興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

魚吹八幡神社 秋祭り 興浜提灯練り

2008年10月14日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 今日の原稿は、21日の夜に楼門前で行なわれている提灯練りの際読み上げられる文章だ。夜という事もあり中学生ではなく大人の方が読まれている。平成16年の時興浜興伸会の若者に書いてもらった原稿を紹介する。

 最近、魚吹八幡神社といえば提灯練り提灯祭りと楼門前で激しく提灯をたたき割る奇祭のようになってしまっているが、はたしてそれが本当なのか。
 各村競うように、大提灯をつくったりクラッカーを仕込んだりとしているが、興浜は人数にものを言わせて激しく練って提灯をたたき割り、ヨイヨで練り、音頭を出して練るというシンプルな形をここ最近続けている。

 平成4年の時、興浜興伸会の会長に提灯錬りの準備を任せて頂き、興浜興伸会の幟を製作してもらい、「お旅頭(おたびがしら)」なる役を勝手につくってしまい、提灯の竹切りから責任をもって当日まで準備をさせていただいた事は非常に光栄極まる事であった。

 さて、この提灯練り、昔は貴重な提灯をたたき割るなどしなかっただろう。

 興ちゃんが幼い時は、父の背中におぶさり提灯を持ち興浜から魚吹八幡神社に行き、興浜の神輿について興浜住民の責任として興浜神輿のあかり提灯として西の馬場まで渡御したのだ。ただその時興浜住民の提灯行列の後方に着いてくる興浜の青年団の方々が青竹で威勢良く練っていたのを覚えている。

 現在の貴重な提灯をたたき割るスタイルの原型は興浜の重鎮であるN氏とI氏が昭和50年代後半に始めた事を各村がまねていると聞いている。サンテレビでのテレビ放送、平成10年から始まったケーブルテレビWinkの放送が提灯錬りを派手にした要因のひとつという事は忘れてはならない事である。

 街灯がない時代の先人達が今日の祭りを見たらどう思われるだろう。提灯を粗末にするなと叱られるだろうが、今になってはどうしようもない。

 興ちゃんの勝手な持論であるが、御神体がお旅所に渡御される祭りの原形はインドのジャガンナート寺院の大祭であると思っている。ジャガンナートの神様は新月の夜にお旅所に渡られる。その渡御される山車が京都祇園祭の山鉾の原型だと言われている。ジャガンナートの神様の渡御には明かり提灯がないが、興ちゃんが言いたい事は新月の夜にお旅所に渡られたのではないだろうか。という事だ。

 今年も興浜の心意気を見せてもらいたいものだ。