1907(明治40)年12月7日、好天に恵まれた土曜日、ブラフ(山手町)の西側の一画、25番地にはドイツと日本の国旗がはためき、式典に臨む大勢の紳士淑女の姿があった。
これから横浜に住むドイツ人のための教会と学校を兼ねた施設「ドイツハウス」の定礎式が行われるのである。
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横浜の欧米外国人のなかで最も人口が多かったのは、明治期を通じて常に英国人、米国人だったが、その次はドイツ人であった。
アーレンス商会、イリス商会などドイツ系の商社が活発な経済活動を行っていたが、そこに勤める人々をはじめドイツ系住民のための集会施設や教会はなかった。ドイツ人子弟のための学校が1904年に設立されたものの生徒数が少ないことから、校舎は山手町248番の賃貸住宅を多少手直しした程度のものであった。
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この状況を一変させる機運が高まったのは昨年のはじめのことである。
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1906年1月に銀婚式を迎えるにあたって、ドイツ皇帝ドイツ皇帝ウイルヘルム2世夫妻は、居留民たちが計画していた祝いの品を辞退し、その予算をドイツ人のための公共施設設立に用いるようにとの意向を示した。
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同年1月10日、バンド(山下町)にあるドイツ人社交施設クラブ・ゲルマニアにて開催されたドイツ皇帝夫妻銀婚式祝賀会開催のための準備委員会において、ドイツ普及福音派教会のハース師により「ドイツハウス」設立が提案された。
学校、教会それに船員読書室、体育館、講義室、舞踏室も用意すべきではないかとの意見もあったが、ドイツ海軍病院のマッテオリウス院長からの、教会と学校を優先し、さらに資金が集まったところで体育館を増設してはという現実的な意見に落ち着いた。
こうして横浜及び東京に住むドイツ人のための公共施設として、また日本におけるドイツの存在感を示すものとして、ドイツハウスの設立が、準備委員会会長O. メイヤー議長のもと、全会一致で決定されたのである。
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翌月27日に同じくクラブ・ゲルマニアにおいて開催されたドイツ皇帝夫妻の銀婚式祝賀会の席上では、ハース師がドイツハウス設立準備委員会を代表し、「全ドイツ人の誇りとなる堂々たる施設、ドイツハウス」設立決定を祝って乾杯の音頭を取った。
具体的な建築計画は発表されなかったものの、学校と教会、集会室、体育館が備えられること、建築家デ・ラランデ氏に設計を依頼していること、レッツ商会のレッツ氏が土地を提供することが報告された。
そして、皇帝皇后の銀婚式を記念して東京と横浜のドイツ人により「ドイツハウス」が設立されるとの文書をベルリンの皇帝陛下に送付することが決議されたのである。
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設立準備委員会にはドイツ総領事フォン・ジーブルク氏をはじめ、ハース師、建築家デ・ラランデ氏、イリス商会のC.イリス氏、、エヴァース商会のM. クフマン氏、ラスぺ商会のR.リーマン氏、H.マッテオリウス病院長、オース商会のE.オース氏、ドイツ・アジア銀行のP. サンドバーグ副支配人、、アーレンス商会のW. シュマデック氏、シュミッド商会のR. シュ、ミッド氏、シャーフ氏、カール・ローデ商会のA. シーカンプ氏が名を連ねた。
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設計を担当したのは委員会のメンバーであり横浜で設計事務所を開いていたデ・ラランデ氏と、当時デ・ラランデ氏の事務所に所属していたヤン・レツル氏である。
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本館の中心は152フィート(約46メートル)の塔で、三つの鐘と、四角い側面のそれぞれに時計が設置される。
塔の左側は、教室・教員室がそれぞれ3室、寄宿室4室、厨房、地下に体育室を備えた学校であり、屋根には風見鶏が付けられる。
塔の右側は屋根に十字架をいただく教会兼集会室で、回廊があり、室内にはオルガンが設置される。
完成すれば、ブラフの新たなランドマークとなるであろう立派な建物である。
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当初レッツ氏が寄贈した土地は、ブラフのほぼ中央に位置する59番地の300坪であったが、計画が進むうちにそれではやや狭いということになった。
するとレッツ氏は寛大にもこれに代えて同じく自らの所有する25番地400坪を提供すると申し出たのである。
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建設費は東京と横浜のドイツ人居留民からの寄付と、ドイツ・アジア銀行の融資で賄うこととなり、基金には半年間で2万円弱が集まった。
土地が寄贈されたことで費用が大きく抑えられたにも関わらず必要な額にはなかなか届かず、着工までに約2年かかった。
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そしてついに迎えた定礎式の日、横浜と東京のドイツ人コミュニティの主要メンバーが顔をそろえた。
ドイツ大使ムム・フォン・シュワルゼンシュタイン男爵閣下、周布神奈川県知事、ドイツ大使館第一書記モンジュラ伯爵、同第二書記フォン・レイペンハウゼン氏、フォン・ジーブルク総領事、ムドラ副領事、同じくシュタンド副領事、オアート通訳官、ミュラー通訳官、リタースイス公使、三橋横浜市長、ハース師、そして巡洋艦ライプツィヒ号の士官数名。
N. D. L.海運会社の蒸気船ザクセン号の楽隊の姿もある。
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式はハース師による事業の発端の話で始まり、次いで横浜と東京の最古参の住民であるリーマン氏が建設の目的を記した書類を読み上げた。
この書類はその後大使ほか委員会メンバーによる署名の後、出資者名簿と式の招待状、ドイツ・ジャパン・ポスト紙の写し3部とともに金属の箱に収められ、礎石の空洞部分にしっかりと固定された。
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その後ムム・フォン・シュワルゼンシュタイン男爵が、皇帝の名のもとに定礎がなされたと宣言すると、続いてフォン・ジーブルク総領事、周布知事、次いで委員会のメンバーらが簡単なスピーチを行った。
式の合間にはバッハのカンタータ“いざ、もろびと神に感謝せよ“とヘンデルの”ラルゴ“が演奏された。
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ドイツ大使ムム・フォン・シュワルゼンシュタイン男爵がドイツ皇帝に代わって万歳三唱を発声し、出席者全員による国歌斉唱で式は終了となった。
その後軽食がふるまわれ、人々は新しい施設への期待に胸膨らませながら午後のひと時を共に過ごしたのである。
Deutsche Japan-Post紙(1907年12月7日号)に掲載されたドイツハウス定礎式の告知
図版:
・ドイツハウス定礎式写真 C. Illies & Co.所蔵
・ドイツハウス設計図 広島平和記念資料館所蔵
いずれも青木祐介「建築家デ・ラランデと横浜」(『都市発展記念館紀要』7号 2011年所収)より転載
参考文献:
・『Deutsch Japan-Post』1906年1月13日
・―1906年1月27日
・―Deutsch Japan-Post 1906年3月3日
・―Deutsch Japan-Post 1906年3月31日
・―Deutsch Japan-Post 1906年8月18日
・The Japan Weekly Mail, Dec. 14, 1907
・青木祐介「建築家デ・ラランデと横浜」(『都市発展記念館紀要』7号 2011年所収)
・中武香奈美「あるドイツ人が残した写真帳から」(『開港のひろば』第132号2016所収)