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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

60年目の夏

2009年09月07日 | 藤田の部屋
 <板橋高校卒業式> 杜撰きわまりない高裁判決!
 ☆☆ 偽証を見抜けない高裁判事は辞職せよ! ☆☆
 ★ 第3回最高裁要請行動 9月8日(火)9時45分東門(国立劇場並び)集合 ★

 ■ 「最高裁に公正な判決を求める署名用紙」ダウンロード ↓ (PDFファイル)
http://www.sirobara.jp/090303fujita-syomei.pdf


「満月」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》

 ◎ 60年目の夏
藤田勝久

 1949年7月15日、午後8時23分ころ、三鷹駅に無人暴走電車が突入、死者6名、20名近くが重軽傷を負うという大惨事が発生した。
 今年は、その三鷹事件から「60年目の夏」である。
 単独犯行とされた竹内景助氏は、死刑囚として服役中、1967年1月18日、何らの治療も受けず、獄中病死に至る。
 「くやしいよ一」と語ったのが、彼の最期の言葉であったと伝えられている。

 秋田の農村詩人、押切順三はその詩の中で、「若い父であった」、「彼はその庭木(沈丁花)を愛した」と彼を詠う(*)
 結婚し、子供が5人いたといわれる28歳の非共産党員、彼にして、犯行の動機はまったくない。
 連日、酷い時は20時間にもおよぶ自白の強要、検事は「でっちあげるのはわけはない」と広言する。
 他の9名の被告の弁護士の一人は、「君の単独犯行ということにしてくれ」と教唆する。「せいぜい10年で済むだろうし、共産革命が起こった暁には、真っ先に釈放され、党の高いポストにつけるというものだ」
 60年目の今年の夏、8月14日、共同通信は次のような記事を配信した。
 「三鷹事件、元死刑囚の自白経緯、詳述書簡が石巻文化センター書庫で大石進氏によって発見された」
 一単独犯行を主張する周囲の弁護士の中で孤立していた、故布施辰治弁護士宛の書簡である一
 「私まで否認したら(裁判所が)全被告を有罪にし、自分も憎まれて極刑にされるかもしれない、などと自白に至った心情や経緯が記されている」

 捜査段階で別の弁護士に、「認めて情状を酌んでもらった方がいいと思う」と促されたと書かれている。
 「(具体的な供述は)新聞記事や検事の示唆、誘導の言葉中に出たものを暗記して述べた」ともある。かくして、公判において彼は、カメラに照射されながら、「私の単独犯行である」と陳述する。
 「自分がやったことにすれば、(国鉄の)仲間を救える一」と考えて。

 この事件の公判の推移は、今振り返ってもまことに異様である。
 惨事によって停電となった最中、彼は職場の風呂に入っていた。そのアリバイを証言するべき二人の同僚、風呂の中で話を交わしていた二人は召喚されていない。
 党員の被告のひとりは、竹内景助にこう言ったという。
 「あんたもやっていないのなら、やってないと言っていいんだよ」と。
 これはあまりにも理不尽であろう。拷問まがいの取り調べの中で自供に至った経過は、みなその渦中で知っているのだ。彼我ともに無罪であることも。
 「ともに断固無罪を主張して、ともにたたかおう」と言うべきではないのか。

 1年後の、1950.8.11、一審、東京地裁、無期懲役。
 二審は公判を開かず、1951.3.30、東京高裁、死刑判決。
 上告審も口頭弁論を許さず、1955.6.22、最高裁、上告棄却。
 被告が公開の法廷で、一審の供述を翻し、「私はやってない」と発言することを封殺したのである。
 この棄却は、最高裁裁判官15人において、8対7の一票差の決定であった。
 差し戻されて真っ当な審理が行われていたら、そこで本人が無罪を主張したら、十分他の9名と同様、無罪判決の可能性があったと思われる。
 現に1966年には、高裁からの再審の動きがあった。

 のちに彼は月刊誌に寄稿している。
 「まずいものは先に食べて、おいしいものは後にとっておくという自分の性格が災いして、今の死刑囚という立場を得てしまった」と。
 彼に、「党の高いポスト」というおいしいものを示唆した弁護士も、彼が助けて無罪となった他の被告も、上告が棄却され死刑が確定された後は誰も面会に来なかったという。
 彼もまた、時代に痛撃され、「革命幻想」の陥穽に落ち込んだ人の一人でもあったが、幻想を振りまいた者の責任は重い。
 「党」、「党員」を守るために、他を死刑囚としたものの責任は今日においても問われてしかるべきである。
 警察、検察、裁判官は犯罪者であり、「人殺し」である。裁判所とは、犯罪を裁く場であるとともに、犯罪を生産する場でもある。
 その意に沿って煽って商売の具とするメディアもまた犯罪者であろう。

 現在、裁判員制度なるものが行われている。
 3日とか5日とかの審理で人を処刑台に、獄中に送ろうとしている。その一事をもってしても、裁判員は有罪、無罪の認定において、「無罪」に一票を投じねばならない。たとえ本人が罪を認めていたとしてもだ。
 自分以外の5人の裁判員のうち4人を説得できれば、無罪を勝ち取れる。
 裁判官は日ごろ検事の供応をうけており、検察、裁判官は一体である。時に、弁護士もまたこれら同期、同窓生の輪に入る。
 刑事事件の有罪率が99.98%前後という現状において、彼らを信用することは間違いである。
 検察、裁判官の仮面の下の醜悪さに一切染まぬ覚悟のない者は、裁判に参加する資格はない。その覚悟がなければ、彼らの「人殺し」、「冤罪」の責任の防波堤として利用されるだけである。
 「有罪」とし「死刑」を認定することは、絞首の綱を引く行為である。「人殺し」である。民衆に「人殺し」をさせるのが、この裁判員制度である。
 「赤紙」一枚をもって民衆を戦場に投じ、「敵」と思い込ませた人間を殺傷させる行為と、それは同じである。
 面倒を嫌う金持ちは10万円の罰金を払えばこの苦役から免除される。
 金なき者は、徹底して検察、裁判官の思惑に反対する覚悟をもって裁判所に出頭せよ。
 繰り返し言うが、その覚悟なき者は、罪なき者の多くを殺し、監禁、幽閉、病死させている現行の検事、裁判官の手先となるということである。
 竹内景助氏の絶句、「くやしいよ一」に込められた万感の思いをわがものとしなければ、私たちはなにも人生から学んでいないということになろう。
 * 沈丁花
押切順三

   竹内景助は死んだ、
   窓を明るくだ、
   わからぬのか!
   もっと窓を明るくだ。
   若い父であった、
   庭に一本の沈丁花があった
   春はやく枝の先々に花がつく、
   彼はその庭木を愛した。
   体をかがめて
   頭をたたいて、
   窓をもっと明るくだ!
   竹内景助は陸橋をわたる、
   からりと晴れた日本の夏の
   たそがれであった
   湯あがりのいい気分だ、
   見おろす線路と
   書き割りみたいな家並が
   暮色に沈んで夜となった、
   そのまま夜となった。
   遠い、遠い
   日本の空は遠く
   あ、あ、あ
   お、お
   ことばも失って
   竹内景助は死んだ。
   壁の中で死んだ。
   庭に一本の沈丁花があって、
   やさしいかおりの
   やがて春か。
一九六七年五月・コスモス第三次一四号

 『藤田先生を応援する会 通信』(第36号 2009/8/31)より
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