果報は寝て待て!

浮世は疲れることばかり…
いそがず,あせらず,のんびりいきましょう。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

断章~死後への願い<板碑>~

2006年08月02日 | 断章~創作の試み~

「なんだって!?新田様が鎌倉を攻めに来るって!?」
「街道筋のここいらも,間もなく戦場になるよ。」
「また戦か…せっかく畑にも芽が生えだしてきたのに…」

緑の萌えだし始めた季節,執権北条高時の専横により,鎌倉幕府に対する各地の御家人,地方豪族らの不満は,楠木正成,足利高氏などの反乱とともに一気に爆発した。
中でも,高氏の永年のライバルであった新田義貞も,この時においては高氏と「打倒北条政権」という目標を共にし,一路新田庄から鎌倉を目指していた。
しかし,武士たちの理想がどうあれ,いつの世にもその犠牲となる者たちは,力のない平民たちであったことは,今更言うまでもないかもしれない…

そうこうしているうちに新田勢の先鋒隊がこの久米川の地にも到達した。

「ほらほら,俺たちが腐った鎌倉北条を命を賭けて倒しに行くんだ!あるだけ食料をよこしやがれっ!」

農民たちからは容赦なく兵糧の徴収がされた。
その日の暮らしにも困窮している彼らは,「打倒北条」という正義の旗のもと,生きていく糧をも奪われていった。

…そして戦が始まった。

新田勢を迎え撃つ幕府軍。
豊かな田園風景が,群がる騎馬,歩兵によって無惨にも踏み荒らされていく。
緑に彩られていた畑には,植物の替わりに人の血と骸が蒔かれていった…

戦いは新田勢の勝利で終わった…

新田勢は鎌倉目指してこの地を去っていた。

農民たちが苦労の末開墾した土地は,見るも無惨な姿で残された。

「こんなことの繰り返しがこの世の定めなのか…」
「せめて死んだあとには極楽に行きたいなあ」
「お経読んでるだけじゃいかんかなあ」
「なんでも,最近は自分の墓を先に作って自分で供養しとくと,死んだ後御利益があるっていう話だぞ。」
「おお,それはホントけ?」
「ああ,山の向こうの村でも作ってるみたいだぞ。」
「そりゃありがたい話だ。よし,おらもかーちゃんと一緒に墓を作るぞ!。」

---------------------------

最近の生命保険には,「余命○か月の宣告を受けたら,死ぬ前に保険金を受け取れます」といった商品もあるようですね。
それは,「死んだ後にお金が戻ってきても,どうせ自分が使えないんじゃ意味がないじゃん」といったところに意味があるのだと思われます。
要するに,「生きている自分にかける保険」と言えるでしょう。

しかし,太古の人々は,「死んだあとの自分に保険をかける」ことが主流だったみたいです。

中世の庶民は,度重なる戦乱の犠牲者として常に苦しみ抜いてきました。
また,日照り,洪水などの天災にも生死を左右され,このような不安定な世に生きているよりは,死後の極楽浄土での安穏たる生活を望むことは,至極自然の流れでありましょう。
そのような思想はすでに平安末期ころから念仏信仰を通して庶民にも広がっていたと思われますが,それをさらに強化実践されたものが,「板碑(いたひ)」と呼ばれるものです。

板碑は,いわゆる石製の卒塔婆なのですが,これらには梵字化された阿弥陀菩薩,及び供養の真言などが刻まれ,これを生前に作って自ら供養することにより,死後に後人に供養してもらうより大きな功徳が得られるということで,全国各地に多数作られたとのことです(当然,死後に墓として作られることもあります)。

東村山市の徳蔵寺に設けられている「板碑保存館」には,近隣に散らばっていた板碑が数多く集められています。
中には同じ形,同じ大きさのものを夫婦で作ったものも存在します。
私が訪れたときは,保存館の中には誰もおらず,ちょっと不気味な雰囲気でしたが,この中は板碑だけでなく,新田義貞の鎌倉攻めについての資料も展示されており,不気味さを越えて,興味津々で館内を見学させていただきました

展示されている板碑の数々を眺めているうちに,なに不自由のない今の時代のすばらしさをあらためて実感した気がしました。

徳蔵寺の関連サイトはこちらをクリック


断章その3<日蓮③>

2006年04月01日 | 断章~創作の試み~

(上の写真)
身延山菩提梯。高さ104メートル,287段の石階段です。
身延山の三門から本堂にかけてそびえるこの急な階段に,途中で息を切らして立ち止まる観光客も少なからずいました。

-------------------------------

(前回の続き)
日蓮にとって,佐渡に流された3年間は自己を省みる時間だったのかもしれない。
それは,流人として自己を省みるということではない。
これまで数々の法難をくぐり抜けてきた日蓮は,自らが末法の世の仏として衆生を救うべき存在であることを自らに課するという,崇高な自省であった。
流刑者という境遇でありながら,彼の理念は影ながら彼を慕う者たちによって持ち出され,密やかに浸透されていった。

やがて日蓮は,幕府から赦免された。
時は文永11年(1274年)。
赦免された日蓮は,外敵襲来の危機迫る日本国を救うべく,再度幕府に対し法華経の重要さを説き伏せにかかるが,幕府の対応は同じであった。
もはや救いの道は失われた…

日蓮は,幕府にそれ以上近づくことはなかった。
それは時の政治に対するあきらめだったのかもしれない。
彼は彼なりの方法で国を守ろうとする他なかった。
それは,一人でも多くの信者を集って,法華経と通して人々の心を一つにすることであった。

甲斐の身延の地を治める地頭で,南部実長という者がいた。
彼は日蓮の弟子・日興と親交が厚く,信者でもあった。
現在の日蓮の置かれている立場を理解した実長は,自らの領地に日蓮を招いた。
実長は,自らの領地内で日蓮が開山することを快く了承した。
それ以降,身延山は日蓮宗の総本山となり現在に至ることとなる。

その年の秋,蒙古襲来…

さらに7年後,再度蒙古が襲来…

幕府は国難は退けたものの,命がけの国防に対する十分な恩賞を御家人らに与えられず,戦費を自己出資した御家人らを救うべく一時凌ぎの徳政令を発付するなど,もはや民の幕府に対する信頼は失われていた。
日本は,日蓮が憂いていた方向へと確実に進みつつあった。

身延山入山後,法華経の読誦に専念した日蓮は,そのような国の行く末を見届けることなく,2度目の蒙古襲来の翌年,大往生を遂げた…

彼の死の時,季節は冬になりかけていたにも関わらず,桜の花が咲いたと伝えられる。(完)

コメント (2)

断章その2<日蓮②>

2006年03月30日 | 断章~創作の試み~


↑久遠寺祖師堂
(前回の続き)花盛りの身延山久遠寺
観光客も多く訪れていました。
見事な枝垂れ桜も見られましたが,それはまたいずれご紹介するとしましょう。
上の写真は,日蓮聖人を奉るお堂で,祖師堂と呼ばれています。

-------------------------------

新興宗教が起こる際には,時の政治権力からの弾圧が付きものである。
日蓮が幕府に「立証安国論」を建白した数日後,彼の庵は焼かれた。
これは幕府の弾圧の一環か,それとも他の仏教勢力の仕業か,そのようなことはどうでもいい。
言えることは,日蓮にとって周りは全て敵だらけであったということである。

やがて時が流れ,元の皇帝からの国書が幕府にもたらされた。
それは,武力による我が国の侵略も辞さないものであった。

時の執権北条時宗も,日蓮の予言した他国の侵略ももはや夢物語ではないことをわかってはいたが,得体の知れない一坊主を用いることは,幕府権威の失墜にも繋がるものであったのであろうか?
はたまた,幕府の養護する禅宗寺院の目を憚ったのか?
この期に及んで,自らの意見を聞いて聞かぬふりをする幕府に対し,日蓮は声を高らかに幕府の姿勢を批判した。

そして,彼は捕らえられた…
彼に宣告された刑は,佐渡への配流…のはずだった。
佐渡へ流しても,いずれは帰ってくるやもしれぬこの坊主を,どさくさに乗じて斬って捨てよう。それこそが執権殿の本心…時宗の家臣・平頼綱は悪の思考を巡らせた。
頼綱は日蓮を腰越の浜に連行し,覚悟を決めさせようとした。
その場での支配者が頼綱であることは,誰の目にも明らかであった。
日蓮は一身に「南無妙法蓮華経」を詠じている。
そして,刑吏が刀を降ろそうとした瞬間,信じられない光景を頼綱は目の当たりにした。
雷光が刑場に落ちたのである。
プラズマは刑吏の持つ刀をはじき飛ばし,刃も折られてしまった。
動揺する頼綱と手下たち。
一方,日蓮は動ずることなく念仏を唱えているままであった。
日蓮に恐怖した頼綱は,処刑を断念せざるを得なかった。

そして,日蓮は佐渡に流された…(つづく)

コメント (2)

断章その1<日蓮①>

2006年03月28日 | 断章~創作の試み~

↑身延山久遠寺本堂

先週末,親戚の行事の関係で,山梨県にある日蓮宗の総本山・身延山久遠寺を訪れました。
さすが総本山だけあって,巨大な本堂をはじめ,広い伽藍が印象的でした。
さて,今回から新しいカテゴリー「断章~創作の試み~」と称しまして,簡単なコメントと自分勝手に作った短編を載っけてみることを試みたいと思います。
どうなることやら…

------------------------------

陰謀渦巻く鎌倉幕府の中で,権力は北条得宗家に掌握されていた。

時の執権は北条時頼。

自ら妻の実家である三浦一族を滅ぼし,悪名を一身に受けた彼が真に望んでいたのは,仏の世界のような平和な世の中であった。
権力争いに終始人生を追われ,また,虎視眈々と幕府転覆を狙う朝廷及び摂家将軍の動きを抑制することに精神をすり減らす彼にとって,真の意味で下層の人民にまで目が行き届かせるのは至難の業であった。

あるとき,一人の僧が幕府の門前で叫んでいた。
「法華経に帰依せねば,国が滅びる!」と。
彼は門衛に一蹴され追い払われたが,その僧の持っていた巻物は時頼の手に渡された。
そこに記されてあったのは,単なる新教の売り込みなどではなく,現在の日本を取り巻いている危機的状況とその対処法であった。
すなわち,ちっぽけな権力争いに終始している場合でなく,念仏を唱えることで国の民が一つにならねば国が滅びるというのである。
時頼は,彼を「面白い坊主」だと思ったかもしれないが,一歩間違えば幕府転覆の足がかりともされかねない彼の思想を,自らの心の中に封印した。

やがて時頼が没し,その子時宗が執権になったとき,その僧・日蓮の予言は現実化することになる…(つづく)
コメント (2)