興浜村は江戸時代、寛永14年(1637)から龍野藩京極家が、又万治元年(1658)からは、京極家が四国丸亀藩に移ってからは、飛び地として陣屋が築かれ明治時代まで京極家が治めていた。
大覚寺は京極家が四国丸亀藩に移ってから参勤交代の時の本陣であった。
そのため、京極家の平四つ目結紋入りの道具類が今も大事に残されている。
丸亀市が発行している『丸亀 郷土の歴史を彩った人々』を参考に一番下の写真の掛け軸を描かれた丸亀藩京極家二代目の藩主京極高豊公について書いてみる。
明暦元年(1655)に播磨龍野藩主であった京極高和の次男として生まれる。万治元年(1658)、京極氏は播磨龍野から讃岐丸亀へ移封となる。寛文2年(1662)に父の死により家督を継いだ。
京極家は、代々風流を好む家柄であったが、高豊公もまた茶の湯を好み、京都の焼き物の名人仁清(じんせい)に命じて茶の道具を作らせた。
34歳の時には丸亀と多度津のほぼ中間に「中津万象園」を造った。この庭園にはもちろん茶室もつくられたようだ。
絵筆を執らせてもなかなかの達人だったということだ。
「中津万象園」の普請から七年後の元禄七年(1694)高豊公は参勤交代を無事に終えて丸亀へ帰る途中、ほうそうを病み播州加古川の宿で40歳で亡くなった。
右側の平四つ目結紋入りの道具は香合というものであろう。
香合:澤田運輸建設(株)カレンダーより
ふた付きの香入れ容器で、漆器、陶磁器、貝製等がある。
寺院で用いる大形のものは堆朱や鎌倉彫等の漆器の大香合が多い。小形のものは長方形の歯黒箱・方形の白粉箱・円形の薫物箱など流用された。なかでも陶製の型物香合が珍重された。
英ちゃんも色々な町を歩いて歴史めぐりの散歩をしていますが…興ちゃんさんの深い知識にはかないません。
最近の記事は既に書かれてある事を整理して書いただけです。
手元に資料があれば誰でも書ける事ですよ。
龍野のオータムフェスティバルに行った事を整理中です。偶然ですが、英ちゃんの写真と同じような写真となっています。
興ちゃんなりにUPできればと準備中です。
よかったら又参考にして下さい。
魚吹八幡神社の大掃除で会えるかな。
魚吹八幡神社大掃除は興伸会からメールが入ってないので、日にちがわかっていません。
20日でしたら、英ちゃんは車検ですので、間に合わないかもしれません…。