10.26予防訴訟控訴審結審 弁護団陳述篇<4>
◎ 教育の自由違反・「不当な支配」について
1 私からは,教育の自由違反・「不当な支配」に当たることについて,意見を述べます。
この問題を判断するうえで先例となる最高裁判決は,学テ最高裁大法廷判決です。
同判決は,まず,教師の教育の自由について,普通教育においても,「教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において,また,子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ,その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし」,「一定の範囲における教授の自由が保障されるべき」と述べました。
そして,この判断を前提に,学習指導要領は,教育の機会均等の確保と全国的一定水準の維持のため,必要かつ合理的な大綱的基準にとどめられなければならないと判断しました。また,大綱的基準であるためには,「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地」及び「地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地」が,「十分に残されて」いなければならないと判断しました。
続いて,学テ最高裁判決は,教育活動ではなく行政活動として行われた学力調査について,行政調査として許される教育への影響の限度を超え,実質的に「不当な支配」に該当しないか否かを審査しました。
学テ最高裁判決を参考にするならば,「不当な支配」の審査基準は,教育内容への介入の,深さの程度と,強制の程度の,2つの基準によって判断すべきことになります。
市川須美子教授によれば,深さの程度は,教科名や配当時間数への介入が最も程度が浅く,緩やかな基準,詳細な基準と深まり,国定教科書が最も程度が深いものとなります。また,強制の程度は,指導助言が最も弱く,参考基準,訓示規定,強行規定と強まり,制裁を伴う必罰基準が最も強制度が強いものとなります。
学テ最高裁判決は,深さの程度については,学習指導要領の審査で,大綱的基準までという判断をしました。また,強制の程度については,学力調査の審査で,学力調査は教師の教育活動評価尺度ではなく,学習指導要領も試験問題の作成基準にすぎないと判断し,その強制度は,参考基準か訓示規定程度であると判断しました。
2 さて,控訴人は,教育委員会は,子ども自身の利益のため,また子どもの成長に対する地域社会の利益と関心に応えるため,教育内容に関して,国より具体的な基準を設定し,必要な場合には具体的な命令を発することもできると主張しています。
(1) しかし,教育委員会が教育内容に関して基準を設定する場合にも,国の場合と同様,大綱的な基準にとどめられなければなりません。なぜなら,教育行政によって大綱的基準を超えた詳細な基準設定がなされるなら,教師は,子どもとの人格的接触によって子どもの個性や発達上のニーズを把握し,弾力的な教育を展開することが,不可能となるからです。それでは子どもの学習権を保障できません。教育委員会は,教師に対する人事権を有するがゆえに,国よりもいっそう直接に,教育に介入しうる危険があります。教育委員会の介入に関するの審査基準が,国の場合よりも緩和される理由は全くありません。
(2) また,確かに,学テ最高裁判決は,教育委員会は「特に必要な場合」には「具体的な命令を発することができる」と述べています。しかし,これは,学テ最高裁判決の事例が,学力調査実施のための授業計画変更命令で,行政活動と不可分一体であり,実質的には,教育活動とはみなされない場合であったからです。他に,教育委員会が,具体的命令を発することが「特に必要な場合」として,水泳の飛び込みや柔道の授業について詳細に内容・方法を定める通達や,体罰の禁止などが挙げられます。しかし,これらは,教育委員会が生徒に対し安全保護義務を負っているからです。
控訴人が10.23通達の必要性として主張する内容は,およそ子どもに対する具体的かつ重大な不利益の発生を意味するものではありません。具体的命令を発することが「特に必要な場合」に該当しないことは明らかです。
(3) それどころか,控訴人が10.23通達の必要性として主張する内容は,およそ必要性・合理性を根拠づける理由となり得ないものです。
控訴人は,儀式的行事に適した場所的環境や式の進行を定めるものであり,学習指導要領の趣旨に沿って入学式・卒業式等を実施するために,必要かつ合理的なものだと主張しています。
しかし,まず,学習指導要領の国旗国歌条項は,国旗掲揚,国歌斉唱の具体的方法等について指示するものではありません。また,国旗国歌条項により直ちに教職員が起立斉唱の義務を負うものではありません。これらは争いのない事実です。「教育における地方自治の原則」,すなわち,地方の実情に適応した子どもの学習権保障という観点から,東京都においてのみ,三脚で国旗を掲げることを禁止し,フロア式・対面式を禁止する理由はありません。東京都の教職員にのみ,起立斉唱の義務を課さなければならない理由も,もちろんありません。
また,式次第に国歌斉唱と記載しないことや,司会者が国歌斉唱と発声しないことは,生徒の内心まで立ち入って強制することがないようにという配慮に基づくものです。学校現場では,一般社会と異なり,生徒は教職員の指導に服するという意味において強制の契機が入るため,そのような配慮がなされてきたものです。学校の実態に即した教育現場の配慮こそ重んじられるべきものです。教育委員会が一律にそれを否定する理由は全くありません。
「儀式的行事」は,学習指導要領において,「特別活動」のなかの「学校行事」として位置づけられている教育活動です。学校ごとの創意工夫を活かし,学校の実態や生徒の発達段階・特性を活かしたものでなければなりません。その実施方法について,学校ごとの教師の教育の自由を全面的に否定する10.23通達は,学習指導要領の趣旨に反するのです。
(4) 以上のとおり,教育委員会が,「教育における地方自治の原則」を理由に,入学式・卒業式等の実施方法について,学習指導要領の国旗国歌条項より具体的な基準を設定する必要性・合理性は全くありません。まして,具体的命令を発する必要性は認められません。
3 10.23通達とそれに基づく職務命令が「不当な支配」にあたるか否かの判断は,学テ最高裁大法廷判決の判断基準にしたがい,教育内容への介入の,深さの程度と,強制の程度の,両面から判断されなければなりません。
深さの程度の点では,入学式・卒業式等の実施方法に関する学校ごとの創造的かつ弾力的な教育活動の余地を完全に奪うものです。国旗掲揚・国歌斉唱の実施方法について,生徒の内心に配慮した弾力的な教育活動の余地を奪うものです。また,フロア式・対面式の会場設営を禁止したことは,創造的な教育活動,学校ごとの特殊性を奪うものです。
さらに,内心の自由の説明を禁止し,生徒の内心にまで立ち入って起立斉唱の指導を教師に求め,多くの生徒が起立斉唱しない場合は校長や教師を注意処分にするなど,一方的観念を生徒に教え込むことの強制です。
強制の程度の点では,制裁を伴う事前統制であるという点で,過去に例をみない,最も強制度の強いものです。
以上より,学テ最高裁大法廷判決の判断基準によれば,10.23通達とそれに基づく職務命令が,「不当な支配」にあたることは明らかです。
◎ 教育の自由違反・「不当な支配」について
代理人 青木 護
1 私からは,教育の自由違反・「不当な支配」に当たることについて,意見を述べます。
この問題を判断するうえで先例となる最高裁判決は,学テ最高裁大法廷判決です。
同判決は,まず,教師の教育の自由について,普通教育においても,「教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において,また,子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ,その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし」,「一定の範囲における教授の自由が保障されるべき」と述べました。
そして,この判断を前提に,学習指導要領は,教育の機会均等の確保と全国的一定水準の維持のため,必要かつ合理的な大綱的基準にとどめられなければならないと判断しました。また,大綱的基準であるためには,「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地」及び「地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地」が,「十分に残されて」いなければならないと判断しました。
続いて,学テ最高裁判決は,教育活動ではなく行政活動として行われた学力調査について,行政調査として許される教育への影響の限度を超え,実質的に「不当な支配」に該当しないか否かを審査しました。
学テ最高裁判決を参考にするならば,「不当な支配」の審査基準は,教育内容への介入の,深さの程度と,強制の程度の,2つの基準によって判断すべきことになります。
市川須美子教授によれば,深さの程度は,教科名や配当時間数への介入が最も程度が浅く,緩やかな基準,詳細な基準と深まり,国定教科書が最も程度が深いものとなります。また,強制の程度は,指導助言が最も弱く,参考基準,訓示規定,強行規定と強まり,制裁を伴う必罰基準が最も強制度が強いものとなります。
学テ最高裁判決は,深さの程度については,学習指導要領の審査で,大綱的基準までという判断をしました。また,強制の程度については,学力調査の審査で,学力調査は教師の教育活動評価尺度ではなく,学習指導要領も試験問題の作成基準にすぎないと判断し,その強制度は,参考基準か訓示規定程度であると判断しました。
2 さて,控訴人は,教育委員会は,子ども自身の利益のため,また子どもの成長に対する地域社会の利益と関心に応えるため,教育内容に関して,国より具体的な基準を設定し,必要な場合には具体的な命令を発することもできると主張しています。
(1) しかし,教育委員会が教育内容に関して基準を設定する場合にも,国の場合と同様,大綱的な基準にとどめられなければなりません。なぜなら,教育行政によって大綱的基準を超えた詳細な基準設定がなされるなら,教師は,子どもとの人格的接触によって子どもの個性や発達上のニーズを把握し,弾力的な教育を展開することが,不可能となるからです。それでは子どもの学習権を保障できません。教育委員会は,教師に対する人事権を有するがゆえに,国よりもいっそう直接に,教育に介入しうる危険があります。教育委員会の介入に関するの審査基準が,国の場合よりも緩和される理由は全くありません。
(2) また,確かに,学テ最高裁判決は,教育委員会は「特に必要な場合」には「具体的な命令を発することができる」と述べています。しかし,これは,学テ最高裁判決の事例が,学力調査実施のための授業計画変更命令で,行政活動と不可分一体であり,実質的には,教育活動とはみなされない場合であったからです。他に,教育委員会が,具体的命令を発することが「特に必要な場合」として,水泳の飛び込みや柔道の授業について詳細に内容・方法を定める通達や,体罰の禁止などが挙げられます。しかし,これらは,教育委員会が生徒に対し安全保護義務を負っているからです。
控訴人が10.23通達の必要性として主張する内容は,およそ子どもに対する具体的かつ重大な不利益の発生を意味するものではありません。具体的命令を発することが「特に必要な場合」に該当しないことは明らかです。
(3) それどころか,控訴人が10.23通達の必要性として主張する内容は,およそ必要性・合理性を根拠づける理由となり得ないものです。
控訴人は,儀式的行事に適した場所的環境や式の進行を定めるものであり,学習指導要領の趣旨に沿って入学式・卒業式等を実施するために,必要かつ合理的なものだと主張しています。
しかし,まず,学習指導要領の国旗国歌条項は,国旗掲揚,国歌斉唱の具体的方法等について指示するものではありません。また,国旗国歌条項により直ちに教職員が起立斉唱の義務を負うものではありません。これらは争いのない事実です。「教育における地方自治の原則」,すなわち,地方の実情に適応した子どもの学習権保障という観点から,東京都においてのみ,三脚で国旗を掲げることを禁止し,フロア式・対面式を禁止する理由はありません。東京都の教職員にのみ,起立斉唱の義務を課さなければならない理由も,もちろんありません。
また,式次第に国歌斉唱と記載しないことや,司会者が国歌斉唱と発声しないことは,生徒の内心まで立ち入って強制することがないようにという配慮に基づくものです。学校現場では,一般社会と異なり,生徒は教職員の指導に服するという意味において強制の契機が入るため,そのような配慮がなされてきたものです。学校の実態に即した教育現場の配慮こそ重んじられるべきものです。教育委員会が一律にそれを否定する理由は全くありません。
「儀式的行事」は,学習指導要領において,「特別活動」のなかの「学校行事」として位置づけられている教育活動です。学校ごとの創意工夫を活かし,学校の実態や生徒の発達段階・特性を活かしたものでなければなりません。その実施方法について,学校ごとの教師の教育の自由を全面的に否定する10.23通達は,学習指導要領の趣旨に反するのです。
(4) 以上のとおり,教育委員会が,「教育における地方自治の原則」を理由に,入学式・卒業式等の実施方法について,学習指導要領の国旗国歌条項より具体的な基準を設定する必要性・合理性は全くありません。まして,具体的命令を発する必要性は認められません。
3 10.23通達とそれに基づく職務命令が「不当な支配」にあたるか否かの判断は,学テ最高裁大法廷判決の判断基準にしたがい,教育内容への介入の,深さの程度と,強制の程度の,両面から判断されなければなりません。
深さの程度の点では,入学式・卒業式等の実施方法に関する学校ごとの創造的かつ弾力的な教育活動の余地を完全に奪うものです。国旗掲揚・国歌斉唱の実施方法について,生徒の内心に配慮した弾力的な教育活動の余地を奪うものです。また,フロア式・対面式の会場設営を禁止したことは,創造的な教育活動,学校ごとの特殊性を奪うものです。
さらに,内心の自由の説明を禁止し,生徒の内心にまで立ち入って起立斉唱の指導を教師に求め,多くの生徒が起立斉唱しない場合は校長や教師を注意処分にするなど,一方的観念を生徒に教え込むことの強制です。
強制の程度の点では,制裁を伴う事前統制であるという点で,過去に例をみない,最も強制度の強いものです。
以上より,学テ最高裁大法廷判決の判断基準によれば,10.23通達とそれに基づく職務命令が,「不当な支配」にあたることは明らかです。
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