時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

長編を凌ぐ短編:『レンブラントの帽子』

2021年01月24日 | 書棚の片隅から


このところ偶然なのか、レンブラントについての小さな記事をいくつか目にした。そのひとつはこの大画家の大作『夜警』についての後世の加筆をめぐる真贋鑑定の問題、もうひとつは、『レンブラントの身震い』The Creativity Code(邦訳)と題されたAIの可能性に関する英国の数学者マーカス・デュ・ソートイの著作だ。それらについてここでは触れることはしない。

連想で思い出したのが、レンブラントを題材としたアメリカの小説家バーナード・マラマッド(1914-1986)の短編だった。画家の描いた帽子については、このブログでもジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「召使いの黄色の帽子」、フェルメールの『若い士官の帽子』などを記事として書いたことがある。

Bernard Malamud, Rembrandt’s Hat, New York: Farrar, Straus & Giroux
バーナード・マラマッド(小島信夫・浜本武雄・井上謙治訳『レンブラントの帽子』、集英社、1975年;夏葉社、2010年) 
本書には「レンブラントの帽子」の他、「引き出しの中の人間」、「わが子に殺される」の2篇の他、「注解」、「レンブラントの帽子について」(荒川洋治解説)が収録されている。


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NB
マラマッドはソール・ベローやフィリップ・ロスと並び、20世紀、同時代のユダヤ人作家である。この小説家を知ったのは、筆者が大学院生だった頃出会ったユダヤ人の英文学者との交友を通じてであった。文学専攻ではない筆者にとっては、当時は単にそうした作家と作品があることを知っただけで、読む時間もなく、いずれ来るかもしれない余暇のために記憶されただけだった。長らくカリフォルニアの有名カレッジで教鞭をとっていたこの友人は、大変優れた文学者で交流を通して多くを学んだが、とりわけアメリカ社会におけるユダヤ系の置かれた特別な位置について、知らされたことが多かった。知性の点でも大変優れた人たちであったが、社会における少数派という特徴を守るために、血縁者の関係が強く保たれ、教育に極めて熱心だった。教育こそが自らの社会的少数派という劣位を挽回しうる最重要な要因と考えられていた。彼らの生活態度、思考様式をみていると、マラマッドの作品内容と重なることが多々あることに気付かされた。

マラマッドについては、その後かなりの年月が経過した時、多少時間が出来た折に、いくつかの作品を読んだ。この作家は慎重な制作態度で、多作ではなかった。今に残るのは小説8編、短編小説54編といわれている。
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今回、手にした『レンブラントの帽子』は実は以前に読んだことがあった。今回、たまたま手元に残っていた邦訳を目にしたので、再度読んでみることにした。最初に表題を見た時に思い浮かべたのは、レンブラントの多数の自画像の中で、画家がかぶっているかなりフォーマルな広いつばのあるフォーマルな感じの帽子だった。この短編で想定されている白い帽子ではなかった。





ストーリーは簡単といえば、実にその通りだ。同じ大学に勤めるルービンという彫刻家と彼より一回り若い34歳の独身男で美術史を担当するアーキンという男の間に起きた小さな行き違い、いざこざがテーマだ。大学の教員や芸術家と言われる人間に、ともすれば見かける神経質で、偏狭な性格の男の間で起きた小さな問題だが、二人にとっては始終頭から離れないような大きな問題の顛末である。

これまで、二人の関係は仲が良いとはいえるが、友人というほどの間柄ではなかった。ある出来事をきっかけに二人の関係に波風が立つ。ある日ルービンが被っていた白い妙な帽子に、アーキンが「レンブラントの帽子そっくりですよ」と、美術史家としての蓄積の一端を口にしたことから始まった。

聞き流してしまえば、どうということのない日常の挨拶のような話なのだが、ルービンがなんと思ったか、やや厳しく受け取ったことで、二人の関係は、一転冷え込み、深刻なものとなった。この発言の後、二人の関係は両者の人格をかけたような重みを持つようになる。アーキンもなにかまずいことを言ってしまったかと、レンブラントの作品に描かれた帽子を再度調べてみると、どうも間違ったことを言ってしまったような思いがしてきていた。それにしても、どうしてこんなにこじれてしまったのか。ストーリーは主としてアーキンの思考を軸に、両者の微妙な感情的変化を描くことで展開する。

結末は思いがけない形でやってきた。(読まれる方の興をそがないようこれ以上は記さない。)

彼は白い帽子をかぶっていた。レンブラントの帽子に似ているように思えた、あの帽子だった。それをルービンは、あたかも挫折と希望の王冠のごとくかぶっていた。」(小島他訳、pp.28-29)

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再読して感じたのは、まさに短編のために熟慮を積み重ねられたプロットであるということだ。他愛のない話といえば、それで終わってしまうかもしれない。

小説家にとって短編はさまざまな意味を持つ。ほとんど短編しか書かない小説家もいる。短編は中編、長編の間のつなぎのような位置付けとするような作家もいる。さらに短編は中編・長編のいわば素描のようなエネルギーの投入で書かれていることもある。短編に作家としてのエネルギーのほとんどを費やす小説家もいる。ヘミングウエイなどは、短編であっても最初から短編を意図したわけではなく、結果として短編になったのではないかと思われる。

イギリスの小説家アンソニー・バージェスがマラマッドについて評したと伝えられる『アメリカのユダヤ人であることを忘れることがなく、アメリカの都市社会でユダヤ人であるという立場を採るときに最良である』との感想を改めて思い出した。この話の中には、大きく広がる社会性などは感じられない。しかし、限定された領域の中で、微妙に揺れ動く人間の感情が、質を低下させることなく、凝縮して描かれていると感じた。アメリカ文学の中で主流とはいえないが、自ら定めた確たる位置を守り抜いている作家だ。


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