まず、着付けをしなければならなかったので私だけ一足先に葬儀場に向かう。
母が揃えてくれた喪服をもって…。
着付室には着付してくれる担当者がいたが、この人が嫌な感じの人だった。
母の喪服は古いだの、帯が赤茶けているだのなんだのとイチャモンをつける。
(後で呉服屋さんに聞くと、母の方が昔からの正しいスタイルだそう。帯も日焼けなんてしていなかった)
というより、どんなボロ喪服でも良かった。母が揃えてくれたもので、母を見送りたいと思っていたのだから…。
おまけに帯をギューギュー締め上げるので、私は半分窒息状態だった。。。
キツケヘタダヨ。。。。( ̄Д ̄;;
告別式は通夜と同様、無宗教スタイル。
父がまず喪主として挨拶し、母の経歴や人生と思い出をスピーチ。
次に母の教え子や縁のある人が思い出を語ります。
母の大好きだった別れの曲がいっそう思い出を鮮明によみがえらせ、涙をこらえるのが辛かった。
最後に献花する際には、これでもう母の面影が消えてしまうと思うと辛くて辛くて。。。。。何度も何度もお顔を撫でてしまいました。
美しい花に囲まれた母は病床の時よりも美しく、こんなに美しい人だったのか…と涙があふれてしまいました。
たとえ、入院中でも、もっともっと化粧をして美しくさせてあげれば良かった…。
棺には母の好きだったおせんべいとコーヒーを一緒に納めて。
で、そのまま母の棺は霊柩車に乗せられ出棺。
ここで私たちは大慌てしてしまいました。
というのも、こんなにすぐに出棺となると思わなかったので、貴重品やコートやらも控室においたまま。
列席者が見守る中、控室と霊柩車の間を何度も何度も往復し、無様な姿を披露することになってしまいました。
※皆様、献花、最後のお別れの後は即効で出棺です。手荷物は誰かにすべて持ってもらうのがベターです。。。。
で、火葬場へ。
京都市の火葬場は現在、山科の一箇所しかないらしく、しかも一日約60人の火葬が行われるそうです。冬なら80人になることも。
なので、火葬場へ棺を納めるところはとてもシステマティックでした。
焼香の後、向かったのは、ズラーッと並ぶ、炉の扉。7枚ぐらいはあったと思う。
その中の1つの扉の前で手を合わせ、最後の、本当に最後のお別れをしました。
炉に棺が入ると、担当者に誘導され待合室へ。
何かのホテルのロビーかと思うほど、待合室は広く、併設された喫茶店も満員です。
「ここにいる人みんなが今日、告別式をしたんだ」
とても奇妙な気分になりました。
収骨は別室で。
娘と息子を連れて行くか悩んだのですが(ショックが大きいことを懸念して)、
一応、骨壷に入った状態を見せ、おばあちゃんはお骨になったんだよ…と教えようと思っていました。
が、
収骨の部屋への扉が開いた途端、まず足を踏み入れたのは、娘でした。
「あかん。あかん。」( ̄Д ̄;;と制止するのも聞かず、
人体型の母の亡骸をしっかと見届けた娘。
特に泣きもせず、冷静な様子でした。
私はふたり一組で収骨するものだと思っていたのですが、
木の箸と白木の箸を一対とすることでふたり一組の役目を果たしているそうで、
一人づつ収骨するカタチになりました。
ただ、頭蓋骨はそのままの大きさでは骨壷には入らないということで、
ガンガンと担当の方が骨を砕くのですが、何か痛ましくてみていられませんでした。
ちなみに、火葬は天然ガスを使い一気に焼却するそうなので、骨はカラカラ、灰もキレイです。焼け残りはありません。
無事、収骨を終えた後は、親族とともに会場へ戻り、そのまま自宅へ。
叔母たちは母を寝かせるために使った布団などはすべてほかしなさいと父に伝えたのですが、告別式を終えた後の父にはちょっとそれは無理みたい。
今、母のものをすべて始末してしまったら、それこそ、母の暮らした痕跡が失われてしまうようで、私自身も処分する勇気がもてません。
叔母は最後の最後まで「処分、処分」と言ってましたが…。
その気持ちもわかるんだけどね~。
終わったのは午後8時。
あまりにも疲れて、疲労度1000ぐらいだったので、この日は近くのファミレスで外食。
子供たちは大喜びでしたが、父と私はぐったりでした。
メニューを選ぶ気力もなかったほど。。。
お疲れ様とビールで乾杯する音がむなしく響き、料理もビールもちっとも美味しくありませんでした。
ちなみに、この日は帰宅後、すぐに爆睡。
すっごく疲れたんだな~。ほんとに。
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