時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌの春(9)

2007年03月20日 | ロレーヌ探訪


Photo Y.Kuwahara  

    ナンシーは踏み込んでみると、予想以上に濃淡・陰翳のある町であった。旧市街と新市街の全域にわたってさまざまな見所が散りばめられている。楽しんで見ていると、いくら時間があっても足りなくなる。大部分の観光客のお目当ては、エミール・ガレなど、アール・ヌーヴォーの作品をたずねることにあるようだが、それ以外にも魅力的な場所が多い。その中でかねて期待していた場所のひとつが、「ロレーヌ歴史博物館」Musee Historique Lorrain である。ここも日本人観光客はあまり見かけない。  

  スタニスラス広場を横切り、美しい並木道を通ってゆく。この並木道は樹齢を重ねた巨木が多く、素晴らしい景観を作っている。市民がさまざまに散策を楽しんでいる。子供たちや犬が芝生を駆け回っている。  歴史博物館はかつてのロレーヌ公の宮殿 Palais Ducalの一部である。

  壮大なゴシックの大聖堂などがひと目をひくメッスなどと比較して、ナンシーには15世紀以前の建物で目立つものは少ない。今に残る町づくりは、16世紀以降、ロレーヌ公の宮廷社会の繁栄に伴って進められてきたといえるだろう。  

  さらに、17世紀に入ると、ナンシーとその宮廷世界は、当時のヨーロッパでも最高レヴェルの文化的内容を誇るまでになった。いうまでもなく、ロレーヌにおける芸術活動の中心であった。カロ、ベランジェ、デルエ、ラトゥールなど、きら星のごとき芸術家をロレーヌは輩出した。その多くは、イタリア、パリなどを活動の本拠としたが、彼らのロレーヌ文化興隆への貢献の大きさは計り知れない。ラ・トゥールのように、ロレーヌで生涯のほとんどを過ごした画家が少ないが、彼らにとってはロレーヌの重みはきわめて大きかったはずである。  

  しかし、こうした芸術活動と政治的苦境・破壊とのコントラストも激しかった。ロレーヌ公国は、絶えずその主権を神聖ローマ帝国、フランス王国など、周辺の列強大国によって脅かされてきた。1618年から48年にかけては30年戦争の戦場となり、1635年から37年にかけては、ヨーロッパをおそったペストの流行に苦しみ、人口も減少した。1633年には、フランスがナンシーを占拠するにいたった。フランスは、1697年にはリスウイックの協定でそれを決定的なものとした。  

  こうした中で、ナンシーが再び光彩を取り戻すのは、18世紀に入ってのことであった。ロレーヌ公国最後の王であったスタニスラス・レスジンスキーの統治下である。公の娘がルイ15世の妃となり、1766年に公が没するとともにフランス王国に統合されていくまでの時代である。



  ロレーヌ公宮殿の原型となったのは、16世紀初めにアントワーヌ公の統治下に造営された建物である。当時の栄華の姿はさまざまに記録されている。その後1792年、宮殿は略奪、破壊の対象となったが、1852年にかなりの程度修復された。とりわけ、宮殿北側部分は大幅に修復された。

 
Jacques Callot. The Gardens of Ducal Palace in Nancy, c.1625, etching

  ファサードは華麗なゴシックとイタリアン・ルネッサンス・スタイルを併せたものとなっている。騎馬姿のアントワーヌ公のレリーフが修復され、ニッチェに収められた。1階には、3つのバルコニーが華麗な欄干とともに彫刻の美しい梁材で支えられている。1937年にロレーヌ歴史博物館として活用することが決まるまでは、さまざまなことがあったようだ。しかし、今はところを得て内容も素晴らしい博物館となっている。この建物、近くで見ても美しいが、少し離れて見る尖塔も素晴らしい。

         

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ロレーヌの春(8)

2007年03月18日 | ロレーヌ探訪


Photo Y.K.



  この絵にナンシー市立美術館の片隅で出会った時、一瞬目を疑った。作品の中の壁に掲げられているのは、あの「生誕」 である。見ている場所が他ならぬロレーヌの中心、ナンシーということもあって、しばらく考え込んでしまった。  

  ナンシーを訪れるのは、今回で2度目である。大変美しい魅力に溢れた都市である。しかし、前回訪れた時は、スタニスラス広場、エミール・ガレの作品など、その華麗さに目を奪われたこともあって、都市の歴史的背景などにはあまり興味を惹かれなかった。アール・ヌーボーの花開いた、この都市の絢爛、華美な側面に圧倒されたからかもしれない。

  今回は印象がかなり異なった。ナンシーのたどった歴史についての知識と理解が、格段に深まっていたことが大きな原因のようだ。興味を惹く対象があまりに多かった。この町を訪れる多くの人にとって、最大の目標であるアール・ヌーボー美術の印象については、ここに記すにはとても多すぎ、別の機会に触れることにしたい。

  たまたま宿泊したホテルは、スタニスラス広場に面し、かつてマリー・アントワネットがお興し入れの途中で宿泊したという。今話題となっている映画「マリー・アントワネット」のことと併せて、思わぬ因縁に不思議な気がした。スタニスラス広場に面したこのホテルは、建物自体が広場の一角を占め、1883年以来世界遺産の指定対象になっていた。ホテルはかなり老朽化しているが、当時の華麗さをしのばせるたたずまいをとどめている。内部設備は古くても十分整備されていて、問題はない。シーズンオフで宿泊客も少ないこともあって、スタッフの対応も行き届いている。なにより立地が素晴らしい。広場は夕方からイルミネーションが施され、昼とは違った美しさをみせる。それでいて、パリのホテルよりはるかに安い宿泊料であった。

 

 La Place Stanislas, Photo Y.Kuwahara

 ナンシーは現在人口約33万人の都市で、かつてはロレーヌ公国の首都であった。今日でも18世紀の都市のエレガントな雰囲気を伝えている。旧市街と新市街に分かれるが、見所が広い範囲に分散していて、計画的に歩かないとかなり疲れる。

  ロレーヌ公の宮殿は、フランス革命の折にかなり破壊され、当時の4分の1程度が残るのみである。現在は、その中心部が「ロレーヌ歴史博物館」 Muséee historique lorrain となっている。この博物館は16世紀から18世紀中頃までの美術品を中心に、タピストリーなどを含めて素晴らしい展示内容だった。東京展のポスターでおなじみの「蚤をとる女」など、ラトゥールの作品も展示されている。とりわけ、興味深かったのは中世から16世紀までのロレーヌの歴史に関する展示物であった。日本人観光客は、ほとんどエミール・ガレなどのアール・ヌーボーの作品が展示されている「ナンシー派美術館」などへ行ってしまうようである。広場の新装なった、これもなかなか素晴らしい「ナンシー市立美術館」と併せて、お勧めである。その日、館内で出会った観客はどちらも10人程度であった。

  ナンシーがたどった激動の歴史は、アルザス・ロレーヌのそれとともに、複雑きわまりないものだった。その残光ともいえるロレーヌ公国最後の王であったスタニスラス Stanislas Leszczynskiの名は、この華麗な広場の名として残っている。

* ポーランド継承戦争の戦後処理として、正確には1735年、ウイーン予備条約で領土再編が図られ、平和が回復した。スタニスラスはそれまでの王号は認められるが、以後ポーランド王位は放棄し、ロレーヌ公国とバール公国を与えられた。しかし、これらの領土はスタニスラス一代限りで、死後はフランス王に返還することになった。

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ロレーヌの春(7)

2007年03月15日 | ロレーヌ探訪

 スタニスラス広場 Photo Y.Kuwahara 


  アルザス・ロレーヌという地域は、立ち入ってみると不思議な魅力を持っている。今日ではフランスの領土になっているが、過去の歴史においては文字通り激動の渦中に置かれ、神聖ローマ帝国、フランス、ドイツなど大国の狭間で、しばしば領土争奪の対象となり、激戦の最前線となって、美しい町や村々が略奪、破壊の場と化すといった悲劇も繰り返し経験してきた。

  ラトゥールの研究者テュイリエが記しているように、ロレーヌの風土とそこに住む人々の心情を理解しないかぎり、この画家の作品を理解できないというのはその通りだと思う。ラトゥールの17世紀、このロレーヌ公国(1555-1766)に住んだ人たちは、フランス語を話しながらも、フランスではない「国」への意識を大変強く持っていた。ロレーヌ人として生きるという意識は、ロレーヌ公への忠誠心よりはるかに強かったといわれる。

  ロレーヌ人の複雑な精神状況は、この地の風土に固有な特徴と陰影を加えた。ロレーヌの中心的な都市であるメッスとナンシーを比較しても、距離にしてはさほど離れていないのに、大きな違いが見て取れる。   

  ロレーヌに生まれ、生涯のほとんどをこの地で過ごしたラトゥールの作品は、フランス絵画とは異なった風土の中から生まれた。とりわけ、この画家の晩年は30年戦争(1618-48年)の時期と重なる。戦争はハプスブルグ・ブルボン両家の国際的敵対とドイツ新旧両教徒諸侯間の反目を背景にして、皇帝の旧教化政策を起因としてボヘミアに勃発した。新教国デンマーク、スウエーデン、後には旧教国フランスも参戦し、ウエストファリア条約の締結で終了するまで続いた。当時の戦争は、今日とは違い軍需品・物量支援などの国力の問題もあって、開戦後絶え間なく戦火が交叉するという状況では必ずしもなかったが、戦場となった地域の荒廃と不安は住民にとって計り知れない大きなものであった。

  この当時、すでに画家として名声を確立していたラトゥールは、さまざまな情報にも通じ、1637-38年など記録がない時期には、ナンシーなどへ家族と避難していたのではないかと思われる。特に、フランス軍がリュネヴィルを攻撃し、火を放って略奪のかぎりを尽くした1938年などには、この地を離れ難を逃れていたことは間違いない。リュネヴィルとナンシーの間は、当時の道路事情などを考慮しても、騎馬などの助けを借りれば1日で避難できたのではないかと思われる。逃れる場所のない農民と違って、ラトゥールのような上流階層の人間にとっては、ナンシーにもさまざまな避難をする上での伝手があっただろう。

  ナンシーは、ロレーヌ公国の首都として、16世紀後半から新たな宮殿も造られ、新市内も整備された。宗教的にも重要な役割を担い、教会、修道院なども多数建設された。30年戦争は、その発展を著しく妨げ、荒廃も進めたが、平和が戻った後にはレオポルド公の下で復興、充実が進んだ。現在世界遺産として残るスタニスラス広場の華麗な建造物などは、18世紀に入り、スタニスラス王の統治下によるものが多い。
 

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ロレーヌの春(6)

2007年03月13日 | ロレーヌ探訪



    ロレーヌの北部は、見渡す限りなだらかな丘の起伏が続く。美しい並木が連なる間を、整備された自動車道路が抜けて行く。葡萄畑の中を小さな川が流れて行く。時々、少し雨が降るが、すぐに晴れて雲間から日が射し、森と平原を光と影に塗り分ける。葡萄畑はきれいに剪定されて、なだらかな起伏の丘に広がっている。

  今回の旅ではパリからメッス経由、ナンシーを起点に、ヴィック=シュル=セイユ、マルサル、ノメニー、ポン・タ・ムッソン、リュネヴィル、エピナル、シャテル、トゥールと、ロレーヌの中心部をめぐった。フランス人でもよく知らない小さな町や村が多い。広々とした草原、農耕地、森が連なり、時には数百年も昔から続くのではないかと思われる鬱蒼とした森がこうした小さな集落を守るように覆っている。人の手が入ったものとしては、自動車道路、高圧電線の鉄塔、時々見かける風力発電の風車などである。

  しかし、この地ほど幾度となく激しく戦火が交わされた地域も少ない。戦車、大砲、トーチカ、慰霊碑など、大戦の傷跡を残す村々も多い。ヴェルダンの近くのように、コンクリートで固めつくしたトーチカ、塹壕、砲台など、撤去することをあきらめたかのように、放置してある光景もかなり目につく。メッツの北東フォルト・カッソの要塞を訪れたことがあったが、戦争のためにはこんなものまで構築したのかというすさまじい要害であった。

  ナンシーやメスのように、観光客も多い町を除けば、ヴィック=シュル=セイユのように、レンガ色の屋根の古い家があっても、しんと静まりかえっている村や町もある。17世紀以来、あまり変わらないのではないかと思われる光景である。町の中を歩いていると、あの絵に出てくるような顔をしたロレーヌの人々が現れてくる。サン・マリアン教会ではパイプオルガンが鳴っていた。人々は毎日、淡々とその日の日課をこなしているかのようだ。絵と現実を錯覚しかねないような光景がそこにある。今年の夏にはTGVが開通し、現在では3時間近くを要するパリ・ナンシー間の鉄道も、半分くらいに短縮されるとのこと。この忘れ去られたような地方を訪れることもずいぶん楽になるだろう。

  ポン・タ・ムッソン Pont-à-Mousson も小さな町のひとつである。ここはラトゥールの時代、1572年に、カトリック宗教改革の拠点のひとつとして、ジェスイットの大学が設置された。プロテスタントからの攻勢に、理論的対抗を図るためであった。ラトゥールの理解のためには、17世紀のロレーヌにおける宗教的背景についての理解が欠かせないことは、多くの研究者によって強調されてきた。この地域も幾たびか戦火の下にあったが、破壊を免れた教会、修道院などが修復されて、残っている。

 

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ロレーヌの春(5)

2007年03月09日 | ロレーヌ探訪
  ヴィックからメッスへ向かって北上して行くと、次第に見たような光景が眼前に広がってきた。かつて訪れた土地の記憶の断片がここでもよみがえってくる。この時期、ロレーヌの天候は大変変わりやすいという。確かに30分くらいの間隔で晴れたり、曇ったりしている。しかし、視野は広大で爽やかな感じがする。とりわけ、雲間から射してくる日の光は美しい。今年は野猪や鹿が自動車道路に出てくることが多いとのこと。途中で狩りをしている光景にも出会った。この地の人々にとっては、美味な食材であって楽しみでもあるようだ。




  ヴィックの近くのマルサール Marsalには、セイユ川の渓谷地帯の岩塩坑(池)での採掘状態を展示する小さな博物館もある。ここはあの築城家ヴォーバンが設計した城郭地帯の一角である。あたりには深い森に囲まれた美しい自然公園が広がっている。



  ロレーヌの自動車道路はよく整備されているが、みわたすかぎり自然が残されている。脈々と続く丘のいたるところに、ほとんど人の手が入っていないような深い森が残されている。



  メッスはナンシーと並び、ロレーヌの重要な拠点都市である。現在の人口は20万人近い。ブルボン王朝が支配したフランスとは異なり、地理的にドイツに近く、北方文化の影響を強く受けている。これはドイツの都市だということは、かつて訪れた時の第一印象であった。郊外のレストランで友人がウエイトレスにドイツ語で注文しているのを聞きながら、ドイツ語文化圏なのだという認識が残っている。メスには司教座が置かれていた。今に残る教会などを見ると、ゲルマン的ゴシックの伝統が脈々と流れていることを強く感じる。






  一時期はパリの王室画家などで過ごしたとはいえ、ラ・トゥールは、その生涯のほとんどをこのロレーヌの地で過ごした。その精神的基底にはゲルマン的、ゴシック的なものがしっかりと根付いている。ロレーヌという地域の文化的・精神的状況を理解するには、深い洞察力が必要なことを認識させられる。



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ロレーヌの春(4)

2007年03月05日 | ロレーヌ探訪
ヴィック=シュル=セイユには、17世紀当時の町並みを偲ばせる部分が多く残されている。



ラ・トゥール美術館の完成などで、町は整備されてかなり活性化した。以前訪れた時より格段にきれいになっていた。




ジョルジュが洗礼を受けたサン・マリアン教会(12-15世紀建造)も、ほとんど当時のままに残っている。


壁面の美しいレリーフ(tympanum)、教会にゆかりの隠者サン・マリアンの
伝説。1308年



Photo: Y.Kuwahara
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ロレーヌの春(3)

2007年03月03日 | ロレーヌ探訪

Hôtel (Maison) de la Monnaie (1456), Vic-sur-Seille.
Photo: Y.Kuwahara


    ラトゥールの生まれ育ったロレーヌ地方、ヴィック=シュル=セイユの町は、現在のフランス北東部、モーゼル県に位置するが、13-17世紀にかけては、メス司教区(Bishopric)の下にあり、実際の統治行政に当たる出先機関が置かれていた。今日でも中世以来の町並みが残っている人口1570人くらいの小さな静かな町である。盛期には、人口もこの数倍はあったのだろう。メス、ナンシー、ストラスブール、ザールブルッケンなどにも十分、一日内に騎馬で行ける距離にある。

  ヴィックは13世紀ころから発展を続け、17世紀前半に文化的にも最盛期を迎えた。司教区にあっては、重要な防衛上の拠点のひとつでもあった。当時の繁栄を支えていたのは、この地域に多い岩塩鉱とワイン生産であった。近くに岩塩生産の歴史を語る展示館が残されている。また、ワインについては、一時期すっかり衰退してしまったが、過去15年くらいの間に、復活してきた。そして、いまや天才画家ジョルジュ・ド・ラトゥールの生まれ育った町として知られるようになった。この画家は1593年3月にこの町に生まれた。町としても繁栄の盛りであった。しかし、その後は画家と作品が長らく歴史の中に忘れ去られたように、この町も静かな小さな町にとどまってきた。町中を歩いてみても、人影も少ない。

  町はなだらかな丘陵の合間に位置しており、町をセイユ川が横切って流れている。春の雪解けで増水し、溢れるばかりであった。丘の高みからみると、教会の高い尖塔が目立つ。17世紀頃もほとんど同様な景観であったろうと思われる。13世紀頃から城郭が町を囲んでおり、今でもメスの司教区のために建てられた城壁の一部分が残っている。東西南北、それぞれ600メートルから1キロほどの小さな町なので、どこでも容易に見に行けるのだが、ちょうど修復中で足場がかかっていた。パリなどの大都市からも遠く離れ、現代世界の主流からは取り残されたような小さな町ではあるが、歴史的遺産の修復・継承などの仕事も着実に進められている。

  美術館のあるジャンヌ・ダルク広場は、町の中心に位置しており、そのすぐ近くにツーリスト・史跡保全オフィスが置かれている。15世紀には貨幣鋳造場Maison de la Monnaieが置かれていたゴシック風の趣きのある3階建ての建物であった。町を歩いてみると、いたるところに、16-17世紀の趣きを今日に伝える館や町並みが保全されている。ジョルジュ・ド・ラトゥールも洗礼を受けたと思われる13世紀頃に建てられた教会と洗礼盤も残っている。ちなみに、ジョルジュの洗礼記録も、ジョルジュ・ド・ラトゥール美術館に展示されていた。教会も当時の美しさを維持している。17世紀以来のカルメル会修道会の跡も残っている。

  ヴィックの近くにはロレーヌの地域自然公園もあり、16-17世紀の頃を偲ばせるような美しい森林、河川、湖沼などが緑豊かに残されている。この町を有名にした画家は、「ジョルジュ・ド・ラトゥール通り」 La rue Georges-de-La-Tour として、その名をとどめている。

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ロレーヌの春(2)

2007年02月28日 | ロレーヌ探訪


  通常の観光客とはほとんど縁のないロレーヌの小さな町ヴィック・シュル・セイユのラトゥール美術館の売り物は、なんといっても「荒野の洗礼者聖ヨハネ」である。しかし、ラトゥールの作品については、もうひとつ「女性の横顔」(Tête de femme: fragment)を2004年から所有している。

   この小さな美術館が生まれた背景について、少しだけ記しておこう。なにしろ、この忘れられたような小さな町は、この美術館でかなり活性化した。町には立派な「ツーリスト・インフォメーション」が設置され、行って見ると、それまではなかったラトゥールとヴィックを紹介する別室まで出来上がっていた。ラトゥール・フリーク?にとっては、美術館とは別に、いつまでもいたいような空間である。ヴィックの町の立体模型も作られており、美術館の近くには、祖先がラトゥール家ではなかったかといわれるパン屋まである。

  「荒野の洗礼者聖ヨハネ」の発見をめぐる美術界での騒ぎは、かなりよく知られているが、この小さな町へもたちまち波及し、どの家でも屋根裏に作品が残っていないかと夢中になったとのこと。なにしろ、ラトゥールの作品ともなると、閣議で問題になるくらいの国宝扱いで、一枚数億円は下らないのだから無理もない。

  1996年モ-ゼル県は、ヴィック=シュル=セイユの町とジョルジュ・ド・ラトゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」を展示する美術館を設立する協定を結んだ。この作品は、一時は海外流出もうわさされたが、フランス政府の政治介入によって、1994年に将来その他の作品と合わせて美術館を設置することを前提に、県が保有する権利を獲得していた。フランス政府もまたアメリカへ持っていかれるのではないかと、躍起になって流出を防いだらしい。1993年の秋にパリの競売の下見会で発見されてから、翌年12月にモナコのサザビーズでオークションにかけられ、モーゼル県が落札・購入するまでの経緯は、紆余曲折、政治ミステリーのようであったらしい。

  美術館設置の場所として、当初はこの町の産業のひとつであった貨幣鋳造所跡が予定されていたが、ラトゥールの作品が常設展示されるということになって1998年には、80点近い作品の寄贈や寄付が集まり、最初のプランではとても収容できないことになった。これも予期しなかった「ラトゥール効果」だった。

  結果として、町の中心であるジャンヌ・ダルク広場に、かつては18世紀の町役場であった建物を改築して美術館とすることになった。ところが、古い町によくあることだが、建設サイトを3メートル近く掘り下げたところ、ローマ時代の遺跡に始まり、その後の幾たびかの火災の跡など、町の盛衰を語る多くの資料が発掘された。こうしたことで、美術館が完成したのは2003年6月のことである。

  美術館の内部は、訪問者がゆったりと作品をあるがままに鑑賞できるように自然光を重視した設計になっている。何にもまして、観客がいないことが都会の美術館とは大違いである。 展示されている作品は、美術館建設の歴史が語るように、ロレーヌの歴史の一端を物語る考古学的発掘品、穀物などを計量した秤などの生活にまつわる品々、彫像、絵画など、かなり多岐にわたっている。

  絵画作品に限ると、17-18世紀の作品に注目すべきものが多い。とりわけ17世紀初期のフランス画壇は複雑な変化をしているが、そのいくつかを象徴するような作品が展示されている。ちょうど、このブログでも記したパリの美術展で大きな注目を集め、待ち時間1時間以上という「オランジェリー 1934年: 現実の画家たち」と重なり合うような作品もあった。

  ヴィックを訪れる前からチェックをして、ぜひ実物を見たいと思っていた作品のひとつに、ジャック・ステラ Jacques Stella (1596―1657) という画家の「母親との自画像」があった。ステラはプッサンの友人でもあり、ラトゥールとほぼ同時代人であって、当時の人々の容貌や衣装がどんなものであったかを知るに面白いと考えていた。ところが、残念なことに、この作品だけ別の美術館へ貸し出し中であった。しかし、H. シェーンフェルドの「鏡の前のマドレーヌ」など、他の作品でかなり興味を惹かれたものがあった。

  満足できるまで見ていられるというのが、こうした美術館の大きなメリットである。オルセーなどで、名作に圧倒されるような威圧感もなく、自分の家の居間で作品に対しているような時間を過ごすことができる。



* この作品については、興味深い点もあり、いずれまた記すことにしたい。

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ロレーヌの春(1)

2007年02月26日 | ロレーヌ探訪

Photo Y.Kuwahara   


  ロレーヌは、もう春の光が射していた。土地の人の話では、今年は冬がなかったという。雪もほとんど降らなかったようだ。野原の木々には若緑の芽が見えている。この地方、比較的平坦ではあるが、地平線のかなたまで野原や畑が続くというわけではない。適度になだらかな丘陵や遠くに山も見えて目に優しい。雨量が多かったため、ほとんど草原や畑の中に埋もれたような川が岸からこぼれんばかりに、しかし静かに流れている。

  何度目のロレーヌへの旅になるだろうか。かつて仕事でしばらくパリに滞在していたころ、ザールブリュッケンの大学にいた友人の誘いで週末に何度か訪れた。冬の休みには1ヶ月くらい家に泊めてもらったこともあった。親切な友人で、遠来の客をもてなそうと、暇を作っては朝から夕方まで小さな町や村などに残る教会や城跡を案内してくれた。城砦の構築の仕組みに興味を抱くようになったのも、この頃からだった。友人夫妻の子供はまだ1歳にならず、乳母車を車へ持ち込んでの移動だった。その子供も今はスラヴ文化の研究者となった。

  ロレーヌの歴史やジョルジュ・ド・ラトゥールへの関心が深まってからは、ここは
きわめて親しみのある土地となった。アルザス・ロレーヌは、政治的にも複雑な経緯を辿った地域である。各地に刻まれたさまざまな記念碑や古い戦車、大砲などが幾多の戦争を記憶に留めるために残されている。それにもかかわらず、自然の美しさは傷跡を癒すかのように残っており、なだらかな丘陵の合間に点在する小さな町や村には、静かな生活が営まれている。

  今度の旅はこれまでとは、かなり異なるものとなった。ラトゥールという画家が過ごした環境をできるだけ追い求めてみたいという目的があった。過去に訪れた場所も含めて記憶をたどる旅でもある。最初に訪れたのは、ラトゥールの生まれた土地、ヴィック・シュル・セイユである。ここもかつて訪れた場所である。基本的には17世紀以来の自然環境はほとんど残っているのではないかと思われる小さな町である。

  ナンシーから車で30分くらいであった。森や野原に穏やかな春の光が指している実に美しい道だった。自動車文明が生み出した影響を除くと、400年前もこうした状況だったのではないかと思われる自然が残されている。鹿や猪に注意との道路標識が目につく。アメリカのパットン戦車が置いてある村もあった。

  以前訪れた時と比べて、ひとつ大きく変わった点があった。町を歩いていてほとんど人影もないような小さな町に、立派な美術館が生まれた。ラトゥールという一人の著名な画家が残してくれた記念碑である。ジャンヌ・ダルク広場にあった、かつての古い町役場を再設計して構築された。外観は小さなオフィス・ビルのようではある。昔の面影をもっと残したかったようだが、所蔵品の展示のために5階建ての作りとなり、かつての面影はわずかにビルの角に小さなニッチを設けただけになった。美術館の周辺はかなりきれいに整備されていた。

  しかし、開館時間の9時30分に行ってみたが、入り口が開いていない。開館していることは調べてあったが、もしかすると臨時休館かという思いが一瞬頭をかすめた。折りよく通りがかった犬を連れた中年の女性に聞いてみると、休みではないはずだから少し待ってみたらと言ってくれた。10分くらいして、男性が現れてお待たせしましたと言って、ドアを開けてくれた。午前中は館内にいたのだが、その間他には誰も訪問者はなかった。美術館を独り占めにしたような満足感だった。

  都会の美術館であったら、観客の肩越しに見ることになる作品をいつまでも一人で見ていられるという考えられないような至福の空間があった。 「荒野の中の洗礼者聖ヨハネ」が目前に掲げられている。採光の良い条件の下で見ると、以前に暗い照明の下で見た時よりも鮮やかであった。ラトゥールの現存する最晩年の作品ではないかといわれるが、言葉を失なうような見事な作品である。この画家の作品は、大美術館で鑑賞するにはあまり適していない。作品が持つ深い精神性が伝わりにくいのだ。幸いこの作品は落ち着くべきところを得た。長旅の疲れもあって体調はよくなかったが、ここまで来てよかったという深い充足感がこみあげてきた。

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