大倉草紙

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【大阪】 堺事件ゆかりの地 (堺事件発生の地・妙国寺)

2009年05月24日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
1月24日(土)
当日の行程:(車) → 【堺事件発生の地(明治初年仏人撃攘之処)】【法福寺(お菊寺)】【大阪夏の陣・樫井古戦場跡の碑】 → 【塙団右衛門の五輪塔】 → 【淡輪六郎兵衛の法篋印塔】【岸和田城】【南宗寺】【今井屋敷跡】【妙国寺】【月蔵寺(大野治胤〔道犬斎〕の墓)】【野中寺】【誉田八幡宮(誉田林古戦場跡の碑)】【応神天皇陵】【薄田隼人正兼相の墓】 → 【玉手山公園(大阪夏の陣両軍戦死者供養塔・後藤又兵衛基次之碑・吉村武右衛門之碑)】 → 【大阪夏の陣 小松山古戦場跡の碑】 → 【奥田忠次の墓】

【堺事件発生の地(明治初年仏人撃攘之処)】

「明治元年(1868)2月、大政奉還後の混乱した世情の下、当時堺の警護にあたっていた土佐藩士が、手続きの不備や言葉の問題で生じた誤解から、無通告で上陸してきたフランス艦デュプレー号の水兵等を殺傷するという事件が起こった。(堺事件)
 フランス政府の要求により、この責を負った土佐藩士11名が妙国寺(材木町東)で切腹した。
 その遺体は妙国寺向かいの宝珠院に葬られ、土佐十一烈士墓として昭和13年(1938)国の史跡に指定された。
また、後に同院にフランス兵の慰霊碑が建立されている。」
(案内板より)


「明治初年仏人撃攘之処」と彫られている。

堺事件発生の地の碑に向かって右手には、天株組上陸の地(天洙組上陸繋船楡)の碑が建っている。

「文久3年(1863)8月、長州藩勤皇派が天皇の攘夷祈願の大和行幸と称して討幕軍をおこすことを企てた。
 これに呼応した吉村寅太郎ら天誅組が、先回りして 討幕軍を迎えようと京都を出発、淀川を下り、大阪湾から堺へ上陸し、大和へ向かって五条代官所などを襲撃した。
 しかしながら、政変により長州藩勤皇派が失脚し、大和行幸が中止になったため天誅組は追討され壊滅した。」
(案内板より)

五條の天誅組の史跡を訪れたときの記録はこちら


【妙国寺】

妙国寺は、永禄5年(1562)、三好之康が寄進した土地に日上人が開山した。
大阪夏の陣の際、大野道犬は、家康が妙国寺にいると聞いて、諸堂に火を放ったそうだ。
その後、寛永5年(1628)には再建されるが、第二次大戦のとき堺空襲で焼失。
現在の建物は、昭和48年(1973)に建てられたもので新しい。


本堂


龍神堂


千利休六地蔵燈篭


大ソテツ
織田信長が安土城に移植したところ、毎晩「堺へ帰ろう、妙国寺へ帰ろう」とすすり泣いたというソテツ。
信長がソテツを切ったところ鮮血が流れたので気味が悪くなり、妙国寺に返されたのだという。


土佐藩十一烈士の供養塔


土佐藩十一烈士割腹跡の碑


切腹した十一名の名前と年齢が彫られた碑もある。
なんともいえない気持ちになる。


土佐藩十一烈士の墓
妙国寺の向かいの宝珠院には、土佐藩十一烈士の墓があるが、幼稚園になっていて入れなかった。
遠くから撮影。
遊具の向こうに小さく見えるのがお墓。


妙国寺の御朱印