大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地① 法福寺(お菊寺)

2009年01月24日 22時29分24秒 | 旅 - 大阪府
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法福寺は、文亀元年(1501)、第一世楊蓮社柳誉上人順阿貞也和尚が開基したといわれる。


現在の本堂は、寛政7年(1795)に焼失したものを安政5年(1858)に再建したもの。
本堂には、お菊の木像の人形が安置されていて、そのため、法福寺は「お菊寺」とも呼ばれている。
本堂の外からお菊人形は見えないが、住職さんにお願いすれば本堂の中のお菊人形のところへ案内して下さる。

お菊は、秀吉の甥・秀次と側室小督の間に生まれ、波有手(現・阪南市鳥取)の後藤六郎兵衛輿義の養女となり、紀州の山口兵内に嫁いだ。
山口家は大阪の陣で豊臣方についたが、城が敵方に囲まれた際、お菊は援軍を求めるために密書を携えて大坂城へと向かう。
農婦の姿で敵の包囲をくぐり抜け、男装をして大坂城へ入ったのだという。
しかし、大阪城からの帰途、樫井川で徳川方に捕らえられ、元和元年(1615)、処刑されてしまう。
その時、お菊は20歳だったそうだ。
お菊が養女となった後藤家の妻は、菩提寺である法福寺にお菊の木像を納め、冥福を祈ったのだという。
当時の木像は、寛政7年(1795)に焼失し、現在目にすることができる木像は、安政5年(1858)に再刻されたもの。
地元では、お菊の手まり歌が代々伝えられているそうだ。


阿菊之碑は、お菊の没後360年に建てられたもの。


大日堂

 
左:勢至丸の像
右:鐘楼


今日の歩数:13,798歩