時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌの春(14)

2007年04月06日 | ロレーヌ探訪


    ナンシーからリュネヴィルへ向かう途中、左側の丘の谷あいに華麗な教会の尖塔が見えてきた。二本の高い尖塔が、赤茶色の屋根の家々と、背景の緑の丘に映えて際立って美しい。大寺院ともみまがう大きな教会である。ミューズ川に沿った町のほぼ中心に建っている。明らかに、このあたりのランドマークともいえる人目をとらえる素晴らしい光景である。道路からは少し見下ろすような位置にある。

  その美しさに惹かれて予定を変更し、寄り道をすることにした。地図を見ると、サン・ニコラ・ポールSaint-Nicolas-du-Port であった。その地名で思い出した。ここはかつて、ロレーヌの商業活動の中心地であった。しかし、17世紀、30年戦争の間にリュネヴィルと同様に歴史に残る悲惨な経験をした。

略奪の場と化した町
  この美しい町は、1635年4月、ハンガリーとポーランド軍に略奪され、その翌日にはフランス軍が略奪を行った。さらに続いて、神聖ローマ皇帝のワイマール軍が入ってきた。彼らは、もはやなにも略奪する対象がないことを知ると、激昂して町民を殺害し、町に火をつけた。そして同年の11月11日、ロレーヌでは大変に有名であったこの教会堂まで徹底的に破壊してしまった。

  11世紀に建立された大変歴史のある教会であった。ロレーヌばかりかヨーロッパでもその名が知られた著名な巡礼地であった。1429年には、ジャンヌ・ダルクも礼拝に訪れたという。リュネヴィルとナンシーのほぼ中間であり、ラトゥールも幾度となく訪れたことだろう。

  人々の賛美の的であった教会の屋根はその後、長らく破壊されたままになっていた。なんとか修復されたのは、やっと1735年になってからのことだった(1950年になって、ローマ法王からバジリカと認められた。)ナンシーとリュネヴィルを結ぶ道はこの美しい谷間にある町を迂回し、見下ろすように通っており、巡礼者のみならず、この地を旅する者にとっては大きな感動を与えたであろう。その美しさは、際立っていた。ゴシックの高く聳え立つ尖塔が町の目印のように見える。ちなみに1940年にも空爆を受けて破壊され、大きな損傷を受けた。

  幸いなことに、この地に生まれ、その後アメリカに移民し、1980年に亡くなったフリードマン夫人 madame Camille Croue-Friedman が再建のために多額な寄付をしてくれた。中世以来、人々の目をひきつけてきた華麗な85メートルを超える尖塔も復元された。教会内陣やステンドグラスも復元され、目を見張るほど美しくなっていた。

災厄の時期
  17世紀フランス美術史、そしてラトゥールの著名な研究者であるテュイリエは、30年戦争当時のロレーヌ破壊のすさまじさは、今日のレバノンやユーゴスラヴィアが経験している実態と変わりないと述べている。この町にかぎらず、30年戦争当時、ロレーヌを侵略した占領軍の略奪、暴行のすさまじさは言語に尽くせないものだった。侵略した軍は、しばしば司令官からひとつの町や城を略奪の対象として与えられた。

  彼らは略奪、暴虐の限りを尽くした。そして、退去に際してしばしば町や城に火をつけた。新教国のスエーデン軍の行動が最も乱暴で、ヨーロッパ中で恐れられていた。彼らはカトリックの偶像や華麗な教会には反感さえ持っており、破壊になんら罪悪感を抱かなかったようだ(Thuillier, 100) 

  ロレーヌの住民は、外国軍の侵略に大きな恐怖を感じて生活していた。リュネヴィルも例外たりえなかった。リュネヴィルは1638年9月にフランス軍が侵攻し、全市に火をつけた。ロレーヌ公シャルルIV世とリシリューや王との激しい確執もあって、ルイ13世は町に何も残すなと命じたらしい。

悪疫の流行と食料不足
  ロレーヌの不幸・災厄は、戦争ばかりではなかった。この時期、ロレーヌには悪疫が流行した。病原菌は神聖ローマ帝国軍によって持ち込まれたらしい。1630年までにメッス、モイエンヴィック、ヴィックはチフスの一種ではないかと思われる「ハンガリアン」病に苦しんだ。厳しい防疫措置が講じられたが、衛生状態が悪く効果がなかった。

  リュネヴィルは、最初はなんとか感染地にならないですんだが、ロレーヌ公と家族は1630年には同地の城へ避難した。1631年夏が悪疫はしょうけつをきわめた。悪疫は6月に広がり、10月末まで続いた。町は外部との接触を完全に断ち切られ、人気がなくなった。悪疫は1633年に再び蔓延したが、前回ほどではなかった。しかし、ナンシーはひどい状態となった。悪疫の流行は、1636年4月に再び始まった。終息したのは12月だった。病気に感染した者の中で160人は回復したが、80人ほどは死んでしまった。

  加えて、厳しい食料不足が到来した。働き手は極端に不足したが、占領軍は町に依存し、苛政が続いた。農民ばかりか僧侶たちまでが鋤、鍬をとって働いた。収穫は少なく、しばしば実りの前に取られてしまった。食べ物に困り、犬、猫まで食べた。このロレーヌの惨状は、ジャック・カロがリアルに描いている。貧窮のどん底に追い込まれた農民たちの間には、カニヴァリスムまであったといわれる文字通り極限の状態が出現していた。

  幾多の戦争や悪疫という災厄を経験したロレーヌの町や村だが、早春の緑の中に何事もなかったかのように静かに点在していた。



Referenc
Jacques Tuillier(2002) Georges de La Tour. Paris: Flammarion

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