時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

世界を変えた印刷の力

2009年11月19日 | 書棚の片隅から

インタリオ印刷の工房風景


 最近の「キンドル」などの電子書籍出版の成果を見ていると、ディジタル・インクといわれる文字の技術もさることながら、人物像などの図版の美しさに感心する。人類の歴史において、印刷が果たしてきた役割を改めて考える。

 ジャック・ベランジェジャック・カロなど、17世紀前半のロレーヌで活躍した銅販画家の作品を見ていると、銅版画の精緻さもさることながら、図版と印刷文字の結合の美しさに魅惑され、その技法を知りたくなる。今日、PC上などで文章の間に図版を挿入するのは至極容易だが、木版や銅版の時代はきわめて高度な技術を要した。

 この当時、高い技術を要する印刷は、その多くがヴェネティア、パリ、リヨン、アントワープ(アントウェルペン)などの都市で行われたことに思いいたる。そういえば、あのガリレオ・ガリレイの『新科学対話』も、新教国となったオランダで1638年頃に印刷された。今も学術出版の分野で著名な「エルゼビア社」Elsevir として、その名が残るライデンの「ハウス・オブ・エルゼヴィル」(1569-76年)が引き受けたようだ。2005年には、エルゼビア社の425周年記念祝典が行われた(この出版社の書籍には素晴らしいものが多いが、価格も高い(涙))。

 いうまでもなく、活字印刷の創始者として、ヨハン・グーテンベルグの名はよく知られており、世界史に残る偉大な業績だ。印刷技術・文化の歴史で、それに続く重みが感じられるのが、アントワープ(アントウェルペン)の印刷・出版業者クリストファー・プランタン Christopher Plantin が残した功績とされている。プランタンはその高度な印刷技術と旺盛な出版事業によって、印刷事業の発展に大きく寄与した。しかし、プランタンのことは、日本ではあまり知られていない。

 アントワープのプランタン・プレスは、最盛期の1575年頃は印刷機20台、80人近い職人を雇い、ヨーロッパ中で多数の書籍を印刷、販売していた。当時のヨーロッパでも、印刷業者としては瞠目すべき大規模な事業者だった。

 フランス人だったプランタンChristopher Plantinは、この地に1550年に住み着いた。しかし、最初志した製本と革職人の道を不慮の迫害による負傷であきらめ、1555年頃から印刷業に転じたらしい。実は、この人物の生涯をみると、当時のネーデルラント独立運動ともからんで、波乱万丈、大変興味深い。アントワープという当時、繁栄の極致にあった旧教都市を活動拠点とし、宗主国であったスペインやローマ教皇庁などを主たる活動の場にしていた。プランタンはカトリックを信じていたと思われるが、活動のある時期は熱心なカルヴァン派の人物に支援されていたことなどもあって、その心の内は複雑であったのかもしれない。

 プランタンは印刷、出版者にとどまらず、印刷物や地図の販売業者でもあった。彼はアントワープという地の利点を十二分に活用した。銅版画、木版画をインタリオIntaglioといわれる新たな凹版印刷の技法、ブロック版を活用して、本文中に挿絵として使用した。プランタンは、すでに1560年代にインタリオ印刷の斬新な使途に目途をつけていたが、実際に大規模に活用したのは1570年になってからだった。こうした新しい方式を印刷に利用しようとする試みはそれ以前にもあったようだが、余り注目されなかったようだ。

 出版の世界でもプランタンは多くの斬新な試みを行い、たとえば「多言語対訳聖書」poliglot bible といわれる当時としては画期的な印刷物を創り出した。彼の生涯に制作された書籍は1,887点に達したといわれる。特に1563年のトレント公会議中止以降、標準的なカトリックのテキストの売れ行きは良く、プランタンの新しい技術を使うことを可能にした。特にアントワープを支配していた旧教国スペインの市場が大きく貢献した。

 その成果やその後の印刷にかかわる膨大な資料を、アントワープのプランタン・モレトゥス印刷博物館Plantin-Moretus Museumが所蔵している。博物館で最初に世界文化遺産に認められた。最近、印刷史の研究者Karen L. Bowen and Dirk Inhofは、広い範囲にプランタン工房の印刷物の利用が拡大していった過程を精緻に検討し、その成果を新著とした。著者の一人インホフはこの博物館の稀覯本と史料部門のキュレーターである。

 
16世紀後半から17世紀にかけての時代が、世界史的にもきわめて注目すべき時期であったことに改めて気づかされた。印刷が世界を大きく変えた時だ。現在進行している電子出版も、後世から見ると、間違いなく大きな転換期を画した発明として記憶されるだろう。

 Karen L. Bowen and Dirk Inhof. Christopher Plantin and Engraved Book Illustrations in Sxteenth Century Europe. Cambridge University Press, 2008.458pp. 

●なお、邦文による下記論文は、プランタン工房とプランタン・モレトゥス博物館の訪問記を含む適切な紹介である。
芝木儀夫「アントワープのプランタン~16世紀のネーデルランドと印刷工房の歴史~」『精華女子短大紀要』47-54、2007-2008年

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