「10.23通達」から5年、9.21東京地裁「難波判決」から2年
★ 学校に自由を!10・25集会
10月25日(土)18:00~ 日比谷高校星陵会館
『藤田の日記』 (「神田川」、「銭湯」)
「定山渓」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
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2008/03/19(水) 神田川
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今日、ラジオから「神田川」が流れていた。 前から違和感があった。 歌詞である。
・・・「一緒に出ようね」といってくれたのに いつも私が待たされて・・・
この私というのは、女性である。 男の方が風呂に時間がかかるのか。 風呂屋には時計がある、出る時間を決めとけばいいではないか。
・・・若かったあの頃 ただ貴方のやさしさが怖かった・・・
とあるが、いつも待たせる男の何処がやさしいのか。
・・・窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿・・・
昔、アパートの三畳にいたことがあるが、向かいの四畳半には若い夫婦が住んでいた。 三畳に二人の居住を許す例があったのだろうか。 戦後、何年ごろの話であろうか。 三畳は確かに狭いが、一人で暮らすには十分である。 二人は無理だ。
玄関脇の六畳の住人と将棋を指しながら、「お宅は広いですねえ」とつい口走って怒られた。 ある朝、そのアパートの共用玄関で女性がずっと立っていた。 「旦那が昨日、帰って来なかったんです」と、管理人の婆さんに言っていた。 「そのうち、帰ってくるよ」と婆さんは慰めていた。 地名が気に入ってそれだけで決めた柿の木坂のアパートであった。
歌詞には下宿とある。 下宿であるから、三畳間に二人居住を許したのであろうか。 そういえば、中学の英語のA先生の所に遊びに行ったら、玄関脇の四畳半ぐらいのところに親子三人で住んでいた。 昭和30年、場所は永福町であった。
神田川は当時、汚れていた。 今では、鮎の魚影が確認されるという。 ほんとかしら。
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2008/03/20(木) 銭湯
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銭湯には様々な思い出がある。 戦後直ぐの銭湯は汚かった。 夜も十時過ぎると酷かった。 時に子どもの糞が浮かんでいることもあった。
お湯もよく出ない。 カランの前で順番を待っていると、体が冷え切った。 お湯を頭からざぶっと被ったら、「もったいないことするな」と怒られたことがある。
番台には時々、小学校5年生の平井冴子ちゃんが座ることがあった。 隣のクラスの子である。 気になったが、言葉を交わせなかった。
あの頃は、風呂代、幾らだったのだろうか。 記憶にない。
その10年後、昭和37年ころは、23円だったと思う。 20円しかなくて、「早く出るから、3円負けてくれ」と頼んで断られたことがあった。 情けなく、とぼとぼ下宿に帰ってきた。
アパートではない。 叔母さんが子ども三人抱えて、下宿人を二人置いていた。 子どもといっても、20、16、12歳ぐらいの三人であった。 四畳半で4500円であった。
隣の部屋にはほっそりとした女性が一日ミシンを踏んでいた。 竹久夢二風、薄倖な女性の感じであった。 一度も話したことがなかった。
裏には井戸があり、庭も広い。 農家風の作りの家であった。 トイレに行くには、その家の広い台所を通過しなければならなかった。 それが嫌だった。
あの家は、今もあるのだろうか。 都立大学駅前から10分ほどの所だから、もう無粋なマンションへと変貌しているだろう。
★ 学校に自由を!10・25集会
10月25日(土)18:00~ 日比谷高校星陵会館
『藤田の日記』 (「神田川」、「銭湯」)
「定山渓」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
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2008/03/19(水) 神田川
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今日、ラジオから「神田川」が流れていた。 前から違和感があった。 歌詞である。
・・・「一緒に出ようね」といってくれたのに いつも私が待たされて・・・
この私というのは、女性である。 男の方が風呂に時間がかかるのか。 風呂屋には時計がある、出る時間を決めとけばいいではないか。
・・・若かったあの頃 ただ貴方のやさしさが怖かった・・・
とあるが、いつも待たせる男の何処がやさしいのか。
・・・窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿・・・
昔、アパートの三畳にいたことがあるが、向かいの四畳半には若い夫婦が住んでいた。 三畳に二人の居住を許す例があったのだろうか。 戦後、何年ごろの話であろうか。 三畳は確かに狭いが、一人で暮らすには十分である。 二人は無理だ。
玄関脇の六畳の住人と将棋を指しながら、「お宅は広いですねえ」とつい口走って怒られた。 ある朝、そのアパートの共用玄関で女性がずっと立っていた。 「旦那が昨日、帰って来なかったんです」と、管理人の婆さんに言っていた。 「そのうち、帰ってくるよ」と婆さんは慰めていた。 地名が気に入ってそれだけで決めた柿の木坂のアパートであった。
歌詞には下宿とある。 下宿であるから、三畳間に二人居住を許したのであろうか。 そういえば、中学の英語のA先生の所に遊びに行ったら、玄関脇の四畳半ぐらいのところに親子三人で住んでいた。 昭和30年、場所は永福町であった。
神田川は当時、汚れていた。 今では、鮎の魚影が確認されるという。 ほんとかしら。
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2008/03/20(木) 銭湯
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銭湯には様々な思い出がある。 戦後直ぐの銭湯は汚かった。 夜も十時過ぎると酷かった。 時に子どもの糞が浮かんでいることもあった。
お湯もよく出ない。 カランの前で順番を待っていると、体が冷え切った。 お湯を頭からざぶっと被ったら、「もったいないことするな」と怒られたことがある。
番台には時々、小学校5年生の平井冴子ちゃんが座ることがあった。 隣のクラスの子である。 気になったが、言葉を交わせなかった。
あの頃は、風呂代、幾らだったのだろうか。 記憶にない。
その10年後、昭和37年ころは、23円だったと思う。 20円しかなくて、「早く出るから、3円負けてくれ」と頼んで断られたことがあった。 情けなく、とぼとぼ下宿に帰ってきた。
アパートではない。 叔母さんが子ども三人抱えて、下宿人を二人置いていた。 子どもといっても、20、16、12歳ぐらいの三人であった。 四畳半で4500円であった。
隣の部屋にはほっそりとした女性が一日ミシンを踏んでいた。 竹久夢二風、薄倖な女性の感じであった。 一度も話したことがなかった。
裏には井戸があり、庭も広い。 農家風の作りの家であった。 トイレに行くには、その家の広い台所を通過しなければならなかった。 それが嫌だった。
あの家は、今もあるのだろうか。 都立大学駅前から10分ほどの所だから、もう無粋なマンションへと変貌しているだろう。
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