《澤藤統一郎の憲法日記から》
◆ 東京都教育委員会の「再発防止研修」強行に抗議する
「申し入れ」 《撮影:gamou》
東京君が代裁判弁護団の澤藤です。本日服務事故再発防止研修受講命令を受け、これからセンターに入構する教員を代理して、教職員研修センターの担当課長と職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まず、都教委に対して厳重に抗議します。本日の研修は、まったく必要のないものです。いや、不必要というのは不正確。正確には、本日予定されている研修はけっして許されないもの、行ってはならないものと強く指摘せざるを得ません。あなた方は、違憲違法なことを強行しようとしているのです。
教育の本質における自由や人格の尊重、日本国憲法が保障する思想・良心の自由、権力からの干渉を厳格に排除した教育を受ける国民の権利、教員の学問教授の自由、そして教育基本法が定める教育への不当な支配の禁止。
そのすべてが、教員の思想に介入し、教育者の良心を蹂躙する本日の服務事故再発防止研修を違憲・違法なものとしています。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈しなかった教員ではありません。反対に、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。彼らこそ、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。
戦前の教育のどこがどう間違い、どのように反省して今日の教育の法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員についてどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行為に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念としての行為の「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による制裁は、教員の思想・良心を侵害するものとしてけっして許されることではありません。
日本国憲法には「思想・良心の自由」を保障した憲法19条という比較憲法的には稀な1か条を創設しました。内心の自由という目に見えないものを保障したこの条文は、わが国の精神史における思想弾圧の歴史を反省した所産だと言われています。
キリシタンへの踏み絵を強要した江戸幕府のやり口、神である天皇への崇拝を精神の内奥の次元にまで求めた天皇制政府の臣民に対する精神支配の歴史に鑑みて、日本国憲法には「内心の自由」の宣言が必要と考えられたのです。
また、大日本帝国憲法から日本国憲法への鮮やかな大転換の根底にあるものは、国家よりも、もちろん天皇よりも、一人ひとりの国民の尊厳が大切なのだという、人権思想にほかなりません。
国家の象徴である「日の丸・君が代」を、国民に強制するということは、まさしく国家の価値を、国民個人の尊厳や精神の自由という価値の上に置くものと言わざるを得ません。本来当然なこととして、国民が主人で国家はその僕。国家とは国民が使い勝手がよいように作り上げた道具に過ぎません。にもかかわらず、主人である国民が、僕である国を象徴する国旗国歌に敬意の表明を強制されるなどは背理であり、倒錯というほかはありません。国民一人ひとりが、国家との間にどのようなスタンスを取るべきかは、憲法が最も関心を持つテーマとして、最大限の自由が保障されねばなりません。
その意味では、日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為なのです。
本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはなかろう、そうは思います。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安穏に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。彼は多大な不利益を覚悟して、自分の良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人、立派な教員ではありませんか。そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、決して侮蔑的な態度をとってはならない。ぜひとも、心して、研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
『澤藤統一郎の憲法日記』(2014年10月17日)
http://article9.jp/wordpress/?p=3709
◆ 東京都教育委員会の「再発防止研修」強行に抗議する
「申し入れ」 《撮影:gamou》
東京君が代裁判弁護団の澤藤です。本日服務事故再発防止研修受講命令を受け、これからセンターに入構する教員を代理して、教職員研修センターの担当課長と職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まず、都教委に対して厳重に抗議します。本日の研修は、まったく必要のないものです。いや、不必要というのは不正確。正確には、本日予定されている研修はけっして許されないもの、行ってはならないものと強く指摘せざるを得ません。あなた方は、違憲違法なことを強行しようとしているのです。
教育の本質における自由や人格の尊重、日本国憲法が保障する思想・良心の自由、権力からの干渉を厳格に排除した教育を受ける国民の権利、教員の学問教授の自由、そして教育基本法が定める教育への不当な支配の禁止。
そのすべてが、教員の思想に介入し、教育者の良心を蹂躙する本日の服務事故再発防止研修を違憲・違法なものとしています。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈しなかった教員ではありません。反対に、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。彼らこそ、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。
戦前の教育のどこがどう間違い、どのように反省して今日の教育の法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員についてどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行為に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念としての行為の「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による制裁は、教員の思想・良心を侵害するものとしてけっして許されることではありません。
日本国憲法には「思想・良心の自由」を保障した憲法19条という比較憲法的には稀な1か条を創設しました。内心の自由という目に見えないものを保障したこの条文は、わが国の精神史における思想弾圧の歴史を反省した所産だと言われています。
キリシタンへの踏み絵を強要した江戸幕府のやり口、神である天皇への崇拝を精神の内奥の次元にまで求めた天皇制政府の臣民に対する精神支配の歴史に鑑みて、日本国憲法には「内心の自由」の宣言が必要と考えられたのです。
また、大日本帝国憲法から日本国憲法への鮮やかな大転換の根底にあるものは、国家よりも、もちろん天皇よりも、一人ひとりの国民の尊厳が大切なのだという、人権思想にほかなりません。
国家の象徴である「日の丸・君が代」を、国民に強制するということは、まさしく国家の価値を、国民個人の尊厳や精神の自由という価値の上に置くものと言わざるを得ません。本来当然なこととして、国民が主人で国家はその僕。国家とは国民が使い勝手がよいように作り上げた道具に過ぎません。にもかかわらず、主人である国民が、僕である国を象徴する国旗国歌に敬意の表明を強制されるなどは背理であり、倒錯というほかはありません。国民一人ひとりが、国家との間にどのようなスタンスを取るべきかは、憲法が最も関心を持つテーマとして、最大限の自由が保障されねばなりません。
その意味では、日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為なのです。
本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはなかろう、そうは思います。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安穏に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。彼は多大な不利益を覚悟して、自分の良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人、立派な教員ではありませんか。そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、決して侮蔑的な態度をとってはならない。ぜひとも、心して、研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
『澤藤統一郎の憲法日記』(2014年10月17日)
http://article9.jp/wordpress/?p=3709
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