時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ベルリンの陰翳:イシャウッド再読(1)

2006年10月08日 | 書棚の片隅から

  以前に見たり読んだりした作品(絵画、書籍、音楽など)が、このごろはかなり異なって見えることがある。この『さらばベルリン』Christopher Isherwood. Goodbye to Berlin (1939) *も、そのひとつである。衰亡の色が日々強まるワイマール共和国の黄昏とナチスの台頭する1930年代初期のベルリンを描いた作品である。イシャウッド (イギリス人だが1946年アメリカに帰化) が自ら過ごしたベルリンでの生活(1929-33)に基づいている。最近、ソフトカバー版が書棚に残っていることに気づき、なつかしくなり読み直してみた。

  実はこの作品を最初に読んだのは、ミュージカル『キャバレー』Cabaret(1972)を見た後だった。ニューヨークへ出張した折(74年か)、友人が連れて行ってくれた。イシャウッドの小説に基づいているということを知り、原作を読んでみようと思い立った。ミュージカルの印象が大変強かったことが残っている。順番は良く覚えていないが、『ウエストサイド・ストリー』、『マイフェア・レディ』、『キャッツ』、『チェス』、『グランド・ホテル』、『オペラ座の怪人』、『ミス・サイゴン』、『レ・ミゼラブル』など立て続けにミュージカルを見た時期があった。

  原作は、1930年代初めベルリンで英語の個人教師として暮らしているひとりのイギリス人の目を通して巧みに描いていた。急速に陰鬱さを増し、刹那的で退廃の色が濃くなってゆくベルリンの様子を生き生きと伝えていると思った。日常の光景を政治的事件を含みながら、淡々とした筆致で描いている。娼婦にとって金払いの良い顧客である日本人まで登場する。いつの間にか読み終わっているという感じである。しかし
、テンポの速いミュージカルの迫力におされていたのだろう。

  その後、このブログでも時々取り上げてきた画家エルンスト・キルヒナー(1880-1938)を含む表現主義の作品などと重ね合わせている間に、かなり焦点が合ってきたように思う。時代が果てしない奈落の底へと向かう中で、生きた人々の心象風景が見えるようになった。

  最初読むと、どこに結論が向かうのか、ほとんど分からない小説である。退廃、堕落し、享楽的で異常な日々を送る人々の群像。ユダヤ人迫害の浸透。ナチスを嫌いながらも、次第にその呪縛にかかってゆく人々。忍び寄る恐怖の影、強力なアジテーターが現れれば、誰にでもついていってしまうような政治的堕落、そして刻々と運命の日へと向かって行く・・・・・・。だが、深く心に残る作品である。一度読み出すと、自分も時の流れに取り込まれたようになる。日々起きる出来事をただ記したような展開だが、実は周到に構成されていることに気づく。

  あの有名な一節もそこにあった:
「私はカメラ。シャッターは開きっぱなし、ひたすら受身で、考えることなく記録する。反対側の家の窓辺でひげをそる男、きもの姿で髪を洗っている女。いつか、これらは現像され、注意深く印刷され、定着されねばならない。」
    I am a camera with its shuter open, quite passive, recording, not thinking. Recording the man shaving at the window opposite and the woman in the kimono washing her hair. Some day, all this will have to be developed, carefully printed, fixed.(Goodbye to Berlin, 1939)

  ミュージカルを見た後で、原作を読んだ当時は、すっかり作家の自伝的小説と思いこんでいた。しかし、それは誤りだった。作家は撮影者としてカメラの後ろにいたのだ。そのことにうかつにも気づかなかった。

  改めて読んでみると歴然とした政治小説であり、破滅へと急速に進んでいる20世紀の都市に生きる人々の姿を写していた。最後の残光のようなものを放ちながらもグロテスクで堕落した都市と人々、カフェ、キャバレー、夜の世界・・・・・。設定は異なるが、
なんとなく、あのオルハン・パムクの「イスタンブール」につながるものを感じさせた。

  今は輝いているベルリンだが、かつては一度破滅を経験した都市である。ヒトラーの時代と終末をリアルに描いた作品は数多いが、奈落の淵に向かうほんのわずかな残光ともいえる時間を描いた小説はそれほど多くないように思う。ベルリンは生をとりもどしたが、この都市の空はなんとなく陰翳を感じさせると書いたことがある。その一部分がかすかに見えた思いがした。

*
Christopher Isherwood. Goodbye to Berlin.London: Vintage Classics.Original 1939.(邦訳も出版されているようだが、未見。)
この小説はMr. Norris Changes Train (1935) という対になるような作品と一緒に、The Berlin Stories と題された緩やかに結ばれたような形で出版されている版が多いが、Mr.Norrisについては、また別の時に触れてみたい。

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