大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地⑧ 玉手山・小松山

2009年06月03日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
1月24日(土)
当日の行程:(車) → 【堺事件発生の地(明治初年仏人撃攘之処)】【法福寺(お菊寺)】【大阪夏の陣・樫井古戦場跡の碑】 → 【塙団右衛門の五輪塔】 → 【淡輪六郎兵衛の法篋印塔】【岸和田城】【南宗寺】【今井屋敷跡】【妙国寺】【月蔵寺(大野治胤〔道犬斎〕の墓)】【野中寺】【誉田八幡宮(誉田林古戦場跡の碑)】【応神天皇陵】【薄田隼人正兼相の墓】 → 【玉手山公園(大阪夏の陣両軍戦死者供養塔・後藤又兵衛基次之碑・吉村武右衛門之碑)】 → 【大阪夏の陣 小松山古戦場跡の碑】 → 【奥田忠次の墓】

【薄田隼人正兼相の墓】

薄田隼人正兼相の墓は、非常に分かり辛い場所にある。
途中、近所の人に幾度も尋ねたが、皆、知らないとのこと。
けれど、とても親切で、地図で懸命に探してくださった方もいた。
「薄田隼人正兼相の墓
 ここは、大坂夏の陣の激戦地であり、大坂方の将・薄田隼人正兼相の最後の地でもある。
 元和元年(1615)5月6日、徳川方の大軍を迎えた豊臣方は、籠城は不利として、玉手山付近の隘路で迎撃する作戦をとった。しかし、この方面の薄田兼相・後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永軍は、4隊合わせても1万たらずの上、折からの濃霧のため定刻に合流できず、激戦の末、10倍近い徳川軍に撃破される。薄田・後藤の両将も遂に討死、翌日、大坂城は落城し夏の陣の幕を閉じている。
 薄田兼相は豊臣秀吉・秀頼の二人に仕えた武将で、後に岩見重太郎として伝説化されたほどの剛勇の士であった。この墓地は明治18年、兼相の子孫にあたる広島藩主浅野家の一族によって建立され、歴史の一頁を飾る史跡として平成8年に浅野家から羽曳野市に寄贈されたものである。」
(案内板より)


【玉手山公園(大阪夏の陣両軍戦死者供養塔・後藤又兵衛基次之碑・吉村武右衛門之碑)】

大阪夏の陣両軍戦死者供養塔


後藤又兵衛基次之碑


吉村武右衛門之碑

「後藤又兵衛基次は、一五六〇年四月十日兵庫県加西市で、後藤基国の次男として生まれた。
 槍の名人として、黒田孝高とその子長政に仕え、長政の九州博多へ着任に伴い一万六千石の大隈城主となった。その後、時代の変化につれ、自ら城を捨てて浪人となったが、一六一四年大坂冬の陣には、亡き秀吉の恩義に感じ、劣勢の秀頼に応援すべく豊臣方へ加勢し、木村重成とともに河内付近で徳川方と奮戦し、恐れられた。
 一時、和睦となったが一六一五年再び大坂夏の陣が始まり、堀を埋められた大坂方は、徳川軍の大軍を河内の峠で迎え撃つべく、五月六日未明、又兵衛は自ら先陣として約三千の手勢を連れて、この山まで来たが既に徳川方の先陣二万余の軍勢は、国分へ到着していたので、大坂方の二番手薄田隼人等の軍を待てずに、戦いの火ぶたは切られた。又兵衛の軍は奮戦したものの、多勢に無勢、遂に又兵衛は敵弾に当たり、自決し側近の吉村武右衛門が介錯してその首は、この地の西北の片山・深田へ埋めさせた。翌七日大坂城は落城した。」
(案内板より)


後藤又兵衛しだれ桜


歴史館
歴史館には、大坂夏の陣に関する資料もある。
開館しているはずの日時なのに、なぜだか閉まっている。
管理事務所に問い合わせたところ、開けてくださった。


【大阪夏の陣 小松山古戦場跡の碑】

小松山古戦場跡の碑
「大坂夏の陣と小松山の戦い
 この付近は小松山と呼ばれ、慶長二十年(一六一五)五月六日、大坂夏の陣で戦場となったところです。豊臣方は、外濠・内濠を埋められて裸城同然となった大坂城を出て、河内和泉の諸処に布陣。後藤基次(又兵衛)・薄田兼相ひきいる一軍は道明寺に進出してこの小松山を占拠し、国分に到着した水野勝成・本田政明・伊達政宗らを主力とする徳川軍との間で激戦が繰りひろげられました。翌七日には大坂城も陥落し豊臣氏は亡びました。背後の丘(玉手山一号墳)の頂には徳川軍の先鋒として小松山に攻めのぼり討死した奥田忠次と彼の家臣五名の供養碑が建てられています。」
(案内板より)


【奥田忠次の墓】

大坂夏の陣で後藤又兵衛と激闘の末に戦死した奥田忠次の墓。