ワタシが夏休み旅をしてきた木曽義仲がらみの史跡のうち,義仲の妻とも愛妾とも伝えられている巴,山吹,葵の3人にからむ史跡をご紹介していきます。

巴については,大河ドラマ「義経」でも小池栄子さんが演じて多くの方々の目に焼き付いたかと思われます。

巴は,義仲の養父,中原兼遠の娘で,幼い頃より義仲とともに育ってきました。
巴が生まれ育った現・長野県日義村に残る巴にまつわる史跡については,シリーズ「義仲の里を歩く~その4・5~」でご紹介しましたが,今回,倶利伽羅峠を訪れた際,東のふもとにぽつんと残る巴塚という塚がありました。


↑倶利伽羅峠にある巴塚

この塚は,峠から東へ下りたふもとにあり,JR石動駅から猿ヶ馬場本陣跡までのハイキングコースからは,かなり南に離れています。
すぐそばには「葵塚」があります。

平家物語では,義仲の最期の辺りまで巴の名前が出てきませんが,源平盛衰記において,巴についての記述が初めて出てくる箇所では,巴のことが次のとおり延べられています。
此巴と云女は、木曾中三権頭が娘也。心も剛に力も強、弓矢取ても、打物取てもすくやかなり。荒馬乗の上手、去し養和元年、信濃国横田の軍にも向ふ。敵七騎討捕て、高名したりければ、何くへも召具して、一方の大将には遣しけり。
(国民文庫「源平盛衰記」より)

義仲が旗挙げした翌年の横田河原の戦いにおいて,すでに巴が軍功をあげていたことがうかがえます。

そして,すでに「義仲の足跡を辿る3」でもお話ししたとおり,巴は倶利伽羅峠の戦いにおいては,兵一千を率いる一部隊の将として活躍しています。

しかし,巴は倶利伽羅峠の戦いでは巴は死んでいないことになっており,伝承では91歳まで生きていたともいわれています。
なぜ,倶利伽羅峠のふもとに彼女の墓とされる塚が立っているのでしょう?

源平盛衰記によると,巴は義仲の死後,和田義盛と再婚して朝比奈三郎を産んだことになっていますが,巴塚の説明板によると,和田と朝比奈三郎亡き後は,倶利伽羅戦の際義仲に帰属した福光城主石黒光弘のもとへ寄食し,剃髪して兼生と号し宝治元年没した旨の記載がありました。

この説からすれば,砺波山一帯を勢力下に持つ石黒氏によって,巴がこの地に葬られたとしてもおかしくはないですが,それにしても葬るにしては随分辺鄙なところに葬られている感が否めません。

ヒントは次回お話しする「葵塚」にあるのかもしれません。




義仲の足跡を辿る9<大津市②>

2005年10月09日 | 平家物語-木曽義仲関連


↑義仲寺山門(滋賀県大津市)

今回は,滋賀県大津市にある義仲寺(ぎちゅうじ)をご紹介します。
JR膳所駅を下車,商店街を抜け北へ5分程度歩くと,住宅街の中に建つ義仲寺を見つけることができました


粟津にて31年の生涯を閉じた義仲の骸は,その地に葬られました。

数年後,一人の尼僧がこの地に訪れ草庵を結び,義仲の供養をするようになりました。
その尼僧は,自分は名もない女であるとして,里人にも名乗らなかったそうですが,実はこの尼こそ,粟津の戦いの後,いずこへかに落ち延びていた,巴御前の後身でした。

平家物語では,義仲の討死後の巴の消息については触れられていませんが,源平盛衰記などによると,後に源氏方に捕らえられ,和田義盛に再縁したなどの話もあるようです。
鎌倉に質子として出されていた子義高が殺されたことを契機に,はたまた和田義盛が討たれたことを契機に,いずれにせよ再び行方をくらましていた巴は,義仲の別れ際の「生き残ってわしの菩提を弔ってくれ。」との遺言を実践すべく,この地にもどってきたのかもしれません。

この巴についての分析はまた別の機会にさせていただくこととして,そのとき建てられてた草庵は,後に「木曽塚」,「無名庵」,「巴寺」,「義仲寺」などと呼ばれるようになったということです。

後世,義仲ファンであった俳聖松尾芭蕉はこの地に何度も足を運びました。
そして,大阪で亡くなる前に「自分の亡骸は木曽塚に送るべし」と遺言を残したことにより,芭蕉の墓は,義仲の墓の横に建てられ,現在もそのまま残されています。


↑木曽義仲公の墓(この右側に芭蕉翁の墓があります。)


義仲寺本堂の「朝日堂」には,本尊である聖観世音菩薩をはじめ,厨子の中に義仲,義高父子の木像が納められ,義仲,今井兼平,芭蕉らの位牌も安置されているとのことです。


↑朝日堂

ちなみに,こことは別に,京都市東山区の法観寺境内に,「朝日将軍木曽義仲首塚」という史跡があります。
義仲の首は京の六条河原でさらされた後,その首塚に葬られたと伝えられています。
そうなると,義仲寺に眠っているのは首から下の骸で,頭は京都に…ちょっとかわいそうですね

この首塚とは別に,さらなるショッキングな塚もあるのですが,これもまた別途「巴,葵,山吹」特集でお話ししましょう。


波乱に満ちた生涯の義仲でしたが,最期は愛する巴の手によって手厚く弔われ,現在に至るまで,安らかにこの地で眠っていることでしょう。


芭蕉を訪ね,この地を訪れた伊勢の俳人又玄(ゆうげん)が,この地で残した句で,今回のブログを閉めたいと思います。

「木曽殿と脊中合わせの寒さかな」

 


義仲の足跡を辿る8<大津市①>

2005年10月07日 | 平家物語-木曽義仲関連


↑大津市晴嵐にある粟津原合戦史跡の碑

今回と次回にかけて,義仲終焉の地,滋賀県大津市粟津界隈をご紹介します

とうとう京に攻めてきた頼朝勢。
大手の将は蒲冠者範頼,搦手を率いるは九郎義経。
その兵力6万に対し,現在の義仲軍はもはや6,7千程度まで減っていました。
先の法住寺合戦の際に,法皇側に弓引くことを恐れた兵たちが,ことこどく木曽勢から離散していった結果でした。

義仲は瀬田の大手に今井兼平を,宇治の搦手側に根井ら四天王を配置。戦いに備えます。
不幸なことに,今井の兄樋口兼光は,裏切り者の新宮十郎行家を討たんと河内へ向かっており,不在でした。

宇治川の戦いでは,梶原景時佐々木高綱が「イケヅキ・スルスミ」の名馬で先陣を競った話,畠山重忠大串重親を放り投げた話など,様々な逸話が生まれています。

勢いに乗る義経軍は,宇治川を制し,真っ先に院の御所,六条西洞院に向かい法皇らを保護。
いざとなったら法皇を連れて西国の平家と和睦しようとか,北国に連れて行こうとか画策していた義仲でしたが,この一大事に,昨年娶った藤原基房の娘と別れを惜しんでうだうだしているうちに,義経に先を越されてしまい,計画も水の泡。四天王の根井,楯らも討死にしてしまい,もはや八方ふさがりとなってしまうのでした。

義仲は,竹馬の友である今井兼平ととも最期を遂げんと瀬田方面へ向かう途中,大津の打出の浜で今井と合流します。
その場で木曽の旗を揚げ,路頭に迷っていた木曽兵が一時的に300騎ほど集まりました。
この兵をもって,義仲は最後の戦いに挑みます。
対するは一条次郎の手勢6千。
ほぼ無謀に近い特攻で,一条の陣を突破できたのは,義仲,今井,巴,手塚太郎とその叔父の5人でした。

義仲を慕い,ここまでついてきた巴も,義仲に諭され,何処にか落ち延びて行き,手塚太郎は間もなく討死,その叔父も脱落,とうとう残ったのは義仲と今井2名になりました。

義仲には,もはや戦う力は残されていませんでした。
義仲が今井に言った一言です。
「日来はなにともおぼえぬ鎧が,けうはおもうなったるぞや。」
(岩波文庫「平家物語(三)巻第九「木曾最期」より)

今井は義仲に「何を弱気なことをおっしゃるのか。」と励ましますが,次から次へ馳せ来る敵に,「ここは私が防ぎます。敵に首をとられて名をはずかしめられる前に,殿は向こうに見える粟津の松原で自害なされませ。」と,一人戦場に残り,義仲を逃がします。

このときの義仲の脳裏には何が浮かんでいたでしょう。
数万の兵を率い,朝日将軍という称号まで得た輝かしい日々…
今はたった一人,最後に戦友が作ってくれた死に場所…
愛すべき者たちの笑顔…

朦朧とした意識の中,彼の乗る馬は薄氷の張った深田にはまり,とうとう敵兵,石田次郎為久に討ち取られてしまいました。

朝日将軍討ち取ったり!との大音声を聞いた今井は,もはやこれまでと観念し,その場で壮絶な自害を遂げました。

「『いまはたれをかばはむとてか,いくさをもすべき。これを見たまへ,東国の殿原,日本一の剛の者の自害する手本』とて,太刀のさきを口にふくみ,馬よりさかさまにとび落,つらぬかってぞ失せにける。」
(岩波文庫「平家物語(三)巻第九「木曾最期」より)


JR石山駅を出ると,NECの広大な敷地が広がっていますが,その敷地に沿って北側に歩くこと約5分。
工場用地,住宅地のなかにぽつりと緑が残されている場所があります。
そこには粟津の地で自害した今井兼平の墓が残されています。


↑今井兼平の墓

もともとは,篠津川の上流,墨黒谷というところに兼平の塚があったと伝えられ,1661年,当時の膳所藩主本多俊次が,武勇の高い兼平をたたえるため,その場に墓を建てたのが始まり。
その後1666年に参拝の便を図るため,現在地に移設したとのこと。
明治期になり,今井兼平の末裔が墓を改修したそうです。

余談ですが,現地は川沿いにあるせいか,蚊がたくさんおり,見事に数が所かまれて帰りました

この墓のある場所で今井兼平が果てたのかどうかは,結局のところはっきりしませんが,義仲の眠る「義仲寺」とこの地は離れた場所にあり,「死ぬときは一所に」との義仲の願いは,今もなお果たせていないのかもしれません

次回<大津市②>では,「義仲寺」をご紹介します


義仲の足跡を辿る7<京での義仲>

2005年09月29日 | 平家物語-木曽義仲関連

今回は,写真は何もありません。

次回のレポートで,木曽義仲終焉の地,大津市をとりあげたいと思っております関係で,義仲が京に入った後,大津粟津の地で討たれるまでの経過を,ごく簡単に,インターバル的に書かせていただきます



これまで,沈むことの知らない朝日がごとく進軍を続けてきた義仲ですが,奢れる者も久しからず,その輝きにも翳りが見えてきます

とうとう都に入った義仲でしたが,永年木曽の山の中で育ってきたせいもあり,都の慣習,風習などほとんどわかりません。
後白河法皇や公卿は,鎌倉の頼朝が征夷大将軍の院宣を賜ったときの完璧なまでの言動,礼儀作法の立派な様子と義仲を比べ,田舎者の義仲は,法皇たちからすれば,礼儀も知らぬ無礼者に見えたことでしょう。

平家物語巻第八「猫間」の章の記載です。
「兵衛佐(頼朝)はかうこそゆゆしくおはしけるに,木曾の左馬頭,都を守護してありけるが,たちゐの振舞の無骨さ,物言ふ詞つづきのかたくななる事,かぎりなし。ことわりかな,二歳より信濃国木曾という山里に,三十まで住みなれたりしかば,争か知るべき。」
(岩波文庫「平家物語(三)より」)

殿中での立ち振る舞いや,牛車での通勤,はたまた食事の風習に至るまで,義仲にとっては,これまでの木曽での生活とはまったく異なる生活を余儀なくされました。

その上,平家という目の上のタンコブがいなくなった今こそ,いままで平家に独占されていたポストを取り返し,義仲ら武士をあくまでも自分たちより下級の存在と位置づけようとする公卿たち。
院政を復活させようと躍起の後白河法皇。
義仲は,これらキツネやタヌキのような連中を相手に暮らしていかねばならなくなったのです。

キツネやタヌキもさることながら,義仲も義仲で,大量にいる馬の飼い場を作るため,勝手に他人の所領の田んぼを潰してしまったり,兵糧米がないからといって民の家や倉に押し入って強奪をしたりしたことを,「何かあながちひが事ならむ。(何が間違っていようか。)」といって平然と言ってのけました。

民衆は,都入りした源氏の,平家時代よりエスカレートした狼藉につき,次のように言って嘆いています。
「平家の都におはせし時は,六波羅殿とて,ただおはかたおそろしかりしばかり也。衣裳をはぐまではなかりし物を。平家に源氏かへおとりしたり」
(岩波文庫「平家物語(三)」巻第八「鼓判官」より)

そんなこんなで義仲の存在を疎く感じた後白河法皇は,一方で頼朝に,義仲を討つよう密書を送るとともに,寿永2年(1183年)11月,院の御所法住寺に兵を集めます。いわゆる法住寺合戦です。

この合戦では,義仲が勝利。後白河法皇は幽閉され,法皇側に与した天台座主の首が斬られ,また,多くの公卿が官職を剥奪されることとなりました。

とどまるところを知らない義仲の狼藉。後白河法皇としては,もはや頼朝が上洛するのを待つより手だてがありません。

そして寿永3年(1184年)1月13日,義仲が法皇から平家追討を命じられ,まさに西国へ出立せんとしていたところに,頼朝軍数万が木曽勢追討のため間もなく上洛す,という情報が入るのでした。

そして次回,義仲は終焉の時を迎えます(ものすごい省き方で申し訳ございません)。










義仲の足跡を辿る6<比叡山>

2005年09月28日 | 平家物語-木曽義仲関連


↑比叡山東塔地区の延暦寺根本中堂(最澄上人が初めて道場を開いた場所。「不滅の法灯」が今なお燃え続ける。)

先日,せっかく比叡山に行ってきましたので,木曽義仲シリーズに無理矢理延暦寺を搦めたいと思います


篠原の戦いでも勝利した義仲の前には、もはや敵はいませんでした。 木曽勢は、戦いのたびに数を増し、都に向かってまっしぐらに進軍していました。

しかし、義仲が、都に入るにあたり、一つ気掛かりなことがありました。それは、「比叡山延暦寺」の存在でした。

もともと延暦寺は平家が帰依している寺院であり,白河上皇が思い通りにならなかったものとして「山法師」を挙げるほど、山門(延暦寺)の僧兵勢力は、あなどりがたいものがありました。
木曽勢が都に入るためには,比叡山を通過しなければならず, まさに無視できない存在でした。

また,仮に延暦寺を敵に回し,彼らを殲滅したりしたら,平家が南都興福寺を焼き討ちしたときと同様,義仲らも仏敵と見なされ,今後の政治的立場もあやうくなりかねません。

そこで,義仲は延暦寺を自らの陣営に引き込むべく,説得工作を試みます。

義仲は,書記兼参謀の大夫房覚明に,交渉文書を作成させました。これがいわゆる「木曽山門牒状」です。

これをワタクシなりに訳すと…
保元,平治の乱以降,平家がひどいことばっかりやってきたことはご承知でしょう。
我々は,悪賊平家を倒すべく立ち上がった故以仁王の意思を継ぎ兵をあげ,これまで数々の戦に勝利し,とうとうここまできました。これもひとえに神や仏のおかげであります。
しかし,我々が心配していることは,延暦寺のみなさんが,源氏と平家,どちらに協力してくだされるかということです。
まさかとは思いますが,帝や法皇様たちに無礼を働き,かつ興福寺を焼いて仏教をも滅ぼそうとしている平家のお味方をされ,我々の行く手を阻むというのであれば,我々は,残念ながら義兵としてあなたがたとも戦わなければならないでしょうね。
そうなったら,延暦寺も官軍に背いた凶賊として,長い歴史に幕を閉じることになってしまうんでしょうね。
3千人もいるというおたくの衆徒の命はどうなってしまうんでしょうね。
ああ,それを考えると残念だ,残念だ…
そんなことにならないように,我々といっしょにあたらしい世の中をつくっていきましょう!

…という具合でしょうかね…

ある意味,サラ金業者が債務者に返済を迫る催促状並に,表面上は丁寧ですが,内容的にはおそろしい脅迫状です…

この牒状を受けた延暦寺内では,賛成派,反対派,議論が大きく割れます。
さしずめ,昨今の小泉郵政民営化法案審議なみの泥仕合が,この場でも行われたことでしょう。


↑比叡山西塔地区の釈迦堂(西塔地区は,下層の僧侶,修行僧の生活,修行の場となっていた。)


平家が延暦寺に帰依していたことからも,上層部の者は平家寄りの見解が多く,平家の悪政により社会から虐げられ,食っていけないために延暦寺に入ってきた下級の僧たちからすれば,平家倒すべしとする意見が根強かったことが,吉川英治氏の「新・平家物語」に詳しく分析されています。

しかし,これまで平家が帰依していたとはいえ,滅ぼされてしまっては元も子もありません。
結果として延暦寺は義仲勢に協力することになりました。

これに遅れて,平家側からも延暦寺に対し,平家の重鎮10名の連署がされた協力依頼書(平家山門連署)が送られましたが,時既に遅しでした…

義仲が比叡山を味方に付けたという情報は,まもなく平家方の耳にも入り,平家勢は当初,武将,兵を都の各所に配置しましたが,北陸での一連の戦いにより戦力が著しく低下していた上,都の各地に兵を分散して配置することは多勢に無勢であると思い直し,結局兵を撤収。
為す術のない平家一門は,こうして西国へ落ちていくことになるのです。

余談ですが,先日ワタシが比叡山で,お坊さんの体験修行をした記事もありますので,ヒマな方はご覧下さい
ワタシの比叡山での体験修行日記はこちら






 

 


義仲の足跡を辿る5<加賀市②>

2005年09月25日 | 平家物語-木曽義仲関連

↑実盛の死に涙する木曽義仲らの像(首洗池)


(→前回のつづき)

逃げ落ちていく平家の軍勢。
その中ただ一人戦場に残る赤地錦の直垂に萌黄縅の鎧の男。
それを見た木曽の兵たちは、さぞかし「手柄が転がってきた!」と思ったことでしょう。

実盛に挑んだのは手塚太郎光盛という剛の者でした。
この手塚,後に義仲が今井兼平らと最期の逃走をした際,残り5人まで生き残っていた者の一人です(平家物語巻第九「木曾最期」参照)。

手塚いわく,「みな逃げ落ちていく中、まだ一人戦おうとは勇ましいことだ!さぞかし高名な方とお見うけした。名乗られよ!それがしは手塚太郎金刺光盛!
実盛答えて曰く「訳あって名は明かせないが、どうやら互いに良い敵であると見た!ゆくぞ手塚とやら!

実盛は手塚と組み合い、しばしの間支えましたが、いくら剛の者の実盛でも、蓄積された疲労と老いには勝てませんでした。
やがて手塚に組み伏され、首をとられてれてしまいました。

最後まで名乗りはしなかったが見事な敵。
手塚は、自分の倒した敵の首級を大将義仲に見せました。

その首の主を,義仲はどこかで見覚えがありました。

遠い遠い昔,乳飲み子だった自分と母を戦渦から救いだし,木曽まで逃がしてくれた恩人…

まさかと思った義仲は,ともに木曽の地で育った年上の樋口兼光を呼び,その首を確認させました。

樋口「ああ,なんと痛ましい!この首!まさしく斎藤別当殿に間違いありませぬ!
義仲「やはりそうであったか…しかしそうだとすれば,もはや白髪の老人のはずがなぜ髪が黒い?
樋口「別当殿は,それがしに会うたびに話していました。『歳も60を越えてのち戦に赴くことがあったらのう,わしは白髪を黒く染めて,若い格好をしようと思うのじゃ。老兵が,ほかの若武者たちに競って先駆けるのも大人げないし,それになんといっても老いぼれと馬鹿にされたくないからのう。』と…

そして樋口が池で首を洗うと,黒ずみが落ち,本来の白髪姿の実盛になりました。
義仲は,命の恩人の死に慟哭するのでした…


このとき,実盛の首を洗ったとされる池が,「首洗池」として,篠原の地に残されています。


↑首洗池

首洗池は,柴山潟から日本海へ流れる新堀川の橋(たしか源平橋という橋だったと思う)の西側に位置します。

首洗池の敷地には,前回の冒頭写真として掲載しました「篠原古戦場跡の碑」と,今回の冒頭写真の義仲らの像があります。



↑実盛塚

首洗池から少し北上したところ(歩いたら20分くらいかかるかも)に,実盛の墓と伝えられる「実盛塚」があります。

彼の屍はこの地に葬られましたが,彼の身につけていた甲冑は,現在小松市の多太神社に奉納され,毎年7月の「かぶとまつり」で公開しているそうです。

もしも実盛が自らの名を語り,義仲に助命を求めたら,間違いなく実盛は生き長らえたでしょう。
しかし,彼はあくまでも武士としての名誉の死を選びました。
それゆえに彼の物語は人々の共感を呼び,その名は不朽のものとなったのです

平家物語巻七「真盛」の章の一節です。
「朽もせぬ,むなしき名のみとどめおきて,かばねは越路の末の塵となるこそかなしけれ。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)


なお,南加賀観光物産推進協議会さんのサイトでは,実盛はじめ,義経伝説ゆかりの地など,地元ならではの情報が見られますので,参考までにご紹介しておきます。
南加賀観光物産推進協議会さんのサイトはこちらから





義仲の足跡を辿る4<加賀市①>

2005年09月23日 | 平家物語-木曽義仲関連

↑篠原古戦場跡碑

今回は,石川県加賀市における木曽義仲がらみの史蹟を,エピソード交えてご紹介します

前回,倶利伽羅峠をご紹介しましたが,倶利伽羅の戦いで敗れた平軍大将維盛は,軍を加賀国篠原(現,加賀市篠原町付近)まで退却させます。
勢いに乗った木曽勢は1183年5月21日早朝,篠原への追撃戦を開始しました。
しかし皮肉にも,迎え撃った平軍の中には,「義仲の足跡を辿る1」で紹介した,幼少の義仲を戦渦の大蔵から逃がした恩人,畠山重能斎藤実盛が参戦していました。

彼らは平治の乱以降,平家に従い,以来20数年平家の武将として生きてきました。

木曽勢先鋒今井兼平300騎は,畠山重能とその弟小山田別当有重率いる平軍300騎と対決
双方多くの兵を失いましたが,軍配は今井兼平に上がり,畠山兄弟は撤退しました。

このことを,平家物語巻第七「篠原合戦」の章では次のとおり記しています。
「是等兄弟,三百余騎で陣のおもてにすすんだり。源氏の方より今井四郎兼平,三百余騎でうちむかふ。畠山・今井四郎,はじめは互に五騎,十騎づつ出しあはせて勝負をせさせ,後には両方乱あうてそたたかひける。五月廿一日午剋,草もゆるがず照す日に,我をとらじとたたかへば,遍身より汗出て,水を流すに異ならず。今井が方にも,兵おほくほろびにけり。畠山,家子・郎等残ずくなに討なされ,力およばでひきしりぞく。」
(「平家物語(三)」岩波文庫より)

この後平家都落ちの際,内大臣宗盛は,畠山兄弟が東国出身であり今後の敵となる可能性があることから,彼らの首を切ろうとしますが,新中納言知盛が
この者たちを今更切って何になるというのか。彼らを生かしてこそ,後に都へ帰ることがあったときの温情となりましょう。なにとぞ彼らを故郷へ帰すことをお許しいただきたい。
と懇願したことにより,無事生き長らえ,涙ながらに東国へ落ち延びていくのでした。



篠原の戦い形勢が不利になった平家勢の中からは,逃げ出す兵も多く現れ,もはや指揮系統もままならず,大部分の兵が落ちていきます。
そのような中で,一人毅然と木曽勢に立ち向かう男がいました。
彼こそが斎藤実盛でした。

齢70にもなるこの老兵は,去る富士川の戦いの際において討死覚悟で参戦しましたが,水鳥の羽音にパニックになった平軍が,戦わずして全軍敗退してしまったため,死に場所を失っただけでなく,未熟な平軍大将維盛をサポートする立場にありながら,結局何もできなかった自分に,これまでずっと屈辱を感じていました
今回の戦はまさに彼にとって,最後の晴舞台でした

彼は,もともと越前出身であったため,今回の北陸道一連の戦いでは故郷に錦を飾らんと,普通ならば大将クラスが着る赤地錦の鎧直垂を着用していました。

また,老兵と悟られると良い敵に相手にしてもらえないため,自らを若い姿に扮して戦いに臨みました。
まずは鎧。あえて若者に人気のある萌黄色の鎧を身に付けました。
次に髪と髭。既に白髪であった実盛は,髪と髭を黒く染めました。

この白髪染めをした際に使った鏡は,「加賀百万石時代村」のある近くの「鏡の池」という泉に沈められ,現存しています。


↑鏡の池

沈んでいる鏡は,年に一度の泉の掃除の際のみ拝めるそうですが,その鏡がホントに実盛の使ったものなのかどうかは定かではないそうです

この「鏡の池」,はっきりいって探すのにすごく苦労しました。
県道沿いからは見えず,裏道に入るのですが,その道がまた狭く,車では入りきれないので,近くの農協に車を置かせてもらって,細い住宅街を歩いてなんとかたどり着きました…

中途半端ですが,ここでいったん休憩
次回「加賀市②」では,さらに実盛を掘り下げていきます


義仲の足跡を辿る3<倶利伽羅峠②>

2005年09月21日 | 平家物語-木曽義仲関連
↑倶利伽羅峠のトイレ標識(♂♀マークがツボにはまったので撮影^^;)

前回は倶利伽羅峠の概要と護国八幡についてお話ししましたが,今回は倶利伽羅の戦いに踏み込んでいきます。
なお,あいかわらずワタシの勝手な解釈が入っているので,気にしないでください


1183年5月11日未明,木曽義仲軍は,軍を7手に分け,平家軍を包囲殲滅する作戦に出ました。

源平盛衰記を根拠とした,埴生護国八幡宮社務所発行の「源平倶利伽羅合戦記」によれば,編隊は次のとおり。
本隊:総司令・木曽義仲 歩騎2万
中央隊:司令・今井兼平 歩騎6千
右翼隊(2隊):司令・樋口兼光 武将・余田次郎 歩騎7千
左翼隊(2隊):司令・根井小弥太 武将・巴 歩騎7千
志雄山方面への別動隊:司令・新宮十郎行家 歩騎1万
(なお,平家物語では余田や巴の名はない。)

対する平家軍は,総大将小松三位中将維盛率いる本隊7万を倶利伽羅方面へ,越前三位通盛率いる左翼隊3万を志雄山方面へ,それぞれ進行させていました(平家物語と盛衰記とでは通盛のポジショニングが異なりますが,ここでは盛衰記に従います。)。

数に劣る義仲軍は,とにかく①正面からまともに戦ってはいけない,②広い場所で戦ってはいけない,③敵の油断を誘わなければいけない,といった厳しい条件をクリアしなければなりません。

そこでまずは,平家軍の正面に白旗を30旗ほど立て大軍がいるように思わせ,土地感に暗い平家軍を足止めさせました。
平家軍も,下手に進むと敵の術中にはまると警戒し,その場に陣を敷きました。
この,平家軍が陣を置いた場所が猿ヶ馬場です。


↑猿ヶ馬場本陣跡

上の写真の場所で,三位中将維盛を大将として軍議が行われていたと伝えられています。
この辺り一帯,比較的広い場所となっており,陣を敷くにはちょうど良い場所だったのでしょう。
平家物語では,維盛が「此山は四方巌石であんなれば,搦手へはよもまいらじ。」と言っていますが,実際に現地を見てみると,搦め手が背後から襲ってこれないほど険しい山には見えず,現に背後に回られているところからも,維盛ら平家の首脳陣がいかに油断していたのかが伺えます。
ここで維盛が戦況を良く分析できていれば,兵力を分散していた義仲軍に勝ち目はなく,その後の歴史は変わっていたかもしれません。

今井兼平の中央隊は,小隊で平家軍にちょっかいを出しては引くことで,夜まで時間を稼ぎます。
今井が時間を稼いでいる間,志雄山に向かった十郎行家隊以外の5隊は,徐々に次のような位置で維盛本隊を包囲していきます。

義仲本隊↓↓今井
余田→ 平家 ←巴
樋口→ 本陣 ←根井
----------
■■■地獄谷■■■


夜になり,平家軍も疲労が見え始めた頃,一番遠回りをした樋口隊が配置に付いた時点で,義仲軍は一斉に鬨の声をあげます。
太鼓,鏑矢,様々の音が山々に反響し,油断していた平家勢にとっては生きた心地がしなかったでしょう。
たちまち維盛軍はパニックに陥ります。さらに輪をかけたのが,義仲の用意した「火牛」でした。


↑倶利伽羅古戦場跡の火牛像

角を松明を巻き付けた500頭もの牛を,平家側に向け一斉に放したのです。
暗闇の中,進退窮まった平家勢は,皆が逃げる方へ逃げる方へと進みますが,皆が逃げたところは倶利伽羅でも特に険しい地獄谷の断崖絶壁。平軍の大半は次から次へを奈落の底へ落ちていきました。
生き残った者たちも,次々を木曽の兵に討たれていきました。
こうして倶利伽羅峠の戦いは,木曽勢の圧勝に終わり,平家方大将維盛はなんとか生き長らえましたが,7万あった騎兵のうち,残った兵力はわずか2千騎にすぎなかったそうです。

平家物語巻第七「倶利伽羅落」の章の記述です。
「まっさきにすすむだる者が見えねば,此谷の底に通のあるにてこそとて,親落せば子も落し,兄落せば弟もつづく。主落せば家子・郎等落しけり。馬には人,ひとには馬,落かさなり落かさなり,さばかり深き谷一つを,平家の勢七万余騎でぞうめたりける。巌泉血を流し,死骸岳をなせり。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)

しかし,さまざまな逸話に満ちている倶利伽羅の戦いですが,疑問はあります。

そもそも「火牛の計」自体本当に実行されたのでしょうか?
実は,平家物語を読んでも,火牛の話はどこにも出てきません。
平家軍は,木曽軍の鬨の声だけでパニックになり,谷底へ落ちています。
仮に火牛を用いたとしても,1日で500匹の牛をどこから集めてこれるのか疑問ですし,もしも総攻撃前に自陣で牛が暴走したら自分たちが危ないでしょう。
夜の暗闇の中,パニックに陥っている平家軍に対しては,火牛10匹か20匹程度あれば十分攪乱できたのだと思われ,これが源平盛衰記において大げさに表現されたのだとワタシは思います。


現在,この猿ヶ馬場には,倶利伽羅戦で亡くなった者たちの霊を慰めるため,大きな供養塔が建てられています。


↑源平供養塔

ワタシがこの地を訪れたのは平日で,人気はほとんどありませんでした。
ただ,霊感というものが全くないワタシが,供養塔をお参りした際,何か背後でザワっとしか感じがしました。未だにこの地にさまよっている平家の怨霊でもいるのでしょうか…

なお,平家の怨霊が原因なのかどうかはわかりませんが,この地はやたらハエが多いのが気になりました。
落ち着いて写真が撮れず,おかげで撮った写真の多くがピンボケになってしまい残念
ちなみに猿ヶ馬場から地獄谷方面を見ると,ナニゲに絶景です
紅葉シーズンに来てみたいです。


↑倶利伽羅峠から見た地獄谷方面