時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

猫の世界は謎だらけ

2024年06月13日 | 書棚の片隅から



フィリップ・J・デーヴィス作・マーガリート・ドリアン絵(深町真理子訳)『ケンブリッジの哲学する猫』表紙

我々の日常的生活の中で目につく動物で際立っているのは、犬と猫ではないだろうか。それでは、人間から見て「哲学者」のイメージに最も近いのは? これはちょっと難しい。

犬は長らく人間の良き友とされ、その忠誠さがしばしば話題となってきた。忠犬ハチ公のイメージは典型的といえる。しかし、少し近すぎる感がしないでもない。いつも主人である飼い主のことを考えているように見える。犬独自の時間はあるのだろうか。

それでは猫はどうだろう? 猫も多くの人々にとって、大変近い動物なのだが、なんとなく人間と離れた「猫の領域」を固守しているようなところがないだろうか。時々、どこかへ行ってしまうような行動も見せる。ある距離を置いて、人間を観察?しているのではないか。

ここに取り上げるのは、世界の名門ケンブリッジ大学ペンブルク学寮に住みついた若い雌猫(トマス・グレイと名づけられる)と、人間たちのファンタジックなフィクションである。ブログ筆者の愛読書の一冊だが、それほど頻繁に読んだりするわけではない。度重なる断捨離の荒波にも耐えて、書棚のあまり目立たない片隅に置かれてきた。ちなみに邦訳は名訳者の名が高い深町真理子氏の手になるもので、丁寧で独創的な訳文に感嘆する。

主人公である雌猫(彼女)は、どこからケンブリッジにやってきたのか。別に由緒ある生まれの猫ではない。この大学町の周辺イースト・アングリアに広がる荒涼たる沼沢地(フェン・ランドと呼ばれる)から、縁あって川を伝わって船旅(フェンには浅い川に適した平底船が多い)などをしつつ、ケンブリッジの著名な学寮(カレッジ:発音はコレッジに近い)のひとつ、ペンブルグ・カレッジにたどり着き、階段の下に勝手に住み着くことになった。
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N.B.
フェンという沼沢地は、推察されるように、人間が住むにはあまり適した場所ではない。遠くに灌漑用の風車などが見えたりするが、その他には目立った景観はない。ブログ筆者は、この地の荒涼とした光景が好きで、ケンブリッジに滞在していた間、その中を通る一本道をボロ車を運転しては大聖堂で有名なイーリー(Ely)などへしばしば通った。


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ケンブリッジ周辺の略図 本書 p.12

さて、ペンブルグ学寮にたどり着いた名前のなかった猫は、学寮の最高機関であるハイテーブルで、議題とされ、その白と灰色の毛色の縁でトマス・グレイという名前で認知され、学寮の階段下で生まれた5匹(ニャン)の子猫も、めでたく然るべき飼い主に引き取られた。トマスは永住を認められ、出納長の手で養われることになる。

カレッジの正餐用のテーブルで、フロアーが一段高く設定されていることが多い。そこに着席を許されるのは、フェローと言われる限定された人たちに限られる。正餐の時は全員がアカデミック・ガウンの着用が義務付けられている。

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N.B. ペンブルック・カレッジは実在する名門カレッジで、創設は1374年。ケンブリッジで3番目に古い歴史あるカレッジ。

本作品には、次のような仮想の人物が登場する。
学寮長(マスター)、ロード・エフトスーンズ卿、大学全体の副総長を兼ねる。
出納長、文学修士ロダリック・ヘーゼルミア
管理主任ヘッド・ポーター、H・J・スティーヴンズ
25人のフェロー

#ちなみに、ブログ筆者の今は亡き友人となったW.B.は、これも著名な学寮ダーウイン・カレッジのマスターで、大学全体の教学・研究担当副学長であった。経済学部長も務めた。長年の交友の間に普通のヴィジターでは知り得ない興味深い事実を知ることもできた。
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図らずもトマス・グレイと深い親交を結ぶことになったのは、大学で自然科学史を専門とする特別研究員のルーカス・ファイスト博士で、世俗的なものに背を向けた、純粋で心やさしい人物である。詩的素養も深いが、少なからず奇矯な面もある。このふたり(?)を中心に、ファンタジックでユーモラスな物語が展開する。

カレッジの住人たちは、歴史上、妻帯が認められなかったこともあって、長年、外の世界とは一線を画した生活を送っていた。カレッジ内の上下関係は明瞭で、フェローは手紙一通を出すにも、カレッジの外に出る必要はなかったと聞いたことがある。学寮外の世界は、そこに住む俗人に任せておけばよかったのだ。

作者は「猫の世界」に通じていた。猫関連の詩や詩人が作中に散りばめられている。中でも、聖書研究に励んでいた無名の修道士が残した詩(ネズミ捕りに精出すパングル・ボーンという名の猫が出てくる)についての考察など、大変興味深い。

ここに紹介するのは、猫のトマス・グレイとペンブルック・カレッジの教員フェローにして、いくぶん奇矯な性格の持ち主であるルーカス・ファイストの両名の関係である。ふたり(?)の共同研究は知の世界において、双方にすばらしい栄誉をもたらしたが、同時に、結果として、あまたの形而上学的な問題を提起するにいたった。

人間たちは気づいていないのだが、トマス・グレイは独自に学寮内を探索したり、学者たちの会話を聞いたりして思索する猫なのである。学寮内の出来事には、猫の特権?を生かして、どこにでも出入りし、ほとんど全てに通じている。あの有名なフィッツウイリアム博物館も、出入り自由の身なのだ。いつの間にか、カレッジの住人にとって、トマス・グレイは ”絶対不可欠な” sine qua non 存在となっていた。

トマス・グレイは互いに親密感を抱くファイスト博士に大きな知的ヒントを与えることになり、その成果を「共同研究」として発表したり、ユーモラスだが極めて刺激に満ちた世界を作り上げてきた。


読書中の"猫背先生"(p.166)

ユーモアとエスプリに満ちた本書を読み進めると、大きな転機?がやってくる。ある日、トマス・グレイが失踪してしまうのだ。大騒ぎとなり、ケンブリッジ警察まで捜索を依頼するが、問題にもされずあしらわれてしまう(笑)。余談だが、最近ブログ筆者の住む地域では、迷子になった(あるいは逃げてしまった)飼い犬、そして時には飼い猫の失踪で、情報提供を求める広告が入ることがあるようになった。

トマス・グレイが失踪するのも、猫の本性によるものなのだ。それを知らずにここまで過ごしてきた学問の町の住人の行動が滑稽に描かれる。

多少なりとケンブリッジという「蔦とランプという静謐な世界」(p.174)である学者の世界の片鱗をうかがってみると、外の世界の住人には理解し難いことも多々ある。一体彼らが日々やっていることはどんな意味があるのだろう。

長い目で見れば、カレッジ住人の仕事がなにになるだろう? あの有名な警句がここにも記されていた。キングズ・カレッジのジョン・メイナード・ケインズが、『確率論研究』の基本的な概念についての注釈のなかで指摘したように、”長い目で見れば、われわれはみんな死んでいる”のだ(p.175)。

さて、トマス・グレイはどこへ行ってしまったのだろうか。幸い彼女は生きていた。思いがけない場所であった。その場所はブログ筆者にとっても予想外ではあったが、思い出深い地であった。

ご関心のある向きは本書をお読みいただくしかない。


ブログ筆者の感想:かなりハイブラウでエクセントリックな範疇に入る作品だが、多くの学問やそれが生まれる世界は、部外者にはなんの役に立つのか分からないことが多い。その点を理解してページを繰るならば、日常あまり使うことのない脳細胞の活性化に役立つかもしれない。話は下掲の目次のような筋書きで展開する。


フィリップ・J・デーヴィス作・マーガリート・ドリアン絵(深町真理子訳)『ケンブリッジの哲学する猫』(THOMAS GRAY: PHILOSOPHER CAT by PHILIP J. DAVIS, Illustrated by Marguerite  Dorian) 社会思想社、1992年。
ケンブリッジの哲学する猫 (ハヤカワ文庫 NF 275) 文庫 、 2003年4月


目次
登場
1     いかにしてトマス・グレイはケンブリッジに来たりしか
2    いかにしてトマス・グレイはその名を得たりしか
3    ハイテーブルにて
発見
4    ゲダンケンツォー
5    彼女の意味ありげな尾
6    発見
7    数17の平方根
8    ソナタ・アパショナータ
勝利
9    私的な言語
10    ジョージ、ご婦人をもてなす
11      フィッツウイリアムにて
12    デミタス
13    ル・ブランクフォール
14    耳に聞く元老らの喝采をとどろかせ
憂悶
15    失踪
16    ウオーターフェン・セント・ウイローの哲学者たち
17    夕べの祈り
18    貴賤結婚?
決断
19     アーケスデン家にて
20    省察された情熱
21    反芻されぬ学問のかたまり
22    さまざまなシミュレーション
23    ジョージの助力
24       最後の対話
謝辞

追記
偶々、下記の展覧会が開催されているので、ご参考まで:

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