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弁慶と田辺市(その2)

2007年11月17日 | 平家物語-一般

↑紀伊田辺駅からほど近い場所に鎮座する闘鶏神社

(前回の続き)
熊野地方においては,熊野三山を統括していた熊野別当の地位にある者が相当な権威を持っていました。
そして熊野別当は陸地における権威に止まらず,海域においても勢力を持ち,熊野水軍といえば,その戦力が味方に付くか否かで海戦の勝敗を分けるほどの影響力を持っていました。

時に元暦2年(1185年)3月。
源氏が平家を屋島において敗走させた後,平家側は得意とする海戦にて源氏勢を迎撃せんと,山口沖の壇ノ浦に集結していました。
源氏としては騎馬兵力において勝るものの,水軍の数においては平家に劣り,来る壇ノ浦の決戦までに,いかに水軍を揃えるかが勝敗の鍵を握ります。
源氏の西征軍の大将である源義経は,各地域の有力水軍に対し,源氏側への参戦を必死に呼びかけます。
その中で,最強の水軍と謳われる熊野水軍の動向は,源氏,平家ともに重大関心事であったことは想像に難くありません。
当時の熊野別当・田辺湛増(たなべのたんぞう)は,一説には妻が平家縁者の姫であったり,娘が平家に嫁いでいたりともともと平家方に与しており,いよいよ平家側に参戦しようとしていました。
その際,田辺の鳥合王子社(現・田辺市の闘鶏神社)において祈誓したところ「白旗(源氏側)につけ」とのお告げがあり,困ってしまった湛増はさらに闘鶏で熊野権現の真意を諮ろうと赤・白それぞれ7羽の鶏を戦わせたところ,赤い鶏は1匹も勝てずに逃げてしまったことから,熊野権現の神意は源氏方にありとして,湛増は源氏に加勢することを決意し,熊野水軍は壇ノ浦に向けて出陣しました。

↑田辺の海岸に立つ「熊野水軍出陣の地碑

古典「平家物語」では次のとおり記述があります。
熊野別当湛増は,平家へや参るべき,源氏へや参るべきとて,田辺の新熊野にて御神楽奏して,権現に祈誓したてまつる。「白旗につけ」と御託宣有けるを,猶うたがひをなして,白い鶏七つ,赤い鶏七つ,これをもつて権現の御まえにて勝負をせさす。赤きとり位置もかたず,みな負けてにげにけり。さてこそ源氏へ参らんと思ひさだめけれ。
(岩波文庫「平家物語(四) 巻第十一 鶏合 壇浦合戦」より抜粋)

ここで,古典平家や源平盛衰記などを見るに,湛増は特に誰から言われることなく勝手に闘鶏をして源氏への加勢を決めたように読めますが,一般に時代劇や小説ではどういうわけか,武蔵坊弁慶が湛増に源氏への加勢を説得したとしてこの場面が現れることが多いものと思われます。
この弁慶の身上関係につき,多くの伝説において「熊野別当の子」とされています。
(「義経記」では,名前は湛増ではありませんが,やはり「熊野別当の子」とされています。)
そうなると時期的に弁慶が湛増の子である可能性もあり,義経からの救援要請の使者としては最も適任であることから,このような伝説が残されてきたものと思われます。

↑闘鶏神社境内にある湛増と弁慶の像

吉川英治の「新平家物語」では,この鶏合わせの話は,湛増のイカサマの末,必ず「赤い鶏」が勝つように仕組まれ,これにより平家側を油断させ,実は源氏に荷担するといった一風変わったストーリーに仕上げられていました。
いずれにせよ,世相を読むことに長けていた湛増としては,最初から源氏に荷担したいと思っていたところ,平家の身内の手前公然と源氏に加勢できず,なんとか源氏に味方するための大義名分を得んといろいろ悩んでいたのではないでしょうか?

・ウィキペディア→「闘鶏神社


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