果報は寝て待て!

浮世は疲れることばかり…
いそがず,あせらず,のんびりいきましょう。

熊野古道を行く(第5回)

2007年10月31日 | 旅日記,郷土の歴史


前回の続き)
伏拝王子を立ち,前回の最後にお話しした「橋」を渡ると,関所の跡のようなものが出現。
由来はよくわかりませんが,少なからずこのような関が古道にも多くあったのかもしれませんね。

今回のコース(第2回地図参照)のほぼ中間地点の伏拝王子から次の祓戸王子までは,これまで以上に起伏の激しくなった山道が続き,思った以上の歯ごたえがありました。

今まではあまりなかったこのような(↑)段状の道が次々と現れます。
あらためて写真を見るに,結構斜度があったんですね。
歩いているときはがむしゃらになっていたのであまり意識していませんでした…

しばらく歩き続けても,すれ違ったのはほんの3~4人というほぼ貸し切り状態の熊野古道。
行けども行けども続く杉林。
滝のように流れ出る汗。
ある種の気持ち悪い気持ちよさが自分を包み込んでいるように錯覚し始めました
いわゆる「ランナーズ・ハイ」に近いものかもしれません。

トランス状態に陥っていたところで,ようやく山道から舗装道路に抜け,少し歩くとようやく最後の王子である「祓戸王子」に着きました。
実はこの場所,もう目と鼻の先に熊野本宮大社が控えており,今までの王子が休憩場所としての意味合いを兼ねていたのと異なり,この王子は熊野本宮に参詣する前に汚れを祓う場所としての機能を果たしていたようです。
史料により「祓戸」「祓殿」「祓所」などの表記が見られるようですが,いずれにせよこの場が「祓い」の場所であったのは間違いなさそうです。
私もこの場で身を清め(たつもりで…),いざ熊野本宮へ!

祓戸王子から1,2分でとうとう熊野本宮の裏口に到着
この時点で時計は午後1時15分。
約8キロの山道を1時間35分で歩いたことになるのですが,これが一般人にとってどのくらいのペースなのかはわかりません。
ただ,個人的には相当早足で歩いたつもりでいます
というわけで,次回は熊野本宮についてお話しします。
次回に続く


風林火山(第43回)

2007年10月29日 | 大河ドラマ
いよいよ「武田信玄」が誕生しましたね。
頭を丸めることにより,配役の市川亀治郎さんも,よく見る信玄の肖像に似てきたような気がしました。
原,真田,そして勘助も信玄とともに出家し,「ハゲの軍団」もここに誕生しました
(個人的には原サマのスキンヘッドが一番似合っていたと思います)
しかし,いくら出家したとはいえ,彼らのやっていることはこれまでと大した変わらず,勘助などは禁酒もできず「ダイエットは明日から」状態
戦をして殺生をすることも従前と変わりません。
なんだかんだ格好の良い理由を付けていますが,結局は彼らの自己満足以外の何ものでもなかったのではないでしょうか?

まあ,それはいいとして,かたや「信濃守護」たる大義名分,かたや「関東管領」という大義名分で互いに相対する武田家と長尾家。
どちらが真の正義かという判断はナンセンスであり,結局は互い信ずる「正義」のぶつかり合いに他なりません。
足利将軍が仲介した信濃と越後での停戦調停は,所詮武田,長尾両家の侵略外交をより激化させるいわば踏み台にされただけだったのかもしれません。
さて,関東管領を正式に拝命せんと再度上洛をする長尾景虎ですが,今回は蒼々たるメンバーを引き連れて上洛の途に付きました。
一方で,留守の越後を武田が攻め入らないように,宇佐見をして武田家に内紛を勃発させんと画策させていました。
ここで前回の風林火山を思い出してみると,前回は出奔した長尾景虎を連れ戻しに,今回上洛のお供をした譜代の臣たちがこぞって高野山に駆け上っており,越後はもぬけの殻状態でした。
もぬけの殻の状況という意味においては前回と今回ともに変わらず,前回の時点で武田が越後を攻めていたら…とホントに悔しい限りです。
先回,景虎を裏切った大熊氏は,今回いきなり武田に下っていたり,いったい宇佐見はどうやって大熊を凌いだのか非常に興味があるところですが,劇中では「武田の諜略」という簡単な説明で流されてしまっていたところも不満です。
(もっといえば,第三次川中島合戦も説明だけで終了という気の抜けた内容でした。)

次回は,なにげに忘れかけていた寅王丸さまが再登場!?
そしてとうとう勘助と平蔵が相まみえるか!?
というわけでまた来週

熊野古道を行く(その4)

2007年10月27日 | 旅日記,郷土の歴史


前回の続き)
徐々に本格的になってくる山道。
時より開けた場所から見える熊野の山々がまた気持ちよく感じられます。

そして,発心門王子を出発して約50分くらい経過したでしょうか。
ほぼ中間地点の「伏拝王子」に到達しました。

伏拝王子の説明板には,
「この碑にまつわる話として,和泉式部が熊野参詣の折,この地で月の障りとなり参詣できず,ここにて熊野本宮大社を伏し拝み『晴れやらぬ身の浮き雲のたなびきて月の障りとなるぞかなしき』と詠んだところ,その夜,熊野の神が夢に現れ『もろともに塵にまじわる神なれば月の障りもなにかくるしき』とのおつげがあり,喜んで参詣したと風雅集巻20の中に記されております。これは熊野権現が何事も心広く受け入れる神であることの事例として,時宗聖たちが諸国に広めたものと考えれます。」
との説明がなされており,その辺が「伏し拝み」王子の由来なのかもしれませんね。
誰にでもオープンな熊野の神様でよかったよかった

ちなみに王子の前には茶屋が建っているのですが,さすがに平日は人の入りが見込めないためか営業はしていませんでした。
ただ,ベンチとテーブルは解放されていたのでここで一休み。
温くなったペットボトルの水でもおいしく感じました。

水分も補給し,再び歩き始めます。
道案内に「本宮に至る」とか書いてあると,実際は先が長くても,だんだん近くまで来たのかなという錯覚からなんとなく足どりが軽くなります

谷の下が舗装道路で,その上の橋の部分が熊野古道という不思議な場所もありました。
なんとなく「作られた古道」といった感じで違和感もありますが,逆に面白さも感じられますね。

いいかげんに次回で目的地に到達か!?
次回に続く


熊野古道を行く(その3)

2007年10月24日 | 旅日記,郷土の歴史
前回の続き)
いよいよ最初の王子「水呑王子」に到達しました。
ここにはその名の示すとおり,旅人の水飲み場であったらしく,現在でも上写真でもおわかりのとおり,湧き水(?)と杓子が用意されていました。
そのほかは,お地蔵サマが2体立っている他には特に変わったものは見られませんでした。

ここからはようやく本格的な山道が始まります。

背の高い杉林が徐々に現れ,今までの田舎の舗装道とは違う趣で歩き始めることができました。

↑王子ではありませんが,ときたまこんな感じでぽつりとお地蔵サマがいたりします。
古の旅人たちは,このような地蔵サマをも大切に扱っていたのでしょう。

↑ところで,林道が続く中,このような伐採された光景があちこちで見られました。
もともと熊野地方は林業の盛んの地。
この地方の人たちの生活と林業とは切っても切れない密接な関係があります。
そしてそれは世界遺産に登録された現在でも変わることはありません。
木材を切り出しても,山が枯れないように新たな植林をして,木を育てて,また切り出して…このような繰り返しが数百年続いてきたのでしょう。
そこには,この聖なる山々から受ける恩恵を大切にしようとする熊野の人々の思いがあるのだと思います。
一見伐採された木が散らばっているだけのこの光景ひとつにも,熊野古道の世界遺産たる理由が見え隠れしているような気がしてなりません。

このような光景が延々と続く古道を先に先にと進みます。

次回に続く

風林火山(第42回)

2007年10月22日 | 大河ドラマ
今回の風林火山は本当にコメントに困る回となりました。
長尾景虎が高野山に出奔したという話は史実にもあるようですが,このタイミングで勘助まで高野山に登り,その場で再会を果たした二人がバトルとなった挙げ句,二人揃って同じ住職サマからご講義を賜るといった,あまりにもあり得ない展開に正直困惑しました

しかし,景虎も自国内であのような内部緊張のある中,一人出奔するというのは,なにげに国主としての自覚が足りないのではないでしょうか?
まあ先日の安倍総理の突然の辞意表明に似たことを,当時の越後でも行われていたのかと思うと,頂点に立つ人間の重圧というのはいつの世の時代でも同じなのだなとも考えたりしましたけどね。
そして大熊が謀反を起こし,宇佐見がそれを抑えているという状態で,直江をはじめとする長尾家譜代重鎮たちがこぞってわざわざ高野山まで景虎を迎えに行っているという状況も信じられません。
一歩間違えば一瞬にして越後は転覆すると思います。
あのような非常識な国主と家臣たちが勢揃いした越後が何故甲斐と並ぶ強国なのか,本当に疑問を感じずにはいられない今回の風林火山でした。

それにしても勘助がリツをどう処遇するのだろうと関心がありましたが,なるほど「養女作戦」があったとは…
しかし勘助の「嫁取り」を命じた由布姫は,あの世で果たして許してくれたでしょうか?
勘助が遅れて由布姫のもとに逝ったら,勘助はきっと由布姫からイヤミを言われまくりに違いありませんね

養女として迎えたリツに渡した「新型摩利支天フィギュア」!
これには正直笑わせていただきました!
私がリツだったら,あの場面できっと退いてしまったでしょう

話がまとまりませんでしたが今回はこの辺で

<追伸>
今回の「風林火山紀行」で紹介されていました高野山の信玄,謙信関係の史跡は,先日当ブログ「高野山(その5)」でも紹介させていただきましたのでお立ち寄り下さい。


熊野古道を行く(その2)

2007年10月20日 | 旅日記,郷土の歴史

龍神自動車(株)様のHPから引用させていただきました中辺路の簡単マップ。

前回のつづき)
平成19年9月20日午前11時40分,発心門王子から熊野本宮に向けていよいよ出発します。
行程としては,見にくいかもしれませんが上記マップの右上「Fコース」で,当初,平均所要時間が2時間20分という情報は得ていたのですが,具体的な距離がどのくらいなのかよく調べずに挑みました。
あとで調べてみると約8.1キロの行程だったようです。
(歩く速さは通常人より速いつもりの私ですが,どうりでなかなかゴールにたどり着けなかったわけです…

いざ歩き始めようとすると,果てさてどちらに向かっていいのかよくわかりません。
いかにもといった山道があるのですが,これは他方から発心門王子に向けてやってくるための道なので,目的地とは逆の方面に行ってしまうことになります。
あと残されたのはバスで登ってきた舗装道路のみなのですが,実はこれが正解でした。
熊野古道散策のスタートが舗装道路だったのはなんとなくショックでしたが,気を取り直して歩いていくことにします。

このような(↑)標識を発見。
このとおりしばらくは舗装道路を歩いていけば,いずれ山道になるだろうと気楽に歩き始めました。
この界隈は農家の集落が点々とあり,田舎の風情を楽しめます。

↑道端にあった無人売店。
杖や彫り物など,普段だとあまり見られないようなものが売られていました。

↑あばら屋に仲のよい老夫婦…?
実はこれ,「獅子脅し人形」と称するべきか,後ろの方で水が流れており,桶みたいなものにある程度水がたまると手をあげる仕掛けになっています。

そしてちょっと歩くと,舗装道路からいよいよ山道らしい道に入り出し,発心門王子から最初の王子「水呑王子」に達しました。

次回に続く


熊野古道を行く(その1)

2007年10月17日 | 旅日記,郷土の歴史
高野山の話は前回までとして,今回からは,私が歩いた熊野古道について語りたいと思います。

ご存じのとおり,紀伊山地の霊場及び参詣道は2004年に世界遺産登録されました。
「参詣道」が世界遺産登録されたのは,全世界的に見てもサンティアゴのコンポステーラ巡礼路とこの紀伊山地の参詣道の2例だけとのこと。
その意味においても,熊野古道は道の史跡として非常に重要なものであります。

世界遺産登録された紀伊山地の参詣道は「大峯奥駈道」「高野山町石道」「熊野参詣道」の3つ。
一般によく聞かれる熊野古道は主に「熊野参詣道」の部分を指すことになります。
さらに熊野古道は①高野山から熊野本宮に至る「小辺路」,②紀伊田辺,紀伊勝浦,新宮の各方面から熊野本宮に至る「中辺路」,③紀伊田辺から紀伊勝浦方面に海沿いに走る「大辺路」,④近畿方面から紀伊田辺方面に伸びる「紀伊路」,⑤伊勢方面から新宮方面に至る「伊勢路」の5系統に分けられます。
今回私が歩いたのは「中辺路」の一部,「発心門王子~熊野本宮」のコースです。

紀伊田辺駅からバスに揺られること2時間。
出発点の「発心門王子」に到着しました。
中辺路には「王子」と呼ばれる地蔵のような社のようなものが点々とし,それが99あるので「九十九王子」と呼ばれています。
全てが関連しているわけでもなさそうで,それぞれが独立して意味を持っていたようです。
説明板には,「発心門は,熊野本宮の聖域の入口に立てられた鳥居で,菩提心を発す門という意味を持って」いるとされ,「参詣人は発心門の前で祓いをし,厳粛な心で大鳥居をくぐって王子社に奉幣した」とあり,王子の中でもかなり格の高いものであったようです。

王子社は明治期に別な場所に移築され,この場には王子社址の石碑だけが残されていましたが,古道を訪れる人々が増えたこともあり,近時王子社を復元したとのことです。

では,次回から例によって少しずつ古道を歩いていきたいと思います。




風林火山(第41回)

2007年10月15日 | 大河ドラマ

この番組の目玉の一つであった由布姫がお亡くなりになりました。

これまで,どちらかというと「ワガママ姫」的な印象が強く,なかなか評価を点けにくかった由布姫。
そのワガママぶりに,ある時には世話役の勘助も命の危険に晒されたりと苦労の絶えない日々が続きました。
そして,最後の最後で由布姫は,勘助に対し「嫁取り」という最大の課題を与えました。
由布姫は,勘助が自分のことを好いていることにより,嫁を取らないという勘助の内心を知っていたのでしょう。
勘助にとっては,自分の崇拝する女神から嫁取りを命じられるというのは,ある意味哀しみに似た困惑を覚えたでしょうが,由布姫にとっては,これが勘助に対する最大限の礼だったのだと思います。

由布姫の逝去を知った勘助は,無限の喪失感を背負い,敵兵をただただ斬って捨てることで,姫の死という現実から逃れられるかもしれないとでも思っていたのかもしれませんね。

しかし,このドラマにおいて大抜擢された由布姫役の柴本幸さんは,確かに普通にいい演技をするのですが,「大抜擢」という前宣伝を裏付けるような目を見張る演技が見れたかというと,残念ながらそのような印象までは受けることができなかった感があります。
柴本さんには,今後の女優人生においての発展を期待といったところでしょうかね。
とにかくお疲れ様でしたと同時に,これからもがんばってください!

そして由布姫の死以上に残念だったのは,雪斎の死です。
怪しげな雰囲気を醸し出す伊武雅刀氏演じる雪斎は,見ている者を引き込む魅力がありました。
これは伊武氏の持てる役者オーラの賜物なのだろうと思います。
伊武さんもお疲れ様でした!

<その他>
・伝兵衛×葉月の組み合わせはちょっと考えませんでした。
 あっち方面の経験値は葉月さんの方が上手のようですね。
 負けるな伝兵衛!

・木曽攻めか越後攻めか?
 その選択を由布姫に委ねた勘助と晴信。
 由布姫が木曽攻めをした上で武田の姫を木曽に嫁入りさせる旨の計画を語り,勘助と晴信は「その策には気づかなかった」と驚いていましたが,これまでこのドラマを見ている限り,勘助がその程度の案を考えなかったというのは信じられません。
ただ単に由布姫に花を持たせただけだったのでしょうか?

・勘助に嫁取りを迫る由布姫。
 ほとんど脅迫に近い状況で「よろしいですね」と迫り,やむなく勘助も承諾すると由布姫は「ありがとう」と態度がコロッと変化。
 あの状況では誰も「イヤです」とは言えませんね


高野山(その7)

2007年10月13日 | 旅日記,郷土の歴史

高野山を歩いているとやたら見かける高野槙(コウヤマキ)。
一見,松のように見えるこの木は,松とはまた異なるコウヤマキ科の針葉樹です。
全国的に見ても,この高野山一帯で多く生えていることからこのような名前を付けられたとのこと。
そのようなことからも,高野山では「霊木」とされているようです。

主にお供え物として使用されることが多いのですが,その理由として,普通の仏花ではすぐ枯れてしまうところ,この木は生命力が強く,相当長持ちすることで重宝がられるようです。

昨年お生まれになった秋篠宮悠仁(ひさひと)サマのお印にもなっているようですね。
現在の皇室典範からすれば皇太子さまの次代において第一皇位継承者である悠仁サマではありますが,そのようなことは別として,お子様の成長を純粋に願い,お印として高野槙を選んだ秋篠宮サマと紀子サマの思いがあらためて偲ばれます。

ウィキペディア「高野槙」


高野山(その6)

2007年10月10日 | 旅日記,郷土の歴史
今回は,高野山散策中に見つけた一風変わったものを集めてみました。

↑道端のベンチの両脇に,居眠りしている小坊主がおりました。
坊主の大きさに比べて木魚がやたら大きく見えますね。
あまりにも気持ちよさそうなので,思わず額に「肉」と書きたくなる衝動です♪(ダメですよ,神聖なる場所でそんなことをしちゃ!

↑大師教会本部の脇にありました真っ赤なお地蔵様。
あまりお目にかからないカラーリングに違和感を感じますが,きっと御利益があるのでしょう。
ひょっとするとシャア専用!?

↑奥の院内に見つけた「仲良し地蔵」と称するお地蔵様。
親子,兄弟,恋人,夫婦…いつまでもいっしょにいたいという気持ちがこのお地蔵様となって具現化されたのでしょう。
思わず合掌

↑よく名前を見ませんでしたが,某事業団における殉職者を祀る慰霊碑。
どうみてもロケットです。
周囲と比べても一際目立っていました。
亡くなった方々もこれで浮かばれますね。

↑某しろあり駆除関連法人が建てたと思われる,駆除したシロアリたちのための慰霊碑
人間たちによって迫害されたシロアリさんたちに,全員,黙祷!

↑最後にこの一枚。
メイン通り沿いに見つけた一件の店。
やたら張り紙がされており,見たところ古文書専門店のようです。
「まじない秘法」をはじめ,表示されている内容がかなり怪しげで,さすがに中に入るのはためらわれました
しかし,今のご時世でもこのようなカルトな店が存在しているのということは,よほどの権威のある店舗なのかもしれません。

時間があればもっと面白そうなものを見つけることができたかもしれませんが,今回はこの辺で。

風林火山(第40回)

2007年10月08日 | 大河ドラマ
川中島の戦いから帰ってきた勘助。
そこに待っていたものは,ある意味長尾景虎よりも手強い押しかけ女房・リツ殿でした!

亡き女房・ミツの記憶を心の奥底に封じ,女神由布姫だけを自分の仕える唯一の女性であると固く決意した勘助にとっては,その決意を揺るがす女性の出現というのは,「単なる迷惑」といった単純なことではなく,ようやく見つけた自分の守るべきものを,再度失ってしまういわば恐怖のようなものなのでしょう。
上意による結びつけとはいえ,リツさんはホントに勘助を気に入っているみたいですし,勘助も頑なにならず素直に受け入れてみたらいいのに…

一方,今回のメインである三国同盟における三つ巴の婚儀は,嫁に出される娘たちの本意ではなく,まさに人質として出されるものであり,本人たちにとっては気の毒としか言いようがありません。
父親3人が富士の麓に集まって,ある意味3者で娘たちを「プレゼント交換」的に回す盟約をその場でしてしまうのです。
国を延命させるに必要なこととはいえ,個人の尊厳というものが全く尊重されない時代にあらためて悲しいものを感じました。

京の公家から輿入れした三条夫人は,武田家の正室となって幾星霜。
年月を経ることで,戦国の妻の宿命というものを身をもって悟り,今度はその宿命の重さを娘の梅ちゃんに教えました。
別れの日,晴信,その他家臣たちの前で泣きながら娘を抱き叫ぶ三条夫人…「何があっても耐えるのですよ」「そなたが自害したときは私も自害します」「そなたを一人にはしません」…
その姿に勘助がこぼした一言,「これぞ,真の慈愛…」には,今の勘助には到底得ることのできない家族愛に対する,嫉妬とあこがれのようなものがあったのかもしれませんね。
そのときの勘助の脳裏には「リツ」「ミツ」「由布姫」の姿が次々と現れてきていたことでしょう。

そして次回,勘助の心の拠り所が…

また来週!

高野山(その5)

2007年10月06日 | 旅日記,郷土の歴史
前回,高野山奥の院についてお話ししましたが,今回はその奥の院で見た戦国大名のお墓についてコメントしたいと思います。

この地には数多くの大名,及び藩主の墓が存在します。
主立ったものを一部を挙げてみるに,織田信長,豊臣家,武田信玄,上杉謙信,明智光秀,石田三成,結城秀康,伊達政宗,徳川吉宗,大岡越前守,浅野内匠頭+四十七士,加賀前田家,小田原北条家,薩摩島津家…

ここでは,さらにその中の一部をとりあげてみます。

↑まず武田家を見てみると,案内板には「武田信玄・勝頼墓所」とあります。(手前の石棒でなく,奥の巨大な石碑が墓所です。)
石碑自体に何と書いてあるのかは私の頭脳では解読不能なので実際のところはどうなのかわかりませんが,ここではあえて信玄と勝頼が眠っているということで,後に再興された武田一族はここには入っていないものと思われます。
勝頼の時代に信玄のために建て,勝頼自害後は,生き残った縁者が信玄の眠るこの地において,ともに供養したといった感じなのでしょうか?

↑上杉家は単なる石墓ではなく「謙信廟」として御廟が建てられています。
いったい中がどうなっているのか見てみたいものですが,雨ざらしの信玄と比べ,家のある謙信の方が居心地は良いことは確かでしょう。
他の大名と比べても,木造の御廟としてこの地に残されているのは,私がざっと見た限りでは謙信廟くらいなので,生前仏に帰依していた謙信の高野山に対するこだわりがなんとなく感じられますね。


↑豊臣家は秀吉だけでなくいくつかの石塔とともに広めの敷地が確保され,墓所として存在していました。
周囲には木の柵がめぐらされ,石塔の一般客は近くに入れないようになっています。
金剛峯寺の際にもお話ししましたが,秀吉は高野山にとっても大口なパトロンだったと思われ,ある意味現在でもその権威が墓所に現れているといっても過言ではないでしょう。

↑もっとも疑問に思ったのはこの織田信長の墓です。
かつて自分に刃向かう仏教勢力を根絶やしにせんと延暦寺を焼き討ちしたり,石山合戦で多くの一向宗徒を虐殺したりした信長。
記録によると信長は1581年に,三男信孝を総大将にこの高野山も攻めています。
結局翌年信長の死亡により包囲網は解かれることになったのですが,そのようにダイレクトに高野を攻めた信長の墓がどうしてこの地に,しかも弘法大師御廟から比較的近い場所にあるのかが納得できません。
ただ,墓石の大きさは他の石塔と変わらぬくらい小さなものであり,資料によると,江戸期の記録にはあるものの,信長の墓の所在は昭和45年までわからなかったそうです。

以上見てきたとおり,この地に墓所を設けるというのは,当時の人々からすれば,東京銀座の一等地に家を買うくらいのステータスがあり,それがイコール権威の象徴であったに違いありません。
そのようなことからも,過去の大名等はこの地に葬られることを希望する一方,この地に入るためには多額な金が要されたことでしょう。
あまり言いたくはありませんが,そこに「政」と「教」の癒着が生まれるのは当然といえば当然なのかもしれません。
信長がこの地を攻めたのも,そのようなことが一因だったのでしょう。
(しかしなぜかこの地に信長の墓所が…

次回は高野山で見つけたおもしろいものを特集します。







高野山(その4)

2007年10月03日 | 旅日記,郷土の歴史
高野山を西から東へと散策を続け,いよいよ高野山の聖地・奥の院までたどり着きました。

奥の院地区は弘法大師の御廟がある場所であり,大師はその御廟において,現在も変わらぬ姿でおられると信じられているようで,弘法大師の足下で眠れば極楽往生できるという信仰から,歴史上の大名をはじめ,著名人の墓が約20万基存在するという,まさに聖地となっています。

敷地内には,高い老木が茂り,木漏れ日が入ってくる程度の明るさで,高野山の他の地区とは一線を画する荘厳さを感じます。

途中,このような御供所も数軒建っていました。

さすがに高野山の最大の見所(?)だけあって,平日にもかかわらず奥の院には大勢の観光客が訪れ,すれ違った団体にはフランス人のツアーの人たちもいました。

奥の院の入口から歩くこと数十分。
いよいよもっとも奥地にある弘法大師御廟の手前までたどり着きました。
どうやら御廟の周辺は更なる聖域と化しているらしく,写真撮影は禁止されていたので,残念ながら写真はありません…
御廟の手前には巨大な燈籠堂があり,中には2万基を超える献灯が灯もされており,中には白河上皇が灯した献灯が1000年近くもの間燃え続けているとのこと。
おそらく何らかの手続きをとらないと,弘法大師の御廟に直接拝謁することはできないものと思われ,観光客はみな燈籠堂からその奥にある御廟を拝んでいました。
私も同様に合掌。

過去に比叡山を訪れた際には,伝教大師は延暦寺釈迦堂の裏側におられ,専属の高層が10年ほど釈迦堂を出ることなく伝教大師をお守りするという話を聞きました。
今回の高野山では,お坊さんからそのような話を聞くことはできませんでしたが,おそらく似たような形で大師のお世話をする僧侶がいらっしゃるのでしょう。
ある意味,軟禁を強いられるため担当僧侶にとっては相当の精神力を要される荒行となりましょうが,大師のお側で直接仕えることができるというのは,僧侶にとっては他に代えることのできない誉れなのかもしれません。

次回は,奥の院で見た戦国大名の墓についてコメントしたいと思います。



風林火山(第39回)

2007年10月01日 | 大河ドラマ

今回の風林火山は,これまたデスノートばりの天才軍師同士の駆け引きが見もので,かなり見応えがありました!
このドラマを見続けていた視聴者の多くは今回のようなストーリーを長い間待ち望んでいたのではないでしょうか?

いよいよ武田晴信に「神罰」を与えるために立ち上がった長尾景虎。
今回の遠征のポリシーも,
①生きようとしても無駄。死ぬも生きるも運次第!
②神罰を与えに行くのが目的で,領地を奪うことは目的ではない。
といった異色のもので,ある意味家臣たちからすれば「くたびれもうけ」的ではあるのですが,「正義」の名の下に武田を成敗するという大義名分自体が兵の士気の高揚に繋がっていたのでしょう。
ガクト景虎も適度に荒々しく,それとは対称的に物静かに戦況を分析する緒方宇佐見氏…まったくもって絶妙な取り合わせです!
景虎も宇佐見もあらためて惚れ直しました

戦闘は,勘助と宇佐見の知能戦は裏の裏の読み合いとなりました。
今回の「景虎は晴信の首めがけてまっしぐら」という命題のもとに,勘助,宇佐見双方がそれぞれどのような回答を出してくるかを分析しつつ各陣営の裏をかく。
まさに将棋の対戦を見ているようなシーン構成がたいへんおもしろかったですね。

諸角のサプライズ籠城がなかったら,そのまま上杉勢ペースで戦いの幕が下り,国人衆の心は武田から離れていくのみになっていたかもしれませんが,絶体絶命のあの状況を逆手にとり逆転し,上杉勢を退却させた勘助の才能は,やはり単なる由布姫のおもり役だけではなかったのだとあらためて思わされました

今までほとんど目立たなかった諸角も,今回は結果オーライではありますが,男を上げました!
これからも武田家のためにがんばって「生き恥をさらし」て下さい!

残り回数が少なくなってきた風林火山。
この調子で残りの回数がんばってもらいたいものです。

<その他>
・ 由布姫の言う「勝ちトンボ」とは?
もしかすると板垣信方の生まれかわりか!?
ちなみにこれだけのために出てきたの,由布姫…

・伝兵衛の景虎のイメージに「ワシとそっくりじゃ!」と「だからおなごが寄り付かんのか」との掛け合いは,この番組始まって以来,初めて吹き出した演出でした!
この意味でも今回の脚本はすばらしい!

ではまた来週