《河合薫の新・リーダー術》
◆ 「人の価値もカネ次第?」 格差を肯定する人々の不気味
~人生に充足感をもたらす価値は人によって異なることを再認識しよう
先日、あるテレビ番組で政治家の方たちとご一緒する機会があった。理由は言うまでもない。今や永田町の最大の関心事である政局。その政局をテーマとした番組だったからだ。
「次の与党は?」「次の首相は?」──。話題もお決まりのものばかり。少しばかりいつもと違うことといえば、「維新の会がどうなるか」という話題が加わったぐらいだった。
で、番組の終了後にも、やはりその話が続いた。
「やっぱりね、世界ともっと競争していかなきゃ、ダメなんですよ」
維新の会のブレーンとして知られている某氏は、「世界」「競争」という言葉を何度も何度も繰り返した。
そこで私も、「国内でも、もっと競争社会にした方がいいってことですか?」と聞いてみた(愚問と言われればそれまでだが…)。
「もちろん。競争させなきゃ、日本はどんどんダメになるでしょ」と某氏。
「競争するってことは、格差が広がるってことですよね?」と再び愚問。
「おいおい、今さらそんなことを聞いてどうするんだ!」とおしかりを受けそうではあるが、東京にいると大阪で発せられているものの空気がよく分からなかったりもする。とにもかくにも、直接確かめたくなってしまったのだ。
「この女、何を分かりきったことを聞いてるんだ?」と某氏が思ったかどうかは分からないが、彼は「もちろん。そういうことです」と即答した。何のためらいもなく即答したのである。
◆ 格差社会をためらいなく肯定する違和感
ううむ、何だかなぁ。当然と言っちゃあ当然の答えなのだが、競争社会についても格差社会についても、面と向かって肯定されると、その言葉の重みが急激に増してくる。
そこで、周りにいたスタッフに念のため確認してみた。「そのことって、当然、大阪の人って……分かっているんですよね? そのつまり……。格差が広がるってことを分かっていても、多くの人が橋下さんを支持しているってことですか」と。
すると、周りのスタッフたちもまた、全くためらうことなく次のように即答したのだ。
「分かっていると思う。橋下さんはこっち(大阪)では何度も言ってるから、十分に分かっていますよ」
競争社会、ね。
確かに、どんな世界であっても、生きている限り誰かと競争しなくてはならない場面は当然ある。受験だってそうだ。就職試験だってそうだし、異性をゲットするのにだって多少なりとも、競争は存在する。
でも、どういうわけか、「競争しなきゃダメ」と言われると、何だかひるむ。「競争しなきゃ、負けるんだよ。そこで負けていく奴は、頑張りが足りないんだよ」と無理やり尻をたたかれているような気がして、気分がド~ンと滅入ってしまうのだ。
現代においては、確かに「グローバリゼーション」と呼ばれる、世界的規模の大競争が広がっている。「その競争に勝たねば、国はやせ細っていくのだよ。それでもいいのかね?」と言って、国の勝ち負けにこだわる人たちの懸念も理解できる。
だが、そもそもグローバリゼーションは経済の話であり、市場で起きていること。ところが、「グローバル人材」などといったフレーズとともに私たちの働き方にまで浸透してきた。さらに職場を越えて、すべての人の生活空間に広がってきている。それが、何だかとても息苦しい。
市場競争で手に入れるものとは、金銭的な富だ。金銭的に豊かになることが、ホントの豊さではないということを、東日本大震災が起きた「3・11」以降、多くの人が感じたはず。なのに、やっぱりカネをもうけるための競争を強いられるのか?
とはいえ、私の頭はかなり混乱している。恐らく「おカネじゃない」と思いながらも、その半面、「おカネは大切だ」とも思っているからだろう。
そこで、今回は「競争社会と人の生きる力」について考えてみようと思う。
◆ 人は単におカネの額を増やしたいとは考えていない?
まずは「人間にとって、おカネはどういう価値を持つのか」ということから考えてみたい。
おカネの価値に対して議論する時に、よく取り上げられる心理実験がある。それは次のようなものだ。
(1)あなたの年収は5万ドル、あなた以外の人たちの年収は2万5000ドル
(2)あなたの年収は10万ドル、あなた以外の人たちの年収は25万ドル
あなたはこの2つの環境があるとしたならば、どちらの方に住みたいと思いますか?
このような質問を投げかけた時に、人はどちらの環境を選択するかを調べるという実験である。
もし、人間の金儲けへの欲望が、「自分の収入を増やしたい」という欲望だけであるならば、当然、年収5万ドルの(1)よりも、その2倍の年収を稼げる(2)の方を選ぶはずだ。
ところが、1990年代後半に、経済学者であるサラ・ソルニック(米バーモント大学経済学部アソシエイトプロフェッサー)と、デービッド・ヘメンウェイ(米ハーバード大学公衆衛生大学院教授)の2人が、ハーバード大学の大学院生と教員を対象に調査を行った結果、対象者の56%が(1)の方を選択した。つまり、半数以上の人が「周囲の人よりも稼いでいる」という相対的所得の高い環境を選んだのである(出所: “Is more always better?:A Suvey on Positional Concerns”,Jounal of Economic Behavior and Organization)。
また、この調査では学歴についての質問も行った。
(1)あなたは高卒で、ほかの人は中卒
(2)あなたは大卒で、ほかの人は大学院卒
結果は、前述の質問と同様、相対的に学歴の高い(1)を選ぶ人が半数を超えた。このほかにも、おカネと学歴の絶対的価値と相対的価値を問う質問をしたのだが、そのすべてで相対的価値の高い方を選ぶ傾向が高かった。
ただし、例外が1つだけあった。休暇の長さに関する質問では、ほとんどの回答者が長く休める方を選択したのである。
さて、この結果をどう読み解けばいいのだろうか。
この調査の結果が明らかになった時にも、専門家によって様々な解釈がなされた。
ある学者は、「相対的価値の高い方を選んだとはいえ、たかが56%じゃないか。裏を返せば、44%の人は絶対的価値で判断している」と、この調査の意義を疑い、ある学者は、「相対的価値に人がこだわるのは、他人への嫉妬や羨望からだ」として、個人が持つ嫉妬心の強さが回答を分けただけだと非難した。
こういった意見が出たことに対して、調査を行ったソルニックは、次のように語っている。
「半数以上の回答者が相対的価値の高い方を選んだ背景には、おカネや学歴がもたらす社会的地位の高さが影響していると考えられる。地位の高い人たちだけが持ちうる権力や有意性を人は望み、そのためには競争社会の先頭に立つことが必要だと考えている」
「よりよい仕事に就ける可能性、よりよい結婚ができる見込み、さらにはそれらすべての優位性が自分の子供に受け継がれるためには、相対的に高い位置に立たなくてはならない。競争社会では、人の価値観は周りよりもたくさん稼ぐことが大切であり、そういう人だけが価値ある人間として振る舞える権利を得られることを、経験的に知っているからだ」
◆ 社会的地位自体はストレスの雨に対する傘になる
要するに、「おカネを他人より、たくさん稼げる能力がなきゃダメなんだ。いくら稼ぐかじゃなくて、どれだけ人よりも多く稼ぐかが大切なんだ。そうしないと社会的地位を手に入れられないんだよ」という考え方が、競争社会で生きる人たちの中に浸透し、それが56%の数字が持つ意味であるとして、競争社会に警鐘を鳴らしたのである。
社会的地位――。これは、「社会的評価=社会の中でその集団が持ち得る名声」と言い換えることができる。
社会的評価の高い集団の一員になることは、「他人に評価されたい」という、人間の基本的な欲求(承認の欲求)を満たす手段となる。特に周りの評価を気にする自己意識の強い人ほど、社会的評価の高い集団を通して自分の欲求を満たそうとする傾向が強い。
その欲求を満たされた人たちは、人生の様々なことへの充足感が満たされていく。例えば、社会的評価の高い企業で働いている人は、そうでない人に比べて職務満足感が高く、働くことに誇りを持っている傾向が強いことが、多くの調査結果から明らかにされているのだ。
社会的地位は個人の人生上の満足感を高める重要な役目を果たすものであるとともに、イスラエルの健康社会学者、アーロン・アントノフスキーが提唱したストレス対処力の「SOC(sense of coherence)」とも関連が深く、ストレスの傘になる大切な“資源”でもある。
私が以前、ホワイトカラー1000人を対象に行った調査でも、社会的評価が高いとされている企業に勤めている人のSOCは、全体の平均値よりも高い群に分布していた。
つまり、社会的評価は個人の属性なので、それ自体は何ら非難されるものでもなければ、その属性に入りたいと望むことも、その一員になれたことに自信を持つことも何ら問題ない。ストレスの雨に対する傘になるわけだし、何もインチキして手に入れたわけでもないのだから、存分に使えるだけ使えばいい。
問題は、「集団の名声=自分の価値」「集団の名声=人の価値」となってしまうこと。自分の属する集団の評価が高いだけでしかないのに、あたかもそれが自分の価値だと勘違いした途端に、ややこしいことになる。
競争に勝った人は、価値ある人。
競争に負けた人は、価値なき人。
競争に参加しなかった人も、価値なき人。
こうした具合に、競争社会ではただ単におカネを稼ぐ能力の違いだけで、人間の価値まで選別されるようになってくる。競争に勝てなかったというだけで、人間的にもダメなように扱われてしまうのだ。
おまけに人間には、自己の利益を最大限守りたいという欲求もあるため、ひとたび負け組の集団に属することになった人が、二度と自分たちの集団に這い上がってこられないような行動を無意識に取ることがある。
「今あるものを失うかもしれない」と恐怖を感じた時には、自分が生き残るために人を蹴落とすこともいとわない。それはまさしく、人間の心の奥に潜む、闇の感情が理性を超えて噴出した瞬間である。
ところが、勝ち組の枠内にいる人たちは、自分たちが自分たちの名声を守るために、下を蹴落としていることに気がつかない。それがまた、競争を激化させる。
競争を煽れば煽るほど、“競争に勝った人”は自分たちに有利になるように物事を進め、一度でも“競争に負けた人”は「どんなに頑張ったところで勝ち目はないんでしょ? だったら頑張ったって無駄じゃん」と、稼ぐ努力も学ぶ努力も次第に失い、格差がますます広がっていってしまうのである。
おカネというものがこの世に生まれるまでは、人の生活は公平な分配が基本だった。狩りで捕らえた鹿は、みんなできちんと均一に分配する。人よりも多く取ったり、隠し持ったりした人は、誹謗中傷の的となった。
ところが、おカネが生まれ、自分の好きなものをゲットする自由を得たことで、公平な分配社会は終焉を迎える。だが、その時の人間には、自分だけが手に入れることへのうしろめたさがあったそうだ。「自分だけがいい思いをしてしまって、申し訳ない」と。
◆ 完全に失われつつある「うしろめたさ」
そして今。そのうしろめたさを、果たしてどれほどの人たちが抱いているだろうか。持つべきものと持たざるべきものの差が、あたかも人間の格差のように扱われてしまう世の中に、どれだけの人たちが心底から疑問を感じているだろうか。
日本では13年連続して3万人の自殺者が出ている。昨年の自殺者数は3万513人。17分に1人が自殺している計算となる。この13年間の自殺者数の合計は45万人超で、1つの中核市の全人口を丸ごと自殺で失ってしまったことにもなる。
「だから、国が豊かになって景気が良くなれば自殺者だって減るよ」
おカネの万能性を信じている人は、きっとそんなふうに言うに違いない。そう、悪いのはおカネ。景気が悪くなったことが原因なのだから、景気を良くするしかない。そのためには、世界と競争しなきゃダメなんだと。
確かに、不況と自殺者数との関係性は、認められている。
3万人を超えた1997年には山一証券が倒産し、バブル崩壊の影響が多くの人たちの生活に直接的に及び始めた時でもあった。うつ病の人たちが増え、「ウツ」という言葉が広く使われるようになったのも、同じ頃だ。
だが、その3万人という数字が13年間も続いているのは、競争社会が激化し、「お金を稼ぐ能力の低い人」たちが、負け組というボックスに閉じ込められ、いい仕事に就ける可能性も、いい結婚ができる見込みも奪われ、人間的な価値まで低いと見なされているからじゃないんだろうか。
人間にとって、「自分には価値がない」と感じることほどしんどいことはない。自分の存在意義を失った途端、生きる力は急速に衰えていく。
「頑張って、競争に勝てばいいんだよ!」と周りからどんなに言われようとも、競争に参加する気持ちも、前に踏み出す気力も湧いてこない。
「どうせオレなんて」。そう思った途端、負け組のボックスから這い上がる気など失せていく。
そして、誰もが、そうならないようにと、脱落しないようにと必死で走る。負け組になりたくない。ただそれだけ。
負けることもしんどいけれども、ただ「負けないために」と走らされる競争ほど、しんどいものはない。
多分、私が「競争しなきゃダメ」と言われて息苦しさを感じたのは、私には走る意味を見いだせなかったからなのだろう。
人というのは、自分に意味のあること、自分にとって価値のあるもののためには、いかなる過酷な状況でも乗り越えようとするし、いかなる競争に参加することもいとわないものだ。
たとえ、そこで負けることがあったとしても、自分にとって価値のあるもののために精一杯頑張った、という充足感がもたらされる。
市場経済では、おカネが絶対的な価値を持つものであったとしても、人間にとっては、人それぞれに価値のあるものが存在し、その価値あるものに向かっていくことが生きる力を引き出す。
市場経済の価値と、人間の価値が同じでないことを、私たちは何度でも立ち止まって自分たちに言い聞かせなきゃダメなのだ。そして、何に価値を置くかは人によって異なるということを。
そうしないことには、走らされることだけに疲弊する人たちが、もっともっと量産されることになってしまうのではあるまいか。
◆ 「市場経済の価値=人間の価値」ではない
市場経済の影響を受けていない文化では、うつ病になる人も、自殺をする人もほとんどいないそうだ。
例えば、ニューギニアのカルリ族では、希望を失うこともなければ、絶望を感じることもなければ、うつ病になる人も、自殺をする人も一切確認されていない。
この文化では、例えばブタのように、もし自分にとって価値あるものを失った場合、その喪失感を部族全体で埋めるための儀式が行われる。
「あなたは大切なものを失ったのですね。そのことを私たちは分かっていますよ。私たちでは物足りないかもしれないけれど、何とかそのあなたの開いた心の穴を埋める手伝いをさせてください」と、その人の価値観を受け入れるそうだ。
グローバル化が急速に進み、否応なしに世界と競争しなくちゃならない状況に置かれているとしても、市場の価値と人の価値は同じでない、ということを、何度も何度も自分に言い聞かせねばならない。
なぜなら、私たちのココロの底には、自分を守るためには人を蹴落とすこともいとわない悪魔が潜んでいて、その悪魔は競争が激化し、格差が広がれば広がるほど猛威を振るうからだ。
※河合 薫(かわい・かおる)
博士(Ph.D.、保健学)・東京大学非常勤講師・気象予報士。千葉県生まれ。1988年、千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。2004年、東京大学大学院医学系研究科修士課程修了、2007年博士課程修了。長岡技術科学大学非常勤講師、東京大学非常勤講師、早稲田大学エクステンションセンター講師などを務める。医療・健康に関する様々な学会に所属。主な著書に『「なりたい自分」に変わる9:1の法則』(東洋経済新報社)、『上司の前で泣く女』『私が絶望しない理由』(ともにプレジデント社)、『<他人力>を使えない上司はいらない!』(PHP新書604)
『日経ビジネスオンライン』(2012/9/18【河合薫の新・リーダー術】)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120911/236688/?P=1
◆ 「人の価値もカネ次第?」 格差を肯定する人々の不気味
~人生に充足感をもたらす価値は人によって異なることを再認識しよう
先日、あるテレビ番組で政治家の方たちとご一緒する機会があった。理由は言うまでもない。今や永田町の最大の関心事である政局。その政局をテーマとした番組だったからだ。
「次の与党は?」「次の首相は?」──。話題もお決まりのものばかり。少しばかりいつもと違うことといえば、「維新の会がどうなるか」という話題が加わったぐらいだった。
で、番組の終了後にも、やはりその話が続いた。
「やっぱりね、世界ともっと競争していかなきゃ、ダメなんですよ」
維新の会のブレーンとして知られている某氏は、「世界」「競争」という言葉を何度も何度も繰り返した。
そこで私も、「国内でも、もっと競争社会にした方がいいってことですか?」と聞いてみた(愚問と言われればそれまでだが…)。
「もちろん。競争させなきゃ、日本はどんどんダメになるでしょ」と某氏。
「競争するってことは、格差が広がるってことですよね?」と再び愚問。
「おいおい、今さらそんなことを聞いてどうするんだ!」とおしかりを受けそうではあるが、東京にいると大阪で発せられているものの空気がよく分からなかったりもする。とにもかくにも、直接確かめたくなってしまったのだ。
「この女、何を分かりきったことを聞いてるんだ?」と某氏が思ったかどうかは分からないが、彼は「もちろん。そういうことです」と即答した。何のためらいもなく即答したのである。
◆ 格差社会をためらいなく肯定する違和感
ううむ、何だかなぁ。当然と言っちゃあ当然の答えなのだが、競争社会についても格差社会についても、面と向かって肯定されると、その言葉の重みが急激に増してくる。
そこで、周りにいたスタッフに念のため確認してみた。「そのことって、当然、大阪の人って……分かっているんですよね? そのつまり……。格差が広がるってことを分かっていても、多くの人が橋下さんを支持しているってことですか」と。
すると、周りのスタッフたちもまた、全くためらうことなく次のように即答したのだ。
「分かっていると思う。橋下さんはこっち(大阪)では何度も言ってるから、十分に分かっていますよ」
競争社会、ね。
確かに、どんな世界であっても、生きている限り誰かと競争しなくてはならない場面は当然ある。受験だってそうだ。就職試験だってそうだし、異性をゲットするのにだって多少なりとも、競争は存在する。
でも、どういうわけか、「競争しなきゃダメ」と言われると、何だかひるむ。「競争しなきゃ、負けるんだよ。そこで負けていく奴は、頑張りが足りないんだよ」と無理やり尻をたたかれているような気がして、気分がド~ンと滅入ってしまうのだ。
現代においては、確かに「グローバリゼーション」と呼ばれる、世界的規模の大競争が広がっている。「その競争に勝たねば、国はやせ細っていくのだよ。それでもいいのかね?」と言って、国の勝ち負けにこだわる人たちの懸念も理解できる。
だが、そもそもグローバリゼーションは経済の話であり、市場で起きていること。ところが、「グローバル人材」などといったフレーズとともに私たちの働き方にまで浸透してきた。さらに職場を越えて、すべての人の生活空間に広がってきている。それが、何だかとても息苦しい。
市場競争で手に入れるものとは、金銭的な富だ。金銭的に豊かになることが、ホントの豊さではないということを、東日本大震災が起きた「3・11」以降、多くの人が感じたはず。なのに、やっぱりカネをもうけるための競争を強いられるのか?
とはいえ、私の頭はかなり混乱している。恐らく「おカネじゃない」と思いながらも、その半面、「おカネは大切だ」とも思っているからだろう。
そこで、今回は「競争社会と人の生きる力」について考えてみようと思う。
◆ 人は単におカネの額を増やしたいとは考えていない?
まずは「人間にとって、おカネはどういう価値を持つのか」ということから考えてみたい。
おカネの価値に対して議論する時に、よく取り上げられる心理実験がある。それは次のようなものだ。
(1)あなたの年収は5万ドル、あなた以外の人たちの年収は2万5000ドル
(2)あなたの年収は10万ドル、あなた以外の人たちの年収は25万ドル
あなたはこの2つの環境があるとしたならば、どちらの方に住みたいと思いますか?
このような質問を投げかけた時に、人はどちらの環境を選択するかを調べるという実験である。
もし、人間の金儲けへの欲望が、「自分の収入を増やしたい」という欲望だけであるならば、当然、年収5万ドルの(1)よりも、その2倍の年収を稼げる(2)の方を選ぶはずだ。
ところが、1990年代後半に、経済学者であるサラ・ソルニック(米バーモント大学経済学部アソシエイトプロフェッサー)と、デービッド・ヘメンウェイ(米ハーバード大学公衆衛生大学院教授)の2人が、ハーバード大学の大学院生と教員を対象に調査を行った結果、対象者の56%が(1)の方を選択した。つまり、半数以上の人が「周囲の人よりも稼いでいる」という相対的所得の高い環境を選んだのである(出所: “Is more always better?:A Suvey on Positional Concerns”,Jounal of Economic Behavior and Organization)。
また、この調査では学歴についての質問も行った。
(1)あなたは高卒で、ほかの人は中卒
(2)あなたは大卒で、ほかの人は大学院卒
結果は、前述の質問と同様、相対的に学歴の高い(1)を選ぶ人が半数を超えた。このほかにも、おカネと学歴の絶対的価値と相対的価値を問う質問をしたのだが、そのすべてで相対的価値の高い方を選ぶ傾向が高かった。
ただし、例外が1つだけあった。休暇の長さに関する質問では、ほとんどの回答者が長く休める方を選択したのである。
さて、この結果をどう読み解けばいいのだろうか。
この調査の結果が明らかになった時にも、専門家によって様々な解釈がなされた。
ある学者は、「相対的価値の高い方を選んだとはいえ、たかが56%じゃないか。裏を返せば、44%の人は絶対的価値で判断している」と、この調査の意義を疑い、ある学者は、「相対的価値に人がこだわるのは、他人への嫉妬や羨望からだ」として、個人が持つ嫉妬心の強さが回答を分けただけだと非難した。
こういった意見が出たことに対して、調査を行ったソルニックは、次のように語っている。
「半数以上の回答者が相対的価値の高い方を選んだ背景には、おカネや学歴がもたらす社会的地位の高さが影響していると考えられる。地位の高い人たちだけが持ちうる権力や有意性を人は望み、そのためには競争社会の先頭に立つことが必要だと考えている」
「よりよい仕事に就ける可能性、よりよい結婚ができる見込み、さらにはそれらすべての優位性が自分の子供に受け継がれるためには、相対的に高い位置に立たなくてはならない。競争社会では、人の価値観は周りよりもたくさん稼ぐことが大切であり、そういう人だけが価値ある人間として振る舞える権利を得られることを、経験的に知っているからだ」
◆ 社会的地位自体はストレスの雨に対する傘になる
要するに、「おカネを他人より、たくさん稼げる能力がなきゃダメなんだ。いくら稼ぐかじゃなくて、どれだけ人よりも多く稼ぐかが大切なんだ。そうしないと社会的地位を手に入れられないんだよ」という考え方が、競争社会で生きる人たちの中に浸透し、それが56%の数字が持つ意味であるとして、競争社会に警鐘を鳴らしたのである。
社会的地位――。これは、「社会的評価=社会の中でその集団が持ち得る名声」と言い換えることができる。
社会的評価の高い集団の一員になることは、「他人に評価されたい」という、人間の基本的な欲求(承認の欲求)を満たす手段となる。特に周りの評価を気にする自己意識の強い人ほど、社会的評価の高い集団を通して自分の欲求を満たそうとする傾向が強い。
その欲求を満たされた人たちは、人生の様々なことへの充足感が満たされていく。例えば、社会的評価の高い企業で働いている人は、そうでない人に比べて職務満足感が高く、働くことに誇りを持っている傾向が強いことが、多くの調査結果から明らかにされているのだ。
社会的地位は個人の人生上の満足感を高める重要な役目を果たすものであるとともに、イスラエルの健康社会学者、アーロン・アントノフスキーが提唱したストレス対処力の「SOC(sense of coherence)」とも関連が深く、ストレスの傘になる大切な“資源”でもある。
私が以前、ホワイトカラー1000人を対象に行った調査でも、社会的評価が高いとされている企業に勤めている人のSOCは、全体の平均値よりも高い群に分布していた。
つまり、社会的評価は個人の属性なので、それ自体は何ら非難されるものでもなければ、その属性に入りたいと望むことも、その一員になれたことに自信を持つことも何ら問題ない。ストレスの雨に対する傘になるわけだし、何もインチキして手に入れたわけでもないのだから、存分に使えるだけ使えばいい。
問題は、「集団の名声=自分の価値」「集団の名声=人の価値」となってしまうこと。自分の属する集団の評価が高いだけでしかないのに、あたかもそれが自分の価値だと勘違いした途端に、ややこしいことになる。
競争に勝った人は、価値ある人。
競争に負けた人は、価値なき人。
競争に参加しなかった人も、価値なき人。
こうした具合に、競争社会ではただ単におカネを稼ぐ能力の違いだけで、人間の価値まで選別されるようになってくる。競争に勝てなかったというだけで、人間的にもダメなように扱われてしまうのだ。
おまけに人間には、自己の利益を最大限守りたいという欲求もあるため、ひとたび負け組の集団に属することになった人が、二度と自分たちの集団に這い上がってこられないような行動を無意識に取ることがある。
「今あるものを失うかもしれない」と恐怖を感じた時には、自分が生き残るために人を蹴落とすこともいとわない。それはまさしく、人間の心の奥に潜む、闇の感情が理性を超えて噴出した瞬間である。
ところが、勝ち組の枠内にいる人たちは、自分たちが自分たちの名声を守るために、下を蹴落としていることに気がつかない。それがまた、競争を激化させる。
競争を煽れば煽るほど、“競争に勝った人”は自分たちに有利になるように物事を進め、一度でも“競争に負けた人”は「どんなに頑張ったところで勝ち目はないんでしょ? だったら頑張ったって無駄じゃん」と、稼ぐ努力も学ぶ努力も次第に失い、格差がますます広がっていってしまうのである。
おカネというものがこの世に生まれるまでは、人の生活は公平な分配が基本だった。狩りで捕らえた鹿は、みんなできちんと均一に分配する。人よりも多く取ったり、隠し持ったりした人は、誹謗中傷の的となった。
ところが、おカネが生まれ、自分の好きなものをゲットする自由を得たことで、公平な分配社会は終焉を迎える。だが、その時の人間には、自分だけが手に入れることへのうしろめたさがあったそうだ。「自分だけがいい思いをしてしまって、申し訳ない」と。
◆ 完全に失われつつある「うしろめたさ」
そして今。そのうしろめたさを、果たしてどれほどの人たちが抱いているだろうか。持つべきものと持たざるべきものの差が、あたかも人間の格差のように扱われてしまう世の中に、どれだけの人たちが心底から疑問を感じているだろうか。
日本では13年連続して3万人の自殺者が出ている。昨年の自殺者数は3万513人。17分に1人が自殺している計算となる。この13年間の自殺者数の合計は45万人超で、1つの中核市の全人口を丸ごと自殺で失ってしまったことにもなる。
「だから、国が豊かになって景気が良くなれば自殺者だって減るよ」
おカネの万能性を信じている人は、きっとそんなふうに言うに違いない。そう、悪いのはおカネ。景気が悪くなったことが原因なのだから、景気を良くするしかない。そのためには、世界と競争しなきゃダメなんだと。
確かに、不況と自殺者数との関係性は、認められている。
3万人を超えた1997年には山一証券が倒産し、バブル崩壊の影響が多くの人たちの生活に直接的に及び始めた時でもあった。うつ病の人たちが増え、「ウツ」という言葉が広く使われるようになったのも、同じ頃だ。
だが、その3万人という数字が13年間も続いているのは、競争社会が激化し、「お金を稼ぐ能力の低い人」たちが、負け組というボックスに閉じ込められ、いい仕事に就ける可能性も、いい結婚ができる見込みも奪われ、人間的な価値まで低いと見なされているからじゃないんだろうか。
人間にとって、「自分には価値がない」と感じることほどしんどいことはない。自分の存在意義を失った途端、生きる力は急速に衰えていく。
「頑張って、競争に勝てばいいんだよ!」と周りからどんなに言われようとも、競争に参加する気持ちも、前に踏み出す気力も湧いてこない。
「どうせオレなんて」。そう思った途端、負け組のボックスから這い上がる気など失せていく。
そして、誰もが、そうならないようにと、脱落しないようにと必死で走る。負け組になりたくない。ただそれだけ。
負けることもしんどいけれども、ただ「負けないために」と走らされる競争ほど、しんどいものはない。
多分、私が「競争しなきゃダメ」と言われて息苦しさを感じたのは、私には走る意味を見いだせなかったからなのだろう。
人というのは、自分に意味のあること、自分にとって価値のあるもののためには、いかなる過酷な状況でも乗り越えようとするし、いかなる競争に参加することもいとわないものだ。
たとえ、そこで負けることがあったとしても、自分にとって価値のあるもののために精一杯頑張った、という充足感がもたらされる。
市場経済では、おカネが絶対的な価値を持つものであったとしても、人間にとっては、人それぞれに価値のあるものが存在し、その価値あるものに向かっていくことが生きる力を引き出す。
市場経済の価値と、人間の価値が同じでないことを、私たちは何度でも立ち止まって自分たちに言い聞かせなきゃダメなのだ。そして、何に価値を置くかは人によって異なるということを。
そうしないことには、走らされることだけに疲弊する人たちが、もっともっと量産されることになってしまうのではあるまいか。
◆ 「市場経済の価値=人間の価値」ではない
市場経済の影響を受けていない文化では、うつ病になる人も、自殺をする人もほとんどいないそうだ。
例えば、ニューギニアのカルリ族では、希望を失うこともなければ、絶望を感じることもなければ、うつ病になる人も、自殺をする人も一切確認されていない。
この文化では、例えばブタのように、もし自分にとって価値あるものを失った場合、その喪失感を部族全体で埋めるための儀式が行われる。
「あなたは大切なものを失ったのですね。そのことを私たちは分かっていますよ。私たちでは物足りないかもしれないけれど、何とかそのあなたの開いた心の穴を埋める手伝いをさせてください」と、その人の価値観を受け入れるそうだ。
グローバル化が急速に進み、否応なしに世界と競争しなくちゃならない状況に置かれているとしても、市場の価値と人の価値は同じでない、ということを、何度も何度も自分に言い聞かせねばならない。
なぜなら、私たちのココロの底には、自分を守るためには人を蹴落とすこともいとわない悪魔が潜んでいて、その悪魔は競争が激化し、格差が広がれば広がるほど猛威を振るうからだ。
※河合 薫(かわい・かおる)
博士(Ph.D.、保健学)・東京大学非常勤講師・気象予報士。千葉県生まれ。1988年、千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。2004年、東京大学大学院医学系研究科修士課程修了、2007年博士課程修了。長岡技術科学大学非常勤講師、東京大学非常勤講師、早稲田大学エクステンションセンター講師などを務める。医療・健康に関する様々な学会に所属。主な著書に『「なりたい自分」に変わる9:1の法則』(東洋経済新報社)、『上司の前で泣く女』『私が絶望しない理由』(ともにプレジデント社)、『<他人力>を使えない上司はいらない!』(PHP新書604)
『日経ビジネスオンライン』(2012/9/18【河合薫の新・リーダー術】)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120911/236688/?P=1
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