大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【大阪】 大坂の陣ゆかりの地② 樫井の戦い

2009年05月26日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
1月24日(土)
当日の行程:(車) → 【堺事件発生の地(明治初年仏人撃攘之処)】【法福寺(お菊寺)】【大阪夏の陣・樫井古戦場跡の碑】 → 【塙団右衛門の五輪塔】 → 【淡輪六郎兵衛の法篋印塔】【岸和田城】【南宗寺】【今井屋敷跡】【妙国寺】【月蔵寺(大野治胤〔道犬斎〕の墓)】【野中寺】【誉田八幡宮(誉田林古戦場跡の碑)】【応神天皇陵】【薄田隼人正兼相の墓】 → 【玉手山公園(大阪夏の陣両軍戦死者供養塔・後藤又兵衛基次之碑・吉村武右衛門之碑)】 → 【大阪夏の陣 小松山古戦場跡の碑】 → 【奥田忠次の墓】

【大阪夏の陣・樫井古戦場跡の碑】


泉佐野市南中樫井の、明治大橋のたもとに建っている。


【塙団右衛門の五輪塔】

「塙団右衛門の五輪塔
慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死にした塙団右衛門直之の五輪塔である。団右衛門は尾張国羽栗(はぐり)の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ、名を知られたが、関ケ原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛(てつぎゅう)と号した。
大坂冬の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し、大坂城に入城した。慶長20年4月、夏の陣がおこると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ。団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討死にした。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇、亀田大隅あるいは八木新左衛門などの説があり一定しない。
五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の士小笠原作右衛門が造立し、石灯籠は八木新左衛門の孫が奉納した。
250回忌(1868)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し周囲を整え、当地の観音寺に位牌を納めた。以後当地の人たちにより守られている。」
(案内板より)


【淡輪六郎兵衛の法篋印塔】

「淡輪六郎兵衛の法篋印塔
慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣、徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。
この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死にした淡輪六郎兵衛の法篋印塔である。
淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。
慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じた。
これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死にした。この法篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。」
(案内板より)
現在中央に建っている墓は、平成12年(2000)に淡輪氏の末裔により再築されたもの。