大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地⑦ 誉田八幡宮(誉田林古戦場跡の碑)

2009年06月01日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
1月24日(土)
当日の行程:(車) → 【堺事件発生の地(明治初年仏人撃攘之処)】【法福寺(お菊寺)】【大阪夏の陣・樫井古戦場跡の碑】 → 【塙団右衛門の五輪塔】 → 【淡輪六郎兵衛の法篋印塔】【岸和田城】【南宗寺】【今井屋敷跡】【妙国寺】【月蔵寺(大野治胤〔道犬斎〕の墓)】【野中寺】【誉田八幡宮(誉田林古戦場跡の碑)】【応神天皇陵】【薄田隼人正兼相の墓】 → 【玉手山公園(大阪夏の陣両軍戦死者供養塔・後藤又兵衛基次之碑・吉村武右衛門之碑)】 → 【大阪夏の陣 小松山古戦場跡の碑】 → 【奥田忠次の墓】


誉田八幡宮は、応神天皇を祀り、御稜祭祀を司ってきた神社。
応神天皇稜の南側に鎮座する。


誉田林古戦場の碑
「誉田林古戦場址
 誉田八幡宮の付近は、南北朝から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
 すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山稙長(タネナガ)と義英との間で合戦のあとで和議となり本だ八幡宮『社前の盟約』が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。」
(案内板より)


拝殿
慶長11年(1606)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させた建物だが、完成直前に大坂の陣が勃発したため、そのまま放置されていたという。


未完成だった拝殿は、徳川家光が完成させる。
徳川家によって仕上げられたので、三ツ葉葵の定紋が付いている。


中門と本殿


誉田八幡宮の御朱印