果報は寝て待て!

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静御前と郡山市(その2)

2007年08月22日 | 平家物語-一般
前回,郡山市の静御前堂についてお話ししましたが,今回はその続きです。

郡山市の市街地から多少西側の,東北自動車道方面に外れた田園地帯に,郡山市の運転免許センターがあります。
昔,私も原付免許を取った思い出があるところなのですが,その免許センターの北側の道路を挟んだ目の前に,どこにでもあるような池が存在します。
その池には特に名前の表示もなく,「魚の養殖をしているので勝手に立ち入るな」的な看板が一つ立っているだけの,誰も気に留めない池。
実はこの池が,前回お話しした,静御前が身を投げた「美女池」と呼ばれる池なのです。

各種文献を見るに,静御前が池に身を投げた理由は,静御前堂の説明板に書かれている「義経が平泉に発ってしまった」ためではなく,郡山の地で「義経の訃報を聞いたため」というのが一般的です。
もし前者の説明を根拠にするのであれば,義経自体がこの郡山にしばらくの間逗留し,その話を聞いた静御前が,平泉ではなく郡山の地を目指してやってきたという筋書きになってしまい,さらにそうであるならば,郡山にはこれだけ静御前の伝説だけが残っているのに,義経が何かをしたといった伝説の残る地は,私の知る限りでは存在せず,不自然であります。

吉野山で義経と行動を別にし,あるいははぐれ,六波羅,鎌倉へと連行されていった静御前が,鎌倉で子を産み,解放されるまで少なくとも半年から1年は経っていると思いますが,その間に義経は,すでに平泉に到達していてもおかしくはないでしょう。
鎌倉から解放された静御前は,「義経記」によれば京の実家に帰り,さらに19歳で剃髪し,小庵に籠もり,念仏をして往生を遂げたとあります。
イメージを勝手に膨らませるに,静御前は,1186年春ころ京の実家に戻り,そうしてしばらくしたころ義経の消息を伝えられ,居ても立ってもいられなくなった静御前は義経に会いに行く旅を決意。
(鎌倉でも義経の所在を掴んだのは1187年に入ってからと言われているので,静御前の情報入手はそれより後の可能性高し。)
ただ,釈放されたとはいえ,静御前には義経の縁者としておそらく六波羅の監視の目が光っていることを考えると,静御前は髪を剃るか死んだことにしていたほうが都合が良かったのかもしれません。
そうして愛する義経に会うために旅に出た静御前ですが,郡山の地までたどり着いたところで,長旅が災いし,病か怪我か何かでもしてこの地にしばらくの間足止めを喰らったのではないでしょうか。
(そうでも考えないと,いくら足の遅い女性の旅とはいえ,京から平泉にたどり着くには1年もあれば十分と思われ,あまりにも時間がかかりすぎている。)
1189年初夏,義経が平泉で討伐されたという訃報をこの地で聞いた静御前は完全に希望を絶たれ,そして美女池に身を投じることに…

郡山には,「かつぎ沼」「小六峠」「針生(はりゅう)」といった,静御前のお供をしていた者達にちなんだ地名が他にも何件か残されています。
特に針生は,静御前堂の近所の地名であり,静御前及び侍女が里人に針を教えていたことから付けられたとのこと。
このことからも,里人たちが,静御前にただならぬ親近感を抱いていたことが想像できます。

郡山市の静御前に関連する地名についてはこちらのホームページが詳しいです

美女池で鯉の養殖をしている会社のホームページです

「大河ドラマ『義経』第46話」で石原さとみさんが静の舞いを披露したことについて拙ブログで語った記事


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1 コメント

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*^-^* (小林)
2007-08-22 17:27:45
はじめまして!
きれいですね!!
お勧めウェブサイト:
http://www.bbbcc.net/?yoyo
ご覧ください。
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