◎ 我々に怒る力があれば、我々には希望を生む力がある
1,3・26中西不当判決
3月26日(木)「東京『君が代』裁判(第一次訴訟)」の判決があった。
東京地裁前を埋め尽くした傍聴希望者の列は280を超えた。運良く傍聴券を手に入れたのは47人。私はその一人として103号法廷に入れたのだが…
判決は不当にも「原告らの請求はいずれも棄却する」という無惨なもの。傍聴席は一瞬凍り付いてしまったかのようだった。判決要旨が4~5分読み上げられたが、箸にも棒にもかからない無内容なもの。法廷の外に出てみると、待ちかまえている人たちも呆然としている。やがて「シュプレヒコールをやれ」の声に応えて「不当判決糾弾!」「最高裁で勝利するぞ!」の怒りの叫びが霞ヶ関の空に力強くこだました。
引き続き虎ノ門のTKP会議室で開かれた報告集会では、弁護団から次々と判決批判の解説がなされた。決定的にひどいのは次の3点である。
(1)校長の「職務命令」は、憲法19条「思想良心の自由」に違反しない。
(2)「10・23通達」は、教育基本法の「不当な支配」にあたらない。
(3)「戒告処分」は、都教委の「裁量権」の逸脱にあたらない。
2,根本的問題
これを覆す道はあるのか。
ひとつは、「思想良心の自由」に関する最高裁ピアノ判決の判例を覆すために、最高裁大法廷を開かせる。この場合、公務員の「思想良心の自由」が壁となっている。
判決文では「不起立」を「歴史観ないし世界観又は信条に基づく行為」と認め、「職務命令」が「原告らの思想及び良心との抵触が生ずる余地がある」とまで言っているのに、結論では「全体の奉仕者」として職務命令に従う義務があると否定してしまっている。つまり、国民には認められる「思想良心の自由」が、公務員には制約されるとするわけだ。この壁はあと一歩に見えるが限りなく高くもある。
別の意見では、最高裁学テ判決の判例に依拠し、「不当な支配」の立証に力を入れる。この場合、「学習指導要領」の法規性や行政権限の許容される範囲が曖昧である。
判決文では、教基法10条で排斥される「不当な支配」の主体に教育行政機関や地方公共団体も含まれると明確に示しつつも、結論では「10・23通達」は学習指導要領に基づくものだから違法ではなく、児童生徒に対し「特定の思想のみを享受することを強制するものとはいえない」と介入を認めてしまっている。これでは「戦前の教育」だって肯定されてしまう。「戦後の教育」は戦前とどこが変わったのか、根本の所から裁判所は目をそらそうとしている。
3,私たちが敏感すぎるのか、裁判所が鈍感なのか
志布志事件の「踏み字」は家族の名前だから拷問になるのだ。その痛みは本人しか分からない。
「職務命令」の痛みを、一般の尺度で測られては「精神の自由」は守れない。それどころか私たちは何と"公然たる無法者"の烙印を押されてしまった。
高裁では、一審で積み重ねられた教育破壊が進行する現状を訴えた陳述書や証言をぜひ生かして、憲法に保障された「自由権」について正確に判断して欲しい。
『藤田先生を応援する会通信』第33号より
H(二次訴訟原告)
1,3・26中西不当判決
3月26日(木)「東京『君が代』裁判(第一次訴訟)」の判決があった。
東京地裁前を埋め尽くした傍聴希望者の列は280を超えた。運良く傍聴券を手に入れたのは47人。私はその一人として103号法廷に入れたのだが…
判決は不当にも「原告らの請求はいずれも棄却する」という無惨なもの。傍聴席は一瞬凍り付いてしまったかのようだった。判決要旨が4~5分読み上げられたが、箸にも棒にもかからない無内容なもの。法廷の外に出てみると、待ちかまえている人たちも呆然としている。やがて「シュプレヒコールをやれ」の声に応えて「不当判決糾弾!」「最高裁で勝利するぞ!」の怒りの叫びが霞ヶ関の空に力強くこだました。
引き続き虎ノ門のTKP会議室で開かれた報告集会では、弁護団から次々と判決批判の解説がなされた。決定的にひどいのは次の3点である。
(1)校長の「職務命令」は、憲法19条「思想良心の自由」に違反しない。
(2)「10・23通達」は、教育基本法の「不当な支配」にあたらない。
(3)「戒告処分」は、都教委の「裁量権」の逸脱にあたらない。
2,根本的問題
これを覆す道はあるのか。
ひとつは、「思想良心の自由」に関する最高裁ピアノ判決の判例を覆すために、最高裁大法廷を開かせる。この場合、公務員の「思想良心の自由」が壁となっている。
判決文では「不起立」を「歴史観ないし世界観又は信条に基づく行為」と認め、「職務命令」が「原告らの思想及び良心との抵触が生ずる余地がある」とまで言っているのに、結論では「全体の奉仕者」として職務命令に従う義務があると否定してしまっている。つまり、国民には認められる「思想良心の自由」が、公務員には制約されるとするわけだ。この壁はあと一歩に見えるが限りなく高くもある。
別の意見では、最高裁学テ判決の判例に依拠し、「不当な支配」の立証に力を入れる。この場合、「学習指導要領」の法規性や行政権限の許容される範囲が曖昧である。
判決文では、教基法10条で排斥される「不当な支配」の主体に教育行政機関や地方公共団体も含まれると明確に示しつつも、結論では「10・23通達」は学習指導要領に基づくものだから違法ではなく、児童生徒に対し「特定の思想のみを享受することを強制するものとはいえない」と介入を認めてしまっている。これでは「戦前の教育」だって肯定されてしまう。「戦後の教育」は戦前とどこが変わったのか、根本の所から裁判所は目をそらそうとしている。
3,私たちが敏感すぎるのか、裁判所が鈍感なのか
志布志事件の「踏み字」は家族の名前だから拷問になるのだ。その痛みは本人しか分からない。
「職務命令」の痛みを、一般の尺度で測られては「精神の自由」は守れない。それどころか私たちは何と"公然たる無法者"の烙印を押されてしまった。
高裁では、一審で積み重ねられた教育破壊が進行する現状を訴えた陳述書や証言をぜひ生かして、憲法に保障された「自由権」について正確に判断して欲しい。
『藤田先生を応援する会通信』第33号より
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