On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■マカドホテルー炎に消えた海辺の宿

2024-05-29 | ある日、ブラフで

マカドホテル

横浜根岸、間門通り

山と森に囲まれた海辺のホテル

ミシシッピー湾、富岡、金沢、峰山の見事な眺望

地元の皆様にも旅行者の方々にも最も快適にお泊りいただける新しいドイツ式ホテル

横浜エリアにおける最高の立地

風通しの良い健康的な部屋と良質なベッド

定評ある素晴らしいドイツ料理と行き届いたサービス

冷水・温水浴槽あり

山と海辺の遊歩道

ランチ・ディナー貸切可

樽生ビール提供

 

オーナー エミリー・ハーン

 

1903年5月23日付のドイツ語新聞『Deutsche Japan Post』に掲載されたマカドホテルの広告である。

文中の「ミシシッピー湾」とは根岸湾のことで、いわゆる黒船来訪のおりにペリーがそのように名付けて以来、外国人に使われていた地名である。

ホテルはその根岸湾を望むマカド、すなわち現在の横浜市中区本牧間門のあたりに建っていた。

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1903年版のジャパン・ガゼット社のディレクトリ―(住所録)にこのホテルの名が初めて掲載されていることから、その原稿が用意された1902(明治35)年にオープンしていたと考えられる。

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御雇外国人のドイツ人医師ベルツはこのホテルに度々投宿した。

「べルツの日記」によると、1904年から翌年にかけて少なくとも4回訪れている。

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最初は1904年3月、考古学者として有名な横浜在住のイギリス人医師マンローらとともに横浜競馬場付近の貝塚を発掘に訪れた際に、マカドホテルに4日間滞在した。

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同年10月に再訪。

ホテルと名乗ってはいるものの客室はわずか6部屋で、散歩や遠乗りの客が立ち寄るレストランが主な収益源である、そして宿の人々は愛想がよいと記している。

翌年1月、そして2月にも訪れているから、もはや常連と言っていいかもしれない。

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1905年2月8日の日記を読めば、彼がマカドホテルに惹かれた理由が分かる。

その時は知人から依頼された校閲の仕事に専念するために2、3日の予定で訪れたのだが…少し長いが以下に引用する。

しかし、午前中、宿におっただけだった。

あまり素晴らしい天気なので、我慢ができなくなって、午後は素敵な近辺をぶらついた。

この静かな宿は、じかに海に接した松林の中にあって、海はここで、いわゆる「ミシシッピー橋(ブリッヂ)」(千八百五十三年日本の鎖国を破ったペリーがこう名付けている)を形造っており、その向かい側では東京湾の西の限界をなす美しい海岸が、約八キロにわたって延びている。

この大きい東京湾の中へ海岸は消えて、そこから海はまるで無限のようだ。

宿のすぐそばの小さい丘からは、海と箱根の山々と富士山を一目で見渡せる。

丘陵や海岸を散歩すると、うっとりするような眺めの連続だ。

(『ベルツの日記(下)』岩波文庫 1979年 p.317)

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ベルツの日記にはホテルの建物や設備などについて書かれていないので、現在入手できる数種類の絵葉書や古写真から外観を知るのみである。

冒頭の新聞広告の写真と同時期に撮影されたと思われる手彩色絵葉書を見ると、手前に張り出したテラスの屋根だけが赤く塗られている。

実際もそうだったのかもしれない。

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繁盛にともない何度も増改築を重ね、建物は少しずつ姿を変えていった。

例えば、赤い屋根のすぐ上に見える小さな切り妻型の屋根は、次の写真では形状が変わって破風がなくなっている。

右端の1階にもテラスが追加されている。

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増築されたテラス部分はさらに大きく張り出され、2階建てとなった。

このころには敷地の前面に延びる生垣に幾何学模様のフェンスが加えられている。

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明治三十八(1905)年八月二十八日付の『横濱貿易新報』には次のような記事が載っている。

マカドホテルの祝賀会 来る三十一日午後四時より市内根岸町マカドホテルにおいて夏季祝賀会を催し独逸楽士を聘して奏楽せしめ純益は悉皆日本赤十字社へ寄付する由

原文の漢字は旧字。なおこの催事は雨天により延期された)

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マカドホテルで生演奏付きのサマーパーティーを催し、純益を全額日本赤十字社に寄付するというのである。

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その時のものではないが、ホテルで行われたパーティーの写真からは、当時の華やかな雰囲気が伝わってくる。

万国旗を掲げた門を通って人力車が次々と到着。

道の右側にはすでに客を下ろしてその帰りを待つ車がずらりと列をなしている。

左手に並ぶテーブルは外国人の男女でほぼ埋まり、ウエイターと思しき白いユニフォームの男性たちの姿もみえる。

テーブルクロスの花柄と着飾った婦人客の帽子が目に楽しい。

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何かの催しの際に参加者が絵葉書に寄せ書きしたものか。

 

和服姿の女性をあしらった手彩色絵葉書

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マカドホテルのビジネスは順調だったようだが、女主人エミリー・ハーン夫人はやがて病に倒れてしまう。

何か月も病床にあって、その間も夫と二人の子どもとともにホテルの経営に努めたが、1910年7月21日、ついに帰らぬ人となった。

ドイツハウス(山手町25番地)で行われた葬儀には多くのドイツ人と日本人が参列したという。

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翌1911年7月26日未明、前日深夜から降り出した雨が突然勢いを増し、すさまじい暴風雨となって横浜を襲った。

港に係留された何艘もの船が荒れ狂う波に襲われて木っ端みじんに打ち砕かれ、その破片が海藻とともに浜に散乱した。

早朝までに約150ミリを記録した雨でバンド(山下町)一帯は洪水となり、約350棟が浸水した。

高台のブラフでは木々がなぎ倒され、建物から剥がれ落ちたタイルが四方八方に飛び散った。

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雨が降り始めて間もなく電力が不安定となり、夜中の12時半には完全に停電してしまった。

午前2時ごろ、暗闇に包まれたマカドホテルでだれかが明かりを得るためにろうそくをともした。

激しい風にろうそくは倒れ、建物は瞬く間に炎に包まれた。

早朝までの数時間で完全に焼け落ち、マカドホテルは約10年間の短い歴史を閉じた。

幸いなことに死傷者はなかったという。

ハーン夫人が亡くなってわずか1年後のことであった。

 

図版
Deutsche Japan Post(1903年5月23日)
・その他の手彩色絵葉書、写真すべて筆者蔵

参考資料
・トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(下)』(岩波文庫、1979年)
・気象庁各種データ・資料(気象庁|過去の気象データ検索 (jma.go.jp)
・本牧のあゆみ研究会編『本牧のあゆみ』(新本牧地区開発促進協議会事業部、1986年)
・嶋田昌子「間門ホテル」『季刊誌横濱』10号(2005年秋号)所収
・『横濱貿易新報』明治38年8月28日
Deutsche Japan Post(1903年5月23日)
Deutsche Japan Post(1904年9月3日)
The Japan Weekly Mail, July 30, 1910
The Japan Weekly Mail, July 29, 1911


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