大倉草紙

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【兵庫】 八上城跡

2009年05月07日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月3日(日)
当日の行程:(車) → 【八上城跡】【篠山市立武家屋敷安間家史料館】 → 【篠山市立青山歴史村】 → 【篠山城大書院】 → 【篠山市立歴史美術館】【舞鶴引揚記念館】【赤れんが博物館】【海軍記念館】 → 【自衛隊桟橋】【田辺城跡】 → (倉吉泊)



「国史跡八上城跡 指定年月日 平成十七年三月二日
 八上城跡は、戦国時代に多紀郡〔現篠山市〕を支配した波多野氏の五代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱〔一四六七~七七〕の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ八上へ入る。
 その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永七〔一五二七〕年に管領細川高国を放逐、天文七〔一五三八〕年に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間〔一五五八~六九〕には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げる。
 波多野氏は、まず奥谷城〔蕪丸〕を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るために支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。
 天下布武を目指す織田信長が上洛すると、五代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。天正七〔一五七九〕年六月、一年にわたる籠城戦の末八上城は落城し、秀治ら兄弟三人は安土城下に移され落命する。
 落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦い〔一六〇〇〕によって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大坂城を包囲するため、慶長十三〔一六〇九〕年に、江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は百年余りにわたる歴史を終える。
   篠山市教育委員会」

八上城は、標高459メートルの高城山に築かれた。
登り口はいくつかあるが、なかなか見付けられず、地元の方に幾度も尋ねた。
ようやく見つけた春日神社口から登る。
春日神社口から本丸までは、1,190メートル。


春日神社の鳥居


春日神社の拝殿
拝殿の脇から、山頂への道が延びている。


主膳屋敷跡


八上城主前田主膳正供養塔


鴻の巣跡
鴻の巣は、北麓御前屋敷の堀と西麓の堀を警備した砦。


下の茶屋丸跡
下の茶屋丸は、西から近付く敵に備えた重要陣地。


中の壇跡
中の壇も下の茶屋丸同様に、西から近付く敵に備えた重要陣地。


右衛門丸跡
右衛門丸は、波多野秀治のときの屋敷跡。
西方を防備し、蕪丸にも通じ、全山の連絡や指揮にあたる場所。


右衛門丸の石垣


三の丸跡


二の丸跡
二の丸跡からは、門の礎石と屋敷の瓦の断片が見付かっていている。


岡田丸跡
東方や北方の防備陣地。
波多野氏の重臣・岡田某の屋敷跡。


本丸跡

この後で訪れた篠山市立青山歴史村に、明智光秀の11回に及ぶ八上城攻撃についての説明があった。
八上城がなかなか落城せず、信長にせきたてられた光秀は、自分の母親を人質にして講和を申し入れる。
和議のために波多野秀治・秀尚兄弟は安土城に赴くが、信長によって処刑されてしまう。
激怒した八上城の家臣らは、光秀の母を磔にし、本丸に火を放って自刃したという。
むごい話だ。
これが、光秀が本能寺の変に及んだ動機のひとつであるといわれている。


当日の歩数:17,449歩