日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(22)大野晋先生の「は(既知)・が(未知)」説は「赤点」です。

2018-04-03 18:20:57 | 「は」と「が」
(00)
「昨日(4月2日)の記事」を、書き直します。
(01)
(1) 既知(扱い)と未知(扱い)
(2) 既知(扱い)と既知(扱い)
(3) 未知(扱い)と既知(扱い)
(4) 未知(扱い)と未知(扱い)
はじめに既知がくる(1)と(2)では既知(あるいは既知扱い)の下にという助詞を使う。また(3)と(4)では未知(あるいは未知扱い)の下にという助詞を使う。これが現代日本語の文の基本的構造である。まず(1)を示そう。
(1) 既知と未知
 私は大野です。
という文は、檀の上に立って私なるものが聴衆に見えている。それで、私なる存在については相手もこれをみて知っている、すると、それを既知扱いにして「私は大野です」という。この「大野です」という部分は実は未知の部分にあたり、「私は(ダレカトイウト)大野です」の意味である。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、24・25頁)
従って、
(01)により、
(02)
① I am 大野 =
① 私(既知)は大野(未知)です。
である。
従って、
(02)により、
(03)
① I am 大野 =
① 私(既知)は大野(未知)です。
である以上、
① My name is 大野 =
① 私の名前(知)は大野(知)です。
でなければ、ならない。
然るに、
(03)により、
(04)
① 私の名前(知)=大野(知)
である。
然るに、
(05)
① 私の名前(既知)=大野(既知)
ではなく、
① 私の名前(未知)=大野(未知)
でもなく、
① 私の名前(知)=大野(知)
であるならば、「矛盾」である。
従って、
(02)(05)により、
(06)
① I am 大野 =
① 私(既知)は大野(未知)です。
ではない。
(07)
「あの人は誰ですか」
「隣のおじさんです」
というような場合、「あの人」はすでに分り切っているので、答えでは省略された。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、32頁)
従って、
(01)(07)により、
(08)
① Who is あの人 =
① あの人(知)は誰(知)ですか。
である。
然るに、
(09)
① Who is あの人 =
① あの人(既知)は誰(未知)ですか。
であれば、
① あの人が誰であるか、分からない。
からこそ、
① あの人(既知)は誰(未知)ですか。
といふ風に「質問」してゐるはずであり、だとすれば、
① あの人(知)は誰(知)ですか。
であると、すべきである。
(10)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
 私大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(10)により、
(11)
① 私大野です。
② 大野私です。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(12)
② 大野私です。
③ 大野ならば私です。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(13)
(a)
1  (1)大野ならば私である。    仮定
 2 (2)     私でない。    仮定
  3(3)大野である。        仮定
1 3(4)     私である。    13前件肯定
123(5)私であり私でない。     42&導入
12 (6)大野でない。        35背理法
1  (7)私でないならば大野でない。 26条件法
(b)
1  (1)私でないならば大野でない。 仮定
 2 (2)       大野である。 仮定
  3(3)私でない。         仮定
1 3(4)       大野でない。 13前件肯定
123(5)大野であり大野でない。   24&導入
12 (6)私でない。でない。     35背理法
12 (7)私である。         6二重否定
1  (8)大野ならば私である。    27条件法
従って、
(13)により、
(14)
命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(ウィキペディア)。
といふことから、すなはち、「対偶」は等しい。といふことから、
③ 大野ならば私です。
④ 私でないならば大野でない
に於いて、必ず、
③=④ である。
然るに、
(15)
④ 私でないならば大野でない
⑤ 私以外は大野ではない
に於いて、
④=⑤ である。
従って、
(11)~(15)により、
(16)
① 私大野です。
大野は私です。
③ 大野ならば私です。
④ 私でないならば大野でない
⑤ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③=④=⑤ である。
従って、
(16)により、
(17)
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(17)により、
(18)
③ 私以外は大野ではない
が、「本当」ではない場合、すなはち、
③ 私以外にも大野といふ「名前」の人物がゐる場合は、
① 私大野です。は、「ウソ」になり、
大野は私です。は、「ウソ」になり、
③ 私以外は大野ではない。は、「ウソ」になる。
従って、
(18)により、
(19)
例へば、
「大野A」さんと、
「大野B」さんと、
「大野C」さんが、ゐる場合は、
「大野さんはどちらですか。」
といふ「質問」に対して、例へば、
「大野」さんは、
「私大野です。」
と言ふか、
「私大野です。」
と言ふのであって、
「私大野です。」
とは、決して、言はない
従って、
(10)(19)により、
(20)
例へば、
「大野A」さんと、
「大野B」さんと、
「大野C」さんが、ゐる場合には、
 私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる。
といふことには、ならない。
(21)
「大野さんはどちらですか。」
「私大野です。」
に対して、
「大野A」さんとが、
「大野Aさんはどちらですか。」
といふ「問ひ」に対して、
「私大野Aです。」
と「答へる」のであれば、それこそ、
① 私大野Aです。
大野Aは私です。
③ 私以外は大野Aではない
に於いて、
①=②=③ である。
といふ、ことになる。
従って、
(20)(21)により、
(22)
① 私(未知)が大野(既知)です。
② 大野(既知)は私(未知)です。
③ 私(未知)以外は大野(既知)ではない。
であるが故に
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
といふ、わけではない
(24)
① 私大野です。
大野は私です。
に於いて、
①=② であって、
尚且つ、「対偶」は等しいが故に、
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
②=③ であって、
それ故、
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
とするのが、「正しい」。
(25)
 マリリンモンローディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
(26)
「未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。」といふのは、「詭弁」に過ぎない。
(27)
 あのチャップリン大往生。
といふのは、
ならあのチャップリン大往生。
といふ、「意味」である。
cf.
「終止形としての排他的命題」=AはBであって(A以外はBでない)。
「連体形としての排他的命題」=(A以外ではない所の)AがBである=(他ならぬ)AがBである。
(28)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(29)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
音)の音量」の方が、
「は(清音)の音量」よりも、「大きい」。
従って、
(30)により、
(31)
「あのチャップリン」の「音量」の方が、
「あのチャップリンは」の「音量」よりも「大きい」。
従って、
(25)(31)により、
(32)
「あのチャップリンは」に対する、
「あのチャップリン」は、「驚異」ではなく、「強意」を表してゐる。