さようなら酉年…
2005年も本日で終わり…
なんだか一年が過ぎるのが速いと感じ始めてきたこの頃。
アインシュタイン博士の理屈からいえば,時間が速く進むということは,それだけ自分も速く動いているということになるかと思いますが,自分としてはそんなに速く動いたつもりもないですね…
今年の事件として大きかったことは,やはりブログを始めたことでしょうか?
ナニゲにブログは,私の趣味を変な方向に広げることになりました。
その1・写真
まず,文章の投稿だけではつまらないと思い,写真も載せるようになりました。
そうなると,これまで旅先等で適当にカメラ任せで撮っていた写真も,ブログに載せんがため自然とこだわるようになり,いつの間にか「絞り」や「シャッタースピード」などのマニュアル操作に手を出すようになっていました。
その2・旅
結構,出不精であった私ですが,写真が楽しくなると,ブログのネタ探しと連動してちょくちょく旅に出るようになりました。
家の中にいては気が付かなかった自然の風景などを少しずつ感じられるようになりました。
その3・俳句
自然を体感するようになると,今度はその自然を詠んでみたくなってきましたが,何ら俳句のの知識のない私。
他人の俳句を参考に,少しずつ自分も真似事を始めるようになりました。
基本的に熱しやすく冷めやすい性格の私ですが,思ったよりブログは長く続いているかもしれません…
これは,単なる自己満足という以上に,ブログを通して知り合った方々の恩恵によるものが大きいからだと思います
来年も細々とブログを更新していきたいと思いますので,今後とも遊びにお越しいただければ幸いでございます。
私もこれから正月2日まで福島の実家に帰省いたします。
みなさまも良いお年をお迎えください!
<本日の一句>
往く年の速さ身にしむ晦日かな ぴえる
「華の乱」を通して諸悪の根元として描かれていた柳沢吉保(北村一輝)。
彼にも,実は純粋な時代があり,親友ともいうべき将軍綱吉(当時館林藩主)とのすれ違いから,互いに誤解が生じ,最終的には本編のような悲劇に連鎖してしまったというストーリー展開でしたが,ダークサイドに堕ちる柳沢の姿は,まさにダースベーダーに変貌するアナキン・スカイウォーカーを見ているようでした。
(まあ,アナキンよりは柳沢の方が全然同情できますけど…)
結局,間接的に柳沢の復讐の道具とされた安子サマ(内山理名)って,ある意味運が悪かったのかも…と番組を見ながら思いましたが,さすが尼になった安子サマ!こんな柳沢でも許してしまう心の広さは観音様のようです
ちなみに,本編でちょびっとだけ語られていたお伝の方サマ(小池栄子)の過去も,今回のスペシャルでとうとう明かされましたが,今回の話の流れからすれば,オクテだった綱吉に閨のテクニックを教えたのは,ナニゲにお伝の方サマだったんじゃん…と,あらためてお伝の方サマの功績(!?)を称えたりするのでした
これでテレビシリーズの「大奥」も終わりかと思うと,ちょっと残念です。
「大奥」に匹敵する新たな時代劇を激しく期待です!
大奥のこれまでの感想→第1話,第2・3話,第4・5話,第9話,最終回
昨日で,今年の私のお仕事は終了
職場の御用納めが終わった後,未だ仕事に残る人,場所を変えて飲みに行く人,それぞれ津々浦々分散する中,私は家にも帰らず飲みにも行かず,単身東京駅へ直行し,今回で終了すると話題の「東京ミレナリオ」なるものを見に行きました。
東京駅から案内に従って歩いていくと,まだミレナリオが見えるか見えないかくらいの場所から,すでに人が詰まっており,交通整理の警察官や,実行委員の方々が大声で通行規制をしていました。
単なる都心の一般道に電飾をしただけの道路を通るだけなのに,なんでこんなに人が溢れかえっているのだろうと,途中で引き返そうかとも思いましたが,我慢して元旦参りさながらの行列に紛れ込みました。
前の人間が邪魔だったり,距離がまだまだ遠かったり,なかなか見えないミレナリオに,周囲の人たちが「ミレナリオが見れないお~!」とか「見えないお~!」とか,必死のギャグで困難を乗り切ろうとしている姿に,寒いながらも熱いものを感じました…
徐々にミレナリオが大きく見え始め,行列に並ぶこと約30分,ようやくミレナリオの入口に到達!
いや~,近くで見ると想像以上にきれいでした!
当初の予想は30メートルくらいで終わる程度だろうと多寡をくくっていましたが,想像以上に長い光の通路にあらためて驚かされました。
ちなみに立ち止まっての撮影は禁止。
歩きながらの夜景撮影は困難を極めましたが,先日買い換えたデジカメ(パナソニックのLUMIX・DMC-LX1)の手ぶれ補正機能が多少なりとも功を奏したようでした。
前のデジカメだったらおそらくブレまくりだったでしょう…
ゆっくり進んで10分くらいミレナリオ内部を通過し,いよいよ出口まで来ました。
最後はホワイトバランスを白熱灯モードで撮影。
青や白がはっきり写って派手に見えますね(思いっきり人の頭が写ってしまい残念…)。
と,ここまで来たときにミレナリオの消灯時間21時に…
一度に落ちる照明…
あたりが一瞬闇に覆われたかのような錯覚を覚えました。
見物客から一斉に「ああ~~!」というどよめきがあがりました。
残されたのは,光の残骸すら残さない冷たいフレームのみ…
なんか,その日のミレナリオが終わった~というより,ミレナリオの光とともに,私の一年も終わったという気がしました。
みなさんも今年一年,勉強にお仕事にお疲れ様でした
<本日の一句>
行く年や光の道の燃え尽きて ぴえる
東京ミレナリオ公式HPはこちらから
昨夜日テレでやっていた「河井継之助~駆け抜けた蒼龍・北国にいたもう一人の坂本龍馬」を見ました。
はっきり言って,この河井継之助という人物はよく知りませんでしたが,今回のドラマで私の中に新たな歴史人物像が植え付けられた気がしました。
サブタイトル中にある「坂本龍馬」は,どちらかといえば,グローバルな活動家のイメージがありますが,継之助は龍馬同様のグローバルな思考の中に,常に愛すべき長岡の民を想い,無益な戦争を避けようと奔走した点,ある意味龍馬の生き方以上に心討たれた気がします。
幕末時点で,既に列強諸国の中でひっそりと中立を守っている国スイスの存在に関心を示し,当時の長岡藩を取り巻く状況をまさにスイスに置き換え,戦乱から長岡の地を守ろうとした継之助の思考は,おそらく当時の一般官僚には全く理解しがたいものだったに違いありません。
官軍,賊軍というわかりやすい色分けに,あえてグレーでいることを望んだ継之助の理想も,時の流れを止めることはできず,結局長岡の地で戊辰戦争において最大ともいえるバトルが展開されることとなってしまったのは,今回のドラマを見ていてあまりにも悲しく,人間としての虚しさを感じざるを得ませんでした。
まさに幕末という時代は,今のご時世では考えられないくらい,日本国民一人一人が国の行く末を考え,自らの理想に向かって生きた時代であったのだと思います。
それは,新撰組をはじめ,その時代にさまざまな歴史上の人物が,それぞれ私たちの心の中に少なからず印象として刻み込まれていることからも,窺い知れるでしょう。
他からの圧力にも屈せず,己の信念のみ幕末を生きた河井継之助も,今回のドラマで多くの視聴者の心にその人物像が刻み込まれたのではないでしょうか?
それにしても,継之助役の中村勘三郎さんは,劇中でも,まさに普段目にする勘三郎さんそのままなのですが(笑),そのキャラクターがあまりにも自然で,まったく飾り気もなく,「勘三郎=継之助」のような錯覚を覚えました。
大河ドラマ「元禄繚乱」の大石内蔵助をやっていたときよりも役がしっくりきていた気がしました。
これからも歌舞伎界だけでなくドラマなどでも頑張っていただきたいですね!
昨夜,撮りだめていた「大奥」を見ました。
桂昌院サマが倒れてから,なんだか話が急展開という感じでしたね。
以下,印象に残った役者さんについてコメントします
桂昌院役の江波杏子さん,さすがに大女優だけあって,死に様も見事でした!
しかし,最後になっていきなり安子サマとうち解けたりしているところがなんとなく納得しがたいですし,死に際に元主のお万の方サマが迎えに来ずに,春日局サマが迎えに来てしまうのも不可解でした…
そして,久々に登場のナリズミ様by.田辺誠一!
いったい何年柳沢邸に閉じこめられていたのかわかりませんが,なんとなく茶室みたいなところだし,感覚的には昔お万の方が春日局に閉じこめられていたお城の隠し牢よりは快適そうでしたね。
しかし,音羽さんが変なことを成住様に吹き込まなければ,成住様は死ぬことがなかったような気が未だにしますが,やはり成住の死は安子に吉保暗殺の決意をさせた一助となったんでしょうね。
そう思わなければ成住がかわいそうです
それにしても,精神的に成長したと思ったのは綱吉公!
最初はキモイと思っていた谷原章介さんの綱吉でしたが,数年の月日を越えて,感性が研ぎ澄まされたというか,気付かなくてもいいことまで気付くようになり,さらに知って知らぬふりまでして周囲を気遣うことまでできるようになりました。
これも安子サマの教育のなせる業でしょうか!?
だんだん小池栄子さん演じるお伝の方サマがムキになるシーンが少なくなってきたシリーズ終盤,今まで恐い女の代名詞だったお伝にかわって,最後に光ったと思ったのは,今まで地味だった藤原紀香
大典侍殿の寝室前でロウソクを塗りたぐる「いっちゃった」お顔といい,大火傷後に綱吉公をギロっと睨む姿や,這って綱吉公に迫る演技など,季節はずれの怪談ホラーを見ているような恐ろしさがありました
桂昌院に向かって「お玉」呼ばわりできるのもこの人ならではですね!
ちなみに,大典侍殿by.中山忍さん。
役的に貧乏クジを引かされ大奥に召喚されてしまったある意味気の毒な女性でしたが,あの笑いながら数多の敵をコケにしていく姿は愛すべきものがありました。
最後も不満そうでしたし…
しかし,一癖二癖ある登場人物の中で,主人公安子さまの役どころって,なかなかとらえどころがなくて非常に難しい役だったのではないかと思いますが,内山理名さんはよく頑張ったと思います。お疲れ様でした
これでまた楽しみのドラマが一つ減るなあ…
今度のスペシャル期待です
大奥のこれまでの感想→第1話,第2・3話,第4・5話
日本の大部分は雪のクリスマスのようですが,東京では相変わらず雪はありません。
とりあえず我が家でも,ささやかながらクリスマス。
去年のクリスマスは,仕事帰りにケーキとチキンを買って帰ろうとしたところ,どこに行っても行列,行列…
去年と同じ轍を踏むまいと,本日の食卓に供されるべきものは昨日のうちに買いそろえておきました。
いやはや,今回は昨日のうちに買い出しに行っておいてよかった…
というのも,実は昨夜は飲み会で,久しぶりに徹夜朝帰りとなってしまい,今日は夕方まで二日酔いで潰れていたという最低な状況でした…
さきほどようやく回復し,「ローマの休日」を見ながら,なんとか無事にクリスマス気分に浸ることができました。
お酒を飲むのはほどほどにしましょう
ちなみに上の写真は,「新宿高野」のクリスマス限定商品「クリスマスカップ」。
中身はババロアです!
というわけで,みなさまも素敵なクリスマスをお過ごしください
<本日の一句>
徹夜明け今夜はゆるりクリスマス ぴえる
(前回からのつづき)
仏御前の出現により,これまで賜っていた月あたり百石,百貫の報酬は停止され,ついには清盛の館を追い出されてしまった祇王たち。
もはや清盛には関わるまいと思っていた祇王でしたが,あるとき清盛から,仏が退屈しているので,来て舞を披露せよとの命が下ります。
本当は行きたくないところですが,これを断り,自分はおろか,年を経た母にまで危害が及ぶことを憂えた祇王は,再び妹祇女とともに西八条の清盛邸へ出向いていきました。
もはや過去のような特別な扱いはされず,控えの間すら差別され,そのあまりの仕打ちに,仏も哀れみ,なんとか清盛に昔のように接するよう頼み込みますが,聞き入れられませんでした。
それはまさに,今の愛人のために,臨時で適当な白拍子を呼びつけ,ただ舞うだけ舞わせて帰させるという,過去に寵愛を受けた祇王にとっては屈辱的なものでした。
このような屈辱が今後繰り返されるくらいならば,いっそ自害して果てようとも考えた祇王でしたが,母刀自の説得により自害は思いとどまり,出家の道を選ぶことになりました。
そうして母子3人入った寺が嵯峨の往生院の尼寺(後の祇王寺)でした。
旧祇王寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となりましたが,後に祇王の話に打たれた元京都府知事北垣国道氏が,自ら所有していた別荘を明治28年に寄付し,これが現在の祇王寺となったとのことです。
祇王寺の建物の中はそんなに大きくはありませんが,内部には鎌倉期に作られたとされる祇王,祇女,刀自,仏御前,そしてなぜか清盛の木像が安置されてありました。
旧祇王寺が廃されるときに,これらの木像は大覚寺によって保管され,滅失の危機を免れました。
祇王を愛する人々の心が木像を守り抜いたんでしょうね。
また,この建物の中には,CMでも使われたという有名な丸窓があります。
これらの写真も撮りたかったのですが,内部は撮影禁止だったためあきらめました
しかし,何よりも私の気を引いたのは,祇王寺の縁側に寝ころんでいた大きな白猫でした。
ずいぶん人慣れしているのか,近づいても全く動じることのないネコちゃん。
毛繕いに夢中で,「ほら~,こっちむけ~」と言っても無視されまくり…
結局こんな格好の姿しか写せず,うーん,ネコのくせに態度がでかいな~と思って内心むかついていましたが,後日,祇王寺の記事を載せられていた蒼葉月さんのブログ(「ゆるり,蒼葉月」)にコメントさせていただいた折,このネコちゃんが「まろみちゃん」というお名前を持つ,あまりお目にかかれないネコちゃんであることを教えていただき,逆にこのお姿を写真に収めることができただけでも幸いであったのかも,と思うようになりました
ちなみに,上記蒼葉月さんのブログでは,祇王寺の美しい風景写真もご覧になれますので,ぜひお立ち寄り下さい
さて,話を祇王に戻します。
平家物語巻一「祇王」の段は次のように閉められます。
「(祇王,祇女,刀自,仏の四人は)四人一所にこもりゐて,あさゆう仏前に花香をそなへ,余念なくねがひければ,遅速こそありけれ,四人あまども,皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば後白河の法皇の長講堂の過去帳にも,「祇王・祇女・仏・とぢらが尊霊」と,四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。」
これを読むと,祇王ら四人は皆この地で大往生を遂げたように読めます。
今回,冒頭に,祇王寺境内にある祇王らの墓の写真を貼付させていただいておりますが,この写真に写っている説明板には「右 清盛公供養塔 左 祇王祇女母刀自の墓」とあります。
これを見てふと疑問を感じた方はいないでしょうか。
そう,なぜここに仏御前の名前がないのでしょう?
私が気が付かなかっただけかもしれませんが,この地には,仏御前の墓と称される碑は見つかりませんでした。
この説明板の説明は,真実に基づくものか,それとも後世の人が勝手にそう語っていただけなのか,定かではありませんが,この祇王の一連の話は,仏が祇王らのあとを追って尼になり,皆同所で往生の素懐を遂げるところに悲しくも美しく,人の心を打つものがあると思われるところ,あえて後世の人たちが仏御前だけを無き者として祇王一家だけを祀ることは考えにくく,さらに寺内の木像は仏御前のものもちゃんと存在していることから,実のところ,仏はこの地では亡くなっていなかったため,この地に仏御前の墓と称されるものが存在しないのでは,との憶測が出てきます。
そして次回,このような見解に立った上で,加賀の地に伝わる仏御前の悲しい伝承についてコメントしていきたいと思います。
↑京都・嵯峨の祇王寺本堂
初秋に京都と加賀を旅してきたこともあり,今回から3回にかけて,平家物語にも特に有名な「祇王(ぎおう)」の段について,お粗末ながらお話しさせていただきたいと思います。
予定としては
第1回:祇王の物語の概要と祇王の故郷について
第2回:出家に至った祇王一家と祇王寺
第3回:仏御前の知られざる悲劇
という具合に進められたらなと思っております。
白拍子・祇王の悲話は,このブログを訪れている方であるならば,既に話の内容はご承知のはずと思われるので,今までのシリーズのように「ぴえる版めちゃ訳」は止めて,ホントに概要だけ申し上げます。
美人で舞上手な白拍子として名が高かった祇王と妹祇女(ぎにょ)は,当時の権力者平清盛の目に留まり,清盛の専属白拍子として,母刀自(とじ)とともに,清盛から手厚く保護されることになります。
あるとき,加賀出身の仏(ほとけ)と称する白拍子が,自分を売り込みに清盛の下を訪れますが,清盛は相手にしなかったところ,祇王は,はるばるここまで舞うためにやってきた仏を一度も舞わせずして帰すのは同じ白拍子として忍びないと進言し,仏は清盛の前で舞うことが適いました。
ところが清盛は仏の舞に心奪われ,逆に祇王一座はないがしろにされるようになりました。
世を儚んだ祇王親子は出家して嵯峨の往生院に籠もりました。
しばらくして,祇王らの庵を訪れる者がありました。
それは,まぎれもなく剃髪して尼になった仏の姿でした。
自らの存在により,結果的に祇王ら親子を不遇せしめてしまった罪を滅ぼすべく,仏もまた世俗を断ち切ることを決め,その後,祇王らと仏の4人一所に念仏の日々を送り,それぞれ往生の素懐を遂げました。
本当は,もっと細々とした心情変化や,平清盛のわがままぶりもあるのですが,これから少しずつお話ししていく中で,多少なりとも補足できたらと思います。
祇王の故郷はもともと近江国野洲(現・滋賀県野洲市)でした。
祇王の父は地元の庄司でしたが,一説では保元の乱で討死したとか,何らかの罪で北陸に流されたとか,少なくともある時点からは母子家庭になったことがうかがえます。
吉川英治氏の「新・平家物語」では,幼い祇王は人買いに売られてしまったりとひどい扱いをされたように書かれていましたが,それについてはここでは触れないことにします。
当時の白拍子とは,いわゆる遊女という立場ではなく,立派な職業集団の一つでした。
特に名だたる白拍子一座は,現在の宝塚なみの知名度があったのかもしれません。
祇王と祇女がいつから白拍子を習い始めたのかはわかりません。もしかすると母の刀自が若い頃白拍子を学んでいて,家族経営で独自路線を確立させていたのかもしれませんね。
ともあれ,それほど不自由のなかった庄司の家での生活から一転して,日々生きるために何らかの職を身につけねばならなくなったことには変わりがなく,そういったハングリー精神も彼女らの優れた芸能性の一助となったことは想像するに難くないものと思われます。
やがて祇王の一座の名が響き渡ると,それは当然権力者の耳にも入ることになります。
平清盛という日本一のパトロンを付けた祇王は,その報酬として,故郷・野洲の地の用水工事を清盛に進言します。
当時,祇王の故郷であった江部(辺)庄は水利の便が悪いところであったようで,庄民たちは,水が安定して供給されることを願って止みませんでした。
祇王は,清盛の保護の下での裕福な生活にあっても,故郷の人たちのことを忘れてはいなかったのですね。
そうして野洲川の湧き水から全長12キロに渡る用水路創られ,その用水路は現在でも妓王井川という名で野洲の町を流れています。
この野洲市には,祇王が住んでいたとされる屋敷跡や,祇王の死後,村人たちが仏御前を含め祇王ら4名を祀った「妓王寺」(京都の「祇王寺」と漢字が違うのがミソです。)などが残され,故郷のために貢献した祇王たちを愛する地元の人たちの思いが感じられます。
ちなみに,私は野洲市を訪れたことがないので,今後の旅行でのターゲットとしたいと思っています
今回はこの辺で一旦休憩。
次回,その後の祇王と祇王寺についてお話しします。
野洲市観光物産協会さんの妓王寺の案内はこちら
「平家物語の人物について」シリーズ
→「小督」
→「滝口入道と横笛」
アジを捌く際に,私はこれまで一般的に知られている「3枚おろし」で捌いていましたが,最近,もっと簡単に捌ける方法はないかとネットを調べていたら,ケンさんという方のホームページにおいて,漁師による捌き方が紹介されていました。
(詳しくはこちらから)
頭,皮はそのままに,中身のみ削ぎ落とす方法に,思わず「これだっ!!」とパソコン画面に釘付けになりました。
さっそく3匹228円でアジを購入しチャレンジ
なるほど,下手にいろんなところを切り落として3枚にするより全然ラクチンに捌けました!
久しぶりに作った「アジたた」。
3匹分だったので,山盛りになってしまいました…
スケート見ながら,酒とアジを堪能
うーん,美味いが一番!!
<本日の一句>
銀盤の妖精と鯵肴にし ぴえる
ちなみに,私が東慶寺を訪れると,必ず立ち寄るお墓があります。
上の写真のお墓がそうなのですが,これは,民法,とくに家族法の権威であった,知る人ぞ知る中川善之助教授の墓碑です。
家族法学の発展に一生を注がれてきた教授が,我が国の法的離婚制度の先駆けとなったこの東慶寺の地に眠ることを望んだのは,至極当然なことなのかもしれません。
それよりなにも,この墓碑の形。
これは単に本の形というより,教授が毎日のようにめくった六法全書を模したものなのでしょう。
あえてこの墓碑がどの辺にあるのかは申し上げませんが,墓地をくまなく探せばその形ゆえに簡単に見つかるでしょう。
生きてひとつのことにこだわり,死してなおそのこだわりを,数々の著作・論文だけでなくこのような形で残していった中川教授。
このお墓を訪れるたびに,そのような生き様に対する一種のうらやましさを感じてなりません
←東慶寺(その3)にもどる
仕事帰りに,家へのおみやげを買おうと新宿・小田急百貨店の地下をうろうろしていたところ,なんともまあ可愛らしいスイーツを発見!
明治記念館の菓子部門が独立した「菓乃実の杜」のテナント棚に並んでいた白熊たち「白くまレアチーズ」
耳はホワイトチョコ,目はチョコチップ,鼻はコーヒービーンズで装飾。
表面をレアチーズクリームで白く覆われたその中には,ラズベリーソースを包んだスポンジが隠されています。
単なる見かけ倒しかと,実は味の方にはあまり期待はしていなかったのですが,いざ食してみると,甘ったるいかと思いきや,全体的にさっぱりした味で,逆にラズベリーの酸味がチーズクリームといい感じに融合してGOODでした
以前,本ブログで紹介したコリラックマと白くまレアチーズの記念撮影
今後,見れそうで見れない貴重なコラボレートかも…
「東慶寺(その2)」からちょこっと間が空きましたが,しつこいようですが,また今秋に訪れた東慶寺について語らせていただきます。
前回,東慶寺における離縁の手続についてお話しさせていただきました。
ついでに,東慶寺に2年間(足かけ3年)留まることになった女性たちについて,もう少し考えてみます。
幕末には約500件(何年分かは不明)の駆け込みがあったと伝えられており,その大半は内済離縁として,女性は比較的時をおかず国元に帰ることとなったと思われますが,寺法離縁によりこの地に24ヶ月の逗留を余儀なくされた女性たちも少なからず存在したわけであり,さすがに彼女らをタダで足かけ3年も食わせていくことができるほど,お寺も裕福ではありません。
現在でいえば,児童相談所的な特別施設のようなものにあたるとなれば,彼女らはすくなくとも入所費用を負担しなければならず,国元から送金されればいいものの,そんな余裕のない家庭であるならば,寺内では収入の道も限られている以上,結局は出家し,尼となってこの寺にずっと残るしかなかったのかもしれません。
(実際はどうであったのかは知りませんが…)
そんな女性たちが数多生活していたこの東慶寺の境内で,石仏をひとつ見つけました。
観音様でしょうか?
古びてはいますが,小綺麗におわしますこの石仏も,理想と現実の狭間に苦悩した女性たちをずっと眺めてきたのでしょうか?
本堂や境内のお堂にも立派な秘密めいた観音様が安置されているのでしょうが,この石仏の方が,なんだかオープンで身近に話を聞いてくれるような感じがしました
<本日の一句>
秋の陽の縁切寺に笑む仏 ぴえる
本日の「その時歴史が動いた」では,「赤穂浪士」を題材に,討ち入りに参加組と不参加組に別れて,あなたならどちらの生き方を選ぶかという,視聴者参加型の番組内容でした。
以前,同様な視聴者参加型の「その時」で「平清盛」の人物像の通説と新説のどちらを選ぶかというものが放送されていましたが,そのときは申し訳ないですが,「なんだこの特集は!?」と番組構成に疑問を残しつつ,軽く流した気がしました。
今回は,自分が赤穂の人間と仮定して,自分なら主君の無念を晴らすため吉良邸に討ち入ったか,それとも残される家族らの行く末を考え討ち入りは思いとどまるか,といった非常に単純明快な選択であったため,生番組にも関わらず13万件を超えるアクセスがあり,司会の松平アナもなにげに驚いていました
さて,赤穂浪士の時代はまさに忠義が尊ばれる時代。
A社とB社が双方裁かれてしかるべきときに,A社だけが取りつぶされ,B社はなんらお咎めなしとされ,A社に勤務していた社員は全員,職を失うという状況。
さらに理不尽にもA社社長は腹を切らされる始末。
こんな状況に自分が置かれた場合,果たして黙っていられるでしょうか?
「生きてさえいれば」ということはたしかにあるかもしれません。
どんなに卑怯者,臆病者と言われ続けても,家族とともに生き長らえることができることの冥利に尽きるのも当然一理あるでしょう。
私がこの時代に生きて,妻子もなければ,たぶん討ち入りに参加しているでしょう。
浪人となり,生きる目標を失っていた折に,「義のための討ち入り」という武士としての名誉の舞台が与えられたのです。
どうせ生きていてもろくな人生は送れません。
太平洋戦争の際の意味のない特攻隊とは,赤穂浪士のケースは,その動機の重みにおいて全く訳が違うような気がします。
大石内蔵助が討ち入りを果たした後に「思い残すことはない」と語ったように,達成感と名誉を冥途の土産にできるのはある意味幸せなことなのかもしれません。
ただ,そのような名誉よりも大切な何かをみつけていたら,やはりそちらを優先し,世間の批判を浴びてでも生きることを選択するかもしれません。
番組を見ているうちに,今の自分は一体何を求めて生きているのだろうと,あらためて自分の存在意義についても考えさせられた気がしました。
↑高館の義経塚
前回の大河ドラマ「義経」がとうとう最終回を迎え,せっかくなので関連ネタをお話しします。
義経が藤原泰衡の手の者にかかり,最期を遂げたと伝えられる「高館」。
ちょうどJR平泉駅から中尊寺に向かう途中の小高い丘に位置するこの場所は,広大な北上川を見下ろせる絶景のスポットです。
(ただし,この日は雨降りで見通し悪し…)
鎌倉幕府の記録書「吾妻鏡」では,義経は「衣川館」に滞在していたとされており,それがこの高館なのかどうかは微妙で,考古学上諸説あるとのこと。
現在,この地にある義経堂は1683年に当時の仙台藩主伊達綱村が建立したものであるらしく,何らかの根拠をもってここを義経最期の地として認定したのかもしれませんが,それは当時の人たちしかわからないでしょう。
↑高館の義経堂
かの松尾芭蕉も,この地で「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだほど感慨深い名勝なので,できればゆっくり北上川の流れを見ながらのんびりしたかったのですが,この地を訪れた時間は,以前ブログに投稿しました須川温泉に行くためのインターバルに過ぎなかったため長居もできず,挙げ句の果てに,雨は降るは,観光客は来るはでゆっくり写真を撮ることもできず,義経堂の写真は思いっきりピンボケになってしまいました…
おまけにピンボケ写真を無理矢理画像修正したら,なんだか義経堂内の義経の木像から霊波動でも放出されているような写真に…
次に行くときは,季節を変えて,ゆっくりと絶景の高館を堪能したいと思います
<本日の一句>
高館や秋雨(しゅうう)に永くさらされて ぴえる
清水寺の森清範貫主が大筆をとって巨大色紙に書いた漢字は「愛」!
去年は災害続きで「災」の字だったなど,毎年毎年,あんまりよろしくなさそうな漢字ばかり続いていたような記憶がありますが,そのような中で今年の漢字に「愛」が選ばれたのは,人々の心が失われ沈んでいた世の中に何か明るいものが帰ってきたような,そんな気がしてなりません。
ただ,実際問題として,社会では愛を見失った人たちが,罪なき人たちを意味もなく殺したり…そのような胸の痛くなるような報道が連日続いています。
ニュースによれば,今年の漢字として「愛」を選ばれた背景として「愛・地球博」や「紀宮様ご成婚」などに起因していると分析していますが, そのようものは表向きだけ。
時代の中で本当の意味での人間愛を見失った我々の心が,知らず知らずのうちに愛を叫んでいた…そんな1年であったことが,今年の漢字となって現れたのではないでしょうか?
みなさんの今年は「愛」にふさわしい1年であったでしょうか?