=2021年7・18集会=
◆ 「君が代」強制と命の軽視
「君が代」強制は、天皇制を国体とした時代と変わっていないことを示しています。権力に従うことを「わきまえない」人をあぶり出し、処分し、「従順な臣民」教育を推し進めようとしているのでしょう。日本国憲法の「主権在民(国民主権)」「基本的人権」は空しくなっています。
国家権力が、私から「自由」や「権利」を奪おうとするから闘うのですが、それは、憲法を尊重し擁護する公務員の義務でもあります(憲法99条)。また、そういう生き方をすることが教育公務員の立場であるとも思います。子どもに対する教員としての責任の果たし方だと思うのです。
◆ 強制に反対する行為
2001年2月、大阪府立高校の卒業式で「君が代」のテープが流れだした時、正面のマイクの前に立ち、このように呼びかけました。
「式での君が代斉唱は『思想及び良心の自由』の侵害です。君が代を歌うこと自体に抵抗はないと言われる方も着席してください。国会でも、難しい事を学校現場に、なぜ押しつけるのか。大人は責任ある行動をすべきです。」
美術室廊下に手製ポスタ―掲示をしました。
戦争プロパガンダのポスターや広告等の紹介と、「標語(言葉)、マーク(旗等)、シンボル(象徴)に注意しよう」という呼びかけです。
美術の授業やHRでは、戦争と芸術や思想良心の自由などについて、話ました。また卒業式後、美術室準備室で卒業生と、「国歌斉唱」についてどう思うか等話し合うことができました。
1年後出た処分は、口頭厳重注意でした。
養護学校に転勤して、不起立で3回懲戒処分を受けましたが、高校でのようにこのことを生徒と話し合う事はほとんどできませんでした。
2006年当時、養護学校職場で「国歌」の強制はいけないという認識で「国歌」の演奏が終わってから2度目の入場を認めていました。
2012年に起立斉唱しなかったら処分という職務命令が出るまでは、起立する教員はほとんどいませんでした。
また「国歌」の時は立っても、続けてある「校歌」の時は着席し、立てない生徒に寄り添うことを当たり前にしていました。
2013年の処分は、肢体不自由や重複の障害を持つ生徒が式場内に居て介助などが必要なので、私は受付の業務が終わった後式場に入ったのですが、「不起立」に加え、受付を勝手に離れたことと前年も不起立だったことをもって減給処分にされました。
最高裁上告で棄却され処分取り消しはできませんでした。
しかし、人事委員会での闘いが残っています。
新型コロナで遅れましたが、8月19日(木)に公開口頭審理が行われ、申立人が意見陳述します(30分)。処分者、人事委員、人事委員会職員の心に「この処分は学校教育を殺す」ということを伝えたいと思います。
2015年の処分は、免職警告書付き戒告処分です。
私は卒業学年の主任であり卒業式を滞りなく進める責任がありました。また、担任をしていた生徒は車いす使用で疲れや緊張など精神的な動揺から発作を起こしやすかったのです。
その生徒の横で「国歌」の時も座って寄り添うべきというのは、私が座るための方便ではなく、3年間担任をしてきての判断で、そうすることによって発作の可能性を低くし、最後まで主体的に式に臨み、介助歩行で卒業諸所を上取り介助歩行で退場したいと考えたのです。
そういう計画を管理職に伝え、支援教育課の意見も聞いたりしました。生徒は前々日自宅で大きな発作を起こし、当日朝も小さな発作を起こしていました。しかし配慮して対応し元気に卒業式に参加できました。
式までに管理職と何回も話をしましたが、管理職は「横で座っていないと発作を起こす証拠を出せ。」「いっときでも目を離すと命に係わるのなら横で座っていることを認める。」と言って、私の教育意図を理解しませんでした。
生徒に日常の授業でいろいろな経験をさせるために小さな発作は仕方ないというのは保護者や主治医とも共有している考えでした。休ませて次の時間か翌日にその内容をすればいいのですから。
しかし卒業式はやり直しできません。合理的配慮に関わる判断の着席なのに、そこの争点がスルーされたまま昨年末人事委員会裁決が出ました。
この5月10日に大阪地裁に提訴し、6月28日の第1回期日で意見陳述をしました。8月末に府教委の反論が出て第2回期日は9月8日です。
現場の人間であるべき校長や准校長(管理職)が、生徒や教職員のこと、教育のことを考えていません。
昨年の全国一斉休校の時に、文科省は首相に反論せず、教育委員会も言い返さず、校長も意見を返さず、現場の意見を聞かずに、保護者や子どもの都合も考えずに、週末の首相発表をそのまま受け入れ翌週初めから実行しました。
学校現場では、職員会議が質問や意見を出し合い問題解決していこうという場ではなくなっていて、校長の決定で進められていきました。
特別支援学校の教職員の業務は増えています。
給食の配膳、片付けは教員がする。
摂食介助は手袋をしマスクを換える。
医療的介助の都度、手袋だけでなくエプロンも換える。
生徒が下校後、次亜塩素酸水で教室の消毒をしなければなりません。
飛沫感染を防ぐために歯磨きをしていないのですが、6月21日以後、プール指導が始まりました(兵庫では水泳中止の学校もあります)。支援学校ではマスクをすぐ外してしまう児童生徒が多くいます。プール時の更衣介助がとても空間密で身体も密着してしまいます。
マスクをしない人との接触が多い職種は優先的にワクチン接種をしようという自治体があります。ケアマネジャー、介護福祉関係、保育士、特別支援学校の教職員などです。
大阪では6月14日にやっと支援学校教職員対象の計画が発表され、希望者は6月27日から始まりました。支援学校以外の学校はまだ優先されていません。オリンピックで感染がさらに広がれば、学校はどうなるのでしょうか。
「君が代」強制に現れた教育無視の在り方は、命の軽視ともつながっていますし、更に感染症対策では大人が自己本位の考え方で、教育を忘れた狭い視野でしか見ていないことを表していると思います。
※ 合理的配慮とは
障害者が他の者との平等基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものである。
かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものとする。(障害者権利条約第2条より)
大阪府は障がい者への合理的配慮に関してHPにおいて『大阪府における障がい者が必要とする社会的障壁の除去のための配慮や工夫の事例について』として、公表しています。その一部を紹介します。
私たちは、多様なサービスや社会的インフラ、権利行使の機会を様々な場面で利用しながら、日常生活や社会生活を営んでいます。しかし、これらが障がい者には利用できない形でしか提供されないと、日常生活や社会生活から排除されることになってしまいます。
これまでは、ともすれば、障がい者の機能障がいの克服の努力に関心が寄せられがちでしたが、今後は、障がいの有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、一人ひとりが、障がい者の自立や社会参加を妨げている「社会的障壁」を除去するための「合理的配慮」に取組んでいくことが求められます。
・配慮や工夫に決まったやり方はなく、障がい者の視点を取り入れつつ、それぞれの実情に応じた創意工夫、柔軟な対応を講じていくことが不可欠と考えられます。
・個々の子どもがその特性を踏まえて授業の中で活躍できる場面づくりをしている。
・運動会や卒業式等各行事での子どもの位置付けを全員で確認し、ルールや参加のための配慮について検討するようにしている。
◆ 「君が代」強制と命の軽視
奥野泰孝(大阪府支援学校・再任用教員)
「君が代」強制は、天皇制を国体とした時代と変わっていないことを示しています。権力に従うことを「わきまえない」人をあぶり出し、処分し、「従順な臣民」教育を推し進めようとしているのでしょう。日本国憲法の「主権在民(国民主権)」「基本的人権」は空しくなっています。
国家権力が、私から「自由」や「権利」を奪おうとするから闘うのですが、それは、憲法を尊重し擁護する公務員の義務でもあります(憲法99条)。また、そういう生き方をすることが教育公務員の立場であるとも思います。子どもに対する教員としての責任の果たし方だと思うのです。
◆ 強制に反対する行為
2001年2月、大阪府立高校の卒業式で「君が代」のテープが流れだした時、正面のマイクの前に立ち、このように呼びかけました。
「式での君が代斉唱は『思想及び良心の自由』の侵害です。君が代を歌うこと自体に抵抗はないと言われる方も着席してください。国会でも、難しい事を学校現場に、なぜ押しつけるのか。大人は責任ある行動をすべきです。」
美術室廊下に手製ポスタ―掲示をしました。
戦争プロパガンダのポスターや広告等の紹介と、「標語(言葉)、マーク(旗等)、シンボル(象徴)に注意しよう」という呼びかけです。
美術の授業やHRでは、戦争と芸術や思想良心の自由などについて、話ました。また卒業式後、美術室準備室で卒業生と、「国歌斉唱」についてどう思うか等話し合うことができました。
1年後出た処分は、口頭厳重注意でした。
養護学校に転勤して、不起立で3回懲戒処分を受けましたが、高校でのようにこのことを生徒と話し合う事はほとんどできませんでした。
2006年当時、養護学校職場で「国歌」の強制はいけないという認識で「国歌」の演奏が終わってから2度目の入場を認めていました。
2012年に起立斉唱しなかったら処分という職務命令が出るまでは、起立する教員はほとんどいませんでした。
また「国歌」の時は立っても、続けてある「校歌」の時は着席し、立てない生徒に寄り添うことを当たり前にしていました。
2013年の処分は、肢体不自由や重複の障害を持つ生徒が式場内に居て介助などが必要なので、私は受付の業務が終わった後式場に入ったのですが、「不起立」に加え、受付を勝手に離れたことと前年も不起立だったことをもって減給処分にされました。
最高裁上告で棄却され処分取り消しはできませんでした。
しかし、人事委員会での闘いが残っています。
新型コロナで遅れましたが、8月19日(木)に公開口頭審理が行われ、申立人が意見陳述します(30分)。処分者、人事委員、人事委員会職員の心に「この処分は学校教育を殺す」ということを伝えたいと思います。
2015年の処分は、免職警告書付き戒告処分です。
私は卒業学年の主任であり卒業式を滞りなく進める責任がありました。また、担任をしていた生徒は車いす使用で疲れや緊張など精神的な動揺から発作を起こしやすかったのです。
その生徒の横で「国歌」の時も座って寄り添うべきというのは、私が座るための方便ではなく、3年間担任をしてきての判断で、そうすることによって発作の可能性を低くし、最後まで主体的に式に臨み、介助歩行で卒業諸所を上取り介助歩行で退場したいと考えたのです。
そういう計画を管理職に伝え、支援教育課の意見も聞いたりしました。生徒は前々日自宅で大きな発作を起こし、当日朝も小さな発作を起こしていました。しかし配慮して対応し元気に卒業式に参加できました。
式までに管理職と何回も話をしましたが、管理職は「横で座っていないと発作を起こす証拠を出せ。」「いっときでも目を離すと命に係わるのなら横で座っていることを認める。」と言って、私の教育意図を理解しませんでした。
生徒に日常の授業でいろいろな経験をさせるために小さな発作は仕方ないというのは保護者や主治医とも共有している考えでした。休ませて次の時間か翌日にその内容をすればいいのですから。
しかし卒業式はやり直しできません。合理的配慮に関わる判断の着席なのに、そこの争点がスルーされたまま昨年末人事委員会裁決が出ました。
この5月10日に大阪地裁に提訴し、6月28日の第1回期日で意見陳述をしました。8月末に府教委の反論が出て第2回期日は9月8日です。
現場の人間であるべき校長や准校長(管理職)が、生徒や教職員のこと、教育のことを考えていません。
昨年の全国一斉休校の時に、文科省は首相に反論せず、教育委員会も言い返さず、校長も意見を返さず、現場の意見を聞かずに、保護者や子どもの都合も考えずに、週末の首相発表をそのまま受け入れ翌週初めから実行しました。
学校現場では、職員会議が質問や意見を出し合い問題解決していこうという場ではなくなっていて、校長の決定で進められていきました。
特別支援学校の教職員の業務は増えています。
給食の配膳、片付けは教員がする。
摂食介助は手袋をしマスクを換える。
医療的介助の都度、手袋だけでなくエプロンも換える。
生徒が下校後、次亜塩素酸水で教室の消毒をしなければなりません。
飛沫感染を防ぐために歯磨きをしていないのですが、6月21日以後、プール指導が始まりました(兵庫では水泳中止の学校もあります)。支援学校ではマスクをすぐ外してしまう児童生徒が多くいます。プール時の更衣介助がとても空間密で身体も密着してしまいます。
マスクをしない人との接触が多い職種は優先的にワクチン接種をしようという自治体があります。ケアマネジャー、介護福祉関係、保育士、特別支援学校の教職員などです。
大阪では6月14日にやっと支援学校教職員対象の計画が発表され、希望者は6月27日から始まりました。支援学校以外の学校はまだ優先されていません。オリンピックで感染がさらに広がれば、学校はどうなるのでしょうか。
「君が代」強制に現れた教育無視の在り方は、命の軽視ともつながっていますし、更に感染症対策では大人が自己本位の考え方で、教育を忘れた狭い視野でしか見ていないことを表していると思います。
※ 合理的配慮とは
障害者が他の者との平等基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものである。
かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものとする。(障害者権利条約第2条より)
大阪府は障がい者への合理的配慮に関してHPにおいて『大阪府における障がい者が必要とする社会的障壁の除去のための配慮や工夫の事例について』として、公表しています。その一部を紹介します。
私たちは、多様なサービスや社会的インフラ、権利行使の機会を様々な場面で利用しながら、日常生活や社会生活を営んでいます。しかし、これらが障がい者には利用できない形でしか提供されないと、日常生活や社会生活から排除されることになってしまいます。
これまでは、ともすれば、障がい者の機能障がいの克服の努力に関心が寄せられがちでしたが、今後は、障がいの有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、一人ひとりが、障がい者の自立や社会参加を妨げている「社会的障壁」を除去するための「合理的配慮」に取組んでいくことが求められます。
・配慮や工夫に決まったやり方はなく、障がい者の視点を取り入れつつ、それぞれの実情に応じた創意工夫、柔軟な対応を講じていくことが不可欠と考えられます。
・個々の子どもがその特性を踏まえて授業の中で活躍できる場面づくりをしている。
・運動会や卒業式等各行事での子どもの位置付けを全員で確認し、ルールや参加のための配慮について検討するようにしている。
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