時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

フェルメールを発掘した人

2008年10月10日 | フェルメールの本棚

  東京都美術館では「フェルメール展」が開催中だ。また、さまざまな話題が生まれるだろう。美術好きといっても、多くの人は作品の鑑賞が中心で、画家の生涯やその時代まで立ち入ってみたいと思う人は比較的少ない。しかし、作家の時代的背景などを知ることは、専門家でなくとも作品鑑賞に新たな興味を付け加えてくれることは確かだ。作品の見方が大きく異なってくる。

 時には、美術史の専門家ではないことが、固定した視角にとらわれない斬新な論点を付け加えてくれることもある。フェルメールの研究においてもそうした人物がいた。本来は
美術史家ではない研究者の努力が、大きな貢献を果たしたのだ。

  エール大学教授のジョン・マイケル・モンティアス John Michael Montias は、専門は経済学者でありながら、フェルメール研究の第一人者となった。彼が1989年に出版した『フェルメールとその環境 社会史のネットワーク』*は、この画家が活動した家庭的・社会的基盤や周辺、画家、妻などの家族環境、パトロンの存在などを、オランダやベルギーの17都市の公文書館などに保存されてきた古文書を渉猟し、分析した労作である。フェルメール研究者にとっては、必読の基礎的文献になっている。

 美術史の方法も多様化しているようだが、本書は社会経済史的アプローチとでもいうべきジャンルに入るのだろうか。いずれにせよ、今では本書を読むことなしには、多少なりと立ち入ってフェルメールを論じることはできないほどだ。

 モンティアスが1975年、デルフトで聖ルカ・ギルド(画家のギルド)について調査を始めた時は、フェルメールにはとりたてて関心がなかったという。フェルメールは当時のオランダで活躍していた250人ほどの画家リストの一人にすぎず、画家の生涯についてはすでにほとんど調べつくされたと思っていたらしい。モンティアスはフェルメールの技量には感嘆したが、当初は画家の家族や生活などには関心を抱かなかったという。ところが、ギルドとそのメンバーについての史料を読み解くうちに、フェルメールについての一次資料で、未だ調べきれていない文献、情報があることに気づく。
 
 確かにモンティアスの前に、フェルメールについて、かなりの一次資料調査が行われていた。なかでも、1880-1920年にかけて富豪の御曹子だったアブラハム・ブレディウス Abraham Brediusは、資金に制約されることなく文献調査を行っている。この頃は、史料に書き込みをしたり、自宅やホテルへ持ち出して読むなどのことが行われていたようだ。

 モンティアスはすでに発掘されつくしたと思われる資料を再調査する過程で、新史料に気づき、貴重な発見をすることになる。その特徴は、画家フェルメールと彼の親戚、姻戚
、知人など、関連する人脈についての地道な調査を通して、画家フェルメール、そして彼が生きた17世紀オランダの日常生活を再現するという見事な成果を生み出した。たとえば、気位も高いカトリックの妻カタリーナ、その母マ-リア・シンス(フェルメール結婚時は離婚していた)、義兄ウイレムなど、かなり個性的な人物のイメージが描き出されている。画家の盛期の作品の半分近くを購入したと思われるパトロンとの関係を発見したことも本書の大きな貢献だ。

 画家ヨハネス・フェルメールは、1653年、カタリーナ・ボルネスと結婚したが、ヨハネスはプロテスタント(カルヴィニスト)だった。一説では、カトリックに改宗することを同意の上で結婚したともいわれるが、確認されていない。これも、モンティアスが明らかにしたいと思っていた点であるようだ。ちなみに、フェルメールは長女に義母と同じマーリアというカトリック風の名前をつけていた。

 フェルメールの家族は当時としてもかなり大家族であった。フェルメール夫妻の間には、23年間で15人の子供が生まれている。これは大家族が多かった時代とはいえ、かなり珍しい部類であった。この子供の数が多かったことも、晩年の画家の経済破綻のひとつの要因とされるほどだ。妻の家族からの財政的な支援もあったのだろう。モンティアスの視点は、画家フェルメールの家族を基点に、画家の祖父まで遡り、ほぼ3代にわたる拡大家族の間のネットワークをカヴァーしている。フェルメールの父親がデルフトで宿屋を経営するとともに、画商を営んでいたこと、画家の晩年の経済的貧窮の状況など、興味深い事実が遠い過去の闇の彼方から引き出され、描き出されている。その意味で、画家フェルメールの伝記の範囲にとどまらず、彼の拡大家族、そしてオランダの町の社会史となっている。

 今日では、史料もフォトコピーがとれるような世の中だが、モンティアスは埃にまみれた手書きの古文書の山に分け入って、画家を取り巻く世界、多くは平凡な日常生活の記録から、画家が生きた時代を紡ぎだしたといえる。

 モンティアスの労作は、期せずして、1650年当時、オランダ、デルフトという人口25000人くらいの都市における普通の人々の物語となっている。フェルメールの家族をめぐる小さな世界の物語だが、彼らを取り巻くさまざまな網目が織り成す世界が描き出されている。本書は単にひとりの画家の出自や生い立ちという範囲にとどまらず、画家が制作活動を行った家庭や親戚、修業の過程、制作態度、パトロン、家計状況などについて、詳細なミクロ探査の目を向けた。なかでも画家の作品の半数近くを購入したパトロンの存在を明らかにしたことは大きな貢献だろう。

 従来の美術史家の視野や関心が、ともすれば作品に関わる比較的狭い範囲に限定されてきた束縛から解放し、美術史に新たな光を導きいれた一大労作だ。
  
 300年を超える時代を遡り、各所に散逸し埋もれた原史料を発掘するという作業は、常人にはとてもできるものではない。モンティアスはギルドにかかわる文書を渉猟する間に、17世紀オランダの手書き文書を読みこなすまでになり、その技能と知識をフェルメールに関わる文書の調査・探索に注ぎ込んだ。デルフトばかりでなく、ゴーダやハーグなどの文書館に残る古文書を探索している。

 フェルメールの場合、オランダ、デルフトという大きな戦乱などに巻き込まれなかった地で活動しただけに、一次史料は比較的恵まれた形で継承されてきた。この点は、ロレーヌなどのように、動乱の巷であった地域とは大きく異なっている。しかし、別の分野だが少しばかり似たような調査をした経験からみると、モンティアスのなしとげたことは気の遠くなるような仕事である。いうまでもなく、こうした地道な努力は他の研究者によっても行われているが、モンティアスの仕事は図抜けている。

 本書は57枚の図版を別にしても、407ページというかなり大きな著作だが、中途半端な小説よりもはるかに面白い。よくも一人でここまで調べ上げたという熱気が詰め込まれたような著作だ。フェルメールの研究者でなくとも、大変興味深い内容に魅了されるだろう。小説を読むより格段に面白い。結果が見えない地道な史料探索に生涯をかけた研究者の努力に頭が下がる。これは何度でも読みたい一冊だ。
 
Contents   
Chapter 1. By the Side of the Small-Cattle Market
Chapter 2. Grandfather Balthasar, Counterfeiter
Chapter 3. Grandmother Neeltge Goris
Chapter 4. Reynier Jansz, Vos, alias Vermeer
Chapter 5. Reynier Balthens, Military Contractor
Chapter 6. Apprenticeship and Marriage
Chapter 7. Family Life in Gouda
Chapter 8. Young Artist in Delft
Chapter 9. Willem Bolnes
Chapter 10. The Mature Artist
Chapter 11. Frenzy and Death
Chapter 12. Aftermath
Chapter 13. Vermer’s Clients and Patrons


John Michael Montias. Vermeer and His Milieu: A Web of Social History. Princeton: Princeton University Press, 1989.
407pp+illustrations


Montias は17世紀デルフトの画家と職人についての下掲の注目すべき書籍とかなり多くの論文も残している。
John Michael Montias. Artists and Artisans in Delft: A Socio-Economic Study of the Seventeenth Century. Princeton: Princeton University press, 1982.

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