京女のハマリゴト

好きなこと、美味しい店、キャラ弁、アッチャー(°▽°;) な出来事など、主婦ライターが京都から発信する雑多な出来事!

いつから「死」を認識しましたか?

2006-02-15 00:47:50 | イタリアンな家族
人が死ぬということを、人はいつから理解するのでしょう?

小学生ぐらいならペットの死などを通じて、「死」を理解するのかもしれないですね。

では、小学生以下の子供たちは?

私は、娘や息子に生き物には必ず「死」が訪れるということを、少しでも理解できたら、と思い毎年金魚を飼ってます。

毎年というのは、秋口には必ず死んでしまうからなのですが…。

参考までにコチラ

先日まで元気に泳いでいた金魚が、プカリと浮かんで死んでしまった様子を見ても、

「死んじゃったね」としか言わなかった子供たち。

そこには哀しみも切なさもなくて、失敗したというような感覚しかないみたい。

あ~ぁというような。。。。時には「また買ってきてなぁ」と言うことも…。

死ぬということは、今まで確実にそこにあった存在が無くなってしまうこと。

人であればその人の姿はもちろん、声を聞くことも匂いすら感じることはできなくなってしまう。

会いたくても、話したくてもその願いは決して叶えられることがない。

永遠のさようならを意味する。

深い哀しみと失望感と虚無感と。

かけがいのない人をなくす辛さと。

もう、二度と会えないということを。

そんなことを理解させるのはまだ無理かなぁ、と思っていた。

ただ、そういう経験を確実に、そしてもしかしたら近いうちにするかもしれないため、

生き物の死を通じて、大切な人の死に直面した時に受ける大きなショックの緩和剤になれば…とでも思っていた。

(金魚ちゃんごめんね。)

大切な人というのは私の母のこと。子供たちにとってみればばぁばのこと。

すぐ危ないというわけではないのですが、年末に意識不明になったりしたので、私を含め、家族全員がある程度の覚悟は必要かな、と思ったわけです。


前置きが長くなりました…


で、先日のこと。

その日は母の様子がおかしく、始終フラフラとしていました。

私「お母さん、今日は病院で疲れたなぁ」

父「そうや、今日は病院が混んでいたから…」

なんて他愛ない話を夕食時にし、実家へ母が帰った後、


急に息子が号泣し始めました。


息子「おばあちゃん、………やぁ

私「おばあちゃん、ヤア!?」 妄想でおばあちゃんと闘っているのか??? ( ̄_ ̄|||)

息子「ワァァァァ。おばあちゃん、…………じゃいややぁ

おばあちゃんが嫌なんだろうか? おばあちゃんがフラフラしていたから???

私「どないしたんや? おばあちゃんがウチに来るんが嫌なんか?」( ̄Д ̄;;

「そんなん言ったらあかんやろぉ。おばあちゃんかわいそうやろぉ」と言うと、

息子「ちがうぅぅ」ヽ(`Д´)ノ

おばあちゃんが死んだら嫌やぁ!!

( ; ゜Д゜)………

今まで、金魚が死んでも、カブトが死んでも、ポロッとも涙を見せず飄々としていた息子。

死を理解するのはまだまだ先と考えていたのに。

いつの間にか、大事な人が死んだ時のことを想い、その辛さから号泣するほど

心が成長していた。

「大丈夫だよ。まだまだ、おばあちゃんは元気だよ。今日は病院に行って疲れただけだから…」そう言って、抱きしめてあげると、ホッとした様子。

どうやら、私と父の会話で「病院」が話題になり、「病院=母の入院=死ぬかも」と連想したらしい。


後で、母にソッとこのことを伝えると、

「自分のことをそんなに想って、泣いてくれる人がいるってことは幸せやね」と言って泣いていた。

日々大きくなっていく体とは別に、少しずつ、でも確実に心も成長している子供たち。

その優しい心をいつまでも忘れないでいて欲しい。

京女の絵本ブログ



↓ポチっと宜しく