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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

3・26根津・河原井裁判中西判決

2009年04月17日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ▼ 君が代で起立するのは当たり前だろ
  …という「中西判決」徹底批判の集会


 先日の根津さん・河原井さんの判決の後、報告集会が開かれました。
 中西判決のどこがおかしいかということがかなり論じられました。
 もちろん弁護士の皆さんは自分たちの力不足を認めお詫びしていました。
 ここでは皆さんの主張するこの判決のどこがおかしいのかという部分の要旨を、かける範囲で書いてみました。
 この弁護士の方々が言っていることは根拠がないことではないということだけは確実です。
和久田弁護士

 次の控訴審に向けて頑張っていきたいと思います。
 争点としては憲法19条思想・良心の自由に抵触するかという問題が1点、2点目が旧教育基本法10条に抵触し教師の教育の自由を侵害するかという争点、3点目が地公法の規定などに反するか32条、33条の問題。処分権の乱用に当たるかどうかです。
 僕らはこの訴訟で一番何を訴えたかったかというと、教育というのは子供と生で接する場ですから停職、君が代不起立を何回か繰り返して根津さん河原井さんが期間を限定したとしても教壇を奪われるという、そういう危険を冒してまでなぜ君が代不起立をしたかと。それは根津さん、河原井さんの長年の教育実践、どんな教育をしてきて、どういう教育実践してきたのか、だから立てなかったのだとという教育的な信念、信条を裁判所にわかってほしかった。
 そのための実証をずいぶんしたつもりです。ところが裁判所の判決はそれらの点についてはほとんど触れられていません。
 今までの判例の中からピアノ裁判以降の判例を単純に踏襲しているだけです。
 裁量権に関しても根津さん河原井さんの30年以上やってきた思いについては全く触れられていない。
 根津さん河原井さんが30年間培ってきたものをそこだけ切り取って「立ってないからいけないんだ」と単純に言えばそれだけで切り捨ててしまう。それが本当にこういう教育問題に対する姿勢でいいのか、
 きわめて冷酷な判決だと考えます。

 憲法19条の思想良心の自由に関しては形式的にはピアノ裁判を引用するようなことはしていません。中身的には「外部的行為を思想の自由と結び付けてしまうとそれで社会は成り立たなくなる」というのが原則で最初に持ってきて、そのあとに「思想良心の自由と抵触が生じる余地がある」という書き方ででも「公務員は全体の奉仕者」ということをいっていてそうすると外的な行為の強制は公務員であればすべて許されるんだという風になってしまいかねない論理になっています。
 2点目の不当な支配に該当するかどうか、この点につきましても根津さん、河原井さん教育実践を含めてこの問題はむしろ、思想・良心の自由の問題もあるけれども、教育の自由、卒業式や入学式で日の丸を壇上に掲げそれに正対し強制的に起立されて君が代を歌わさせられるという、これが教育的にどのような意味があるのか。これは一審の中でむしろ強調してやってきました。
 証人尋問もやり学者さんもいろいろ言ってくれました。
 そういった学者さんの意見については一切触れていない、そういう判決です。
 学者さんたちは「卒業式や入学式という行事の中で日の丸を壇上に掲げ起立を強制されることは、国家忠誠意思の強制であると、まさに国家意思の強制なんだ」ということを明快に述べていただきました。確かにその通りで判決は*「だからといって日の丸君が代の問題を授業でやることは禁止されていないんだから、そういうことにならないじゃないか」と、いうようなことが書いてありますが、決してそうじゃない。
 根津さん河原井さんも本人尋問の中で言っていましたけれども、入学式や卒業式で日の丸に正対してそして立つと、そして君が代を斉唱する、そういうことをやっている先生が授業に帰ったら「日の丸君が代は問題あるんだよ」と言って生徒が納得するかという問題ですよね。
 教師として、君が代日の丸の問題性、これはやはり問題があるんじゃないかと、また自分たちの気持ちとしてもNOと言いたい。その気持ちを持ちながらも、しかし入学式卒業式で立ってしまえば、生徒たちは本当にそう思っているのかよ、と思ってしまいますよね。実際納得するのかとそういう問題なると思うんですよね。
 そういう問題の中で一番象徴的な儀式的行事の中で、起立をさせると、そのことを受け入れることは耐えられないというのが根津さん河原井さんの核心だったわけです。しかし判決はそういう思いについてはには全く触れず、判決では「教職員が日の丸君が代に関して歴史的事実を教えることを禁止するものではないし、教職員に対し、国旗国歌について一方的に一定の理論を生徒に教え込むことを強制するものとはいえない」と言っています。
 まさにここが裁判所の考え方として極めて不当かつ間違っているところだと思います。
 儀式の中で起立を強制させることが、まさにそういう行動をさせることが国家意思に忠誠させるまさに象徴的な行為であるという視点が全くない。
 また憲法が最も大事な原則としている個人の尊厳、個人の自由。これを最も大事なものとして国は憲法を掲げているんです。そういうものに一切触れずにこういったことを強制させるのは何の問題はないんだと、教育の自由にも関連はないんだと言い切ってしまう。これが今の裁判所の姿なのかと思います。
 処分権の乱用についても、根津さん河原井さんが一番わかってほしかった自分たちの教育実践のひとつとして不起立があるんだということには一切理解を示さない。単に根津さんは今まで色々な処分を受けてきたと、そういう積極的な行為をしている人はいけないと。河原井さんも何回も不起立をしてかつ日の丸に否定的な授業をしたからいけない、簡単にいえばそういう趣旨になってしまいます。
 停職については、戒告とか減給とかと違い非常に重要な処分であるということは判決も書いています。判決も総合的な判断が必要だと書いてあるにもかかわらず、河原井さんの教育実践内容など立証してきたことには全く触れず総合的な考慮が必要としながら、考慮しているのは過去の処分歴だけと、いうこういう状態です。
 取り方によっては、河原井さんについては懲戒処分の一番重い減給処分、それと停職1ヶ月、どちらをとっても良かったのではないか、みたいな書き方はあるんです。でも何回も不起立をしていたり、授業で批判していたりするので一月でも長いとはいえない、という書き方ですね。
 停職1か月というのは停職3ヶ月と違い、1学期分丸々の3ヶ月と違い1ヶ月なので、長いとはいえない、こういう書き方なんです。
 じゃあ根津さんは3ヶ月でいいのかという話になるんですけれども、そのあたり雑な書き方だと思います。
 根津さんは過去に何回もやっていると、しかも停職1ヶ月のときに本来勤務する学校の校門に毎日立って訴えていたと、そういうことをすることがあたかも3ヶ月という重大な処分を正当化するひとつの事情のような書き方もしています。
 そういう意味でなかなか心苦しかったのかなと見受けられないこともないことはないのですが、処分権の乱用ところはやはり裁判官も教壇から外されるというところは(戒告や減給と)大きな差があるということは認識している。そこで悩んだんじゃないかということは見受けられます。
 岩井弁護士(略)
 戸田弁護士(略)
 萱野弁護士(略)

河原井さん

 不当判決、これ私が書いたんです。この字を書きながら、これが開からなければいいなぁと思っていました。それからあと2本用意しました。1本は勝訴です。あるかなぁ勝訴と思いながら、それはのびやかに描かれていると自分では思っています。もう一つは非常に恐れていたんですけれども私と根津さんが分断される、分断判決という幕も用意しました。分断判決はなかったんですがまさに不当判決そのものでした。
 不当判決というのは今後の社会の動向を示唆しているなと思うんです。だから不当判決が出たならば力を蓄えて私たちは何をすべきかということを考え、そしてどういう行動していったらいいかと考えるべき思っています。
 私は裁判というのはどんな素晴らしい勝訴の判決が出てもそれを私たちが日常生活の中で職場で地域で具現化しなければ何にもならないわけですね。9.11の難波判決職務命令は違憲違法としたあの判決のあとの卒業式予防訴訟の原告が全員不起立という態度表明をするであろうと思っていました。しかしそうはなりませんでした。あの素晴らしい勝訴判決はただの紙切れになってしまったんですね。あの勝訴も私たちが日常生活の中で具現化しなければ裁判は裁判でしかないと思っています。ですので、勝訴をとったらそれをどんどん広げていこうよ、生活の中で、職場で地域で。ですから不当判決が出たら力を蓄えて打破していこうよ、そういうことなんじゃないかなと思っています。
 私のいいところはあきらめないことなんですね。いろいろな所に行くと、「河原井さん頑張っていますね」と言われるんですけど、これはストンと私の中に落ちない。私は決して頑張ってないんです。君が代不起立も教育実践の中で普段着の不起立といています特別なことではない、私は34年教員生活を続けてきてましたが大切にしてきたメッセージは二つです。一つはイエスノーはお互いに言い合おうね。おかしいことにあったらNOと言おうね、そして自分でできることで表現していこうね。
 もう一つは男らしく生きることや女らしく生きることが私たちにとって大切なのではなくて、本当に1回限りの人生自分らしく生きていこう。
 私の不起立は「強制は全身でNO」です。私ができることは不起立である。そのことは私が自らしく生きていくことの具現化です。そのことを続けていくことが教員を続けていくことのできない、絶壁に立つ、そういう時代に今なってしまっています。
 しかしまだまだ抵抗している人はいます。おかしいと感じた時にそれを見過ごさずに、それから自分のできることで抵抗する、あきらめない。これがとても大切だなと思っています。このことを私が34年間であった子供たちや先生たちに伝えることができたかなぁと振り返るんですけれども私はあと1年で定年です。首にならなければね。まだまだ続けられるかなと思っています。本当に最低最悪の判決です。でも4人の本当に心許せる弁護士さんたちと出会い、これから決してあきらめずに打開していくと、裁判は終わりではない。スタートという思いを新たにしました。
根津先生

 こういう判決が出るかな、出てしまうかな、と思っていて最悪の結果が出てきました。今の日本の状態ではこういったことがこれからどんどん出てくるでしょう。
 本人尋問の1回目中西(裁判長)さんの顔をじっと見ながら話しているとよく聞いているように見えました。こいつはどんな奴なのかなぁと思っていたんでしょうね。ところが次からは全然聞いていませんでした。私たちが意見陳述をしたいということを弁護士を通じていってもらうと、もう何度も聞いたといいます。二度同じことは言ってないはずですが、そういう言い方をしました。もう全然聞く気がないんだなと思いました。
 私はこんな人に裁いてほしくなかったと思います。何にも教育のことわかってないんですもの。教育のキの字も出てこない。私がやっていることが教育でないというのであればそこをきちんと裁判長の言葉で語ってほしかった。反対だったら反対でいい、キチンと語ってほしかった。ところが一言も書かれてなかった。
 私たちが今の10.23通達を教育象徴とする東京の教育は教育ではないということを主張してきたわけですね。子供たちの最大の人権侵害であり学習権の侵害であり、教育の自由の侵害であると、具体的に示したわけですが、その具体的に示したものに対して一つもなにも感じ取っていなかった。私はそこの部分で一番怒りが強いです。
 こういったものが出たから落胆するのではなく、あくまでも教育のとして今の問題をしっかり告発したいと思っています。運動ではなくて教育活動と思っていますから10.23通達を私たちの方から撤回させる、そういった教育活動を学校の中で作っていきたいと思っています。それはいろいろな人たちがどう立ち上がるかということだとおもいます。
 学校の中できちんと教育活動を作っていくことをしたいと思います。これには反対していくということを、声を大にしていくことを、外に向かって、子どもたちに向かって、大きい声で叫び、語りあいながらあるいは生活の中で話すそういうことをしていきたいと思います。
『つぶやきいわぢろう』
http://blog.iwajilow.com/?eid=949033

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