もの言える自由裁判交流会ニュース no.12
響
♪伝える・つながる・広がる♪
控訴棄却 あ然とする不当判決
上告します!!
▼ 「もの言える自由」裁判控訴棄却
~「自分で判断し、行動できるカ」をめぐって~
2月18日(水)13時15分より、東京高等裁判所民事第12部(柳田幸三裁判長、大工強裁判官、花村良一裁判官)は「もの言える自由」裁判控訴審・判決を出しました。判決内容を読むと、地裁判決よりもさらに悪い、憲法に基づく判断を明らかにしない判決でした。あまりに不当な内容であるため、上告し最高裁判所の判断を求めることを決め、3月3日に上告手続をとりました。
2005年3月に前任校の卒業式で来賓紹介の際「おめでとうございます。色々な強制のもとであっても自分で判断し、行動できるカを磨いていって下さい」と言った一言が不適切だとして都教委に調査され「指導」処分を受けました。
これについて精神的苦痛を受けたとして2006年2月、東京都に対して損害賠償を提訴してから3年、昨年4月に控訴してから10ヶ月を経ました。東京都の教育行政による思想・言論弾圧の一端を表している問題と考え、正面から憲法問題として、言論・表現の自由(憲法21条)、思想・良心の自由(19条)などを侵害することを主張しました。
しかし東京高裁判決は、地裁判決の誤りを部分的に修正しただけで、「なぜ、憲法上の権利を侵害しないと判断したか」の理由を明らかにせずに、控訴棄却としました。週休日の私人としての発言について「校長の監督権限が及ぶ」というのも、法的な根拠すら示されていません。
「『強制』という書葉を使用することにより…本件施策をめぐる対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与えかねないことに照らして…」という判示には、そのような偏見を判決が追認してよいのか?!と驚かされました。
控訴審において控訴人側から提出した憲法学(中島徹教授)の意見書も、教育学(佐貫浩教授〉の意見書にも、東京高裁柳田裁判長らは、何ら答えていません。行政法学(高木光教授)の意見書についてもつまみ食いしたようなやり方で、「非権力的事実行為」という言葉だけは訂正したものの、「校長の監督権限」だと言い換えた結果、より悪い「何にでも校長の監督権限が及ぶ」かのような論理になっています。果たして裁判官はこれらの意見書をまともに読んだのだろうか?と疑わざるを得ないような判決文です。
裁判所が憲法に基づく判断を行うという本来の役割を果たしていないことが、都教委の人権侵害・言論弾圧を許し、教育の場を一層困難にしています。最高裁で、判断の「理由」を憲法に照らして答えて貰う必要があると考えています。
▼ 弁護団から
2009年2月18日に言渡しがなされた本件控訴審判決は、原判決を相当とし、控訴を棄却するという不当なものでした。
控訴審において、控訴人は、憲法学者・行政法学者・教育学者の意見書を提出し、主として、
①本件発言は、教育的な観点からみても、適切なものであること、
②本件指導等は、控訴人の表現の自由等憲法上の権利を侵害しており、違憲・違法であること、
③原判決は、非権力的事実行為という法概念を持ちだし広く権利侵害が許容されるとしたが、本件指導は、行政行為としても違法であり、指導を行った根拠も明らかにされておらず、指導の趣旨内容が明確に示されていないことからも違法であること
等を主張してきました。
しかしながら、控訴審は、控訴人が提示した疑問点・問題点に答えることなく、原判決を踏襲して、本件は憲法上の権利侵害が問題となっていることを全く看過した判決を下しました。
控訴審判決は、原判決が、本件指導を*「非権力的事実行為」と評した点については訂正したものの、「卒業式は・・学校行事であって、控訴人は、純然たる私人の立場で本件発言をしたものではなく、以前にT高校に勤務していた現職の教員としての立場において本件卒業式の式次第中の来賓挨拶の機会に本件発言をしたものであることに照らせば、本件発言については、監督権者である校長の所属職員に対する監督権限が及ぶものと認められる」とし、本件指導に至る一連の行為を許容しうるものと判示しています。
ここでは、なぜ控訴人の表現の自由等憲法上の権利が、「校長の監督権限」に基づき、制約しうるのか、何ら明らかに示されておらず、あたかも、現職教員であることをもって職務外における発言に対して広く制約を許容しかねない内容となっています。
この点を含め、控訴審判決は、卒業式におけるごく常識的な本件祝辞に対し何故制約しうるのか、納得のいく説明を何らなしえておらず、憲法学・行政法学・教育学いずれの観点からも、極めて不当な判決というべきものです。
上告審においては、本件が憲法問題であることをしっかりと受けとめ、適正な判断が下されるよう、弁護団としてもカを尽くしていきたいと思います。
▼ 原告より
裁判官が自分の裁判に提出された「意見書」を読まないことがあるようだ、という話を、人の噂で聞くことはあったのですが、半信半疑で、まさかそんな無責任なことをしないだろうと半分以上は思っていました。
しかし、2月18日(水〉に東京高等裁判所民事第12部(柳田幸三裁判長、大工強裁判官、花村良一裁判官)が「もの言える自由」裁判控訴審で出した判決を読むと、どう考えても控訴審で出した3つの意見書をまともに読んだとは思えないのです。憲法に基づく判断、根拠が明らかにされない判決でした。
同じ「不当判決」であったとしても、こちらと意見は違うが、「裁判官はこう判断した」というその判断が展開されているならまだしも、と思います。理由が多少とも書かれた部分は僅かで、ほとんどの部分はただ単に「当裁判所が採用しない見解に立脚するものであるから、いずれも採用できない。」と退けられてしまいました。こんな手抜きが許されるのか?!裁判官はこの仕事で給料を貰っている「プロ」であるはずなのに、と、怒りとあきれかえる気持ちが交差します。
例えば中島教授の意見書を普通に読んだら、「公務員の表現の自由とその限界」について、憲法に基づく判断を抜きにして、「校長の指導監督権限に基づく行為は、明白な法的根拠があり、かつ対象とする表現行為により重大な支障がある場合でないとできないものではないから、控訴人の主張は、…採用することができない」などと書けないと思います。
また「「強制」という言葉を使用することにより…本件施策をめぐる対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与えかねないことに照らして…」という下りを読むと、彼の「10・23通達」を出した都教委と同じレベルで、裁判所が「抵抗する教員」に対する偏見を抱いていると思わざるを得ません。
佐貫教授の意見書に書かれた「本件挨拶の教育的価値について」:「表現の自由の回復は…子どもが人間の尊厳と主体性を持って生きるために不可欠な課題であり」等の意見を裁判官が検討した形跡が判決には見られません。
第3回ロ頭弁論で結審となったとき、3人の証人(井出元指導部長、本件卒業式に出席していた元生徒、原告本人)を原告側から申請していたのに全て認めなかった柳田裁判長他東京高裁民事第12部の姿勢から、敗訴を予想しました。
控訴審の判決内容は、地裁のあの篠原判決よりもさらに悪い内容でした。教育の場がどうなっているのかを知らない裁判官が、「教育」を視野の根本に据えることは難しいのかもしれないとも感じました。
裁判官が東京都教育委員会による教育の場での人権侵害にむしろお墨付きを与えるような事態となっていることに対して、一体どういう切り口からなら裁判官に事態を理解させられるのか、わからない、という気侍ちになりました。
東京都の教育の場の言論の自由の失われていること、「もの言えば唇寒し」と何事にも口を閉ざす雰囲気は、目に見えないところで「あきらめ」を蔓延させて、人間の尊厳を足下から切り崩す状況になっています。私自身、地裁・高裁のこれほどまでの行政追随を目の当たりにして、この裁判をあきらめかけました。しかし今は、最高裁に、本当にこんな高裁判決・地裁判決で良いのかを、問いたい、最高裁で、判断の「理由」を憲法に照らして答えて貰うまで、問い続けたいと考えます。
皆様に支えられて、控訴審判決まで来ましたが、引き続きご支援いただきますよう、よろしくお願い致します。
<「もの言える自由」裁判交流会ニュース>
2009年3月23日発行 NO.12
事務局連絡先 080-3084-9477
郵便振替口座 00150-4一261078
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▼ 「もの言える自由」裁判控訴棄却
~「自分で判断し、行動できるカ」をめぐって~
2月18日(水)13時15分より、東京高等裁判所民事第12部(柳田幸三裁判長、大工強裁判官、花村良一裁判官)は「もの言える自由」裁判控訴審・判決を出しました。判決内容を読むと、地裁判決よりもさらに悪い、憲法に基づく判断を明らかにしない判決でした。あまりに不当な内容であるため、上告し最高裁判所の判断を求めることを決め、3月3日に上告手続をとりました。
2005年3月に前任校の卒業式で来賓紹介の際「おめでとうございます。色々な強制のもとであっても自分で判断し、行動できるカを磨いていって下さい」と言った一言が不適切だとして都教委に調査され「指導」処分を受けました。
これについて精神的苦痛を受けたとして2006年2月、東京都に対して損害賠償を提訴してから3年、昨年4月に控訴してから10ヶ月を経ました。東京都の教育行政による思想・言論弾圧の一端を表している問題と考え、正面から憲法問題として、言論・表現の自由(憲法21条)、思想・良心の自由(19条)などを侵害することを主張しました。
しかし東京高裁判決は、地裁判決の誤りを部分的に修正しただけで、「なぜ、憲法上の権利を侵害しないと判断したか」の理由を明らかにせずに、控訴棄却としました。週休日の私人としての発言について「校長の監督権限が及ぶ」というのも、法的な根拠すら示されていません。
「『強制』という書葉を使用することにより…本件施策をめぐる対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与えかねないことに照らして…」という判示には、そのような偏見を判決が追認してよいのか?!と驚かされました。
控訴審において控訴人側から提出した憲法学(中島徹教授)の意見書も、教育学(佐貫浩教授〉の意見書にも、東京高裁柳田裁判長らは、何ら答えていません。行政法学(高木光教授)の意見書についてもつまみ食いしたようなやり方で、「非権力的事実行為」という言葉だけは訂正したものの、「校長の監督権限」だと言い換えた結果、より悪い「何にでも校長の監督権限が及ぶ」かのような論理になっています。果たして裁判官はこれらの意見書をまともに読んだのだろうか?と疑わざるを得ないような判決文です。
裁判所が憲法に基づく判断を行うという本来の役割を果たしていないことが、都教委の人権侵害・言論弾圧を許し、教育の場を一層困難にしています。最高裁で、判断の「理由」を憲法に照らして答えて貰う必要があると考えています。
▼ 弁護団から
2009年2月18日に言渡しがなされた本件控訴審判決は、原判決を相当とし、控訴を棄却するという不当なものでした。
控訴審において、控訴人は、憲法学者・行政法学者・教育学者の意見書を提出し、主として、
①本件発言は、教育的な観点からみても、適切なものであること、
②本件指導等は、控訴人の表現の自由等憲法上の権利を侵害しており、違憲・違法であること、
③原判決は、非権力的事実行為という法概念を持ちだし広く権利侵害が許容されるとしたが、本件指導は、行政行為としても違法であり、指導を行った根拠も明らかにされておらず、指導の趣旨内容が明確に示されていないことからも違法であること
等を主張してきました。
しかしながら、控訴審は、控訴人が提示した疑問点・問題点に答えることなく、原判決を踏襲して、本件は憲法上の権利侵害が問題となっていることを全く看過した判決を下しました。
控訴審判決は、原判決が、本件指導を*「非権力的事実行為」と評した点については訂正したものの、「卒業式は・・学校行事であって、控訴人は、純然たる私人の立場で本件発言をしたものではなく、以前にT高校に勤務していた現職の教員としての立場において本件卒業式の式次第中の来賓挨拶の機会に本件発言をしたものであることに照らせば、本件発言については、監督権者である校長の所属職員に対する監督権限が及ぶものと認められる」とし、本件指導に至る一連の行為を許容しうるものと判示しています。
ここでは、なぜ控訴人の表現の自由等憲法上の権利が、「校長の監督権限」に基づき、制約しうるのか、何ら明らかに示されておらず、あたかも、現職教員であることをもって職務外における発言に対して広く制約を許容しかねない内容となっています。
この点を含め、控訴審判決は、卒業式におけるごく常識的な本件祝辞に対し何故制約しうるのか、納得のいく説明を何らなしえておらず、憲法学・行政法学・教育学いずれの観点からも、極めて不当な判決というべきものです。
上告審においては、本件が憲法問題であることをしっかりと受けとめ、適正な判断が下されるよう、弁護団としてもカを尽くしていきたいと思います。
▼ 原告より
池田幹子
裁判官が自分の裁判に提出された「意見書」を読まないことがあるようだ、という話を、人の噂で聞くことはあったのですが、半信半疑で、まさかそんな無責任なことをしないだろうと半分以上は思っていました。
しかし、2月18日(水〉に東京高等裁判所民事第12部(柳田幸三裁判長、大工強裁判官、花村良一裁判官)が「もの言える自由」裁判控訴審で出した判決を読むと、どう考えても控訴審で出した3つの意見書をまともに読んだとは思えないのです。憲法に基づく判断、根拠が明らかにされない判決でした。
同じ「不当判決」であったとしても、こちらと意見は違うが、「裁判官はこう判断した」というその判断が展開されているならまだしも、と思います。理由が多少とも書かれた部分は僅かで、ほとんどの部分はただ単に「当裁判所が採用しない見解に立脚するものであるから、いずれも採用できない。」と退けられてしまいました。こんな手抜きが許されるのか?!裁判官はこの仕事で給料を貰っている「プロ」であるはずなのに、と、怒りとあきれかえる気持ちが交差します。
例えば中島教授の意見書を普通に読んだら、「公務員の表現の自由とその限界」について、憲法に基づく判断を抜きにして、「校長の指導監督権限に基づく行為は、明白な法的根拠があり、かつ対象とする表現行為により重大な支障がある場合でないとできないものではないから、控訴人の主張は、…採用することができない」などと書けないと思います。
また「「強制」という言葉を使用することにより…本件施策をめぐる対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与えかねないことに照らして…」という下りを読むと、彼の「10・23通達」を出した都教委と同じレベルで、裁判所が「抵抗する教員」に対する偏見を抱いていると思わざるを得ません。
佐貫教授の意見書に書かれた「本件挨拶の教育的価値について」:「表現の自由の回復は…子どもが人間の尊厳と主体性を持って生きるために不可欠な課題であり」等の意見を裁判官が検討した形跡が判決には見られません。
第3回ロ頭弁論で結審となったとき、3人の証人(井出元指導部長、本件卒業式に出席していた元生徒、原告本人)を原告側から申請していたのに全て認めなかった柳田裁判長他東京高裁民事第12部の姿勢から、敗訴を予想しました。
控訴審の判決内容は、地裁のあの篠原判決よりもさらに悪い内容でした。教育の場がどうなっているのかを知らない裁判官が、「教育」を視野の根本に据えることは難しいのかもしれないとも感じました。
裁判官が東京都教育委員会による教育の場での人権侵害にむしろお墨付きを与えるような事態となっていることに対して、一体どういう切り口からなら裁判官に事態を理解させられるのか、わからない、という気侍ちになりました。
東京都の教育の場の言論の自由の失われていること、「もの言えば唇寒し」と何事にも口を閉ざす雰囲気は、目に見えないところで「あきらめ」を蔓延させて、人間の尊厳を足下から切り崩す状況になっています。私自身、地裁・高裁のこれほどまでの行政追随を目の当たりにして、この裁判をあきらめかけました。しかし今は、最高裁に、本当にこんな高裁判決・地裁判決で良いのかを、問いたい、最高裁で、判断の「理由」を憲法に照らして答えて貰うまで、問い続けたいと考えます。
皆様に支えられて、控訴審判決まで来ましたが、引き続きご支援いただきますよう、よろしくお願い致します。
<「もの言える自由」裁判交流会ニュース>
2009年3月23日発行 NO.12
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