時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

近未来への予知能力を高める:クリストファー・イシャウッドの小説

2021年01月08日 | 書棚の片隅から


クリストファー・イシャウッド(木村政則訳)『いかさま師ノリス』白水社、2020年


クリストファー・ウイリアム・ブラッドショー=イシャウッド(1904-1986)、この名前を知っている人はどれだけいるだろう。英文学史上では、第一級の小説家とは評価されていないかもしれない。没後20年近く経過し、作家のメモワールや800ページを越える大部の伝記*1は残るものの決して同時代のサマーセット・モームやトーマス・マンなどに比肩しうるとは思えない。しかし、ブログ筆者には心の底でどこかつながっている人物、小説家である。時々、記憶の奥底から浮かび上がってくる。そして、まだ自分も生まれてはいなかったが、あの時代、ナチス台頭直前のベルリン、不安な時代のイメージが頭をよぎる。

新型コロナウイルスの感染が世界的規模へと拡大した昨年、2020年、行きつけの書店の新刊書の棚で偶然出会った1冊がある*2。はるか昔に読んだ小説やそれを基に生まれたミュージカル 『キャバレー』Cabaret を見ていたことが脳細胞に残っていたのだ。自由な外出もままならず、社会全体が重い空気に覆われている時、歴史の追体験を期待して久しぶりに再度読んでみようかと手に取った。以前は英語だったが、今回は邦訳を選んだ。幸い達意の訳文であり、滞ることなく読み終えた。ちなみに訳者はD.H.ロレンス『チャタレー夫人の恋人』(光文社古典新訳文庫)、サマーセット・モーム『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』(木村政則訳) 光文社古典新訳文庫)なども手がけられている。


*1 ISHERWOOD A Life Revealed, By Peter Parker, Illustrated, Random House, 2004, 815 pp


Christiopher and His Kind by Christopher Isherwood, Sylvester & Orphanos, n.a. 
イシャウッド自身によるメモワール

*2 クリストファー・イシャウッド(木村政則訳)『いかさま師ノリス』白水社、2020年

作家になるまで
イシャウッドは1904年、イングランド北西部チェシャーで生まれた。ケンブリッジ大学やロンドン、キングズ・コレッジなどに入学するが、いずれも短期間で退学し、幼馴染の詩人W・H・オーデンの示唆を得て、1929年ベルリンへ移った。

この時代のベルリンは芸術・文化の花咲くヨーロッパ屈指の都市であったが、同時に裏面においてはあらゆる歓楽、退廃の文化が繰り広げられていることでも知られた悪徳、快楽そして犯罪に満ちた都市でもあった。イシャウッド自身も積極的にこの世界へ入り込んでいる。当時は社会的に認知されなかった同性愛者であることを特に秘匿していた訳ではなかった。大学を卒業していなかったが、後世の評価からすれば知識階層に属し、思想的には左翼であった。作家、劇作家、詩人などのグループに含まれ、作品はその経験に裏付けられたものである。

イシャウッドは自ら進んでベルリンの怪しげで不安な世界に没入するとともに、映画や文筆業にも積極的に手を染め、脚本や自伝的小説などで作家としての名声も獲得した。1939年に発表された”Goodbye to Berlin”『さらばベルリン』は、本書 “Mr. Norris Changes Trains”『いかさま師ノリス』(1935)の後に刊行された短編集である。これらの作品は後年 Berlin Stories という形で編集されている(ちなみに筆者はこれを読んでいた)。

ここに取り上げる『いかさま師ノリス』も、作家のベルリン時代の体験を背景にしたひとつのフィクションである。しかし、虚構は当時の時代環境を鋭く反映している。衰亡の色が日々強まるワイマール共和国の黄昏とナチスの台頭する1930年代初期のベルリンを描いた作品である。イシャウッド (イギリス人だが1946年アメリカに帰化) が自ら過ごしたベルリンでの生活(1929-33年)に基づいている*3

*3 イシャウッドが1929-1939年に住んだベルリン、シェーネベルグ 地区の家には記念銘版が残されている。

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時代背景
ナチス台頭前夜:ワイマール文化の黄昏
この小説の展開する舞台は、1930年末から1933年前半は、ドイツが共和制を採用していた時代の末期に当たり、しばしば「ワイマール共和国」と称される時代である。1919年6月、ドイツはヴェルサイユ条約を承認するが、その内容は海外領土放棄、軍備制限、異常に多額な賠償金を伴う報復的な内容を伴うもので、結果として国民の間に政府に対する不満を生み、ナチス台頭の要因となった。7月にはワイマール憲法が採択され、翌8月には公布された。
「ワイマール共和制」の下ではその理想とは離れて、民主主義が十分根付かなかった。さらに1929年には世界恐慌が始まり、ドイツ国内には深刻な社会的不安が引き起こされた。

この中で、「共産党」(1918年結成)と「国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)」(1919年「ドイツ労働者党」として結成 )の左右両勢力が激しく対立しながら、拡大していった。共産党は元来ドイツ労働党という極小政党に過ぎなかったが、1920年には党名を改め、21年にはヒトラーが党首となってから、急速に成長していった。1933年にはヒトラーが首相に就任、2月には国会議事堂放火事件が発生したが、ヒトラーの提言を受けて、緊急大統領令が発令され、共産党の非合法化など他政党の勢力が極度に抑圧された。3月にはヒトラーは全権委任法を定め、事実上ワイマール憲法は効力を失い、名実ともにワイマール共和国は消滅した。1934年にヒンデンブルグが他界したのを契機に、ヒトラーは総統の地位に就き、独裁者の地位を確保した。
Reference; イシャウッド(邦訳)
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『いかさま師ノリス』は熟達した訳文、そして読者に親切な年表などにも助けられて、読み進む上で支障はない。ストーリー自体は喜劇的、コメディ調であり、テンポの良い展開に押されて読み進んでしまう。しかし、次第に世馴れない主人公ウイリアムとともに、自分も切迫した恐るべき状況へ取り込まれてゆく感じが強まっていくことを感じる。青年ウイリアム・ブラッドショーは、イシャウッドの小説における身代わりの役割を負っているようだ。

作品ではウイリアムが冒頭から登場する。外国生活に憧れ、英語を教えて生計を立てている。ウイリアムはオランダからドイツへの列車の旅で乗り合わせたノリス氏という一見していかがわしいイギリス人中年男と時間潰しの会話をする。見るからに信頼し難い男なのだが、巧みに相手を話に取り込んでしまう能力がある。ウイリアムはノリスのそうした怪しさに半ば気づきながらも、単に列車でのいっときの相手にとどまらず、その後の日々で付き合うことになる。

ノリスはベルリンの影の社会に深く身を置き、この出会いの後、巧みにウイリアムを自らのいかがわしい暗黒な世界へと引き込んでゆく。次々と喜劇的な場面が登場する傍ら、怪しげでスパイ的なストーリーが絶え間なく展開する。

小説ではありながら、作者自らが刻々と迫る危機の時代に身を置いていることが、喜劇的描写を超えて来るべき破滅的な事態への突入を読者に感じさせる。ナチス台頭前夜の恐るべき日々が描かれている。次々と喜劇的なプロット展開を提示しながらも、次第に高まる説明しがたい恐怖の増加を感じさせる。

邦訳についてひとつ残念に思うのは表題にある。『いかさま師ノリス』ではノリスが最初からいかさまを働く人物であることが読者に刷り込まれてしまう。この作品で、列車の意味するところは大きい。原著はMr Norris Changes Trains であり、次々と相手や場所を変えながら、ノリスが次第に深みへとはまってゆく過程が重要なのだから。列車は最後まで重要な舞台装置となっている。タイトル Mr Norris Changes trains(仮訳『ノリスは列車を乗り換える』)は文字通りこの作品のテーマを暗示している。

おりしも、世界は新型コロナウイルスという見えざる脅威に翻弄されている。現代のように技術が高度に発達した社会においてもその世界的次元への感染拡大を予測することはできなかった。近未来の社会への感知能力を研ぎ澄ます上で、文学がノン・フィクションを凌ぐ可能性を持つことに注目したい。
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